人々の心をわしづかみにした玉三郎 「対立」と言われた歌右衛門について語る
エンタメ 芸能 芸術新潮 2014年6月号掲載
https://www.dailyshincho.jp/article/2014/06030930/?all=1&;page=1

文化人類学者で無類の歌舞伎好きでもある船曳建夫氏は、坂東玉三郎の襲名50周年を記念した「芸術新潮」6月号の特集で、
歌舞伎ファンが玉三郎を"発見"したのは1967年10月だったと振り返っている。当時『紅葉狩(もみじがり)』
の主役・更科姫を差し置き、脇に控える侍女役の玉三郎に注目が集まってしまい、劇場内ではこんな騒動が起こっていた。

■学級崩壊ならぬ劇場崩壊
船曳:『紅葉狩』の時は、いわば劇場全体、観客全員の収拾がつかなくなってしまった。
  あれは誰だ、あれは誰だって、もう要するに学級崩壊といいますか、劇場崩壊の状態(笑)。
  皆さんが劇そっちのけで、劇場のルールが成り立たなくなってしまっていた。
玉三郎:実は私としては、出来が悪かった思い出しかないんです。うまく踊れなくて、父にも叱られ。
  腰元の着物を着て踊るということ自体、慣れておらず、特に「矢の字」という帯の結び方は、
  後ろが丸いかたちになりますので踊りにくいんです。
船曳:客席のことはおぼえておられない?
玉三郎:まったく忘れてます。
船曳:50年もいろんな芝居を見てきて、最初で最後の体験でした。あの10月がターニング
  ポイントだったと思うんですね。観客が発見したのは多分あの時だと思います。
  それで2ヶ月後の12月の『時鳥殺(ほととぎすごろ)し』はもう満員で。
■三島由紀夫が船曳氏は文豪・三島由紀夫の言葉を引き、当時の玉三郎をこう評している。
「1970年の、初役の『お三輪』の公演パンフレットに、その秋に亡くなる三島由紀夫が、
〈玉三郎君という少年の反時代的な魅惑は、その年齢の特権によつて、時代の好尚そのものを
引つくりかへしてしまふ魔力をそなへてゐるかもしれない。〉と書いたが、まさに正鵠を得ていた。
玉三郎の時代が始まったのである。」