高尾山と一派に捧げる。

その内容をたどれば――私たちが遥かな過去世より、迷いの心で数え切れないほどの
罪を造り続けて来たことを懺悔しています。その内省の眼は、鋭く私たもの日常生活
へと向けられているのです。
まず私たちが貪瞋痴(どんじんち)の煩悩に流されて布施、持戒、忍辱(にんにく)、
精進、禅定(ぜんじょう)、智慧の六波羅蜜の修行を怠(おこた)り、かえって地獄、
餓鬼、畜生の三途(さんず)に輪廻するような業を作っている、と指摘しています。
さらに僧侶は、形は袈裟(けさ)を着けて、お布施を受けていても行いは怠惰(たいだ)
で、み仏が忌(い)み嫌い、菩薩が苦悩するようなことを恥も畏(おそ)れもなく行い、
尊い精舎を汚していると。何だか耳の痛い話です。
悪友と遊び回って、無駄話や他人の悪口、嘘をつき、善行は積まず悪行をなして
空(むな)しく年月を送っている。利益を得ようと自己宜伝をし、徳のある者には
嫉妬し、徳のない人は馬鹿にする。金持ちに憧(あこが)れ、貧乏な人を嫌う。
けっこう思い当たる面があるのではないでしょうか。
そして故意、あるいは無意識に十善戒(じゅうぜんかい)をことごとく破っている。
身で行う殺生(せっしょう)、偸盗(ちゅうとう)、邪婬(じゃいん)、口で犯す四悪、
意(こころ)で犯す三悪、すなわち口四意三(くしいさん)が無限に続くと。
そんなことだから、み仏を祈れば雑念がわき、お経は読み間違える。たまに善(よ)い
行いをしても、私がしたと執(とら)われて我になり、輪廻()りんねの原因となって
しまう。
そして最後に、これらの無量の罪をみ仏の前にすべて告白し、あらゆる衆生の罪も
皆に代わって懺悔いたしますから、どうか慈悲のみ心で、その罪を消除してください、
と祈っているのです。