東大相関社会科学の危機
ここって東大でなかったらとっくに終わっているよね。 羽入辰郎氏の『学問とは何か』(ミネルヴァ書房)における
「東大山中湖事件」に関する記述について
2008年07月24日 01:09
市野川です。本日は一つ、私にとっては心が重たいことについて、
しかし、この場をお借りして、私なりに考えていることについて
述べさせていただきたいと思います。
1984年4月、新入生歓迎合宿のため山中湖に行っていた東大生6名が、
夜中に酔った挙げ句、氷のまだはっていた冷たい湖にボートで漕ぎ
出し、そのうちの1名の所業が原因でボートは転覆。その1名だけは
生き残ったが、残りの5名は水死する、という事件がおきました。
この事件は、当時、マスコミでも大きく取りあげられましたが、
生き残った1名というのは、私に他ならず、亡くなったのは私の友人
たちでした。
先ごろ、羽入辰郎氏が、前著『マックス・ヴェーバーの犯罪』に続き、
『学問とは何か』という本を、ミネルヴァ書房から上梓しました。
前著の『犯罪』に対して全面的な批判を向けた折原浩氏に対する全面的
な反批判として、この近著は書かれているのですが、この本の中で羽入
氏は、本の主旨とは一見、関係ないかのように思える、上の事件につい
て詳述しています(155頁以下)。私は「市川芳孝」という仮名で登場
します。
(つづく) (つづき)
羽入氏もこの事件に巻き込まれた当事者であり、彼が書いているとおり、
羽入氏は私たちの救助活動に率先してあたってくれた、私にとっては命の
恩人の一人と言うべき人です。
しかし、羽入氏は当時から、この事件について、市野川は嘘をつきながら、
然るべき責任をとらずにいる、と主張していました。私としては、すべて
が羽入氏のとおりであるわけではなく、私の言葉にも耳を傾けてほしいと
思い、何度か羽入氏と話し合うこと試みましたが、ことごとく拒絶され、
「しらばっくれるな」「自分の胸に聞いてみろ」「俺は全部、知っている」
という類の言葉で罵倒されるだけで、私の言葉には一切、耳を傾けてもら
えませんでした。上の『学問とは何か』では、私が羽入氏の自宅に赴いた
ときのことが書かれていますが(156頁等)、その時以来、彼と直接やりと
りしたことはありません。
今回の著作の該当箇所が、24年前のこの時以来、羽入氏から私が受けとる
ことのできた初めての言葉です。
この事件について、私の視点からではありますが、いくつか述べておかね
ばならないと思い、本トピックを記している次第です。
(つづく) (つづき)
羽入氏の私に対する強い怒りは、その筆致からもにじみ出ており、
そのような怒りが私に向けられることも全く正当である、と私は
認めざるをえません。私が原因で5人が亡くなったことは、事実
だからです。
しかし、羽入氏は、嘘をつきながら、私がこの当の事実を否認し
ていると述べており、それが彼の憤怒の原因の一つになっている。
だが、しかし、それは違う、と私は言わなければならない。
羽入氏の記述では、真相を究明せんとする彼の一連によって、最初
はシラをきって、逃げ続けていた(とされる)私が「追い詰められ」
(166頁)、「ボートを転覆させた加害者として現場検証に連れてい
かれ」るまでになった(168頁)、ということになっているけれども、
それは違う。私は、事件の当日から警察で事情聴取を受けており、
その後も何度か呼び出しを受けた(が、現場検証には立ち会わされ
ていない)。
(つづく) (>>156のつづき)
加えて、私は、事件当日のその最初の事情聴取のときから、
私の所業が原因でボートが転覆したことを警察に述べているし、
後の(横浜の)海難審判庁での事情聴取でも、同じことを繰り
返し述べた。羽入氏の証言もその一つの根拠となったからだと
推察するが、私自身が認めているこの過失ゆえに、私は(不起
訴処分となったが)書類送検されたと、私は理解している。
それが一つ。
そして、もう一つ、羽入氏が私を絶対に許せないと思っている
のは、亡くなった5名のうち、私とともに何とか救助されたT君
(羽入氏の本では「滝山」という仮名)に対して、私が浴槽で
お湯をかけ、それが原因でT君の容態が急変し、亡くなったにも
かかわらず、私がそれを「記憶喪失」と称して隠している(と羽
入氏が認識している)ことだと私は思う。
(つづく) (>>157のつづき)
しかしながら、私自身の記憶に即して、当時の状況を述べさせて
もらうなら、羽入氏らが救助に来てくれてからその後のことは、
ほとんど記憶になく、気がついたときは、何人かの人に取り囲ま
れて、布団の上に横たわっていた。記憶をしっかりとたどり返す
ことができるのも、このときの自分からである。
羽入氏から見れば、「あんなにしっかり反応していたのだから、
記憶がないわけがない」「しらばっくれるな」と考えているのだ
ろうけれども、偽りなく、本当のことを言え、と言われるならば、
そのように言う他なかったし、今もそうである。
しかし、記憶がないからと言って、罪がないとは言えない。その
ことは、私自身が今日に至るまで、痛みとともに、ずっと自分に
言い聞かせてきたことである。
(つづく) (>>158のつづき)
事件直後、私は、亡くなった友人たちの通夜と葬儀を一つ一つまわり、
ご両親にも、(お詫びになど決してならない)お詫びをしてまわって
いたが、T君のご両親だけが、私の焼香を決して許されなかった。
(羽入氏は、私がT君の葬儀に無礼にも来なかった、と書いているが、
その理由の一つは、T君のご両親から弔問を拒絶されたからであり、
後日、T君のご自宅にも足を運んだが、お父上から「帰ってくれ」
と言われた。他のご両親は、きっと不愉快を押し殺してだったとは
思うが、私の弔問を何度か許してくれた。)
羽入氏が事態を上のように認識している、つまり、私のせいでT君
が死んだにもかかわらず、私がそれを隠していると認識しており、
その認識をT君のご両親も共有なさっているようだ、ということを、
私は周囲の人びとから仄聞した。
それゆえ、私は、自分自身の記憶の欠落を補うためにも、また、私が
嘘を言っているわけではないことを理解してもらうためにも、羽入氏
と直接、話をしようと思ったが、前述のとおり、彼は私と決して会お
うとしなかった。
(つづく) (>>159のつづき)
羽入氏が言うとおり、私のせいでT君が亡くなったのかどうか、真相はいまだ
に分からない。前述のとおり、私は、この事件について書類送検され、不起訴
処分になったが、その際にも、T君の死因が何であったのかについては、説明
を受けなかった。検察庁から直接、聞いたわけではないが、私が間接的に聞い
たのは、「不起訴処分が答えである、としか言えない」というものだった。
私も個人的に医療関係者に話をうかがい、「私がお湯をかけたことが、T君の
直接の死因だったと言われているのですが、やはりそうなのでしょうか」と
尋ねてみたが、「あなた自身がつかっていた湯船のお湯が、ショック死を招く
ほどの高温だったとは考えにくいし、むしろ、その程度の温度のお湯をかける
ことは適切な処置だったとも言える」という答えだった。
しかし、この答えで、私の罪の意識が軽くなったり、消えて無くなることは
決してなかった。あのとき、私がその場にいなければ、5人が私と一緒でなけ
れば、彼らはみんな死なずに済んだ、という反実仮想は、永遠に妥当し続け
るからです。
羽入氏はさらに私を嘘つき、偽善者として論難するだろうが、この反実仮想
とそれにもとづく罪の意識は、この24年間、私の心からは消えたことがない。
(つづく) (>>160のつづき)
羽入氏は、近著の中で、こう書いている。「市川[=市野川]は今、東大
駒場で社会学を教えている。専門は医療社会学である。過失によると言え
ども、五人殺して医療社会学とは、誠に皮肉なものである」(169頁)。
──私は、彼のこの言葉に対して、何も言うことができない。T君も含め
て5人の死に対して、法律上は不起訴処分になったとしても、私には責任が
ある。「五人殺しておいて」と言われれば、そのとおりだとしか言えない。
そのことにどう向き合えばいいのか、私はこれまでずっと、今も、そして
これからも死ぬまでずっと、考え続けなければならないのだが、今のこの私、
「東大駒場で社会学を教え」「専門を医療社会学」としている自分は、その
問いに対する私なりの差し当たっての答えである、としか私には言えない。
──間違った答えなのかもしれないし、羽入氏はそう言いたいのだろう。
しかし、この問いに答えることができるのは、また答えなければならないのは、
羽入氏でも、それ以外の誰でもなく、私しかいない。しかも、私は、自分で
自分を責め続けている以上、常に間違った答えしか出せないのではないかと思う。
(つづく) (>>161のつづき)
遅れた社会的な制裁という意味を込めて、羽入氏から私がどんな非難や
罵倒をあびようとも、私には返す言葉が基本的に何もない。事実誤認と
私には思われることについて、いくつか述べなければならないことがあ
るとしても、悪いの私であり、羽入氏が私を厳しく責めることは正しい。
ただし、このような私の無様が、M・ヴェーバーをめぐる折原浩先生との
論争の書物の中で取りあげられたことについて、私は折原先生に対して、
大変、申し訳なく思っている。
私は大学1年のときから、折原先生のゼミに何度か出させてもらったが、
そのことを羽入氏は、「市川[=市野川]は折原に心酔しているらしく」
云々と書いている(157頁)。なぜ羽入氏は、私のことをこの本で書いた
のか。私には、羽入氏が次のように言おうとしているように読めた。
「5人も殺しておいて、シラを切り、嘘をつきとおして、東大駒場で臆面
もなく、教員をやっている市野川という奴がおり、その人非人が心酔して
いたのが、ほからならぬ折原なのを、読者の皆さんはご存じか」。
──私自身に対する怒りもさることながら、羽入氏は、そう言わんがため
にも、M・ヴェーバーとは無関係なこの話を、わざわざ自著に記している
ように私には読めたし、そう読めたがゆえに、折原先生には、直接、メール
でお詫びを申し上げた。
(つづく) (>>162のつづき)
羽入氏が私について書いていることは、決して事実無根ではなく、事件に
関する彼の理解と解釈も、一つの可能性として、私は引き受けなければな
らない。
そのような自分であるがゆえに、道理を外れているようにしか思えない羽
入氏の折原先生に対する「(反)批判」に対して、私自身はさらに何もで
きない。私のせいで、折原先生に不当な誹謗がさらに上塗りされているの
にかかわらず、私には「それは間違っている」と羽入氏に対して積極的に
反論することができない。──そういう自分の不甲斐なさに対して、私は
折原先生に対してお詫び申し上げた。
私にできるのは、出版元のミネルヴァ書房を介し、羽入氏に対して、「私
に対するあなたの考えと怒りを、あなたが公の場でぶちまけることに、私
は何も反対できないが、それを折原先生に対する批判の書でおこなうのは、
やめてもらえないか」と申し入れることぐらいではないかと思うのだが、
すでに問題の書物が公刊されてしまっている以上、そのような要請も無意
味かもしれない。私にできることは、何もない。
(つづく) (>>163のつづき)
「人殺しの市野川が無罪のまま、のうのうと東大駒場で社会学の教員を
やっている」と、これだけはっきりと活字にされたのだから、大学等に
もこれから迷惑をかけることになってしまうかもしれない。羽入氏が望
んでいることの一つも、それだと思うし、私一人が彼の憎悪の対象であ
るならば、羽入氏がそう望むことに対して、私は強く反論することがで
きない。
しかし(杞憂かもしれず、そうであることを願っているが)私がお世話
をしている/してきた学生さんたちに、私のことが理由で、何か不利益
がもたらされるのだとしたら、私はいたたまれない(羽入氏もそれは望
んでいないはずだ)。
それからもう一つ、羽入氏は、私の両親の当時の対応についても、槍玉
にあげている(166頁)。すべてが羽入氏の言うとおりだと私は思わない
が、確かに、不適切な行動が私の両親にもあったのかもしれない。しかし、
年老いた二人が、今になって、羽入氏のこの記述を目にすることがあると
したら、私はやはりいたたれない。責められるべき人間は、基本的に私一
人だと思うから。
(つづく) (>>164のつづき)
11年前に、見田宗介先生の後任として、駒場に来てもらえないか、と打診を
受けたとき、私は24年前の事件のことを率直にお話しして、「職場が駒場で
あるならば、この古傷ゆえに、先生方にご迷惑をおかけする可能性が一層、
高いので、お断りさせていただけないでしょうか」と言った。しかし、こち
らのスタッフの先生方は、丁寧に状況を調査なさった上で、「あなたが駒場
に来ることについて、私たちは何も問題を感じていない。できれば来てほし
い」と言ってくださった。私自身も、煩悶し、深く悩んだが、駒場で教員を
つとめることが、私のなすべき責務の一つなのかもしれない、と思い、今日
に至っている次第である。
しかし、それも私の勝手な思い込みかもしれず、今後の状況次第では、現職
を辞すということがあって然るべきなのかもしれないと、頭の片隅で考えて
いる。必要なときは、いつでもそういうことがきちんとできるように、これ
まで生きてきたつもりではあるのだが。
羽入氏は、こう書いている。「殺人の時効は15年である。但し、道義的責任
は残る。市[野]川、それをお前はあの時果たさなかった。「記憶喪失」と
称して逃げ回って。だから私と遺族の心の中では、お前があの夜、湖で死ん
だ五人に対して行った行為に対しての時効はいまだ成立してない」(156頁)。
──私自身は、前述のとおり「逃げ回った」覚えはないが、私の犯した殺人
には時効がなく、道義的責任は残り続けている、という羽入氏の言葉は(彼
自身の考えとは違う意味でだが)正しいと私も思っている。
現時点で、私から言っておかなければならないと思ったことは、以上です。
(おわり)
(mixiコミュニティ「市野川容孝」より転載)