[最後の]片 岡 我 童 [女形]
さる高名な評論家をして、「あの年齢であの色気は天稟としか云いようがない」と云わしめた、我童さん(十二代目片岡仁左衛門丈)
まったりとどうぞ 1は 最近ファ ry
十二代は戦中の、あの有名な ry
>>1 我童さんを観て書いたんか? 詰まらんスレ立てんなって
>>4 我當(当)さんとは別人 1は絶対勘違いしてるよな。
12仁左衛門は冷たい雰囲気のある女形。
その長男の14仁左衛門(13我童)が、
上方らしい妖しい色気を持った女形。
このスレって、東の歌右衛門に対抗したのね。
≡≡≡≡終わり≡≡≡≡ 我童は少なくともここ50年の間では最高峰の女形だろう。ちなみに私は
成駒屋の贔屓です。 鴈治郎襲名の南座の顔見世で、楽屋前の横断歩道で信号待ちしてる我童さんを見た。
勇気を振り絞って「ファンです応援してます」って声をかけた。
「えらいオバンで」って云っておられた、本当ににおばあちゃんのような我童さんの姿が忘れられません。
歌舞練場での顔見世の時の大磯の虎、凄かった。
全然動かないのに、オーラが出てた、真っ白けの顔に三日月眉の化粧が何とも古風で。
もう誰もあんな化粧されないでしょうけれど。
その時の少将が家橘さん。
もっと頑張って欲しい、ついつい面影を追ってしまう。 「対面」の虎、確かにオーラ全快でした。東京で見せてあげたかった。
古風な歌舞練場に古風な我童さん、浮世絵のようで、ぞくぞくした。 色紙にサインもらったけど、
真ん中に真直ぐどどんと
大きく紅筆で。
歌右衛門の華奢な感じのとは対照的だった。 シンの役者ではなかったな。大成駒とは芸域が違う。
一刷毛古風だから、
晩年は彼の芝居の足どりと合致する相手役がもういなかった。
けど、晩年の夕霧の嫋嫋たる味わいは無類。
歌舞練場の虎も馥郁たる大きなもの。
小音ながら口跡はすっきりしていた。
エピソード一つ。
大成駒が我童に阿古屋を教えて貰った時、
我童に阿古屋を出すよう勧めたら、
我童曰く「わては胡弓があかんのや」
へぇぇそんな事があったんですね。
見たかったなぁ阿古屋。 我童丈、名古屋は「ちずる」が常宿だった。ここで成駒屋とよく遅くまで
お話なさってました。結構仲が良かったんですね。 どんな会話だったんでしょう、旧家のお嬢様2人がおっとりとしゃべってるイメージしかわきません。 大成駒は、宴席でも我童を上座に置いていたね。
私は個人的に「野崎村」のお染・お光がびったりはまっています。 >>21
ほんとに、どんな場面か覗きたい、盗み聞きしたい!
亡くなったのは正月だっけ?年末?
歌舞伎座の新春興業に出演予定だったんだよね。
楽しみに出かけたのに、訃報が貼ってあって愕然としたな。 暮れの押し詰まった31日にお亡くなりになりました。もう無理と承知で1月の
野崎村の後家を引き受けて、番付には藤十郎で早くから印刷に入りました。 >>エピソード一つ。
朝顔日記はやるのに、なぜ阿古屋はやらないのか と尋ねたようです。
歌舞練場での顔見世
松助襲名披露 松也初舞台(宗十郎の重の井、松也の三吉)
落人は、延若=勘平、梅幸=おかる、松助=伴内。
延若の最期の舞台。
富十郎は船弁慶。 感激しています。地方の田舎の古い我童ファンです。こんなすばらしいスレがあるとは。
ありがたいです。 >>24私は5日に行きましたら、休演という張り紙でした。 あの正月興行は華やかだったが、
日を追うごとに休演が続出したのを覚えてる.
>>31夜の部の芝居前なんかバタバタ倒れていなくなっちゃうし、吉五郎先生は
「鏡獅子」の渋井ですら勤めるのがやっと。八百稔は血を吐くは菊蔵は・・・
なんだか泣けてきてしまう。 日野の高幡不動の骨董市でw
我童さんのむかーしの白黒プロマイドを何枚か買ったことがある。
なんとも言えないあの綺麗さ・・・
「野崎村」
久作 勘三郎(17世) お光 歌右衛門 お染 我童
久松 勘弥 後家 宗十郎(8世) 無論、梅幸がお光をやる際は成駒屋がお染に回る。
晩年の我童は後家。 かん寅さんというふぐ屋さんで、たしか大成駒、先の鴈治郎さん、男女蔵さん
今の左団治さんと偶然居合わせました。
やはりお二人は仲がよくいつも寄り添っていられました。十一代目のお話でも
していらしたと思います。鴈治郎さんたちは清元と麻雀にお出かけになられ
おふたはそのまま車でどこぞへ出かけれれました。夢のようなお時間。 いまの中村歌江のお兄さん?は、我童さんの弟子だったのでは????
野球の試合中に事故死と聞きました。 そういえば、我童はどうやって難を逃れたんだ?
12世仁左衛門は食い物の恨みでr 我童さんが十三代目というのは何故? 実際には六代目くらいでは? 二ザさんが実は財閥の御曹子と呼ばれる可能性があったとは
知らなかった・・。 >>43
関容子の脇役本の歌江の項に少し詳しい話が載ってる。
>>46
父が12仁左衛門だったから、その次という意味で13我童と自称してた。 最近はみんな立役志向だからねえ。
我童、宗十郎、歌右衛門 いい女形だったよ。 >>48
食い物の恨みは俗説でほんとは借金があったとか
口封じに妹も殺したとか
どっかのサイトに書いてあったんだが
誰かアドレスしらん? 当時の新聞記事を読んで気になる点。
・犯人が逮捕される前に、憶測の形で食い物の恨みが新聞に書かれている。
憶測だったのが、逮捕のあとで逆輸入の形で犯人が口実に使ったか?
・夫人に対する殺傷が激しかった理由は???。
廓文章の扇屋夕霧は見事でございました。いいものを見せてもらいました。
仁左衛門にしつこいくらいの駄目出し。我童譲らず。すごい対決だった。 >>77イザ衛門が不服だったんだろう。珍しくかなり怒鳴っていた。
せっかく無理を押して夕霧をつきあってやってあげてるのに・・・という
思いがあったんだろう。仁左衛門に対してあれだけいえるのはある意味すごい。 >>78
十三代目が実は養子(表向きは三男)で、「何で養子が仁左衛門を継ぐのか?」
という気持ちがあったって本当?
仁左衛門に対抗して十三代目を名のったそうだし。 >>78
dクス。十三代目仁左衛門一世一代の伊左衛門だったときいていたので、仁左丈の方がテンション高そうに思えたんだが、いろいろあるんだね。 明日、お写真を拝みに参ります。よろしくお願いします。 歌右衛門と我童 知られざる永遠のライバル 中央公論 彩 著 >>86
それ、本当に出る本?
我童のことを書いた本、出て欲しいなぁ。 最近文庫になった関容子の團十郎聞き書き本にチラッと出てくるね。
芸は上方風でも、戦後は関西歌舞伎には属していない。
東京千駄ヶ谷に定住。
だから、東京の役者と思っている。 木村多江が我童の話をよくするね。彼女かなりの歌舞伎通らしい。 秀太郎→我童
孝太郎→秀太郎→次の我童
進之介→芦燕→我當
愛之助→仁左衛門
という襲名が理想かな。
それより、家橘が名を市村に返し、片岡に復籍して欲しい。
「市村家橘」って良い名だもん。
亀三郎→家橘→羽左衛門
亀寿→薪水か亀蔵→彦三郎
というのが筋だろう。
萬次郎が16代目の未亡人の養子になっているのは、この際目をつぶる
として。 >>94
へぇ、そうなんだ!
木村多江好きだから、ぜひ我童の話してるところ見てみたい。
>>97
やはり、我童の名前に一番近いのは秀太郎って感じだね。
どこかお嬢さん然とした我童と世話女房が似合う秀太郎では、
芸風がちょっと違うかもしれないけど、あのこってりとした感じが似てる。 我童は、ひでりんしかいないだろう。
吉五郎先生が生きてるうちに襲名させたい。正月の「鏡獅子」になんとか
出演するはずだったが、やはり難しかった。 ヒデリンはトークショウで「昔、我童襲名は断った」と話したそうだよ。