マックス・ウェーバー 統一スレPart4
牧野 雅彦『マックス・ウェーバー入門 』(平凡社新書)
山之内 靖『マックス・ヴェーバー入門』 (岩波新書):
絶対に入門書ではない。両方とも専門書。 ウェーバーに限らず、〇〇研究とか〇〇入門なんてのを読むより、
本人が書いたやつを読むのが一番手っ取り早いと思うけど… 職業としての学問を初めて学生時代読んでこの人すげーなと思った わたしは学生時代『職業としての学問』を読んで、
なんだかよく分からなかった。ヴェーバーは難しいし、
翻訳も分かりにくい。それどころか岩波文庫の
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように
おかしな翻訳まで出ている。
>う〜ん、でも文化だって元は自然から発生したものだとも思う
ソクラテス以前のギリシアの自然哲学における「自然」は
いわゆる自然だけでなく、社会や人為をも含んでいたことを
最近になって木田元の本で知った。そういえば『学位論文』や
「ライン新聞」時代のマルクスの「自然」概念もそうだ。
しかし、ウェーバーにはそういう考え方はない。
>>256
そういう違いをわかった上で読まないと誤解が生じるよね >>255
>それどころか岩波文庫の
> 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のように
> おかしな翻訳まで出ている。
河出文庫の翻訳はどうだろう。古いけど。 わたしも河出の「世界の大思想」シリーズの阿部行蔵訳で読んだ。
この論文で大塚訳が批判されている。ほかの訳書との比較もあったはず。
恒木健太郎「大塚久雄の「誤解」――『プロテンスタンティズムの倫理と
資本主義の精神』の末尾をめぐって」
http://www.mosakusha.com/newitems/2010/10/_113.html 国会で当時の安倍首相に田中真紀子が質問。
「ウェーバーをよんだことがあるか」
安倍は待ってましたとばかり、得意そうに。
「ウェーバーは『職業としての政治』において……」云々。
これに対して真紀子は、
「わたしは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』も読んで
います」と発言。
どうやら国会議員の世界では、
(共産党を除いて?)ウェーバーは必読となっているらしい。
むかし、自民党宮沢派に田中六助という政治家がいたが、
この人は、ヴェーバーが大好きだった。
政治家の世界においてヴェーバーのなが知られ、
敬意の念をもってその名がかたられていることは事実。
理解の程度はともかくであるが。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%85%AD%E5%8A%A9 ヴェーバーは国家そのものを「暴力装置」としてとらえたわけではないが、
国家の社会学的定義において暴力を重視した。
レーニンやトロツキーは革命派の立場から国家の暴力性に注目した。
ヴェーバーとレーニン、トロツキーが重なり合うわけで、
元左翼(グラムシ派?)仙石もこの言葉が口からつい出やすかったのだろう。
で、結局警察や軍隊を暴力装置規定した初出は結局分からんのよね。
ヴェーバーかレーニンの解説本だろうけど イギリスでもブレア前首相をヴェーバーの理論で
論じた本が出ており、ヴェーバーの政治家論が好まれるのは、
日本だけではないようだ。 ブレアは、世界の民主化、暴政の打倒、
国際共同体における責任と義務という価値、
そしてそれと結びついた確信によって、イラク戦争を決断した。
ブレアは、予想される「結果」についてよく考えず、
「心情」(確信)で、イラク戦争を決断したんだね。
ウェーバーに対するニーチェの影響ということが昔から言われている。
昔から言われていることなのに、
なにか自分が初めて明らかにしたような書き方を
している人がいたね。 ニーチェは、高貴なものと卑しいもの、主人と奴隷、支配者と服従者、
富めるものと貧しきものとを分けて、キリスト教道徳が後者の側、
そのルサンチマンに立っていると批判。
難しいっていうか
若くないと読む気が起きない
ウェーバーは中年にも読める 官僚制の「鉄のオリ」を
カリスマ的な政治指導者の力で突破しようというのが
ウェーバーだと思う。
ウェーバーは、民衆の力だとか、被支配者階級の闘争だとか言わない。
こういう言い方は、ニーチェ的にいわば、ルサンチマンの思考と
いうことになるだろうか。
最近の本屋の店頭では、ウェーバーよりもニーチェのほうが
ずっと人気だね。 >>279
ニーチェは何も難しく無いと思うけど…
感性が鋭ければスルスル馴染む
ロジックに拘ることに慣れた人には、とっつき難く思えるだろうとは思うけど ウェーバーが『プロ倫』で言ってたとされる資本主義発展の要因としてのプロテスタンティズムの勤勉さってのは、
宗教・宗派の如何に関わらず、そうした思考、思想が資本主義の発展に必要ってことで、
言い換えればそうした特質を備えてさえいれば、資本主義の発展は可能ってことでもあるよな…
例えば日本だと浄土真宗。
肝心なのは、そうした精神の、ある時点での非宗教化、ヨーロッパだと、19世紀末のいわゆる世紀末文化が
資本主義の更なる発展に大きな役割を担ってるということだろな。
いわゆる「神の死」。
日本にはそれがない。 まあ、プロテスタンティズムが、「拝金教」の性格を持っていたのが資本主義発展の要因になりました
ってことは言えるかもな。
あるいは、プロテスタンティズムは、「宗教の衣をまとった資本主義」ともいえるかも知れない。
ウェーバーが主張している「非宗教化」というのも、かりそめの衣を脱ぎ捨てただけであると。 宗教改革運動において、当時の印刷技術を利用して大量のパンフレットを刷ったわけだが、
だれがその資金を拠出したのか、ということも気にせないかん罠。
勃興期の資本家が出したんじゃないのかと。
それならプロテスタンティズムが資本主義に都合のいい教義になるのも理解できる。
「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しい」
そんなイエスのつまらぬ言葉など忘れてしまえ、というのがルターやカルヴァンの主張の一つでもあるね。
「暴力装置」は「産む機械」と同じ位置付けとして逆襲されただけ
オマエラはホント馬鹿だな
知力が足りない >「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通るより難しい」
ああ、これがニーチェが『道徳の系譜』でいう「ルサンチマン」
だね。
>ウェーバー、マルクス、フロイト
>
>が近代三大カルト
ウェーバーは「カルト」ではないですよ。
ウェーバーが「産む機械」って書いてれば
ウェーバー教徒を挙げて柳沢を擁護したのに
残念な事です>< 「装置」には、
それに対して自己の意思によって命じる人がいる。
それが「ヘル」(支配者)だ。
大塚久雄は中国の文革を支持した。
ちょっとおかしいね。
山之内靖(『マックス・ヴェーバー入門』)は、
初期マルクスの「受苦」観念の信奉者。
要するに、大塚や山之内は、
ヴェーバー・マルクス主義か、マルクス・ヴェーバー主義である。
湯浅赳男(『官僚制の史的分析』)は、トロツキーとヴェーバーを
信奉していたから、ヴェーバー・トロツキー主義か。
→彼らのヴェーバー理解はちとおかしいというか、だいぶおかしい。
これらは日本のヴェーバー研究の特殊性であろう。
内田芳明『ヴェーバー 歴史の意味をめぐる闘争』岩波書店、2000年。
この本も3分の1が、ニーチェとヴェーバーとの関係を論じている。
この本によると、ヴェーバーは『国民国家と経済政策』のなかで、
ニーチェの言及、高い評価を与えている。
川上周三『攻撃衝動の社会学――ニーチェ、ヴェーバー、タイセン』
(勁草書房、1996年)
というのがあって、これのほうが強烈じゃあないか。
ニーチェとヴェーバーとの関係は多くの人によって
研究されている。
昔は『職業としての学問』と『プロ倫』が
まず読むべきヴェーバー本だった。
今はどうだろうか。
>>298
僥倖に恵まれないと学者として食っていけないという考察には妙に納得してしまったw ニーチェは本来の性格が性善説過ぎたために、
現実の人間を見てああいう結論になったんだよ
ヴェーバーの『権力と支配』『国家社会学』を入手したので
これからノロノロと挑戦してみます そんなにすごいかね
「古典」としての意味以上のものを感じないが 石尾芳久訳『国家社会学』は
なかなか入手困難だったでしょう。 >>302
戦国さん騒ぎが収まったからそれほどでもない
他にも2カ所でみかけたし >>301
それって過去の著作物のほぼ全てに言えることなんじゃ ヴェーバーは『国家社会学』という本を書いていません。
ヴィンケルマンが、ヴェーバーの諸著作をいろいろ編集して、
まとめたのが『国家社会学』です。
その本を日本法制史専攻の石尾芳久が訳し、
法律文化社から出版しました。
内容的にはヴェーバーの政治社会学が手際よく
まとまっている感じです。
>>301
同じ古典でも、ロックの『統治論』、ルソーの『社会契約論』が古典だというのと、
ヴェーバーの『職業としての政治』が古典だというのとでは
だいぶちがうでしょう。
>>297
多かれ少なかれ、どの哲学者間にだって共通点はあるでしょ
何でニーチェとウェーバーなの
しかも何で「攻撃衝動」なの
どちらにも「攻撃衝動」は認められない、
むしろ「全てを模索し尽くした人の諦め」的なものを感じるよ >>305
ありがとです
その辺の事情には疎いので(にわかだから)、
そういうお話は参考になります。
巻頭にいろいろ書いてあるけど、ドイツ語なんて専門用語わからないし…
それほど分厚いものでは無いし、
読みやすいかなと思ってなんとなく買ってみたんです >>306
社会学はねえ…
書かれた時代の歴史的背景や政治的事情を理解していないと、
誤って解釈する危険があるからねえ
わたしの専門(といっても学術から離れて十年以上w)はミクロ視野に突っ込んでいく方なので、
マクロ視野の分野は簡素なものでもかなりキャパオーバーしちゃうんです タバコ出荷停止!
皆さん大丈夫ですか?
近所のコンビニにもタバコがありません
でも、ご安心を!
タバコは個人輸入すれば問題なし
なんせ海外のタバコは激安
送料込みで1箱60円とかもアリ
コンビニで買うのがバカらしく思える
日本語の個人輸入代行業者は沢山あります
「タバコ 個人輸入」とかで検索して
良さそうな業者を選べばOK >>310
全然大丈夫じゃありませんよ
タバコは生活必需品です
こないだゆったりめの麻のスーツを羽織って
ぶっとい葉巻をふかしながら歩く南米の黒人を見かけた
なにか和むものがあった
前から自民党(利権がらみか知らんけど)と
共産党は防災についていろいろ政策を出していたが、
民主党はまったくダメだった。
去年、自民と公明が津波法案を出したが、
民主党政権はタナざらしにしていた。
共産党は福島県議会でも、国会でも
東電の原発が津波にやられる危険性を取り上げていた。
民主党の、いわゆる「責任倫理」の問題がある。
最低の政党であった。
>>312
自民と共産は同じ穴の狢
ピラミッド構造を肯定している限りはね
>ピラミッド構造を肯定している
『支配の社会学』は政党そのものをピラミッド型の構造をもつものとして
とらえている。国家についてもそうである。
>>314
そこでこれから模索すべきは、
ピラミッド型で無い政治/社会構造は
どうしたら創れるか
になるのだ >>315
そんなことは不可能だ、というのがヴェーバーの立場。
この立場からヴェーバーは、ミヘルスを指導した。
そしてその結果、ミヘルスは『政党の社会学』を書いた。
>>316
じゃウェーバーを超えろ!
ということで
脱線させて申し訳ないが、マックスの生家はエルフルト市ユーリ・ガガーリン環状路(リンク)10・12でよろしいか?
以前は毛沢東環状路10・12だったらしいが。以上。本線に戻っていただきたい。 ウェーバーの時代だと官僚制の問題点はまだあまり意識されてない >>319
政治家にせよ官僚にせよ、
「あって当たり前」
の時代だったんじゃないの
今はどうかというとねえ・・・・
むしろ「無い方が良い」部分もたくさんあるからね
地震だって原発だって、
ただ知識ばかりあっても
未然に被害を抑えることができないようでは
民主党政権になって、
政治主導とか、次官会議廃止とかいって、
官僚・官庁の役割を押さえたことが、
今回の災害対策の混乱の原因になっている。
牧野雅也が『プロ倫』の解説書を新書で出した。
新刊で出たばかりだ。
『プロ倫』はトーニー(イギリスの経済史家)や
矢口孝次郎(日本の経済史家)を読めば分かるように、
資本主義の形成史という点で根本的に間違っている。
この点を外して、『プロ倫』を論じてもあまり意味がないはず。 レスが少ない板で糞コテに居着かれるとテキメンに議論の質が下がるな 糞コテです。
どうぞヨロシク♪
さらににわかです。
どうもヨロシク♪
朝鮮日報電子版に「マルクスを捨ててウェーバーを選んだ韓国進歩陣営」という記事が出ている。
これまで左翼的(といっても北朝鮮がらみ、あるいは北朝鮮肯定の)知識人は、
マルクスを愛好していた。ところが最近、マルクスからウェーバーへの流れが生じてきたらしい。
ウェーバーについてのアカデミックな研究もこの種の観点から出てきている。
面白いのは、この場合のウェーバーは宗教社会学ではなくて、政治社会学である。
これは世界のウェーバー評価の動向とも合致している。
日本は、政治学者がウェーバーの政治社会学ではなくて、宗教社会学に夢中になるという、
相変わらずの時代錯誤をしているが……。 「世界宗教の経済倫理」という本の序論でニーチェ批判をしているそうですが、
日本語訳で出版はされてるでしょうか? >>333
みすず、宗教社会学論選に所収されているはず
儒教と道教、巻末にも所収されている
ニーチェのルサンチマン説に少し触れているが、批判的に受け継いでる感じ
>>334
ありがとうございます。
Amazonをざっと見ただけでは、どの本に序論が含まれているのかわからなかったので。
今度図書館で借りてこようと思います。 国文学者の谷沢永一が死去。
この人は大塚久雄の批判者だった。
この谷沢。けっこうニーチェ的な発想の人だった。
ルサンチマン概念が谷沢の基本概念の一つだった。
谷沢は「嫉妬」という言い方をしばしばしたが。
左翼への批判者であると同時に、自由主義史観派への批判者でもあった。
てか学歴コンプだろ
旧帝大出にえらい評価辛かったし いま、ポス毒や高学歴ワーキングプアしている人は学部生時代に職業としての学問
読んでいれば、現状を回避できたのではないか ワープア問題にまで駆り出されたウエーバーも困惑してるでしょうな
アカポス獲得ハウツー本か指導教官に可愛がってもらえるハウツー本があったらベストセラーかもです >>340
そんなハウツー本は売れませんw
アカポス支援や人脈発掘派遣センターのほうが流行るだろうよ プロ倫の話題ばっかりなんだな
ウェーバーは方法論のほうが抜群に面白いと思うけど >>319
ウェーバーより前にトクヴィルが指摘してる
先見性ありすぎて当時はあまり評価されてなかったけど。
日本では今でもトクヴィルは評価されてない 社会学の根本概念 第3節 第二項の
社会集団における意味内容の相互関係とその行為の有無と可能性。
ここの例えで、
「或る意味を目指す社会的行為の行われる可能性が消えた瞬間、
社会学的に見れば、もう国家は存在しないのである」
これがなんとも消化できないでいる。
まだまだ不勉強で自分の未熟さ痛感してしまうのだが、
是非とも、どのような解釈があるのか教えていただけないだろうか。 >>345
最近の日本の社会学者の一部の言い方では方法論的個人主義=A
アルチューセール派の用語法では理論的人間主義≠ニいうのがある。
この種の理論からすると社会現象は多数の個人・人間、その諸行為
・諸実践から成り立っている。
ヴェーバー理論はこの種の基本理論であり、その代表格だ。
ヴェーバーの理論では、「国家」は「社会団体」であり、
「社会団体」の一種である「政治団体」であるが、
「国家」も諸個人・諸人間のそうした諸行為・諸実践
から成り立っている。
したがって、個人・人間がなくなるとか、それら
の諸行為・諸実践(ヴェーバーの用語では「社会的
行為」)がなくなったりすると、論理的な仮説上の話しと
しては、「国家」もなるなるということである。
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誤入力→「国家」もなるなるということである。
修正→「国家」もなくなるということである。
「国家」はそれ自体として自存的に存立するある種の実体ではない。
原理的には、「国家」は最終的には諸個人とその諸「社会的行為」に
還元可能である。ヴェーバーは社会学は行為の社会学≠ナあり、
先の『社会学の根本概念』の引用箇所では、この観点から国家について
語られているわけである。
(はじめから、書き直します)
世間には「国家」という名前のものが存在している
と考えるひとがいるようである。
たしかに、国家は一種の現実として存在するのだが、
しかし、よく考えてみると国家≠サのものは存在しない。
なぜなら「国家」が存在するといっても、
そこに実際に存在するのは、
諸個人であり、その社会的行為であり、
社会的関係だけだからである。
この観点から、ヴェーバーは「社会的行為」がなくなれば、
「国家」はなくなるといっている。
ただしヴェーバーは国家廃絶の思想であるアナキズムの信奉者
ではない。ただヴェーバーの国家把握のひとつの要素、
一つの理論的次元として、いわばある種の国家ノミナリズム
(名目論)≠ェあるということである。 >>350
解説ありがとうございます。
デュルケムから入り、構造主義や認知言語学等に思考が散らかっていたため、
漠然としていたものが一つ整理されました。
社会における最小単位の個人、その社会的行為の諸実践、その恣意性が国家を成す。
引用部の表現を相対的に見れば、
容易に導き出せそうなものであったため、自分の未熟さが恥ずかしい限りです。