【この学問は】社会学を批判する【役に立つのか】
この大社会変動の時代に社会学が何の役に立つのか考えて
みるべきでは?
180. >>311
私が疑問に思っていた主体性の問題も、単に経済学と社会学の研究領域の違い
によるかもしれない。でも、社会学における主体性についての疑問は残る。そこで
質問の趣旨を変える。
その質問とは、社会学には、研究領域外の主体性が無いのではないか、ということだ。
研究領域外の主体性とは何か。例えば、経済学では経済行為以外は基本的に
研究領域外だ。ある人は作家の誰彼が好きか、どんな性格か、そんなことは経済
学の知ったことではなく、当人の主体性の問題だ。これが、研究領域外の主体性である。
そして、「経済学者が経済学を研究する」という行為も、経済学の研究領域外で
あり、そこに主体性がある。ということは、経済学には、客観性が存在する余地が
ある。なぜなら、もし、この研究行為が何らかの因果律によるものなら、その研究
行為の結論(経済学の理論)なんか、信用できないでしょう。
翻って社会学はどうか。社会学の基本的な仮定はあまりに包括的で、ほとんどの
人間行為が研究領域に入ってしまう。もちろん社会学者の研究行為も。例えば、
ホーマンズが社会学の一般命題として公式化したのは、次のような過程であったか
もしれない。彼は、大恐慌で新聞社への就職内定が取り消され、攻撃是認命題
によって社会を恨んだ。そんなときヘンダーソンのゼミに参加し、社会学に縁を持つ。
そこで、社会に対する腹いせに、人はいくつかの因果律に従うのだと論じたら、
回りの学者の受けがいい。価値命題から気を良くした彼は、成功命題によって、
ますます理論を精緻化していった。こうして、ホーマンズの一般命題が公式化された。
もちろん以上の話は、でっちあげっである。しかし社会学者社会学も構築可能
に思える。>>310で紹介したHPの3・対人関係を読むと社会学者の研究行為も、
当然に社会学の研究領域に入ってくるように見える。結局、社会学には研究領域外
の主体性が無いように感じられ、したがって社会学に客観性が存在する余地が無い
ように思える。
社会学が何の役に立つ?
http://www.uwasa2ch.net/interior/981967742.html ここで聞くのもなんですが
この板の住人の皆様的にパオロ・マッツァリーノ氏はどうなのでしょうか パオロ・マッツァリーノは佐藤俊樹に論破されたからな >>274
どういう論破? 彼の著作は「反社会学」じゃないって論破? >>276
佐藤俊樹は少年犯罪の話を例に挙げて
パオロ・マッツァリーノはある先入観を批判するのに、別の先入観を安易に持ち込んでる点で批判対象と同様に検証不足による誤りがある
という感じで批判してたよ それってパオロ・マッツァリーノ氏への批判になっているのだろうか。
彼がやろうとしたことをまだ誰も理解していないのか。 御用なんとかって言葉を使う奴は基本的に頭良くない
その言葉に自身が縛られることになるってことを見通せないみたいだしな
で、御用なんとかを暗黙的に肯定する社会学者が多いこと多いこと・・・
自分がぱっとしない理由は御用学者のせいだとでも思ってるのかねあれ 会計学(商学)や法律学に比べてば全く役に立たない。
直接役に立たせるとしたら社会学の教授になること。 だが、役に立たないといのは客観的判断にすぎない。
人はみな、心の師を探している。
その心の師になってくれるのは、社会学者しかいない。
すぐれた社会学者は、何もしていないようで、
実は読者の教養や心の発展に寄与しているのだ。
悪徳宗教にも同じことが当てはまる程度のどーでもいい寄与だ
サルを完全に破壊する実験って知ってる?
まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。
のちのパチンコである
ネットの書き込みは無力ではない。それは誰かが確実に読んでいる。
経験則でいわせてもらえば、
1スレはだいたい、数十人から300人くらいが見ていると思われる。
講演会でも開いているようなそれくらいの人数だ。
ひとつひとつはちいさな発言でも、数が積み重なれば、大きな影響力を持つ。
雑誌などをみると、ネットに影響を受けたと思われる文章、作品、発想が
たくさん見受けられる。そもそもマスコミ関係の人間ならば、
ネットの書き込みを無視はできないだろう。
ネットから出発し、既存メディアに影響を与える。
そして、既存メディアに載った情報は大衆を感化する。
これがネットによって可能になった。
ひとりひとりがオピニオンリーダーである インって人が一番頭悪くて発言がおかしい
言ってることコロコロ変わるのに自分で気づいてない
自分に大甘他人に大辛
あの根拠のない自信はどこから来るのだろうか
言ってること1+1=2レベルなのに、世紀の大発見をしたみたいな言い方をするから大失笑 社会学は社会調査しか社会の役に立たない。
早く社会調査士を国家資格にすることだね。 >>285
オピニオンリーダー = コピペステマアフィブログ(笑) めいろまと似てるのは>>286が言う人じゃないかと 無知なオヤジほど、自分は世の中のことを知っていると思っている。
聞けば、話のほとんどがテレビの受け売り。
自分で得た情報はまったくない。自分が無知であることすら気づかないのか?
大衆の知性なんて、やっぱり疑わしいものだよ。
「民主主義を疑え」って本があったけど、まさにそれが時代の本質かもね。
社会経験は大して役にたたない。
経験ではなく、洞察力の問題である。
けっきょく、大人も子供も、その知識の大半は、メディアから得たもの。
自分で見てきたものなんて、ほとんどない。
おれのジイサンも、富山の山奥からほとんど出たことがない生活を
送ってた農業人だったが、
芸能界や政治の裏側にものすごく詳しかった。
結局、世の中のことは、ごく一部の人間にしかわからない。
多くの人は、テレビでみた、週刊誌・ネットで読んだ、
という次元でしか、世の中を知らない。
それでいて、自分はなんでもよく知っていると思ってるものだ。
社会の仕組みはリーマンなど凡人にはわかるものではない。 742 :名無しでいいとも!@放送中は実況板で:2012/07/31(火) 14:29:31.91 ID:nGmn6m9U0
>>738
おれの小学5年生の甥が、このあいだ、テレビ局の韓流ゴリ押しを批判していた。
かと思えば、先日、商店街の40代のオヤジも同じようにテレビ局の韓流ゴリ押しを
批判していた。小学生からオジサンまで、ネットの影響力は絶大だよ。等しく影響を受ける。 精神医学・生理学と心理学比べたときのような邪道感
社会科学と社会学比べたときの感覚に似てるよね >>291 >>293
大貴族や大戦士、大学者や大教育家の血筋引いてるってことを突き止めよう。
これが自己実現において一番手っ取り早い(ライフヒストリー)。学問は本来、問を学ぶこと、
問の組み立て方、展開の仕方を学ぶためにあるのだが、大抵の95%以上の人間は、
学歴や職歴という飾りを第一目的に据えている。この虚栄心が、自分が本当にやりたいこと、
送りたい人生の邪魔をしてしまう。あるいは、本当に凄い人間、本当は凄く小さい人間、
その区別を誤ってしまう。自分は、それを本当に望んでいるのかいないのか。いないのか。
それは、子どもの頃の心境、原点に立ち帰ってみたり、動物の行動と比較してみれば、すぐに解ることだ。
shallは、must以上に、強力な意味を持つんだ。それは自分ではなく、精霊の力が働いているからだ。
何か一つ、誰と比較しても、絶対的に負けようのないもの、唯一無二の、斉天大聖の
ようなものを自分の中に見つけ、それを権威づけて表に出そう。そして、それを、
他人から認識される形、自己プロフに書ける形にしよう。さすれば、学歴や職歴への渇望、
組織や肩書きへの執着は、どんどん無くなっていく。だって、もう、名誉の頂点を極めてるんだから。
たとえば、フランスや中国の聖王、ローマのガイウス・ユリウス・カエサルの、
あるいは金持ち王オタカル2世の血(もしくは魂)を引いてるとか。
これさえ突きとめれば、その古文書で書かれた紙っきれたった一枚が、
デルフォイの神託レベルの威力をもつようになる。もはや、その一点においては、
誰にも負けることはあるまい。ハプスブルク家の家紋「鷲」のように、
彼は、ひよこを脱し、一本の綱を渡りきり、鳥となり、超人となり、星となったのだ。
もはや誰にも、彼を抑えきることは出来ないであろう。知的強弱や社会的強弱など、
人生全体の中では、本当に些細なことだ。だって、周りがどう言おうが、
精霊が、父が、世界神話が、非凡だと確約してんだから。 灯台の社会学者は、灯台の社会学者の書いたものしか引用しない。他の連中はあきらめろ。 295 言い訳や負け惜しみ、防衛機制といった類のものは、世間ではダメなもの
とされているが、むしろ精神衛生上、大変良いものだと言う心理学者も中にはいる。
自己中心的で卑屈なさもしい野郎は、「今、日本(あるいは 君たち)に本当に必要なのは、
徹底的に負けることだ」と主張する。負けて優しくなれとか、取り返しがつかなくなるぐらい、
徹底的に失敗しろとか、堕ちるとこまで堕ちろとか、そう言いたがる人間たちが後を絶たない。
しかし、本当に大切なことは、負けて優しくなることじゃない。最後は、勝つってことなんだ。
人生、一回も負けないなんてことは、科学的にあり得ない。若いうちは絶対負ける。
しかし、負ける時は、一人でも二人でも、敵陣サイドの人間を道連れにするのが鉄則だ。
顔をズタズタに潰す。そして、力を蓄えて、砂泥底のレベルから地盤を整えて、
今度はより強く進化を遂げた存在となって、立ち上がり、輝く。転んでも、ただでは起きあがらない。
だからカッコいい。怯えに立脚した優しさは、その逆ベクトルで、自分より弱い者には牙を向く。
しかし、「鷹」のような強さに裏打ちされた優しさ、鷹揚さは、誰に対してもより平等に接することが出来る。
かつて、シェーンブルン宮殿内に、1500近い部屋を築いて、
宮廷内に空間的遠近を描くことで、何百超という貴族を飼い殺しにした、
絶対主義の象徴とも言えるハプスブルク家が、なぜ帝国崩壊後も生き抜いたのかというと、
それは、「現実を認めない」=「絶対に諦めない」という精神があったからだ。
現実の見方論争というものは、社会学の得意分野だが、それ以前に、現実というものは、
各人が自分に都合のいい形で、作り出すものなのだ。如何にダメージを食らおうと、
最後は、絶対に勝つ。自分の人生の辞書には、バッドエンドという概念は存在しない。
そんな人間であろう。それが、鷲として羽ばたいた者たちの、克己の手本としての一例だ。 キャリアというものとは、畢竟は、単なる約束事であり、信用を支えるものでしかない。
受け入れられるか、受け入れられないか、という発想と約束を破り、
どっちが上か下か、どっちが力づくで服従するかさせるかという発想をし出すと、
もうその者は、永遠に心の居場所(モノローグ)を失う。特別活動論的な観点で言えば、
社会とは、いわば、心の居場所なのだ。
子どもの宮(宮殿)と書いて、「子宮」と表す。キャリア、看板というものは、
どっかの誰かがあくまでそう冠しているにすぎない。それは宮内庁御用とて同じだ。
宮殿は、それが王族としての権限、約束事に支えられていて、その約束事の向こうに、
周囲が頭を下げてくれる、という予測があるから、宮殿は大きな意味を持っている。
しかし、もし、残りの余生、知らん人間たちに囲まれて、宮殿で暮らすのと、
メロメロに欲している女の子宮の中(膣)に入りながら、毎日暮らすのとを選べ、
ともしアポロンに言われれば、普通は、後者を選ぶはずだ。
子ども、小学生の高学年(早い子は低学年で既にエロ本を読んでいる)や中学生は、
ほぼ100%、後者を選ぶだろう。なぜなら、彼らはまだ、社会契約、規範という
理性が内在化されていないからだ。子どもはその点で、自分の先祖でもない、
自分のキャリアにもなりやしない、どこぞやの誰々が云々とホザいている人間たちより、
よっぽど直球で正直である。自分を欺かないと生きていけない。
幻想でしか自我を支えられない。そんな人間は、負け犬、としか言いようがないのである。
そして、宮殿を持たない者、いつでも入り込むことの出来る子宮を所有していない独身貴族も、
これまた独りぼっちの負け犬である。
世界の歴代の王族も、宮殿を建てても、それだけでは満足しなかった。
宮殿を建てた後は、何人もの妾を雇い、何人もの妻を作り、一日中バコバコやって、
チンコをしごかせ、子どもをたくさん作ったものだ。王族も、所詮は子どもと大差ない。
子宮ほど男が好きなものは、この世に無いのだ。 バークリーの存在論の説明は、もはや今更必要ないだろう。
男性が、恋人や妻に対して、女王様と呼ぶとする。そして、恋人、妻は、
それを認知し、受け入れる。さすれば、その時点で、女王様(小屋)―ペット
という構図は、もう既に、その両者の中(膣)では成立しているのだ。
王宮も子宮も、意味の成り立ちそれ自体は、一緒である。 そこには、確固たる、相互関係の社会が、成立しているのだ。 >>1
経済学の鬼
おまえが総理を目指すなら
無差別に一票を選挙で投じます
大変な騒ぎになってるな
2012年8月23日(木曜)23時新宿二丁目でブルーシート事件騒動発生!
http://m.logsoku.com/thread/kohada.2ch.net/gaysaloon/1345793511/
新宿二丁目ARCHで開かれた「大学生ナイト」のゲイ大学生参加者が
新宿二丁目の仲通りの交差点の路上に
「ブルーシート」を広げて宴会を始め
ツイッター(twitter)で批判が殺到して大炎上
それらの批判に対して新宿二丁目の路上にブルーシートを広げたゲイ大学生の当人たちは
「グリーンシートだ!」と反論
@Quusuke
ブルーシートのゆうきです「ちなみに、グリーンシートですから!!!」
残念!!!!ww
@AK1RA0413
そこらへんで飲んでる方たちと変わらず飲んだだけであって
たまたまブルーシートがあったから引いただけのことでした
@kan_mikan
人気者になっちゃったww
だとさ 創価 死ね
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社会学なんていらないし国民は食には不自由してない
結論はぶっ潰す選挙しかない
時代遅れ社会学おかしいだろwwww >>307
屑哲学者には言われたくないな(笑)
哲学(プッ >>972
> というかソシュールなんて20年以上前に流行終わってるでしょ
> 一般言語学講義やら丸山圭三郎やら読んだわw
一般言語学講義や故丸山圭三郎氏の著書を本当に読んだことがあるの?
ネットで調べて著作名を知っているだけじゃない?
本当に読んだにしてはトンチンカンなことを書いている。
すべてネットで読みかじった程度の知識で物を言っているっぽいなあ。 >>309
「社会学の8割は「社会哲学」にすぎない2」スレの書き込みだな。
彼、そのスレの人たちに集中砲火されてたよね。
多分、ドヤ顔で知ったようなことを書いてしまったから、引っ込みがつかなくなって、
自分はソシュールや丸山を読んだんだと言ってしまったんだろうね。
最初、ソシュールの言ってることなんて当たり前すぎて
就学前からわかってたとか言ってたからなあ。 特亜系エセ左翼・カルト宗教団体が行っている敵対する人物への組織的な嫌がらせ、集団ストーキング、電磁波悪用による体調不良、マインドコントロールの手口、「集団ストーカー カルト」で検索してください。 他スレのレスコピーして置きます。
俺んちの田舎、在日朝鮮人学校があるんだわ。で、そういうところって必ず朝鮮人部落ってのがあるんだよね。
朝鮮人なんかが犯罪犯してそこに逃げ込まれると、警察も手出しが出来ないくらいの暗黒街なんだわ。
親から『あの近所には絶対近づくな。どうしてもあの近所に用があるときは、包丁でもなんでもいいから、必ず武器を持っていけ』
って言われたくらいだからね。俺が小学校高学年の時かな。
下校途中の中学生の女の子が、在日朝鮮人学校の生徒にレイプされる事件があったんだよ。
たまたま一緒にいたクラスメートの男子が助けに入ったんだけど、彼はバットか何かで頭を殴られてしまったんだ。
女の子の方は、部落に引きずり込まれてさんざん嬲られた挙句、あそこに電球つっこまれて、それが中で割れちゃっててひどい事になっていたらしい。
結局、頭を割られて血まみれになったクラスメートの男子と一緒に、ほとんど全裸で通りに放り出されていたのを通行人に助けられたんだ。
頭を割られた男の子は、頭蓋骨陥没骨折と脳挫傷で3日後に死亡、
女の子もレイプされたショックから立ち直れず、半年くらい後に、『お母さん、ごめんなさい』
って遺書を書いて自殺しちゃったよ。
俺はその時、子供ながら
『何で、あの女の子が“お母さん、ごめんなさい”なんて書いて自殺しなきゃなんないんだ?悪いのはみんな在日朝鮮人だろう!!』
って、物凄い怒りを覚えたよ。
警察も動いたけど、結局、部落には踏み込めなかったよ。
最後に警察が掴んだ情報は、『犯人は総連にその日のうちに保護されたもよう、2〜3日後に総連の保護のもと、北に逃げたと思われる。』
という情報だけだったそうだ。
女の子が自殺して二年くらい経った時かな。
被害者の遺族あてに差出人不明のいやがらせの手紙が届いたんだ。
内容は『お前達の息子を殺し娘を犯した者達はわが祖国で労働英雄となった。いい気味だな日本人』という内容だったそうだ。
結局、被害にあった家族はみんな町を捨ててどこかに引っ越していった。
(例の日本人小学生を斧で殴った朝鮮人も無罪になりました。) 「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ」
と山本五十六は言ったが、この「やってみせて」の段階がクリアできてないやつが多すぎる。
言論界が多くのエリート層に影響を与え、
そのエリート層が社会を動かしていく。
言論界の討論は空論などではなく、実社会を動かす。
しかし、実社会が言論界に追いつくには、
5年くらいの時間が必要になる。
もどかしいではないか。 >>314
じゃ今の日本がダメになったのは言論界がダメだからだね 分野によると思う。工学分野だと、その地盤となるのは理学だから、理学の研究成果次第で、
企業の製品も変わってゆくだろうし、逆に、経済学や経営学、政治学、法学、国際関係学などは、
モロ実社会重視だから、むしろ経営者>経営学者、財界のトップ層>経済学者、
政治家>政治学者・政治評論家、裁判所勤務員>法学者、大使・公使>国際関係学者
という図式が一般的になる。言論界のメディア学の業界にしたって、テレビ曲員・新聞社従業員
>メディア学者になるだろうし。これらの業界の人間は、ソーシャルワーカーが主導権を握っている。
一方、哲学のような特殊な分野は、業界そのものが無いし、多分、一応 純粋学に位置づけられて
いるだろうから、哲学者>万民という図式になる。人類学にしても、人類学者≧民族博物館職員となる。
教育学に関しては、業界が特殊だから よお分からん。教育長がどの程度の学力を持ってるのか、
よお分からんし、教育困難校の教育学者や高校教諭なんて、理論家としても臨床家としても
這い上がれない、うだつの上がらん奴ばっかりだし。
ただ、大学に、しばらく前まで、若手心理学者で日本で10本の指に入る、
教育委員長いたけど、全然普通の人間だった。というか、専門性どうこうより、
中高の偏差値終わってたし、エスカレーター進学でまともな学部入試くぐってなかったし、
自分史(記憶)を学際的に整理して、磨き上げて来なかった、心理学を代償行為に利用して、
道徳で自分を誤魔化してきたような人間で、身長も超低かったし、ブスな顔面したブッチョな奴だったから、
心の深奥はコンプレックスでいっぱいな人だった。だからこそ、鼻につかない上、
魅力もない、頭の中まで油だらけの ブ女であったが故に、男たちの嫉妬心をそそることが無く、
それ故に、熟女コンプの男尊女卑のオッサン共に評価されて、半ば談合みたいな感じで、
教育委員長になっちゃったんだろうけど。職場や地域社会で活躍して、社会正義を振り回しては
妬ましい人間を攻撃することで頭いっぱいな、成金的・アメリカン的な奴で、妥協することなく、
本気で愛し合った最高の異性と、身も心も温まるまで、抱き合う、というようなタイプでは無かった。 抱き合う、というようなタイプ → 抱き合う、恋に生きる、というようなタイプ いじめをテーマにした討論会が19日、山口県立宇部西高校(宇部市、459人)で開かれた。
保護者や教員が見守る中、生徒たちが「いじめと、いじり(人格についてのからかい)の関係」
などについて議論した。
いじめ問題が深刻化するなか、同校が人権教育学習会の一環で企画。「友だち地獄」などの
著書がある筑波大大学院の土井隆義教授(社会学)が助言役、生徒代表が司会を務めた。
生徒たちは、1人の生徒をいじったり、棒でたたいたりしている動画をみて、「いじり」か
「いじめ」かを指摘。数人が「いじりは愛情表現。いじられる側は存在感を意識できる」
「(いじりに参加せず)1人になるのが怖い。(その場の)空気でやってしまう」などと
述べたのに対し、「本人が嫌がれば、すべていじめ」「いじりはいじめの発端になる」
「いじりといじめの境界線は引けない」などの意見も上がった。
最後に、土井教授が「学校だけでなく、地域やいろんなところに顔を出して、自分や
友人関係を見つめ直すきっかけにしてほしい」と呼びかけた。
*+*+ YOMIURI ONLINE +*+*
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20121021-OYT8T00414.htm
社会学は役に立つのかということはずっと前からある問いだが、
今の院生には、社会学は役に立つに決まっているという前提で研究している人も多いように感じる。
時代は変わったね 馬鹿化というか、社会学とはなにかということがわかってないよな。
先日、ツイッターで社会学を専門にしていると思われる院生が「社会学は学際的な学問だが…」とドヤ顔で語り、
恐らくその院生を支持していると思われる院生や学生(「とりまき」か?w)のフォロワーが
リツイートしてたり、「お気に入り」にしてたりしていて、唖然としたよ。
いうまでもなく、社会学はディシプリンなのだから「学際的」(interdisciplinary)であるわけがない。
「学際」マンセーってのは全然構わない。
政治学なり経済学なり心理学なりの知見を参考にして論を組み立てることはやってくれてもいいんだけど、
社会学もそれらと同列の1ディシプリンにすぎないっていう当たり前のことをなんで知らんのかと。
ここ10年で学際的な論考を書く社会学者が急増したけど、
若い人は、そういう学際的な論考自体を社会学だと思ってしまってるのではないかな。
あと社会人院生が増えて、役に立たせることを初めから目的として研究している人がえらい増えたっていうのもあるね。
そういう人たちは社会学とはなにかなんて知らないし、「役に立つものならなんでも」っていう学際志向だから、
学会誌に占める学際系の論文の割合は増える一方。しかも当人たちはそれこそが社会学だと確信してたりするっていう。 大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf >>322
バジル・バーンスティンを読んだほうがいい。 政治の世界1つにしたって、自分から家族、親戚、友人関係、会社、地域社会…
と物凄く抽象的で広い。経済学にしたって、貨幣に限らず、何を経済に代数するか次第で、
世界の解釈はうんと拡がる。まあ、それを規定するのは、文化人類学だったりするんだが。
心理学にしても、個人から家族、会社、国家、歴史上の事件や人物、
あるいは昆虫や動物のレベルまで、挙げ出したらキリがない。
大学以後の世界では、どの分野においても、一人で独学で処理しようとしない、
様々な支援(先行研究)を借りることが基本としてある。ディシプリンにしたって、
専攻を獲るレベルになれば、もうその時点で個人の手に負えるレベルのものではない。
大学で教えるのは、むしろ考え方、知識の考え方の土台、大学教育のカリキュラムの
組み方にあって、それを活用して学習していくのは、結局は自分だ。どの学部に行ったって、
そこには専門的な法律があり、専門的な歴史があり、無意識がある、みたいなもん。
キャリアデザイン1つとってみても、世の中の資格なんて、挙げ出したらキリがない。
ビジネス1つ見てみても、ビジネス・キャリア検定なんてのがあったと思ったら、
自然との関係においては、日本理科学検定なんてのがあったり。メディアとの関係史、
アニメ(学)や漫画(学)ですら、その範疇に入ってしまう。
ブックオフや、街中でふと降りた商店街にあった、個人事業の古書店などで、
突然、脳幹の奥の奥の奥の方〜にあって、もう忘れ去られていたような作品が、
いきなり、脳の奥の方から、一気に湧き出してきたりとか。で、それを鞄の中の
メモ帳にメモって、家で検索かけて、アニメを全話ダウンロードして外付けHDDに
どんどん保存していったり。
もちろん、自国史や東洋史・西洋史、神話学や宗教学も入ってくる。
実家の裏側にある、うっすら見えてはいたけど、行くまでには至らなかったような、
謎の神社を、きちんと検索かけて調べて、実際に紙とボードを鞄に入れて
フィールドワークして、そこの板に書かれているものをメモってきたり、
職員相手にオーラルヒストリーしてみたり、家でネット記事やcinii論文を検索してみたり、
amazonで本を調べてみたり。やろうと思えば、んなもんは、無意識の世界に無限にある。 大学や職場やどっかで、たまたま外国人と夢中になる恋をしてしまって、
その人と付き合うようになって、少しでも長続きしたい、結婚したい、
結婚した後も文化摩擦なんかに関係を壊されたくないと、たとえばチャイナと
付き合いのを契機に、中国を研究するようになったり、コリアンと付き合うようになった
のを契機に、韓国を研究するようになったり。その頃から中国や韓国にかぶれだしたり。
あるいは、アメリカ人と付き合うようになってから、アメリカは貴族のいない国だからと、
アメリカを成金呼ばわりしなくなって、蔑まなくなったり、むしろ、成果主義、
実力主義礼賛の価値観になっていって、極端な場合には、中国の共産党を憎むようになっていったり。
他にも、今までは男尊女卑的な思想で、自分が勝つことばかり考えていたのに、
夢中な恋をし出して、ふられるような経験をしたのを契機に、ジェンダーなんかに
興味を持ちだすようになったり、強姦や売春の歴史に興味をもつようになったり、
オナニーで読んだH本や、風俗店の話をきっかけに、トルコ女とその文化に異常な興味をもったりとか。
結局、どれをとってみても、1つのキャリア・アンカーであり、ライフスペースだ。
人生、何があるかわからない。どっかのキャリア学者も言っていたように、
学問レベルでのキャリア(人生)ってのは、結局、偶然によるものが8割だ。
一度社会に出れば、いや出る前から既に、社会、世界というものは、
本当に予想のつかないことばかりが起こる。 ジェンダーなんかに興味を持ちだすようになったり
→ ジェンダーや家族の学際研究なんかに興味を持ちだすようになったり >>323
名無しさんの言う通りや
名無しさんも早う島本町から逃げ出す方がええで
島本町なんか陥没して地球上から消滅したらええんや >>328
20世紀少年」で、『ともだち』が人類を絶滅させようと
企てたのも、小学生のときに受けた陰惨なイジメ(葬式ごっこ)が
原因だった。
「島本町でイジメを受けて島本町から逃げ出した元島本町民」さんが、
『島本町なんか陥没して地球上から消滅したらええんや』と思う気持ち
はよく分かる。 秀英予備校の慶応出の関さんって人が「大学からは第二外国語が出来て何ぼ」
って言ってたの思いだしたけど、そういや、蓋しそうだなぁと思う。
どの学部、どの学科にしても、やっぱりメジャーな言語ってのがあるから。
社会学でいえば、イギリス除いたら、ノルウェーとかデンマークとか
あの辺だろうし、教育学でいえば、フィンランドとかロシアとかあの辺だろう。
何より、今時、わざわざ外国語なんて覚えなくたって、英語があるし、翻訳文がある。
映像や観光旅行、google scholar や google map がある。それよりも、外国に行った時、
一番着目しなければ勿体ないのは、何といっても女だ。世界中の女とセックスして
交わることが出来るなら、これほどの幸せはない。中学生・高校生の頃は目がなかったが、
極上の女の子を見飽きた今、もはや日本人などでは、よっぽどの美人じゃないと満足できない。
やっぱり、海外の、若干異なる輪郭や肌の持ち主、あるいはライフストーリー、
性の俗習、異文化のある人間がいい。外国語で泣き叫ばれるのも、これまたチンコがビンビンにおっ勃つ。 日本人のマンコ…中国人のマンコ…韓国人のマンコ…
イギリス人のマンコ…フランス人のマンコ…
ロシア人のマンコ… 世界中の外人のマンコで抜きたい。 日本の社会学者って左翼の隠れ蓑と言うか
市民運動左翼が肩書きにハクつけようとして成るのがほとんどと言う気がするな you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。
それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。
新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。
日本語による吹き替えも毎日アップしています。
日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。
新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。
さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。
これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。
新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう! 私は生まれながらの社会主義者で、実学が嫌いだったから、
まよわず社会学を選択した。
しかし、入ってみると、社会調査を義務付けられた。
院に入ってからは、社会哲学だけに絞り、選挙は迷わず共産党支持できるようになって、
気が楽になったのです >>334
社会学と社会主義は違うだろ
役に立つか立たないかでいったら役にたたないな 名前:大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
名前:大阪府三島郡島本町で凄惨なイジメを受けて命からがら逃げ出した元島本町民
>>大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民さんの言う通りや
大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民さんも早う島本町から逃げ出す方がええで
大阪府三島郡島本町みたいな腐った町は陥没して地球上から消滅したらええんや
>>大阪府三島郡島本町で凄惨なイジメを受けて命からがら逃げ出した元島本町民さんへ
「20世紀少年」で、『ともだち』が人類を滅亡させようと企てたのも、小学生のときに受けた陰惨なイジメ(葬式ごっこ)が
原因だった。『大阪府三島郡島本町みたいな腐った町は陥没して地球上から消滅したらええんや』と思う気持ちはよく分かる。 茂木健一郎
@kenichiromogi
教室内カーストとか、そういうのを学問とか言ってるから、
日本の大学の文系は、終わっているって言われるんだよ。
https://twitter.com/kenichiromogi/status/313251630151778305 そもそも、「日本の大学の文系は、終わっているって言われ」てるか? これって学歴詐称なの?
ニューポート大学博士・八巻正治教育学博士
http://hrr.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10634/5876/1/HirogakuDaigaku...
弘前学院大学大学院社会福祉学研究科社会福祉学研究第3号(2008)
第1部研究論文
(中略)
八巻正治弘前学院大学大学院社会福祉学研究科教授・教育学博士(障害者福祉論〉
(攻略)
注・八巻正治氏への教育学博士号はニューポート大学より授与されたものである。
2000年03月27日 『米ニューポート大学』より 『教育学博士(Ed.D.)』の学位を取得
非認定校による 修士号・博士号 取得者一覧
http://ameblo.jp/shikakudou/entry-10066172138.html
「日本の大学だって、海外ならば非認定校だ。ディプロマミルと同列視されるのは、とても不愉快だ」
(弘前学院大学・八巻正治教授)八巻正治教育学博士のコメント。 【産経抄】7月24日
数年前の小紙大阪版に、「制服しました」と題する記事が連載されていた。
文化部の女性記者がさまざまな職種の制服を着て、制服文化を追求するのが
狙いだ。そのなかに、陸上自衛隊の迷彩服も含まれている。
▼迷彩の色やパターンは、日本の植物の分布や種類を考えた上で作られて
いるそうだ。素材や袖の形などについても、千葉県松戸市にある陸上自衛隊
需品学校で研究が続いている。着用した女性記者は、実際にほふく前進して
みて、危険な任務に耐えられるようほどこされた工夫に感心していた。
▼迷彩服をなぜか受け入れられない人の存在は、承知している。まさか
そんな一部の声に配慮するあまり、首都直下地震に向けた自衛隊の訓練を
ないがしろにする防災担当職員が、東京都内の区役所にいるとは。
▼16日夜から17日にかけて、練馬区の陸自第1師団から連絡要員の
隊員が23の各区に徒歩で向かった。被害状況の確認などを想定した演習だが、
11区が区役所庁舎内への立ち入りを拒否していた。「区民に迷彩服を
見せたくなかった」と明かす担当者もいたという。
▼阪神大震災では、兵庫県知事から自衛隊に派遣要請が届くまでに、
4時間もかかった。震災が起こるまで、県や神戸市の防災訓練に自衛隊が
招待されず、救援活動の大きな妨げになったこともわかっている。自衛隊との
連携がいかに大切か、東日本大震災でも思い知らされたはずだ。
▼昨年4月の小紙記事は、津波で家族4人を失った44歳の自衛官が
「これ着てますから」と迷彩服に触れながら、任務に没頭する姿を伝えていた。
職員の心ない仕打ちにも顔色ひとつ変えなかったであろう、自衛隊員の心情を
思うと、やりきれない。 私は社会学が社会の役に立つはずはないと思うのです。
もしも役に立つことがあれば、それは社会学が社会学であることを放棄した時です。
資本主義を市場経済と呼ぶことで、社会主義を抹殺しようとするような勢力に果敢に立ち向かい、
パワーエリートの喉元に常に剣を差し出していてこその社会学です。
資本主義社会の足を引っ張ることこそ、我々の任務だと思うのです。
そのため、私は昼夜を問わず、いつも経済4団体のトップと闘っていることをイメージしながら、
過ごしています。
そのとき、私を勇気づけてくれるのがKマルクスです。
大衆に流されることを引き留めてくれるのも、マルクスです。
先日亡くなった餃子屋の社長は、屈託のない人に慕われるような爺さんでした。
その人が何者かに殺害されたニュウスに触れた時、ホロッと彼の支配者的側面が
揺らいでいくことに危機を感じた私は、急いで「経済学・哲学草稿」と「ドイツ・イデオロギー」を
読み直すのです。
そのくらい過酷な戦いを甘んじて受けるのが社会学者だと思うのです 学問の基本中の基本は、常に主体的であることが肝心だ。学生のうちは、彼(女)に 縦社会を 教えてはならない。
むしろ横でなければならない。世間的な理不尽な上下関係の役割演技なんてものは、入社してからで十分だ。
経営学などという、学問の面を被ったものに支配されて 腐るようになるのは、そこからでいい。奴ら経営者は
「政治学も文化人類学も何でもやってます。学際的接近法です」なんて理念吹いてやがるけど、実際、
たかが経営者がそんな博学な訳がないでしょうに。だって、文化人類学の勉強なんて、やって来た訳ないから。
教えるってのは、その名の通り、「こういう理論や教えがあります」って教えるだけであって、それを命法として
強制すべきではない。それでは「学問や理論を教えている」のではなくて、「おまえを教えている」ということに
なってしまう。その点、「学問の基点を『人間関係』に置く」「相手の『立場』を考え合うことに置く」というのは、
それは 使いようによっては、学問そのものを破壊してしまうし、極限すれば「学生は黙って言うこと聞いていればいい」
にも繋がって行ってしまう。
本来、大学教育で教えられてきたのは、少なくとも建前上は「如何なる権威も介さずに、純粋に、哲学的あるいは
科学的に考えられる能力の育成。そのために専門性に偏らない、つまり専門性で互いに差別化を図り合わせない、
横並びに準じたリベラルアーツ」という理念を掲げてのものだった。勿論、その陰では、色んなハラスメントもあった。
授業でも、自分だけ言いたい放題言ったら、あとはせいぜい、学生同士で議論させるだけで、アンケート用紙すら
書かせない教員が中には結構いるが、あれでは、真の思考力は育まれない。戦略から戦術を経て、個々の戦闘法までに至る、
トップ・ダウン・アプローチ。それは、経営者がやることであって、またアカデミズムの外の人間がやることであり、
学者がやるようなことでは本来ない。何故なら、それは学問でもないし、そんなことをされる筋合いも、客である学生には無いからだ お互いの見ている景色を推し測り合い、考慮し合う、というニュアンスでは、それは学問にも問われてくるもの。
しかし、それが「立場の如何によって、どちらかが虐げられる。つまり黙らざるを得ない。」というのであれば、
そんなものを学問や教育の基礎に置くのは言語道断だ。世間的な規範なんてものは、大学で教えるものではない。
むしろ、大学は、世間的な規範を分析的に 体系化して 紹介し、それを吟味する場である筈だ。「自由に批判して下さい」って。
これは、人間関係に対しても同じ。大学の先生だからって、金を払ってまで頭を下げる必要はない。普通に「さん」や「くん」でいい。
俺はそう思う。しかし、何故が、現実にこれをやるとなると、相当な覚悟とリスクを伴うことになる。
その点では、社会学(反-心理学)というのは、哲学に並ぶぐらい、純粋な 学問分野の1つだと思う。
…しかし、そういう事を、普通に素でやってのけられる奴って、やっぱり、そういう奴は、サークルの学術研究会とかで
部長とかやってて、成績もトップクラスで、人望もあってとか、何かしらのとびっきりのリーダーシップを兼ね備えているし、
やましい事もしていないから、他人から付け込まれるスキも無かったりする。若いが故の、恐い者知らずなのか、はたまた、
どんな権威にも「おかしい ものは おかしい」と立ち向かってゆく道徳者なのか。
先輩が研究所で飲料水を飲み出したら、「おまえ」呼ばわりして注意するような果敢なタイプだったり。 学生は、一々教員に逐一で言い返して、却下されたり、反論し返されたり、時には市場価値がどうこう
とまで貶されたり、徒党組まれたりで、そんなのを片端から相手にしてたら 疲弊させられてしまうだけだし、
どうせ四年経ったら 卒業して バイナラするだけだから、無理に組織を改革しようとも思わない。となると、
どうしても、その悪評をアンケート用紙とかネット上とかに書き綴らざるを得なくなる。
なぜなら、アンケート用紙は、それを人事の連中が見るから、直接に社内評価に響くし、またネット上に書けば、
それは個々のやり取りだけではなくて、世間のみんなが見るからだ。そこの大学の教職員は勿論のこと、そいつらの知り合いまで、
業界の皆が。つまり、そいつが磔の見せしめにされることになる。下手したら、そこの業界から、生きる世界を追われる。
教職員は、意地になって、学生に挨拶されても し返さず、他所見して無視をし、それをされた学生が
「そっちがその気なら、俺様だって」と 同じ事をするようになって、終いに 見せしめとして ネット上で
ボコボコにのされた教職員の内の誰かが、面子をズタズタに引き裂かれて、教職員とも学生ともコミュニケーション
-不全になり、怪しい髭をボウボウに生やしては、周りを威嚇しながら、横目で見られながら、一人だけで、
殻の中に籠りながら 歩き回る ようになる。こんな関係性は、本来、俺の学生たちの望んだことではなかった。
ただただ、普通に、意地を張らずに、お客様として 畏敬の念を払って 接して欲しかっただけだった。 教員の方が学生よりも上だ。そう教え込んだのも、結局はあいつら自身だった。
結局、あいつらの中の大凡は、学術や規範を通じて、自分を教えていたに他ならなかった。
今なら、もう肩書きが築きあげられているから、「学生の分際で」と言われたら、
「何やおまえ、失礼なやっちゃなあ。教ぉ員の分際で!」と怒鳴ってやれるのだが…
「教員」あるいは「学生」と聞いた瞬間に、一部の固執的な人間に限られるかも知れないが、
あの一瞬喚起されていた、とても抗いにくかった、固定的で支配的なヒエラルキー。
一体、何だったんだろう… あれは… というか、あの支配構造は… 本来、インフレーションもデフレーションもどちらかが良くて、
どちらかが悪いと絶対的に決められるものではない。その時々の
社会情勢によって適度なバランスで安定的に保たれているのがいい。
そう教えられた。しかし、一か所大きな間違いがある。時々の社会情勢ではなく、
人それぞれの位置で決まる。デフレが悪いというのはパワーエリートの方であり、
貧乏人がこうしていられるのはデフレのおかげである。
そのことを安倍政権の下で我々は身をもって学んでいるではないか。
経営学なんかやると、こんなこともわからぬバカになってしまう。
貧乏人のくせにデフレ脱却なんて声高に叫ぶバカを見ると憐れみを感ずる。 こんなんどーせ金持ちのドーラク学問だろ。
いかにもセレブが上から目線で一般庶民を見下しとる
ような論調がいかにも胸糞悪い。 茂木健一郎
@kenichiromogi
日本の「社会学」って、国際的に見るといみふというか、
まったく数理的なアプローチとかと結びついていないんだよね。
印象批評というか、芸人というか。そういうところから、次々とスターがでて、
メディアが便利に使っているのは、やっぱり学問後進国なんだと思う。
https://twitter.com/kenichiromogi/status/196612613285752832
茂木健一郎
@kenichiromogi
教室内カーストとか、そういうのを学問とか言ってるから、
日本の大学の文系は、終わっているって言われるんだよ。
https://twitter.com/kenichiromogi/status/313251630151778305 Kazuki Fujisawa
@kazu_fujisawa
しかし、僕が驚いたのは、変な理屈をこねくり回してちんけな文章を書いてインテリごっこしている社会学者とかが、
メソドロジーのコピペ問題なんかを深刻に受け止めていたことだ。
なんの価値も生み出さない文系学者コミュニティはそういうものなのか…。
http://archive.today/cmmHP 自分が思うに、こういうのが社会学。。
BBCでスコットランド1960'sの、Working Classのクラブシーン
(ノーザンソウル)を訪ねてる。。レポーターのポール自身の青春時代だって。
(米国のブラックミュージックが、まだ米国では黒人だけの音楽で
一般に認められてなかった頃、先にそれに飛びついたのがこういう英国のクラブキッズだった。
その伝説のユニーク&リアルな探訪…。
─例えば米国でも、最近は今までの「一筋縄」な分析と違う、
色々なユニークな人種関係の新種のリサーチが出ている。
時代は変化している。
https://www.youtube.com/watch?v=JMtaEASd2LI
Northern Soul: Keeping The Faith. The Culture Show BBC2 25th
ノーザンソウル(日本語解説)この「組織労働者運動のマーク」をみよ…
http://www.musicman-net.com/artist/33711.html
…やはり社会が動いていないと、「社会学」に意味はないね
ゆく川の水は淀んで…の日本だと。社会学は意味なくなるよ… 社会が目まぐるしく変化していて、その住人にとって何が何だか
わからない…混乱している状況で生まれたのが「19世紀の社会学」
今の日本は、これまでの生活を守ろうと…
内向きに殻を閉ざして、構造的にも新しいものは余り受け付けない。
社会学してるつもりでも社会学になりようがなく、
「役に立つのか?」なんていうことになる 金融とか国際政治とか みえない所で生活はグローバル化してるのに、
日本人は「金がない」とかいって…
社会学を世界規模の視点でやろうとしない、
これでは社会科学とは名ばかりで機能しないものとなる え? ワイドショーのコメンテイター養成学として役に立ってるじゃん http://news.yahoo.com/video/fast-food-workers-walk-off-215248773.html
Fast food workers walk off jobs in protest of low pay
全米の150都市のファーストフード労働者が先週、昇給求めて
グローバル・ストライキ
世界30か国でも統一行動。
(…こういうのって日本人は絶対、加わらないのはどういう理由?
英語が駄目で、情報すら捉えられない
とかいうことなのか) 学問なんて知的遊戯だよ娯楽だよ役に立つとか馬鹿じゃねw
成果を誰かが勝手に利用してるだけ
土人は卑しいからこういう勘違いするよね 遊戯とか娯楽とかいうのも
実用物とかいうのも、どっちも学問とはちょっとずれてる─
─日本人は誰も、学問とか芸術って何かも、捉えられないのか
(もしかして) 「"芸術は人生の友"なのではなく、
"人生は芸術の友"なのである」と、
マルローはいった。
学問も、そのようなようなものなのだ 大学の社会学部に入学して2ヶ月くらい経つわけだけど
社会学って何の意味があんの
世の中を見つめて世の中の事象を解明する
このことは確かに楽しいしなるほどなって思うことはたくさんある
だけど解明してなんなの?
だから何?って話
世の中にこういう問題がある
じゃあ、どうすればいいんだよ、俺たちに何ができるんだよ
理論を話して終わりかよ
こんなの学者のオナニーじゃねぇかよ 私は美しい絵画や音楽、心揺さぶる抒情詩などを愛する多くの人たちのように
社会学を読み解き、研究しているところです。
例えば同じ社会科学であっても、「労働者をいかに扱き使うか」という
えげつないテーマを追求する経営学などとは、そもそも次元が違うのです。
それを言い換えれば、役に立つのか立たないのか、という話になるのでしょう。
役に立つか立たないか、という疑問には必ず主語があるはずで、
現状の資本主義体制を維持強化しようという勢力にとっては、
そもそも社会について問うこと自体がご法度であり、取り締まりの対象にさえ
なるでしょう。現状の資本主義体制の変革を願してやまない我々にとっては、
社会学は強い精神的支柱として、生活のめまぐるしさの中で現体制に流されてしまいそうになる
我々に強烈な応援歌として響き渡るのです。
それはヒトラーの愛したワーグナーのようであります。 ↑たまにはいいことを言いますね!!
超図星です!!…その通りですよね
>>362などは自分が省略してる「主語」が何なのか考えてみる必要がある。 60年代の精神の解放運動を担ったジェネレーション(ベビーブーム世代)は
自分らの社会が何かおかしい、ことに本能的に気付く余裕があって
少なくとも反抗をしたのだけれど
ここ最近、日本で成人年齢になった子供らは社会の矛盾にそもそも
きづいたり、根本的疑問を持ったりしない/できない、ということではないのか?
─どうもその気配がなくないか? 「自分らは資本主義のシステムのなかで踊らされている」
我々は皆 それは半分真実だと知っている世界の中にいて、
「マトリックス」の主人公のネオのように罠にかけられている。
しかし我々には逃亡することは不可能でもある。
資本主義の仕掛けた罠…というマトリックスの中にいるのに、
…その真っ只中で生まれた世代は、
その意味にすら…気づけないのか? かつての青年層は、学生運動という形で、当時の社会体制に異議申し立てを行った。
最近の青年層、所謂平成生まれの若者は、選挙にもいかず部屋に籠って
云々という批判がされる。
しかし、バブルなどの好景気という状態をそもそも知らぬ彼らは、そもそも
物欲が前の世代に比べて希薄で、クルマがほしいとかあまり考えない。
資本主義をコントロールする立場から見ると、欲がない、という状態はアカよりも
よほど痛烈な資本主義批判となる。
貧乏で車が買えないのは、金を渡せば買うのだから、そこのコントロール次第で
自分たちの売りたいときに売れるので、何の問題もないが、そもそも欲しがらない、
というのは、資本主義体制に対する強烈な挑戦状である。
全共闘世代も怪しげな運動などせずに全員で仏門にでも入っていれば、
今の行き過ぎた資本主義体制は完成しなかった、かもしれない。
こういうことを的確な時期に的確な形で証明していくことが
社会学に課せられた使命だと思うのです。 その無気力とは 緊縮策でボロボロのギリシャの若者層が
かなり酷い状態だという
でも日本では望めば、スマホでも何でも手に入るし
まだ経済的余力があるからオリンピックも受注したし
物欲を刺激する驚異的にキラキラしたものがいくらでも身の回りに
あるから若者に物欲がないとは全然思えないし
資本主義に疑問を抱かないとしたら価値観が物質主義だから
で─ここに書き込む社会哲学否定論者とかも
完全に 金が稼げて物欲され満足できれば良しの考えしかないよね 最近、格差問題やワーキングプアがふえて…
若者層に共産党支持者がふえている、って本当だろか?
人口が老齢化して社会全体は「保守化している」といわれるなかで
実は若者層人口セグメントだけは、孤立的に「左傾化」してるとか? では皆さんのように資本主義社会を否定するとして、我々にはどのような生活が待っているのですか? >>371
「現代の行きすぎた資本主義」って言ってるんだよ。