煙草にアンパンマンを印刷したら喫煙率下がるだろ [無断転載禁止]©2ch.net
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顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。 二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。 彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。 新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯じなかつた。 が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。 彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。 新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。 彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。 まだあたりは明るいものの、丁度町角の街燈には瓦斯のともる時分だつた。 彼は楽々と逃げながら、鬼になつて来る彼女を振りかへつた。 彼女は彼を見つめたまま、一生懸命に追ひかけて来た。 彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。 が、年月の流れるのにつれ、いつかすつかり消えてしまつた。 それから二十年ばかりたつた後、彼は雪国の汽車の中に偶然、彼女とめぐり合つた。 窓の外が暗くなるのにつれ、沾めつた靴や外套のひが急に身にしみる時分だつた。 彼は巻煙草を銜へながら、(それは彼が同志と一しよに刑務所を出た三日目だつた。)ふと彼女の顔へ目を注いだ。 近頃夫を失つた彼女は熱心に彼女の両親や兄弟のことを話してゐた。 彼はその顔を眺めた時、妙に真剣な顔をしてゐるなと思つた。 と同時にいつの間にか十二歳の少年の心になつてゐた。 が、彼はその時以来、妙に真剣な彼女の顔を一度も目のあたりに見たことはなかつた。 雨降りの午後、今年中学を卒業した洋一は、二階の机に背を円くしながら、北原白秋風の歌を作っていた。 すると「おい」と云う父の声が、突然彼の耳を驚かした。 彼は倉皇と振り返る暇にも、ちょうどそこにあった辞書の下に、歌稿を隠す事を忘れなかった。 が、幸い父の賢造は、夏外套をひっかけたまま、うす暗い梯子の上り口へ胸まで覗かせているだけだった。 「どうもお律の容態が思わしくないから、慎太郎の所へ電報を打ってくれ。」 「まあ、ふだんが達者だから、急にどうと云う事もあるまいがね、―― 賢造は妙に洋一と、視線の合う事を避けたいらしかった。 「しかしあしたは谷村博士に来て貰うように頼んで置いた。 賢造の姿が隠れると、洋一には外の雨の音が、急に高くなったような心もちがした。 彼はすぐに立ち上ると、真鍮の手すりに手を触れながら、どしどし梯子を下りて行った。 まっすぐに梯子を下りた所が、ぎっしり右左の棚の上に、メリヤス類のボオル箱を並べた、手広い店になっている。―― その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。 今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来ると同時に、電話に向っていた店員が、こう賢造の方へ声をかけた。 店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな洋傘を開くと、さっさと往来へ歩き出した。 その姿がちょいとの間、浅く泥を刷いたアスファルトの上に、かすかな影を落して行くのが見えた。 洋一は帳場机に坐りながら、店員の一人の顔を見上げた。 そう答えた店員は、上り框にしゃがんだまま、あとは口笛を鳴らし始めた。 その間に洋一は、そこにあった頼信紙へ、せっせと万年筆を動かしていた。 彼よりも色の黒い、彼よりも肥った兄の顔が、彼には今も頭のどこかに、ありあり浮んで見えるような気がした。 彼は始こう書いたが、すぐにまた紙を裂いて、「ハハビョウキ、スグカエレ」と書き直した。 それでも「ワルシ」と書いた事が、何か不吉な前兆のように、頭にこびりついて離れなかった。 やっと書き上げた電報を店員の一人に渡した後、洋一は書き損じた紙を噛み噛み、店の後にある台所へ抜けて、晴れた日も薄暗い茶の間へ行った。 茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。―― そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻きを使いながら、忘れられたように坐っていた。 それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼を擡げた。 「困ったねえ、私は何も名のつくような病気じゃないと思っていたんだよ。」 洋一は長火鉢の向うに、いやいや落着かない膝を据えた。 襖一つ隔てた向うには、大病の母が横になっている。―― そう云う意識がいつもよりも、一層この昔風な老人の相手を苛立たしいものにさせるのだった。 叔母はしばらく黙っていたが、やがて額で彼を見ながら、 浅川の叔母の言葉には、軽い侮蔑を帯びた中に、反って親しそうな調子があった。 三人きょうだいがある内でも、お律の腹を痛めないお絹が、一番叔母には気に入りらしい。 それには賢造の先妻が、叔母の身内だと云う理由もある。―― 洋一は誰かに聞かされた、そんな話を思い出しながら、しばらくの間は不承不承に、一昨年ある呉服屋へ縁づいた、病気勝ちな姉の噂をしていた。 お父さんは知らせた方が好いとか云ってお出でだったけれど。」 その噂が一段落着いた時、叔母は耳掻きの手をやめると、思い出したようにこう云った。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています