アドラー心理学総合 30【嫌われる勇気】
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自己啓発の源流ともいわれるアドラー心理学を語るスレです
■前スレ
アドラー心理学総合 29【嫌われる勇気】
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1511608194/
■NGワードについて
以下の単語はスレ違いの話題や連投されるコピペに混入する事が多く、過去に幾度も荒れた経緯を踏まえてNGを推奨しています
必要な方は使ってください
釈尊は引き籠り
集団ストーカー
エックハルト
Eckhart
エゴ
いま、この瞬間
人生の半分 責任の所在は自分にも相手にもあるよ?
必要以上に責任を背負いこもうとする自己犠牲状態を防ぎ、必要な分の責任からも逃げようとする事なかれ主義も防ぎ、無理なく周りへの関心を広げられる方法だと思うのだが >>89
あー。まあそうだな。
自分で決めてなくて他に選択肢がないような場合だけかな。言うこと聞かないと殺されるとか暴力的な方法で脅されてるとか。
子供とかは親からその立場にさせられてると言えるよね。更にその延長線上に学校がある。もっとその先には国家があったりする。
しけしそう考えるとそういう脅しに屈しない人というのはあまり居ないのではないか?まあ脅しだけじゃなく利益もあるのが普通だけどね。飴と鞭ね。 責任の所在って倫理的な話じゃなくて、単純な論理的結末を誰が引き受けるか?って話でしょ
子供が宿題をしなかったら子供がその結末を引き受けるし
子供の学歴に対しても同じ
虐待は確かにしんどい
もしアドラー実践者が虐待児に出会えたなら、
このまま暴力を受けるべきか、外の専門施設などに逃げるべきなのか、
未来の話をすると思う アドラーって成績下の人に合わせて教育しきれない限界あるな。
学費ワリカンじゃないけどね。それしか意味ないのに。 学歴の成績より、夜の試験や時差考えて、スコアフルにならないと。 虐待は明確に子供の所属妨害だからこのまま暴力を受けるべきという選択肢は存在しないよ >>76
意識は全てのものと共同体として信頼し合うことを目標にしつつ
行動では上手く立ち回って関係を結ぶ結ばないを決める、みたいな感じですかね
なるほどありがとうございます
>>80
そうですね
嫌われる勇気を読んでアドラー自身の心理学・臨床に関する考えも詳しく知りたくなりました
暇な時図書館に行って探します。ありがとうございました >>100
本来はアドラー心理学は治療的枠組みの中の理論だからね
カウンセラーと患者、親と子、先生と生徒みたいに教える側と教わる側がどちらかをお互いに共通に認識した上で、縦の関係ではなく尊敬と信頼をベースにして、共通の目的のもと、助言し受け入れるような関係を経験する事で共同体感覚が育っていくよって話
共通の目的を作れない関係のうちは相手に介入しないのが原則
こちら側が無条件に信頼しても向こうがそうでないのであれば、相手にはなにもできないしなにもさせないっていう事かと 逆に言うと会社組織とかのゲゼルシャフトの関係性の中だとなかなか使えないよ >>101-103
だからこそ人生の課題と認識して取り組むのが良いよっていうことですね >それは計画性のない非効率で繁雑で行き当たりばったりな生き方ではないか?
⇒言い回しの難しさだと思う
当人が「できない理由」としているものは、本当に物理的に100%不可能な根拠なのか
「もし〇〇だったらできる」というのも、
本当に「〇〇じゃない場合は100%不可能」という物理的な根拠に基づいているのか
そうではないのなら、そのできない理由を学術的に見ると幻ですよねってことになるし
本気で100%に近い確率で実現しようと考えると
その道筋は意外に無数に存在するものだし
本当はどうしたいのか?って話もあるだろうし >過去が人格形成に影響することを認めるなら、人格によって変わるであろう「今、ここ」も過去に影響されると言えるのではないか?
その「人格」のことをアドラー心理学はライフスタイルと言う
「ライフスタイル」は変わりえるものだし、それによって
過去(という記憶)の捉え方もどうとでも変わるものなので
過去によって「いまここ」が捉われているという幻想から抜け出して
「いまここ」を主軸に未来(目的)や過去(原因)の捉え方は自由に変えられる
日頃のお稽古によってこれくらいは誰でもできる様になると思う >>106
過去によって「いまここ」が捉われているという幻想から抜け出して
「いまここ」を主軸に未来(目的)や過去(原因)の捉え方は自由に変えられる
つまりどういうこと?具体例挙げて説明してみてよ?
日頃のお稽古によってこれくらいは誰でもできる様になると思う
君それできるようになった? >>89
>>92
じゃあ太平洋戦争の戦争責任は、学徒勤労動員で工場で兵器つくらされた中高生にもあるのね?
あと、人生の嘘は自分で思っていることを抑圧することをいうのであって、(例え科学的論理的合理的に間違っていても)本当に思っていることを言うことを人生の嘘というんじゃないよ?
勉強不足だよ?ちゃんと勉強して、あともう少し頭使ってちょうだい。誰々がそういうから俺はそういう!俺は正しい!じゃ、それこそ人生のウソだよ?矛盾しないで。 >>96
結末を誰が引き受けるかが責任の所在なら、それこそ自己責任を否定してるよ?(軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。)
矛盾してるよ?人生のウソやめて。
あと、それに関しては別だというのならば、もはやあなたはアドラーを否定したことになるから、もう議論の余地ないね。
あと、こじつけの屁理屈言って論駁したつもりになるのだけはやめてよね?あまりの頭の固さというか頭の悪さ、馬鹿さ(鹿を指して馬だという)、洗脳された人特有のキモさ、気味悪さに虫唾が走るから。裸の王様だけはやめてね? 訂正
軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。
↓
軍が戦争を初め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々が焼き殺されるという形で引き受けさせられた。 >>92
王侯貴族が戦争を起こし平民奴隷が死ぬ。小学校レベルの歴史をちょっとでもかじったことのある人間なら、平民奴隷の功は王侯貴族のもの、王侯貴族の罪は平民奴隷の罪とされてきた事実がわかるはずだ。小学生に歴史教えてもらえ。 古代兵器から未来兵器まであるのになぜそれが罪だというんだい。 武器に武器をタイケツさせても韻律がよければ、事故は起きないし、つまらない死者は出ない。 >>75
もっと肩の力抜いたほうがいいよ。マジメなやつほどマジメ系クズになるからね。 >>107
横からだけど、生活に支障があるくらいの神経症を、
それまで原因だと思いこんでいた過去の出来事から切り離すことなどは、
アドラー修行者なら真っ先にやることだと思うんだよね
だから、答えとしては、アドレリアンのほとんどの人が出来た経験を持つ、んじゃないかな、と思う >>109
パヨ臭いの、やめてくれないかなあ
知性が低いのが透けて見える >>117
左翼とかいった単純なレッテル貼りではなく、歴史の客観的事実を述べてていることをありのままに見よう?
これは見方ではなく事実だからね。
俺の知性が仮に低くても、君はその十分の一もないよ。
あと、なんでも左翼呼ばわりするいの、やめてくれないかなあ
知性が低いのが透けて見える >>108
アドラー心理学の責任の所在ってのはカウンセリングのような建設的対話が成立すること前提の技法の話な
信頼関係のあるオープンな話し合いの下、共通の目標が成立して、互いに尊重し合いながら役割分担をしている時に、自分の役割に責任を持って取り組むことで所属感を満たせると
戦争責任がなんちゃらとかアドラー心理学の枠から外れて話が飛躍しないように日本語では課題という言い方しているのはを言い得て妙だなとあなたの書き込みを見て思ったよ 117
多分歳34くらいの冴えない野郎だろ?早く結婚しろ。そうすりゃ頭使わざるおえなくなるからレッテル貼りで安心して思考停止するのやめるようになる。あ、これもレッテル貼りか。 117に反論する必要はなかったな。ほっときゃいいのになんでもレッテル貼りで安心して思考停止する奴らに腹が立ってたから。思考停止こそアドラーが最も嫌っていたものなのになんなんだこいつらは。 >結末を誰が引き受けるかが責任の所在なら、それこそ自己責任を否定してるよ?
アドラー心理学の論理は自己責任論とは違うんですよ。
課題を分離しながらあくまで協力関係、共同体感覚を目指す、やはりお稽古ごとだと思います。
>(軍が戦争を始め、その結末を東京広島長崎沖縄の人々は焼き殺されるという形で引き受けさせられた。)
⇒これに対しても倫理的な責任の範囲とは違う考え方をします。
言ってしまえば所詮個人心理学として共同体感覚に照らした建設的行為を選ぶお稽古事でしかないので、
真理はどうかなどは関係ないと思います。
戦争責任については、アドラー心理学とは別の倫理基準に乗っ取ったものだと考えます。
アドラーの責任の所在で言えば、戦争責任を問われるかどうかだと考えられます。
ただし、アドラー心理学では、共同体感覚に対して建設的か、破壊的かという判断基準も含まれるので、
原爆投下が共同体に破壊的だと分かっていて選ぶのは間違いです。
軍上層部側の立場なら世界の情勢から平和的解決や被害の最小化を考えるのがアドラー心理学だし、
市民側から考えれば、軍を恨むことが建設的なのか、経験を平和的活動に向けるのか等が
共同体への建設的な判断を選ぶお稽古になると思います。 >>122
ありがと。ときどきこれ間違えるんだよな。を得なくなるだな。
>>125
真理かどうかは関係ないって危険な気がする。嘘言っちゃったら、その嘘を真理だと思った血気盛んな(俺みたいな)奴らがアドラー棒で殴る(いわゆる聖戦を始める)から、真理を追究するのは大事だ。
アドラーが真理を追究しなかったのならば、それはまずい。
あと、軍を恨めとかいう煽情的な話は俺はしてない。ただ、具体例はエグかったな。ただ、権力の力は強大だ。国の前に、一人の人間の力はごまめの歯ぎしりに等しい。
また大戦の話でくどいようだが、最高権力者の昭和天皇ですら、軍部を統制できなかったと聞く。まして、国民一人一人の力など、とてもアドラー理論の。
経験を平和的活動に向ける、か。それこそ、思考停止しないことがいかに大事かということだ。 >>119
悔しいなら呑み込んでおきなさいよ
スレチだからね、さすが恥知らずだわ >>121
おえなくなるで不覚にも笑ったわw
こりゃ稀代の釣り師かほんまもんのバカだね >>127上
いいや、違うよ
あなたの知性がその程度なだけ >>127
>アドラーが真理を追究しなかったのならば、それはまずい。
まずくないよ
アドラー心理学は認知論を前提としてるから
全ての人が「ぼくの考えた最強の真理」をそれぞれ持っているわけだから、簡単に分かり合えるわけがない
でもそういうものだと受け止めて尊重しあえれば協力的に暮らせるんじゃない?って発想だよ >>127 下
アドラー心理学にとって真理とは何か?と考えると、一人一人の中にあるものかも知れません。
基本的には共同体感覚を中心にする思想体系を軸に組み立てられた理論や実践法なので、
突き詰めれば共同体感覚とは何か?と考えることもできます。
これについては、私的論理の対比として共同体感覚が位置付けられています。
IよりもWeを良しとするっていうことですし、
「みんな同じ」よりも「みんな違う」を良しとする考えかたなんだそうです。
ここに真理を見いだすのは難しいかも知れないですが、
理解の深さを披露し合うことで学び合うという姿勢で論を交わすことは建設的かも知れません。 ぃゃぁ、エリート心理学徒の学問は、
みんなの役に立つ意味はあるだろうか…
そして、終末を渇望する人々を、闇は癒せるだろうか…?
それから、言い忘れたけど、地獄騙しになっているから、
そこんとこ注意ね 終末を渇望する人?よりまずは自分を癒せるといいね👍 きっとまだ学習の足りないAIに作らせた何か変な文章なのだろう >>133
用語の使い方は人それぞれ流派それぞれで私的論理は特に相違が生じる
一般化した言い方は注意が必要かもよ
個人的な考えを言うと
私的論理と共同体感覚が両極にある概念だとは認識していない
ライフスタイルという出力装置・認知形態が導き出す考え方の筋道が私的論理で
それが共存的、貢献的である場合に共同体感覚的だと呼んでいる
共同体感覚は建設性を向く方針だから、「みんな同じ」を目指しているとも言える
どういうことか?
例え話
塩ラーメンが好きだという人がいる
その人が味噌ラーメンの好きな友人と昼食にラーメンをとるとき
二人の行きたい店は変わる
この相違した現実を私的論理と呼ぶ
二人とも違う考え方(ライフスタイル)をしているから結論(私的論理)が違う
では共同体感覚的なライフスタイルとは何か?
意見が違うからweは成りたたない
でもどちらかの意見を塗りつぶす気もない
なら
塩ラーメンと味噌ラーメンでどっちにしよう、妥協点はあるかな、二人がより満足いくにはどうすればいいのかな、そう思って話し合うしかない
相手を打ち負かして連れて行くとか、言いたいことを言わずに従うとか、そういう選択をせずに
皆がそうであればいいな、どちらも満足する道はないかと探し続けらればいいな、ダメならそうなるよう、納得してもらえるよう、ゆっくり頑張るけど、と自分の中だけで考えている
それが共同体感覚だと思う
全体主義でも個人主義でもなく合意主義に向けた決意
塗りつぶすのではなく選んでもらえるよう頑張る決意
それが私的内面に論理だっているとき、その人の私的論理を共同体感覚的だと言うのではないかと >>139
仰る通りですね。
自己執着の対極としての共同体感覚と言った方が良かったかと思いました。 課題の分離の件なんだけど、
課題の分離の課題とは、「その結末を最終的に引き受けるのは誰か?」だから、
例えば勉強をしない子供にガミガミ勉強をしろと言うのは子供の課題なので、
わかるんだけど、
こんなケースはどうだろう?
Aさんがトイレに入っていた。Bさんがトイレの外で並んでいる。
Aさんは、マナーが悪くトイレを汚なく使い、汚しまくり、汚れたところもそのままにして
トイレを出ようとし、Bさんは、トイレに入ろうとしている。
さて、汚れたトイレは、誰の課題だろうか?課題の分離の課題とは、
「その最終的な結末を引き受けるのは誰か」である。
つまり、この場合の課題はBさんの課題になってしまう。
AさんはBさんに向かって「お前の課題だろ!」と言って立ち去ってしまう。
自分がBさんなら、これは、受け入れがたい・・・。 >>143
その例はそもそも課題の分離の例にならない
Aさんの私的論理の中での「私の課題」に付き合う必要はない
課題の分離のというのはAさんとBさんの間でトイレの使い方についての取り決めがあった上で初めて機能するものだよ
例えばトイレを共同で綺麗に使おうという共通認識の目標があって、使ったら次の人のためにこういう状態までは綺麗に戻すという具体的なルールのもと役割分担としてのAさんの課題が生まれる >>144
取り決めがないからこその課題の分離ではないのですか?
取り決め(ルール)があれば、それに従えばいいだけのこと。 >>143
会社とか公共のトイレで普通に汚い使い方の人居るもんね
イジメにも通じる問題の様な気もする
そういうのが人生の課題と言えるのかも知れない
結局、Aにとっては周囲の人間への配慮や協力関係の構築という課題があるだろうし
Bにとっても目の前の受け入れ難い難題がそのまま課題にあるし乗り越えなきゃいけない
そのままトイレを掃除する貢献感に繋がられるかも知れないし
トイレに啓蒙ポスターを貼る貢献する感もあるかも知れないし
他のトイレを使えば自分の課題じゃなくなるかも知れない まったく他者は突然到来して
課題も突然到来するんだね…… >>145
http://jalsha.cside8.com/diary/2016/12/08.html
「課題の分離」というのは、「『目標の一致』のないときに相手の人生に介入すると、あるいは相手を自分の人生に巻き込むと、両者ともに不幸になりますよ」ということを言っているのであって、「人からどう思われてもいい」ということを意味しているわけではまったくない。
これはテレビ局の完全な誤解だ。先ほども書いたけれど、《協力》というのがアドラー心理学の思想のキーワードだ。 食事のとき、食べ物を床に落としたとする。
課題の分離の考え方では、この時の課題は落とした人ではない。
床に食べ物が落ちてることで、迷惑に感じる人や実害がある人の課題になる。
店なら店員の課題になってもいいかもしれないが、
学校や家庭では、この考え方は問題だよな。 落とした本人は食えなくなるという物凄い損失になるわけだが >>150
課題の分離だけしか使えない「課題の分離心理学」だけをやるならそこは問題だね >>150
あなたは課題の分離の考え方を正しく学んだ方がいい >>147
慣れてくると、心のざわつきをキャッチしたときに
また新たな自分に変われることにワクワクできる様になるよ >>155
ありがとう。
まだ時々不安や恐怖が過剰になったりもするのだけど、勇気もらった。
他者との倫理的出会いを突破口として自己の内在的世界から無限への脱出を説く
レヴィナスの哲学に思えたんだ。 >>150
共同体にとってマズい結果を作った人の課題でしょうね
破壊的な行動より建設的な行動をすすめるわけですから
原状復帰と再発防止と必要なら謝罪でしたっけ、対応としては >>158
それには共通の課題としての合意を作るところから始めなきゃね
家庭なら食べ物をこぼすと何が困るのか伝える努力から始める形かな 例えば病院などの公共の場所に子供を連れて行く場合、
その場所では静かにおとなしくしなければならないことと、
守れない場合は速やかに連れて帰るという事前の合意を作っておいて
守られなかったときには泣こうが喚こうが家に連れて帰るのがアドラー心理学的だと言うから
食べ物についてもこの様な手順を踏むことになるんじゃないかな 「課題の分離」だけの考え方なら>>150になるよ。
ただ、共同体感覚や道徳が入ってくると話は別。 そんなに難しい話じゃないよな
何のために課題の分離をするのか?
他者と協力的に暮らすため
とてもシンプル
協力的じゃない形での課題の分離の例を挙げられると、それちょっと違うんじゃない?ってこと >>162
課題の分離=共同体感覚でもあるからその通りだよね
ただし実践例でそれはちょっと違うんじゃない?で終わってたら思考停止だし
食べ物をこぼす家族を想定すれば、協力関係を築くのが目指す人生の課題なんじゃないかな?
元々共通認識としてあるなら、汚さない様に食べてもらうと助かるとお願いするのが妥当かな なんかスレ見てるとアドラー心理学はカウンセリングの関係や、たまたま協力関係を築けた場合のみに適用しようっていう流派があるのかな? まとはずれな心理解釈ゲーと市場利益主義みたいなのの混合物 風俗から情報をかっているがために
激甘な扱いみたいな記事がでるのであるのか!? 廊下にゴミが落ちている。
このゴミを拾うか拾わないかはあなたの課題である。
しかし、もしゴミを落とした人を知ってたら落とした人の課題になると思ってるのと同じ。
>>163
課題の分離は入口で共同体感覚はゴールだから課題の分離=共同体感覚とは
言えないんじゃないかな? >>164
ゲゼルシャフト構造の社会を転換させてゲマインシャフトな社会をつくるのがアドラー心理学の目指す到達点なんだよ
それを実現するために、社会主義運動に参加したり、政治を変えたりすることは無意味だとして放棄している立場
アドラー自身も社会主義運動に傾倒してた時期もあったけどそこは諦めた
その代わりのゴールとして、ひとりひとり個人の中に共同体感覚というか社会参加の意識を育てていく草の根的活動ということがアドラー心理学の思想の前提としてある
その思想を土台として理論や技法が構築されているのがアドラー心理学
主体的で協力的なマインドを持った個人が社会に出ていくことで、少しずつ協力的な社会に変わっていくことを目指しているような言い方だと伝わるかな?実際実現できるかは別問題として
アドラーもいろいろ手段を模索して晩年は教育しかないって感じだったし、アドラー心理学を体系化させたドライカースも教育としての論理を作り上げたんだよ
アドラーブームは嫌われる勇気からだし、そんなに論理的に間違っていることを言ってるわけじゃないんだけど
課題の分離、トラウマは存在しない、原因を考えないみたいなセンセーショナルな部分が強調されて自己啓発化しているから、本来、理論や技法の根本にある協力的側面抜きでアドラーを使っている人は多い感じはするかな
アドラー心理学であるものとないものの違いはここでわかるかも
http://jalsha.cside8.com/diary/2016/12/31.html >>163
アドラーの技法は共同体感覚育成のための論理
他者を他人事でないと感じるからこそ課題を分離するという発想だよ >>159
共通の課題なんてものはないな〜
親には子供に社会性を身につけてさせる課題があり、
子供には身につける課題がある
それらは「別の」課題 >>171
ああつまり、課題を分離しつつ親がどんな行動を取るかって話だよ
子供の課題だからって口出ししないだけが課題の分離じゃないから アドラーの原書翻訳本を一冊でも読めばわかるよ
兎にも角にも「共同体感覚」だよ
どのページ開いても、1ページに何回も共同体感覚って書いてあるレベル >>170
ライフタスクは無視どころか、協力的であろうとするなら基本的に意識していく必要があることじゃないかな?
ライフタスクって愛の課題、交友の課題、仕事の課題と全て対人関係の課題として捉える訳でしょ?
対人関係の取り組みにおいて、競合的と協力的の二項対立で考えてみて、協力的に行動することを選択するのが共同体感覚的な生き方なわけで
ライフタスクに取り組むとは別の言い方をすれば、対人関係の課題に対して協力的に取り組むってことだよ 追加で言うと
協力的であるための選択肢として課題を分離するという方法をとることができるってこと
わかりやすく言うと「分業する」ってこと
課題を共同化できない、あるいはしない方がいいケースもたくさんあるからね つまりこういうことだな
共同体感覚なくしては課題の分離のなんたるかは掴めないし
日本人は課題の分離なくしては共同体感覚のなんたるかは掴めない
課題の分離は結末を経験してもらうことも目的としてあるから
本人が気付くまで好きなだけ食べ物をこぼさせても良いし
こぼしてみてどうだったか聞いても良い
事前に食べ物をこぼすことで生じる社会的なザンギを説明しても良い
親の立場で共同体感覚と照らし合わせて子供を社会的に自立させる責任を意識するうえでも
その様な手順を踏めば良いってことだね >>178
アイメッセージで言うと
俺には共同の課題を避け過ぎてる様に見えるよ
慣れるまでは徹底した方が良いだろうけどね >>174
なるほど、対立的でなくて協力的なら、共同の課題ももちろんあるね
訂正します 一
壱 壹
弌
に
二
弐 貳
弍
さん
三
参 參
?
し
四
肆
ご
五
伍
ろく
六
陸
しち
七
漆 ? 質
※?は漆の異体字
はち
八
捌
きゅう
九
玖 自分で質問して自分で答える心理がわからん
楽しいのか? 決めつけで観測者を気取る心理がわからん
楽しいのか?
自演がないと言う気はないけどさ アドラーの他者貢献という言葉を知って、浅はかにも人に自分への貢献を要求する馬鹿が出てきそうで怖い。 無私利他を主張するやつって、たいてい我利我利のエゴイストで、言ってることとやってることが正反対だったりする。
世界一多くのありがとうを集める。渡邉美樹 カンボジアに学校を建てる一方、社員は過労死させている。
残業129時間、休憩が30分
NHK記者だった娘を過労死で亡くし、公聴会に随行人として参加した佐戸恵美子氏は「『週休7日が人間にとって幸せなのか』と遺族に満面の笑みで聞いた(渡辺氏の)顔は忘れられない」と怒りをあらわにし、
「それを言わせた自民党の考えを聞きたい」と述べました。 一日12時間労働、裁量労働制、従業員への賃金未払い、内部告発者を懲罰解雇、不適切な労使協定の元での時間外労働
渡邉美樹は、2013年(平成25年)の第23回参議院議員通常選挙に立候補し、自民党の公認を得た。
遺族は、元女性従業員を自殺に追いやった人物が国会に入れば、さらに多くの若者が苦しむことになると危機感を募らせ、自民党に対し渡邉の公認を撤回するよう求めた。
自民党は、遺族の党敷地内への入構を事前に許可していたにもかかわらず、いざ遺族が党敷地内へと入るやいなや、建物内への立ち入りを強硬に拒んだ。遺族は激昂し、抗議した。
しかし、渡邉の自民党公認が撤回されることはなかった 第1回口頭弁論[編集]
2014年(平成26年)2月17日、東京地裁にて、第1回口頭弁論が開かれた[60][61]。
渡邉参議は2月4日の自民党部会で「悔いている。一生かけて償う」と発言していた一方で、当日の口頭弁論を欠席し[62]、大阪で開催した学生向けの就職説明会に参加していた[60][61]。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています