『天皇と日本のナショナリズム』 2章 横田耕一とのヤツで、p144

「天皇抜きのナショナリズム」というのは福田和也氏や大塚英志氏がいってることですが、
日本は憲法意志に基づいて統治権力と契約して国民国家をつくった歴史経験がないので、所詮は無理。
わかりやすくいえば、近代国家においては「公」は契約ゲームで、「私」は感情ゲーム。
悲劇の共有ゆえに感情ゲームを乗り越える契約ゲームをあえてするところに、近代国家という「公」が成り立つ。
近代国家の戦争動員も「契約ゲームを守るため」という筋です。

ところが日本にはそれはない。
「私」の感情ゲームを乗り越えるのに、契約ゲームでなく、もっと大きな感情ゲームを持ち出す。
「私」を乗り越えるために「もっと大きな私=疑似公」を持ち出す。
それが田子作を村からひきずりだすための「天皇を利用した国民化」。
開明派がそのために教育を周到に設計し、「天皇が臣民を思う心は父が子を思う心とおなじ、
臣民が天皇に忠誠を誓うのは子が父の恩に応えようと思うのと同じ」という図式をつくった。