理論社会学・社会学理論・社会理論
>>3
前提が狂ってきて衰退しているという意見がありました。 ルーマンの社会システム理論ってなんか成果上げてるの? 全部根拠のない「社会哲学」だよな。あるのpは「イズム」だけ。
根拠になるデータなし。
社会学はデュルケム、ウエーバーの時代から進歩なし。 社会哲学や社会随想を書いて博士号がもらえる日本の社会学界 教育には二つの役割がある。ひとつは、勝者の後継者育成である。
そしてもうひとつは、エスタブリッシュメントに従うものの育成である。
前者はクリエーティブな人材を求め、後者は非クリエーティブな人材を
理想とする。
教育とは、もっともハードルの高い事業である。
にもかかわらず、そこいらの街のオヤジごときが
平気で、我が物顔で、全能感を持って語ることが多い。
自らの教育もイマイチなものが、何を人に授けられるというのか!?
バカげている。
教育とは、自分自身を律してこそ、初めて語れる分野のはずだ。 >>16
懐かしいな
おれ卒論でちょこっとだけ使ったわ・・・ シンボリック・インタラクショニズムって戦前の学派ですよね 現象学的社会学
シンボリック相互作用論
エスノメソドロジー
これらってパーソンズ理論よりも重要なこと言ってるの? パーソンズよりも重要というかパーソンズを批判して出てきた比較的新しい流れ
だからまぁ立場にもよるけど学説史的には新しい方だから重要ということになるんじゃないの 新しいから重要というのはおかしいだろ
ウェーバーよりもパーソンズが重要とか、
ジンメルよりもブルーマーが重要とか、
ミードよりもマンハイムが重要とか、
ルーマンよりもギデンズが重要とか、
ないですから そうじゃなくて、ちゃんと脈絡考えて発言しようよ。。
なぜいきなりウェーバーからパーソンずに飛ぶ?
ジンメルからブルーマー?
ミードよりマンハイム?
ルーマンよりギデンズ? まったくもって意味不明
めちゃくちゃに適当に列挙すればいいってもんじゃないでしょ
ジンメルならその流れを引き継いだゴフマンとか
ミードならブルーマーだとか
マンハイムならミルズとかギデンズとかに意義があって
そういう社会学のなかでも学説史なり批判の流れがあって
古典を受け継いで出てきたあたらしい流れにはそれなりに
議論の重要性があるでしょってことを言いたかったわけで
何にも考えずに世界のなかから「ぼくはこれがいいんだ」ってひとりで決め込んでも
しょうがないわけだしいちおう共通の流れとして相対的に(立場によるって明言したよね?)
「重要」←確定ではないよ、ってことが言いたかっただけだから
パーソンズがエスノメソドロジーなりシンボリック相互作用論なりさいきんの構築主義だのよりも重要だと主張するなら
それらが批判したパーソンズの問題点に替わる案を出してからいえば? >>22のあげた社会学者のセットはまったく見当はずれではないと思うが。
パーソンズはウェーバーの行為論から影響受けてるし、
ジンメルの相互作用論はシンボリック相互作用論に影響を与えた。
ギデンズがルーマンの影響を受けてるのも知られてる。
佐藤俊樹は、ギデンズはルーマンを薄く引き伸ばしたうんこだかなんとかって言ってたっけ。
マンハイムとミードは微妙かな。
ミードが、相互作用を媒介するシンボルに注目したことや、
重要な他者との相互作用が一般化(=一般的な他者との相互作用)して全体社会につながること
を示唆したことは、今日においては広義の知識社会学といえないことはない。
もちろんマンハイムの知識社会学とは違うが、知識に注目したという点では遠からず、ではないか。 >そういう社会学のなかでも学説史なり批判の流れがあって
>古典を受け継いで出てきたあたらしい流れにはそれなりに
>議論の重要性があるでしょってことを言いたかったわけで
これには同意。 で、この流れの発端になっとる「G.H.ミード」は大したことないっていう認識は、間違ってないと… >>23
「パーソンズ→ウェーバー」
「ジンメル→シカゴ学派(シンボリック・インタラクショニズム)」
「ルーマン→ギデンズ」
この3つについては結構強い影響関係だよ
>>26
ミード理論はいまでも意義深いよ
パーソンズの役割観は静態的で行為者を役割の虜とみなす部分があるけど
ミードは行為者の主体性を考慮してるし、役割が着脱可能であることも示唆してる
ジンメル、デュルケム、ウェーバーが論じきらなかった個人の自己認識(アイデンティティ)
についても論じてるしね
むしろマンハイム理論のほうが今日的には意義が薄くなりつつあるんじゃないかな
彼の知識社会学は基本的に「全部ウソ」という相対主義に陥ってしまうし
>>22がミルズの名前を挙げてるように、大衆社会論に与えた影響力は大きいけれど 27の訂正
誤)「パーソンズ→ウェーバー」
正)「ウェーバー→パーソンズ」
誤)>>22がミルズの名前を挙げてるように
正)>>23がミルズの名前を挙げてるように ミードはかなり面白い
あらゆる相互行為論の原型だとおもう
心理学、認識哲学、教育学とも関係するし >>29
ジンメル舐めんな
ミードの相互行為論はジンメルから影響を受けてる
社会心理学の源流はジンメルにある
「生の哲学者」としての側面はご存じのとおり ただね、古典はフトコロが深いんだよね
そういう点で重宝するのはたしか 社会学史スレ、あってもいいけど、かなり低レベルなスレになりそうな悪寒
2chは、ミードはこんなこと言ったとか、ウェーバーはパーソンズに影響を与えたとか、
むちゃくちゃ基本的なことが話題になるぐらいのレベルだから… >27
マンハイム理論の考え方って、そうなん。
「全部ウソ」に陥るかな。国際的にはしらんが、
国内では十分な検討がされていないようにも思えるけど。
相対主義に陥るって批判は、だいぶその、あれだし。
>>36
マンハイムの知識社会学は国内でも十二分に検討されてるだろ
たとえば『社会学ベーシックス3巻 文化の社会学』(世界思想社)では
マンハイムの知識社会学についての内外での研究が紹介されてるよん 異論は認めるけれど
丁寧に新聞を読みこなす習慣がついて3年くらい経過したら
いわゆる「常識」は身についてると思うんだ。
その後は、即「古典」にあたっていいと思うよ。そこらに転がってる「入門書」の類は読んでも時間の無駄だと思うよ。
社会科学全般(但し、経済原論だけは別だろうが)の古典はそういうものだと思う。
他の注釈本は、時折とんでもない誤読があって目を覆いたくなることあるから。 >>38
その3年間で入門書の類を読んだほうが効率的な気もするが。 というか入門書の類を読むのに3年も要らないな。
入門書や啓蒙書に間違いや誤読があっても
複数読めばそれなりにその学問の見取り図みたいなものが頭に出来上がる。
そしたら自分の問題意識の高い分野の古典に進む、っていうんでいいんジャマイカ? >>38
多くの社会人は新聞を読みこなせ、「常識」が身についているわけだが、
そういう社会人は即「古典」にあたっていいということ? >>41
個人差はもちろんあるのだろうけれど。(民間社会人のかたは御自分の領域に偏ることが多いと思いますから)
今の新聞って多かれ少なかれ紙面を記事とともに時事評論や解説とか或いは「入門」的特集を
組んでいるでしょう。現実の時事問題とそれらが如何に関係しているのか、大雑把ではあるけど、こういうことなのだ
という背景を書いてくれてるでしょう。ああいうのが3年くらい(半年間でも相当のモノだと思う)蓄積されてくると
ああ、こういう流れになるのね、みたいな「スジ」「素描」が見えてくるんじゃないかな。
そういう意味です。
もっとも社会学の理論がそれらに掲載されることはないですが。
他の社会科学系科目や人文系も歴史学等(とりわけ近現代史)は必ず言及されているものだから。
所謂「古典」であっても、それらは当時の時事評論であるわけだから、当時を生きたの視点として、今の状況と比較しながら
複眼的に見ることができるようになるんじゃないかな、ということです。トクヴィルやハミルトン、ナイのX論文でしたっけ?とか
最近だとハンチントンとかサイードとか(記憶力自信ないので違っていたらご免なさい)
但し書きで経済原論を除外したのは、私自身が個別に学び直さなければいけない必要が確実にあったという個人的な経験
によるからです。優秀なかたは必要ないのかもしれませんね。
社会学理論も適用記事は最近だとゲーム理論のものを見かけた程度ですから、似たような側面はあるかも知れませんね。
長文失礼しました。読み飛ばしていいす 済みませんでした。 失礼しました。やっぱり記憶おかしかったです。
「X論文」はケナンです。ジョージ・ケナン。正式には「ソヴィエトの行動の源泉」という題名です。(wikipedia 参照しました 便利な世の中ですね) >>38>>43
いわんとしていることはわかった。その上で4つほど質問。
第1に、おまいが「社会学力の養成」についてどう考えているかを知りたい。
社会学についてのよくある説明として、「社会学を社会学たらしめているのは
社会学的なパースペクティヴで社会を見ることにある」というものがある。つまり、
研究対象だけでは社会学にならず、社会学的な考え方をすることではじめて
社会学になるという考え方ね。この考え方に従えば、「社会学力」は、社会学に
固有のパースペクティヴを身に付けることによって養成されることになる。
これを踏まえておまいの議論を振り返ると、おまいの議論は、社会学ではなく
社会科学全般(経済原論は除く)についての説明であり、社会学に固有の
パースペクティヴというものへの視点は欠如しているように読める。おまいは
「社会学力の養成」についてどう考えているのか?それは、古典を何冊も読んで
いるうちに、自然と(付随的に)養成されるものだと考えているのか?
第2に、入門書の存在意義について。社会学の多くの入門書には社会学的なパースペ
クティヴが凝縮されている。このことは、社会学的なパースペクティヴを効率よく
学べることを、著者たちや読者たちが入門書の存在意義の1つと考えていることを
示唆するものといえる。彼らはこのことをメリット捉えていると思われるが、おまいも
これをメリットと考えるか?仮にそれをメリットと考えたとしても、「とんでも
ない誤読」(>>38)などのデメリットのために、入門書は読む必要がないと考えるか?
(続く) (>>45の続き)
第3に、もういっちょ入門書の存在意義について。多くの入門書は各社会学的分野についての
既存の重要な研究についての説明が充実しており、それぞれの議論の相似点や相違点について
も整理されている。もちろん古典の多くも先行研究について論及しているが、一般的には
入門書ほど充実していない。また、古典は読者がある程度の事前知識を持っているという
前提で先行研究をサーヴェイしている場合も多い。さらに古典は「古典」であるために、
近年の研究を扱っていない。入門書はこれらの点で、古典にない存在意義を持っていないか?
第4に、入門書が不要というおまいは、大学の講義の必要性についてどう考えるか?
以上、まあ、入門書にもいろいろあるけど。。時間があればでいいんで、よろしく