>>678
どうかな。相手と共通認識を得ようとせずに、「ダメ」だと表示する状況は、アドラー的には望ましくないと思います。
つまりその言葉を受けた相手が競合的になる可能性が高いからですね。

ある子供は大人に正誤を判断されて「自分には善悪を判断する能力がないんだ」と自信を失いそうですし、
ある子供はダメだという言葉に反発して、「俺はダメじゃない、ふざけるな」と怒りそうです。
また、ある子供は「自分と世界は相容れないんだ」と、つまり役に立ちたくないと思いそうです。
これはそれぞれ自己受容、他者信頼、他者貢献の阻害ですね。

人間はそれぞれ自分の善に従って行動していますから、集団の論理から頭ごなしに否定されると、個としての生存確保アンド他者存在の無視に走る訳です。
これが競合。

アドラーの場合はまず裁くのを保留して、共通認識、共通の善悪を作ります。
「今回は許してもらえたけど、そのまま万引きを繰り返すと君は警察に捕まっちゃうんじゃない?」とか。
「相手も君も喜ぶにはどうすればいいんだろうね?」とかね。善悪を放棄して投げるだけです。
これは押し付けません。
相手が聞きたくないというなら離れます。
集団の中で生きるということは、集団の利益と個の利益をすり合わせるということです。
これが協力。

子供は痛い目を見てそれを学びます。
あるときには上記の言葉がヒントになります。
時間はかかりますが、自己選択していきます。
しかし時間がかかるのを待ちきれず、学びの途中で全体の論理を押し付けられると、子供は自分は間違っていないと意固地になったり、集団に参加する気をなくしてしまい、最後には表面上だけ従うようになります。
そちらの方が時間がかからないから競合的教育は選ばれ、そして根深いわけです。

アドラー的治療における共同体感覚は、教育ではなく、認知的ストラテジーの中で育まれます。
実際に協力体験を成功させて認知を変えてしまう。
協力的な生き方は集団と調和しますので、心地よく、ふつう競合には戻りません。
このようにアドラーは競合的認知に対する治療薬なんですね。