まゆぴょん♪が、小学校6年生→中学校3年生迄週1、2回通っていた鹿島英語塾の鹿島先生も 戦後 ラブレターの代筆、代読してましたよ(・。・)

立川のアメリカ軍に雇われていた通訳だったんです(・。・)パンパンが産んだ米軍兵士の娘を養女にして育てていました。
山川静夫司会 歌謡グランドショーの オープニングでセンターで長い手足でダイナミックに踊っていた 日劇トップスター 鹿島とも子 です♪
その後スキーで怪我したり、オウム真理教の広告塔になったり、

水曜日学校終わって 英語塾に行くと 火曜の晩NHKテレビで踊っていた 鹿島とも子が、旦那と子供と来ていて 背高くてスタイル良かったよにゃ♪


戦後の“ラブレター屋”存在した 「I miss you…」英訳し米兵に届けた思い7/29(水) 11:46配信

西日本新聞
英語の看板が目立つ1950年代の佐世保市松浦町国際通り(岩波写真文庫「佐世保−基地の一形態−」より)

 本紙長崎県版の記者コラムに「戦後の佐世保に『ラブレター屋』という稼業があったと聞いたが、確認できず記事化を見送った」と書いたところ、
佐世保支局に読者から関連情報が寄せられた。佐世保で出会った米国人男性と日本人女性を手紙で結んだ人たちは、確かに存在していた。

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 「ラブレター屋」は、佐世保に駐留した米軍関係者に宛てた日本人女性の手紙を英語に翻訳していた。コラムを掲載した22日、高齢の男性から「商売ではないけれど、頼まれてラブレターをいくつも書いた」と電話をいただいた。

 セントラルホテル佐世保の元支配人、田中暁(さとる)さん(92)=佐世保市黒髪町。戦後、田中さんの叔母が市役所近くで米兵相手の接客業を営んでいた。
英語ができた田中さんは叔母に頼まれ、女性従業員が書いた手紙を英訳し、米兵に送っていたという。

 ラブレターを代筆していた時代は遠くなったが、懐かしそうに語ってくれた。
「叔母の接客業の女性も含め、当時の人は戦後何もないところから精いっぱい生きていた。あの時代を知っている者が伝えないと」

 田中さんのほかにも、佐世保市の女性から
「子どもの頃、三ケ町商店街で青いきれいな荷車に2人が座っていて、そこでラブレターを書く商売をしていたのを覚えている」などの証言が届いた。 (竹中謙輔)