理論社会学・社会学理論・社会理論
シンボリック・インタラクショニズムって戦前の学派ですよね 現象学的社会学
シンボリック相互作用論
エスノメソドロジー
これらってパーソンズ理論よりも重要なこと言ってるの? パーソンズよりも重要というかパーソンズを批判して出てきた比較的新しい流れ
だからまぁ立場にもよるけど学説史的には新しい方だから重要ということになるんじゃないの 新しいから重要というのはおかしいだろ
ウェーバーよりもパーソンズが重要とか、
ジンメルよりもブルーマーが重要とか、
ミードよりもマンハイムが重要とか、
ルーマンよりもギデンズが重要とか、
ないですから そうじゃなくて、ちゃんと脈絡考えて発言しようよ。。
なぜいきなりウェーバーからパーソンずに飛ぶ?
ジンメルからブルーマー?
ミードよりマンハイム?
ルーマンよりギデンズ? まったくもって意味不明
めちゃくちゃに適当に列挙すればいいってもんじゃないでしょ
ジンメルならその流れを引き継いだゴフマンとか
ミードならブルーマーだとか
マンハイムならミルズとかギデンズとかに意義があって
そういう社会学のなかでも学説史なり批判の流れがあって
古典を受け継いで出てきたあたらしい流れにはそれなりに
議論の重要性があるでしょってことを言いたかったわけで
何にも考えずに世界のなかから「ぼくはこれがいいんだ」ってひとりで決め込んでも
しょうがないわけだしいちおう共通の流れとして相対的に(立場によるって明言したよね?)
「重要」←確定ではないよ、ってことが言いたかっただけだから
パーソンズがエスノメソドロジーなりシンボリック相互作用論なりさいきんの構築主義だのよりも重要だと主張するなら
それらが批判したパーソンズの問題点に替わる案を出してからいえば? >>22のあげた社会学者のセットはまったく見当はずれではないと思うが。
パーソンズはウェーバーの行為論から影響受けてるし、
ジンメルの相互作用論はシンボリック相互作用論に影響を与えた。
ギデンズがルーマンの影響を受けてるのも知られてる。
佐藤俊樹は、ギデンズはルーマンを薄く引き伸ばしたうんこだかなんとかって言ってたっけ。
マンハイムとミードは微妙かな。
ミードが、相互作用を媒介するシンボルに注目したことや、
重要な他者との相互作用が一般化(=一般的な他者との相互作用)して全体社会につながること
を示唆したことは、今日においては広義の知識社会学といえないことはない。
もちろんマンハイムの知識社会学とは違うが、知識に注目したという点では遠からず、ではないか。 >そういう社会学のなかでも学説史なり批判の流れがあって
>古典を受け継いで出てきたあたらしい流れにはそれなりに
>議論の重要性があるでしょってことを言いたかったわけで
これには同意。 で、この流れの発端になっとる「G.H.ミード」は大したことないっていう認識は、間違ってないと… >>23
「パーソンズ→ウェーバー」
「ジンメル→シカゴ学派(シンボリック・インタラクショニズム)」
「ルーマン→ギデンズ」
この3つについては結構強い影響関係だよ
>>26
ミード理論はいまでも意義深いよ
パーソンズの役割観は静態的で行為者を役割の虜とみなす部分があるけど
ミードは行為者の主体性を考慮してるし、役割が着脱可能であることも示唆してる
ジンメル、デュルケム、ウェーバーが論じきらなかった個人の自己認識(アイデンティティ)
についても論じてるしね
むしろマンハイム理論のほうが今日的には意義が薄くなりつつあるんじゃないかな
彼の知識社会学は基本的に「全部ウソ」という相対主義に陥ってしまうし
>>22がミルズの名前を挙げてるように、大衆社会論に与えた影響力は大きいけれど 27の訂正
誤)「パーソンズ→ウェーバー」
正)「ウェーバー→パーソンズ」
誤)>>22がミルズの名前を挙げてるように
正)>>23がミルズの名前を挙げてるように ミードはかなり面白い
あらゆる相互行為論の原型だとおもう
心理学、認識哲学、教育学とも関係するし >>29
ジンメル舐めんな
ミードの相互行為論はジンメルから影響を受けてる
社会心理学の源流はジンメルにある
「生の哲学者」としての側面はご存じのとおり ただね、古典はフトコロが深いんだよね
そういう点で重宝するのはたしか 社会学史スレ、あってもいいけど、かなり低レベルなスレになりそうな悪寒
2chは、ミードはこんなこと言ったとか、ウェーバーはパーソンズに影響を与えたとか、
むちゃくちゃ基本的なことが話題になるぐらいのレベルだから… >27
マンハイム理論の考え方って、そうなん。
「全部ウソ」に陥るかな。国際的にはしらんが、
国内では十分な検討がされていないようにも思えるけど。
相対主義に陥るって批判は、だいぶその、あれだし。
>>36
マンハイムの知識社会学は国内でも十二分に検討されてるだろ
たとえば『社会学ベーシックス3巻 文化の社会学』(世界思想社)では
マンハイムの知識社会学についての内外での研究が紹介されてるよん 異論は認めるけれど
丁寧に新聞を読みこなす習慣がついて3年くらい経過したら
いわゆる「常識」は身についてると思うんだ。
その後は、即「古典」にあたっていいと思うよ。そこらに転がってる「入門書」の類は読んでも時間の無駄だと思うよ。
社会科学全般(但し、経済原論だけは別だろうが)の古典はそういうものだと思う。
他の注釈本は、時折とんでもない誤読があって目を覆いたくなることあるから。 >>38
その3年間で入門書の類を読んだほうが効率的な気もするが。 というか入門書の類を読むのに3年も要らないな。
入門書や啓蒙書に間違いや誤読があっても
複数読めばそれなりにその学問の見取り図みたいなものが頭に出来上がる。
そしたら自分の問題意識の高い分野の古典に進む、っていうんでいいんジャマイカ? >>38
多くの社会人は新聞を読みこなせ、「常識」が身についているわけだが、
そういう社会人は即「古典」にあたっていいということ? >>41
個人差はもちろんあるのだろうけれど。(民間社会人のかたは御自分の領域に偏ることが多いと思いますから)
今の新聞って多かれ少なかれ紙面を記事とともに時事評論や解説とか或いは「入門」的特集を
組んでいるでしょう。現実の時事問題とそれらが如何に関係しているのか、大雑把ではあるけど、こういうことなのだ
という背景を書いてくれてるでしょう。ああいうのが3年くらい(半年間でも相当のモノだと思う)蓄積されてくると
ああ、こういう流れになるのね、みたいな「スジ」「素描」が見えてくるんじゃないかな。
そういう意味です。
もっとも社会学の理論がそれらに掲載されることはないですが。
他の社会科学系科目や人文系も歴史学等(とりわけ近現代史)は必ず言及されているものだから。
所謂「古典」であっても、それらは当時の時事評論であるわけだから、当時を生きたの視点として、今の状況と比較しながら
複眼的に見ることができるようになるんじゃないかな、ということです。トクヴィルやハミルトン、ナイのX論文でしたっけ?とか
最近だとハンチントンとかサイードとか(記憶力自信ないので違っていたらご免なさい)
但し書きで経済原論を除外したのは、私自身が個別に学び直さなければいけない必要が確実にあったという個人的な経験
によるからです。優秀なかたは必要ないのかもしれませんね。
社会学理論も適用記事は最近だとゲーム理論のものを見かけた程度ですから、似たような側面はあるかも知れませんね。
長文失礼しました。読み飛ばしていいす 済みませんでした。 失礼しました。やっぱり記憶おかしかったです。
「X論文」はケナンです。ジョージ・ケナン。正式には「ソヴィエトの行動の源泉」という題名です。(wikipedia 参照しました 便利な世の中ですね) >>38>>43
いわんとしていることはわかった。その上で4つほど質問。
第1に、おまいが「社会学力の養成」についてどう考えているかを知りたい。
社会学についてのよくある説明として、「社会学を社会学たらしめているのは
社会学的なパースペクティヴで社会を見ることにある」というものがある。つまり、
研究対象だけでは社会学にならず、社会学的な考え方をすることではじめて
社会学になるという考え方ね。この考え方に従えば、「社会学力」は、社会学に
固有のパースペクティヴを身に付けることによって養成されることになる。
これを踏まえておまいの議論を振り返ると、おまいの議論は、社会学ではなく
社会科学全般(経済原論は除く)についての説明であり、社会学に固有の
パースペクティヴというものへの視点は欠如しているように読める。おまいは
「社会学力の養成」についてどう考えているのか?それは、古典を何冊も読んで
いるうちに、自然と(付随的に)養成されるものだと考えているのか?
第2に、入門書の存在意義について。社会学の多くの入門書には社会学的なパースペ
クティヴが凝縮されている。このことは、社会学的なパースペクティヴを効率よく
学べることを、著者たちや読者たちが入門書の存在意義の1つと考えていることを
示唆するものといえる。彼らはこのことをメリット捉えていると思われるが、おまいも
これをメリットと考えるか?仮にそれをメリットと考えたとしても、「とんでも
ない誤読」(>>38)などのデメリットのために、入門書は読む必要がないと考えるか?
(続く) (>>45の続き)
第3に、もういっちょ入門書の存在意義について。多くの入門書は各社会学的分野についての
既存の重要な研究についての説明が充実しており、それぞれの議論の相似点や相違点について
も整理されている。もちろん古典の多くも先行研究について論及しているが、一般的には
入門書ほど充実していない。また、古典は読者がある程度の事前知識を持っているという
前提で先行研究をサーヴェイしている場合も多い。さらに古典は「古典」であるために、
近年の研究を扱っていない。入門書はこれらの点で、古典にない存在意義を持っていないか?
第4に、入門書が不要というおまいは、大学の講義の必要性についてどう考えるか?
以上、まあ、入門書にもいろいろあるけど。。時間があればでいいんで、よろしく >>45,46さんへ
わたしの駄文を読んで戴いて、さらにご意見と質問までくださってありがとうございます。
心底感謝しております。
以下にわたしの実に素朴で私的な意見を出来る限りあなたの質問に答える流れの中でで書きます。
あなたにとって足りないと感じる箇所もおありでしょうが、それはわたしが至らないだけです。全てをお答え出来るほど
出来た人間ではないから故の問題です。どうかご理解ください。
では、またさらなる駄文を 以下に・・・
私の考えの基本にあるのは、良い意味での偏見・偏頗心です。或いは、「お国柄」といっても良いのかも知れません。
ひとつの国なり文明圏に生まれ其処で生きてきた人々の考え方や思考様式は、その生きてきた社会や人生に大いに
左右されるものだろうということです。故に、「価値中立」という姿勢や、「俯瞰的な視点」という超越者然とした姿勢を
わたしは酷く嫌っています。そういう姿勢を取る人間は信用できないとすら考えております。
現実は猥雑物が多すぎるのだ、邪魔だから綺麗な理論だけ抽出しさえすればよいのだ。こういうのが一番嫌いです。
現実の泥臭さを大切にするべきです。地層のように折り重なったそのひとの人生の蓄積を丁寧に見ていくべきではないのか。
それが私の考えです。
社会学のエッセンスを一括りに語ることはとても難しく感じますし、私自身もそういう資格はないだろうと思います。
ただ、確実に言えることは、社会に対してそれを知ろうとする各々の学問のアプローチはあくまでも個別的である、
ということです。一方で社会現象というものはそもそもがあまりに「総体的」なものです。その錯綜した現実に対しては、
私達は、所謂「群盲象を評す」という状況なのではないでしょうか。各々の社会に対する見立てや意見評論は百花繚乱。
出来るのは各々個別のアプローチからのアングルの切り取りであり、それが「鼻」なり「脚」なり「牙」に該当するだろう
ということです。それでも「三人寄れば文殊の知恵」ではないですが、こういう場合皆の意見をすり合わせれば全体像も
ボンヤリと見えて来はしないだろうか、という希望を持っているのです。それがわたしにとっては「社会科学全般」の知識を
「横断的に」吸収していったらいいのではないのか、の意味です。ひとりで多角的に見る姿勢をもてないだろうかと。
一方で、社会学等の固有の方法論(あなたのいうパースペクティブですね)についてです。
わたしはその学問体系の生まれた系譜に眼をやるべきではないのか、と思っているのです。やむにやまれぬ必要に
駆られてその方法論(パースペクティブ)は生み出されたのです。元来はそれ以前の体系の限界を踏まえている
もののはずです。その上で新しい視点を新たにこさえたと見るべきなのではないでしょうか。なればこその「古典」です。
ひとつの「パースペクティブ」をたぐっていくことで、その発祥の由来から来歴に至るまで分厚い知識が得られるのではない
でしょうか。そう考えているのです。裏を返せば、わたしは知識の獲得に効率を求めては居ないです。
例え量に於いて少なくとも、ゆっくりと分厚い知識のエッセンスを身につけるべきではないかと考えているのです。
入門書についてです。
恥ずかしい話ですが、実はわたしは入門書マニアに近いのです。それ故に感じるのです。各々入門書を標榜しながら
既にその入門書に著者個人の偏りや偏頗心、その著者の依って立つ学派の意見が反映されているじゃないかと。
それならば、何も入門書等と標榜することもなかろうと。業界特有の専門用語は避けるなり長めの注釈を添えるなり
しさえすれば良いだけの話です。そもそも「価値中立」の人間などいるとは思えません。それでいいでしょう。その中でも
「古典」は歴史の淘汰を受けてきた強い文章です。その古典を、ありのまま丁寧に読み込んでいけば良いのではないのか、
とわたしは言いたいのです。優秀な「古典」に、「信頼の置ける注釈」や、筆者の言及している事柄の「社会的背景」等を
丁寧に添えておけば、それでいいのではないのかと。
大学の講義についてですが、実はわたしは非常に苦手です。虚弱体質と低血圧のおかげで恒常的に集中力を維持出来なくて
苦労していたからです。出来れば自分のペース配分で勉強したいなあと何時も考えていました。それに、欠席すると非常に焦るん
ですよね。講義の内容自体に関しては、教員次第なのではないでしょうか。わたしは勇敢な教官が好きです。自分の偏りを自覚した
上で、自分の信念をぶつけてくるような方々ですね。「巷間ではこういう意見もあるが間違いだ、自分の意見はこうである」と。
中途半端に各論を併記しているだけで、自分の姿勢や立場はつまびらかにしないままでいる教官の講義は困るのです。結局の
ところどうなのか、と訝りながら通年経過しかねないのです。どうにも事後に印象が残らないからです。収まりが悪いというか。
強引な意見表明は時に不快ですが、それに共感しないのであれば自分には合わないと割り切って捨てるべきではないでしょうか。
自分にとって極端な違和感を感じる意見は往々にして謬見でしょう。世間一般の「常識」のほうが大事です。庶民的感覚のほうが
信頼できるはずですから。
私的な意見で恥ずかしいのですが、わたしは、こんな講義が受けたかったなあ、と思うことがあります。
立派な古典類を10冊程度チョイスして、その「前書き」と「目次」と出来れば「後書き」だけを抜粋して講義の材料にするのです。大概の
内容や著者の姿勢はそれだけでも伝わって来ると思うからです。「前書き」を丁寧に翻訳しながら教員が折に触れてその詳細について
説明を加える。その後「目次」を概観しながら教員がその単元につきどういう内容のことが書かれているのか大雑把に説明を加える、と
いう具合にです。そして教官自身がその著書に対する意見を述べる。其処まで手ほどきをしておけば、大概の場合、私のような不出来
の生徒でも、その「古典」を読むことくらいは出来るでしょうから。そして、じっくりと考えながら古典の独学をする時間を与えて欲しいの
です。そして、どう頑張っても理解の及ばぬ箇所は質問を許して欲しい。そんな感じです。
長文ホントに失礼しました。興味の無かった方すみません、無視してください。
お返事は期待してません。ホーこんな阿呆も居るのか程度に理解してくださればそれで結構です。
>>47-50
>>45氏ではないけど、ちょっとだけ感想を。
> 「価値中立」という姿勢や、「俯瞰的な視点」という超越者然とした姿勢を
> わたしは酷く嫌っています。そういう姿勢を取る人間は信用できないとすら考えております。
個人と考え方としてはこういう考え方もありだとは思うけど
もし「価値中立」という姿勢や、「俯瞰的な視点」という超越者然とした姿勢を拒絶するのであれば
そもそも社会科学という学問自体の否定になりはしないか?実際に超越的な視点に立てというのではなく
独自のパースペクティブと客観性を確保しようとする姿勢は両立するものではないか?
> ひとりで多角的に見る姿勢をもてないだろうかと。
それがいわゆる入門書の役割では?少なくとも入門書は社会学には多角的なパースペクティブがあるということを
教えるものでは?もちろん入門書であってもあなたが書いているように著者たちの偏りは当然ある。それでも
どのようなパースペクティブが自分にあっているか、あるいはどのようなパースペクティブから自分は入っていけばいいか
という程度の見通しは得られるのではないか。
> 私的な意見で恥ずかしいのですが、わたしは、こんな講義が受けたかったなあ、と思うことがあります。
「こんな講義」には私も共感します。しかしそれはまさに講義だからこそできることであるし
講義を想定しない独学を考えた場合は無理なんじゃなかろうか。
ある一つの古典からじっくり入っていく、というアプローチを否定するわけじゃない。
狭く深く入っていく入門のあり方と、広く浅く入っていく入門のあり方の違いであって
どちらもそれなりの利点・不利点があるように思う。ただ個人的な印象を言わせてもらえば
文学や哲学などはいきなり狭く深くってアプローチが有効に作用することがあるのに対し
自然科学や社会科学はやはり広く浅くってアプローチのほうが有効な場合が多いという印象があるな、俺は。 >>53
機能構造主義というかたちで生き残ってるよ
ちょっと高いけど、まずは、そのあたりが丁寧に説明されている
ルーマン『社会システム理論』(上下)から入ったらどうかな もっと遙か昔からあるし、未だに残ってる話でもあるから どこに残ってるの?
機能構造主義の最新論文挙げてくれ 構造主義とか機能主義とか構築主義とかとはちがって、
機能構造主義というものにこだわってるひとは(あまり)いないように思える。
でも、ルーマン理論を社会分析に生かそうとしているひとはそれなりにいる。 >>59
聞き方が気に食わんなあ
↓の「社会学文献情報データベース」で「ルーマン」で検索してみな
http://dbr.nii.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000031SOCIO
今日現在で326件の文献がヒットするけど、申告してない著者もいるから
もっとたくさんあると考えてよい。
また、国会図書館の雑誌記事検索で、タイトルに「ルーマン」と「社会学」という語を
含む論文を検索したら、今日現在で57件あった。
もちろんタイトルにこの2語を含まないルーマン関係の社会学の論文はたくさんたくさんある。
理論の論考が多いけれども、その手の論考は、佐藤俊樹をはじめとして、
ルーマン理論を社会学の分析にどう生かすかということを(近くにor遠くに)見据えて
書かれたものも多い。
事例研究については、そのままルーマン理論の応用ということになるね。
事例研究の場合はタイトルに「ルーマン」って入ってないことも多いから、
検索するにあたって工夫が必要になる。 だから「ルーマン理論を社会分析に生かそうとしている」論文を読んだからそう書いたんでしょ?
その筆者と論文名を書けばいいだけじゃないの?
『 室間添随症 』 ( しつかんてんずいしょう )
アパートや低家賃のマンションなどに住む引き篭りや準引き篭りの状態にあ
る人間が隣接する他の部屋の住人たちに自分の引き篭りの状態を悟られまい
とするあまりに逆にそれら他の部屋の住人の生活様態を執拗に感察、学習し
続け、その諸動作のタイミングから生活パターンにいたるまでを極力模倣し
同調さることによって自分の存在性を隠しながら日々の生活を送ろうとする
症状。
これは日本の文化依存症候群であり半国民症である。
これを「引き篭りの付き動き」
あるいは「引き隠りの付き動き」
あるいは「引き隠れの付き動き」と呼んでいます。
鼠やモグラならともかく龍や竜を用いるのは引きこもり者の形容として適切ではない。
モグラに土竜と当てるなど日本語には形容のおかしなものが多々存在する。
隠坊
読み方:かくれんぼう
他と面会するを避け、密かに人の気付かざる場所に隠れ居ること。
彼等の室内での心理状態、行動様態、気分の抑揚などは常に隣人の生活様態に左右、
依拠され、それら隣人の生活様態を自らの諸動作,諸行動の契機に、あるいは時計
かスケジュール表かのごとくに借用しながらの暮しを続ける。
http://kie.nu/hfl
http://kie.nu/gL2
http://kie.nu/gL1
文化依存症候群とは、その地域の独特の文化が原因となって引き起こされる精神疾患の事。
これは世界のあらゆる地域において存在する可能性があり、韓国の火病に限った話ではない。
特別な名称を付けられていないものを含めると、日本人にも存在する。
日本人はよくアメリカ人などに比べると「自己主張が足りない」「隣人とのオープンな付き合いが足りない」
などと言われるが、これは日本の「察する文化」「相手を立てる文化」に起因する対人恐怖症の
一種と考える事が出来る。
日本独特の文化に起因する精神疾患なので、これも立派な文化依存症候群である。
(もっとも、よほど極端なもので無い限り、日本人のそれは「礼儀正しい」「行儀が良い」と言った
プラス方向に受け取られる事が多い)
火病 付病
ファビョン フュビョン
動詞化
「ファビョる」 「フュビョる」
擬態語
「ファビョーン」 「フュビョーン」
大韓民国(韓国)では鬱火病(ウラビョン)ともいう。
鬱火病の鬱は鬱病とは関係なく、鬱血や鬱憤の鬱と同じ、「その場に溜まってゆく」といった意味である。
鬱火病 翳付病
流行ってるかどうかは知らんが、
やってる人はいるよね そりゃいるだろう
会話分析とかライフヒストリーやってる連中もいるし >>45
社会学とは何の為にあり何なのですか? 質問です。 >>69
そういうの気にするひとは向いてないと思うよ
楽しいからやるっていうノリでやる学問だから
社会学とは何かを知りたいなら、社会学にカテゴライズされる研究を
自分で見比べて、結論を出せばよい カルチュラルスタディーズに関することなんだけど、アニメは現実と、
構造的・成り立ち的に、どのような繋がりを持ってるのか。
社会学はこれにどう応えるのか、知りたい。
アニメは、当然のことながら、マーケティングリサーチが大前提の上にある。
また、現実の抑圧を解放するものとして、昇華が基本となっている。それはドラマとて同じ。
また、アニメは、当然のことながら、現実の外界の事象がライターの脳内に内在化・抽象化され、
それが型破りを狙った奇抜なキャラクターとして、歪んだ形で登場する仕組みになっている
(実際、そう描けと言われる)。アニメは、現実世界の文化が基になって醸成されたものだから、
当然ながら、そのカテゴリーには、剣士だの海賊だの、恋愛ものだの推理だの警察ものだと、
色〜んなものが映像やシナリオ、登場人物に反映される。無学者は全く気がつかないが、
密かに、その類の人間の、世界史などに出て来る英雄の名前が、こっそりパクられて、登場人物に冠されている場合もよくある。
日本の歴史ドラマは 基本チャンバラで、アメリカのドラマや映画は基本ドンパチ。
つい最近見直した、アメリカの海外ドラマも、とにかく「ドパパパッ」が大好き。
しかも、すぐに他国や誰かの悪口を言う。イギリスにコンプレックスを持って、
ダーウィンでは説明がつかない事がたくさんあるんだとか言い出したと思ったら、
どこぞやの役者を連れてきて、ハーバードだのマサチューセッツだの演じさせて、
しかも反面、大抵は学歴エリートや公務員、研究者は悪者に仕立て上げられる。
そして、世紀の大発見ごっこや、正義の味方ごっこ、ドパパパやザンザンザン、アメリカ拳法ごっこ、
アメリカ大企業ごっこ、アメリカ製の高級車の宣伝混じりの、
スーツを着た国防総省やら何やらの、乗車&登場ごっこが為される。
都合が悪くなるとすぐに「ドパパパッ」。ドラマや映画に昇華して、
作品の中で悪者に仕立てあげて、ボコボコにする。警察だのFBIだのCIAだのが
国民ぐるみで皆大好きで、軍隊だの機密諜報部隊だのをすぐに「ザンッ!ザンッ!ザンッ!ザンッ!ザンッ!」
って出してくる。基本、あれ一本通し、現実世界で都合が悪くなれば、飽き飽きするぐらい、
ドラマや映画ですぐに玩具片手に「ドパパパッ」に持ち込む。そして、両手両足揃えた、
芸能人の ザン、ザン、ザン、ザン、が始まる。というのも、あれが売れるってこと、
いつまでもあのパターンが続くってことは、アメリカ人民衆そのものが、心の底では、
あの展開を望んでいるということだからだ。アメリカ人の内奥は、玩具片手に
「ドパパパパッ」に支配されているのである。 誰かを完全正義の主役にして、誰かを完全悪のかませ犬、スケープゴートにする。
実際は、人間ってもっと複雑で、極端に性根が良いダイヤモンドみたいな奴もいなければ、
極端にクズの人間もいない。実際はもっともっと多様だ。アメリカは知らんが、
少なくとも日本では、チンピラですら、実際はもっと優しいし、ヤクザですら、
道を尋ねたら、案外普通に教えてくれる。一応みんな義務教育受けてんだから、
常識ぐらいはあるし、空気ぐらいは読める。男も女も、実際はあんなにドンくさくない。
映像を使った回し蹴りみたいに、都合が悪くなったからって、いちいち暴力に訴えない。
アメリカ拳法で勝とうが、おかしいもんはおかしいし、逆に負けようが、正しいもんは正しい。
彼女の前で喧嘩に勝ったって、どうせ後々訴訟もんの問題になって、世間から袋叩きに遭う。
親だの友人だの会社の同僚だのネットだの、色々人間を囲むものはあって、
世間を敵に回すような真似をするからには、それなりの覚悟がいるし、
すぐに暴力で解決するような奴は、日本もアメリカも中国も区別なく、
どうせ結婚した後も、奥さんにも家庭内暴力を振るう。日本ではアニメを目の敵みたいに
する人間たちが結構いるが、日本のアニメの方が、見た目はともかく、
中身の方は、アメリカ映画やドラマより、よっぽど現実に近い。現実の人間関係が如実に反映されている。 いや、むしろ、この内面的 極端っぷりは、日本にも言えることだろうおそらく。
ドラマは、アニメと違って、色んな人に支持されていて、制約がないから、
ライターもアニメに比べて、色んなことが書けるのかもしれない。
要は、民衆、聴衆が、それを支持するかどうかだから。
アニメは、ドラマほどの市民権無いからね。とくに深夜アニメなんかは。
現実のエリートや子どもは、常に作中で袋叩きにされ、何の取り柄もない、
普通の人間の、普通の家庭生活が、最後は勝つ。調子に乗った外資系証券マンは、
最後は不慮の事故で障害者。子どもは大人に「社会のこと何も知らんくせに!」
と力づく、暴力づくで引っ叩かれて、最後は改心させられる。しゃんしゃん。日本はこれ1本通し。
外資系証券マンが、途中、若干負けはしたものの、勝って勝って勝ち通して、
最後はゲラゲラ&ギャハギャハ笑って、そのまま意地を張り通して、最後は、
キリの良い、仕事の順調な段階で仕事やめて、さっと勝ち逃げてバックレて余生を平穏に暮らすとか、
周囲の大人を片っ端から貶しまくって、子どもが大学受験をくぐり、親との壊れた仲は続くが、
最後はまともに面接で猫被って就職、あるいは予備校講師として身を立てる、なんて展開はまるで無い。
実際には、こんな展開、山ほどあるのに。 >>74
ドラマがアニメより受けるのは当たり前。アニメを理解する奴に会ったことがない。これはどう説明されるのか?
エヴァンゲリオンって何の意味かわかる? 君。 ストーリーの詳細は覚えていないけど、機能不全育ちの人間たちが、
職場の人間関係を通して、その障害が露見してくるって内容だろ。
ドラマは知らないけど、少なくともアニメに関しては、何かしらのメッセージ、
アナロジー、寓話を含んでいる。
主人公シンジは、父親に捨てられ、思春期で、大人社会の汚さを認められない。
帰国子女アスカは、一見プライドが高いように見えて、突っ張ったりしてるけど、
本当は、ああやって明るく横柄に振る舞うことで、心の奥底に潜む、母親から捨てられた
トラウマやコンプレックスを封印していた。優秀になって、自慢することでしか、
人に愛されることを知らない少女。ミサトは、これまた(詳しく覚えてないけど)
父親との関係が壊れていて、アル中持ちのヤリマン。中年男に甘えて、抱かれて、
体を使われること、必要とされることで、自分の存在意義を見出すタイプの性癖の持ち主。
だから、常に誰か男がいないと、心の平穏が保てない。カジが死んだ後は、精神的に弱っている
シンジを慰めるという半建前で、シンジを食べようとした。でも、心の奥底では、
自分が甘えて慰めて貰いたかった。
リツコも、あれまた母親がどうのこうので問題を抱えていて、彼女(オバサン)は
主人公の父親を心の底では愛していたんだけど、素直に思いを伝えることも、振り向いて貰えることもなかった。
挙句には、そのオッサンは別の女性と恋をし、子どもまで生んだ。妻が死んだ後、
そのクローン細胞で、綾波という機会人間を作った(こいつが一番メッセージ性の読めない謎な奴。
カルチュラルスタディーズではセカイ系と呼ばれている)。クローンは父親好みの中学生か高校生ぐらいの
姿になっているのだが、リツコはそのクローンの一体のJKに嫉妬して、首を絞殺した(だったかな?)。 まあ、大凡で言えることと言えば、ドラマというか、マスコミが、
一番現実の逆を爆走してて、しかも洗脳性、メッセージ性、扇情効果があって、
社内で徒党を組ませるから、性質が悪い。彼らはこの日本国において、報道によって、
何かを作り上げようとしている。アニメはあくまで「現実を作ろう」ではなくて、
現実、環境を、叶わないものと受け止めて、「現実から逃げよう」
「少しでも嫌なことを忘れられる別世界に誘おう」という意図で描かれているし、
それはマーケティングリサーチがしっかりと土台となっている。だから自然と、
俗なものをなるだけ排した、純文学的な性格を帯びてくる。この傾向は、アニメよりもむしろ
ファンタジー小説が根強くて、その典型みたいなジャンルすら確かあった(名前は忘れた)。
現実ではどんな凡小な人間も、空想の魔法世界の中では、世界を救う剣士ってやつ。
だから、現実を思い出させるような、しょーもない世俗的な話は入れたがらない。
それを入れるライターは大体亜流。大抵売れない。バカ売れする作品は大抵純文学的性格。
特に深夜においては、描かれる登場人物は、大抵後ろの方の端っこの席で、
「学校なんてかったり〜」とかボヤいて外を眺めてる気取り屋
( 現実にはもっと唇が尖がってたり、太ったり、キョドってたりする。)
要するに単に浮いてる子 )や、屋上に逃げ出して、昼寝している子など、
昼夜逆転系の、学校生活が上手くいっていない(いってこなかった)夜行性・窓際族が
ストーリーの主役に置かれる。退屈な日常に、現実にはあり得ない彼女や魔法を
登場させることで、学園生活が劇的に変わる。主人公はそこに自分との重なりと癒しを感じて、
現実との価値基準を逆転させる。学校はあくまで、生きていく上で仕方のないもの、
セーブポイントか何かとして捉えて、こっちを本業の自我、個室という名の自分だけの
空間、聖域、学園生活を作り上げる。 現実にはもっと唇が尖がってたり〜
あと、ニキビがプツプツ出来てたり、歯並びが悪かったり虫歯があったり。 >>77
動詞evangelizeとgreekの「on」の造語だよ。原作者ご本人も知るまい。 使徒と言えば、神から遣わされる存在って感じのニュアンスが感じ取れるけど、
それは、神の下に、人間社会を相対化し、風刺するニュアンスが込められているんじゃないか?
実際、ミサトもネックレスしてたけど、あれって、基督教徒の印じゃない?
基督教にも、12人の使徒がちゃっかりいたし。俺みたいな浅学には早々突き止められないけど、
基督教の歴史を自分なりに色々調べてみたり、つーか大学でそっち系の専門家に訊いてみれば、
色んな解釈が返って来ると思う。エヴァンゲリオンが、キリスト教を意識した
作品であることは、まず間違いないから。
人類は正しかったのか、それとも間違っていたのか。正に基督教・西洋の
人間観・自然観を吟味・検討する、現代的なテーマを反映している。
( [基督教陣営=大人陣営 etc] vs [進化論陣営=子どもパイロットたち、カオル君 etc] )
生命を宿しているとかどうのこうので、あのエヴァだって、使徒を食ってた。
あれは正に、自然の摂理である弱肉強食の生臭さや残酷さを描いたものであり、そして作品それ自体が、
人間社会の汚さ、グロさ、酷(むご)さを描いたものであろうと個人的に考えられる。
劇場版では、みんな最後は「水」に還るって結末になってたと思うけど、あれは、
ダーウィンの進化論とキリスト教の予定調和の論争を反映したものじゃないかな。
人類は、あくまで特別ではありませんでした、みたいな。「海」は永遠や豊穣を意味するものだし、
「水」「川」は始まりや女性器、子宮を意味するもの。それは人類の苦しみを、
水という始まり、子宮のレベルにまで戻すというニュアンスを孕んでいる。みんな最後は気持ち良さそうだったし。
リツコとあの名前の忘れた部下の姉ちゃんも、確か最後は、二人でいい感じになってなかったっけ。 神の遣いを、人間の兵器をもって、やっつけるということ。
そこに何か、深い意味が込められているのかもしれない。
また、神の遣い(死体)を、そのまま人間の兵器に用いるというところにも、
ダーウィンの自然選択理論のように、これまた深い意味が隠されているのかもしれない。
そういや、社会学の現実解釈では、言語論的転回を経たポストモダン社会、
またの名を「動物の時代」と呼ばれる現代社会では、人それぞれ、色んな現実があって、
それらは、言葉や景色によって決定づけられるという理論があったのを思い出した。
それを踏まえて考察すれば、綾波(そもそもエヴァンゲリオンそのものがセカイ系だが)
は正に、この現実感、現実の相対視感を描いたものではないだろうか。
たとえば、綾波とシンジのやり取りで、綾波「だって私、○体目だから…」シンジ「ぇ?」
っていう有名なやり取りがあるけど、あれを、「綾波は世界の内情を知ってて、普通の現代人シンジは、
何も内情を知らない」という偏見を捨てて、あるいは「綾波は、普通の人々
(メディアによって環境が規定されている現代人たち)を風刺したもの」と決めつけるのではなく、
綾波が見ている世界も現実であれば、シンジが見ている世界も現実、と捉えれば、
世界は大変、複雑多様なものに見えて来る、という仕組みに作品全体が成り立っている。
あの綾波の台詞を、現実の三次元世界で吐いてくる女の子がいれば、自分はその子を
どう捉えるだろう、と問いを組み立ててみれば、少しはリアリティが湧くだろうか。
思春期にあり、まだ自分なりの世界観、価値観、視座を築き上げられていない、
何者にも染まっていない、白紙のような、フレキシブルな中高生シンジは、色んな人間と交流する中で、
世界には色んな側面があることを学んでゆく。しかし、世界をまだ柔軟に解釈できない、
大学でまだ「答えのない問題(これを哲学で「現象学的エポケー」の近隣にある言葉で
何かあったんだが、悲しくも忘れてしまった)」を考えてゆく訓練も受けていない、直情径行・頭ガチガチのシンジは、
この、様々な事情が複雑に絡み合い、入り組む現象世界を、どう解釈して良いかが分からない。
だからシンジは、色んな人間と接する度に、懊悩させられては、心を傷つけられ、あるいは相手を傷つけてしまう。
しかし、通常版の最後は確か、「現実は自分で決めるものなんだ、選ぶものなんだ、その権利が自分にはあるんだ」
みたいな展開に、結局のところ落ち着いた。シンジの心を支配していた闇に認知革命が起こって、
心が空になって、終了、ってな感じのエンディングだったと思う、確か。 ここは、社会学の場所だが、私が言っていることはそれと関係があるのである。みなさん誤解しないでくれたまえ。
実はもっとも高度なことなのだ。つまり、社会学が倫理と切り離されれば、単なる人間社会現象の記述にしか過ぎなくなる。如何に! 他人に深く関われば関わるほど、その現実感が自分の内的世界を浸食してきて、
世界観(神話)や自我(そういう形の物語)が忽ち崩されてしまう。
シンジは、他人との距離の取り方、すなわち、愛想のよい、敵意のない態度を
振り撒きながらも、それでいてあんまり深入りしない、幅広く薄い、半ば事務的な、
利害関係を視野に入れた人間関係(フォーラム)の作り方がまるで出来ない年齢にある。
そこで、学校の、主に特別活動内で作られるような人間関係のあり方と、
会社組織内で作られていくような人間関係のあり方のギャップ
(もちろん重なる部分もたくさんある)に懊悩を抱かされる。シンジは、逐一傷ついては、
自分の殻の中に、ダンゴ虫やカタツムリ、グレーゴル・ザムザのように引きこもってしまう。
現代青年、とくにアニオタの典型だろうか。他人に深入りすれば、距離の取り方を誤れば、
それだけ互いの世界、とくに、他人に触れられたくない世界を侵し合うことになるし、
相手に弾かれ、深く傷ついてしまうことすらある。親しき中にも礼儀ありというもので、
自分のイメージを酷く落としてしまうような事を他者に暴露するからには、
それでいて、相手により肯定的で深い関係を望むのならば、よっぽど自分をありのまま
愛してくれる人間でなければならない。エヴァンゲリオンは、そういった、
信頼関係で成り立っている人間社会、とくに第二次世界の性質を反映したものである、と言えないかな。 君は良く知っているね、実はわたしはエヴァンゲリオン・ファンではあるが、お宅ではない。君は凄いね!
でも云えば、使徒とは神の使徒ではなく、社会システムの使徒である。だから戦うのだ、使徒と。歴史的にもそうではないかな?
だってそうだろう? すべての「本当の」偉人が戦ったのはそれだ。で、主人公たちの操る何ていうのか、自分自身と同期する
客体(正確には客体ではないロボット)は基地から太いホースで繋がれていたよね。あれは何か分かる? あれは人間の
原初との繋がりを表すumbilical cordだ。だから戦闘時間が限られるのである。どう思う? ああ、構造主義でそういう理論あったね確か。
人間は、その牢獄の中で生きているとか、鎖に繋がれているとか。
パノプティコンとか、囚人のジレンマみたいなノリで。 >>89
>逐一傷ついては、
自分の殻の中に、ダンゴ虫やカタツムリ、グレーゴル・ザムザのように引きこもってしまう。
ザムザが引きこもってしまうのは何故か? 君は「審判」を読んでいないのかね? 判決を下されるべき人間ばかりの中では、
そうでない人間はそのように成るだろう。思えるだろう。君にはどうもそれが分からないようだね?
君が分かっているかどうかを知るために訊こう。
どうして「審判」の最後は、石切り場なのか? 君、それ分からないだろ? 解らないというより、とっくに忘れたし、最後まで読んでいない。
ただ、主人公が、外交官か商人をやってて、家族や仕事場の人間関係にも
疲れ果てており、「虫にでもなりたい」と思ってたら、翌朝、目が覚めたら、
虫になってて、そこから地獄が始まった、っていう全体のストーリーそのものは覚えている。 >>94
石切り場なのは、kafkaがユダヤ人だったからだ。ユダヤ人にとって石切り場は神聖な場所だったからだ。
しかし、問題はそこからだ。なぜ、「人間」が死ななければならなかったのか? それは「全っき人間」を社会システムが殺すからである。
いや、人間性を。だから社会で生きているように見える人間は、その残骸である。スワヒリ語では「〜すべき」がない。過去はそうだったのだ!
良いか悪いかは別にして。なぜ「〜すべき」がないのか? それは過去の人間にとっては、現実(自然)がそのままだったからである。
それ以外にそれを説明できる理由はない。悲しみは、あなただけのものではなく、すべての人のものだった。
べつにわたしはユダヤ人の肩を持っているわけではない。 そういや、「妖怪(使徒)」というキーワードも、何かを暗示している
ように個人的に思える。未だ宗教やアニミズム観が人間世界を覆っていた、
今のような社会的な区切りが無かった時代では、司祭が物凄く権力を持っていて、
司祭や民衆に背く者は「怪の類=異端(妖怪が宿っている)」というようなレッテルを貼られ、
村社会から追われたり、時には殺されたりした。お決まりの、村社会=善(善という概念が無かった)
という構図の時代であった。社会批評が、古代に比べて、かなりの程度で許容される
ようになった、村八分の是非が問われるようになった現代においては、
エヴァンゲリオンは、妖怪、アウトサイダー、はみ出し者から見た、人間社会の異常性、
妖怪性、おどろおどろしさを、描いているのかもしれない。
不確かな表現がやたら多いけど、アナロジー、風刺は、文学の基本だからね。 >>97
その通り、文学の基本だ。君は94なのかい? わからないが?
アニメにはそういう隠喩が多くある。他方現代ドラマには全くない。
そしてこちらのほうが人気とは、押して知るべしである。
君は「エイトマン」を知っているか? あの昭和初期に技術文明批判をしていた。
日本のアニメは優れている。 「エイトマン」は解らないけど、それを好むあなたが、どこの誰かは、
大凡の見当はつきます。[>スワヒリ語では「〜すべき」がない。]。どっかで見た文章だ。
最近、大学でも見ないけど、今度会ったら、抱きしめてもいい? 一人で寂しくない?
授業(業界)仲間もなかなか作れないし、社会学のお局ババァは共同研究室で
グチグチ貶してくるしな。結婚指輪してないみたいだけど、婚約はしてるの?
相手はいるの? てか、してるの? 俺で良ければ、いつでも慰めて、温めてあげるよ。
どうせ、毎晩、一人で布団でもがいてるんでしょう? 別に大学で隠さなくても、
俺、別に、趣味がアニメとかでも、まったく気にしないから。先生、ブランド物大好きだから、
俺ユリウス一門・聖王一族の 王族の末裔だから、頭は最高にバカだけど、
虚栄心、見栄を満たす、ブランド物・飾り程度には 困らないと我ながら思うよ。 ディ=キャンプ:
「 それは( 現実逃避小説 )であり、読者は( 現実世界を離れ )、
男は全て強く、女は全て美しく、( 人生は全て冒険に満ちており )、
全ての事柄が単純明快である世界へと抜け出す。そこでは誰も( 所得税 )だの、
( 落ちこぼれ問題 )だの、( 公共医療制度 )だのを問題にしない 」。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%
AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC
ああ、何と俺に向いた分野だろう。社会学を専攻にしていて、本当に良かった。
大学教育の構造を知った今、理学部での学位を取れなかった時点で、自分の人生なんて
3流未満とか思い詰めかけるように、文系はついついなっちゃうんだけど、
唯一、人生の贅沢という点で、理学部にも負けない勢力がある。
それは、大人が皆忘れ去った世界、無限の空想世界だ。世界は全て、空想から生まれた。
この世で、空想ほど豊かなものが、どこにあろうか。これは、文学部というより、
むしろ、社会学、サブカルチャー、カルチュラルスタディーズの領域ではないだろうか。
幼い頃、分厚いファンタジー小説を通じて、無限の世界をたくさん冒険し、羽ばたいた思い出、
しかし、大人になるに連れて、どんどん狭い世界の小競り合いに隔離されて、忘れ去っていた世界。
今こそ、それを思い出し、纏めて、掬いあげて、再びあの時の、言語によって切り開かれた世界観を、
蘇生させようではないか。理学部に人生で並ぶには、もうこれしかない。 「思い出して(観点)(思い出)」→「分けて(掬いあげて)」
→「纏めて(反復して)」→「出す(世間に見せつける)」!
「思い出して」→「分けて」→「纏めて」→「出す」!
「思い出して」→「分けて」→「纏めて」→「出す」!
「思い出して」→「分けて」→「纏めて」→「出す」!
これ、ライフヒストリーの、一番基本中の基本のスタンスだと思う。 >>101
わたしは男だから、抱きしめてもらっても困るのだが。。。。
ついでだから訊きたい。現代の社会学は倫理とあまり関係がないのでは? もしそうであれば、学問としての価値が
あまりないなー。特に文系では。
現代の社会学は何なのですか? 質問です。 (音楽、ゲーム、アニメ、スポーツ、民族、宗教)などの文化、あるいは社会問題
(家族問題、教育問題、食糧問題etc)など、社会(society)(community)
を諸各国の中で相対的に位置付けて比較する際に、どういう文化的観点で比較していけば良いか、
を研究してんじゃないの? 日頃、日常で接している、こうしたPC、書籍などを、
マクロな目、総体的な、歴史的・業界的・国際競争的な、人類の所産の
文化として見る、半ば文化人類学的な見方とか。
あるいは、現代思想、現代哲学や、あるいは政治や経済の「現代○○学」シリーズ、
とくに社会科学を 1点に集約させたものとか。現代倫理学、生命倫理学も、
社会問題を考察する手法として、補助的に用いられたりするんじゃないの。
つーか、おまえ、弓じゃないの? >>107
「弓」って何ですか? ついでに云うとわたしは独学の者です。ただし、通常者ではない。そういう人たちは、「知識」でしか相手を判断できないようで。。。。。。。
知識の使い方を知らない者がそれを重要視する。それは知識と限りなく一体と成っているからだ。そのような者は知識を扱えない。なぜなら、知識を超えた者こそが
知識を扱えるからだ。そこのところは君には充分わかるだろう。たとえば、人間を知るためには、人間を超えていなければならない、人間であるにもかかわらず。
人間以外の動物が自身を理解しないのは、というか分からないのはそういうことだ。一般的人間は、その分水領に存在する。いわば天才はその分水領を超え、人間そのものに
到達するのだ。それに到達できるのは、飽くなき疑問があるからだ。それは、「どうして人間はこうも醜いのか?」ということである。 女は見た目は美しいが。。。。。 自然人類学者でも脳科学者じゃないもんで、詳しくは知らないけど、
記憶(知識)の吸収の仕方を誤れば、個人も集団も、とんでもない方向に
行ってしまうのは、歴史が証明してるとこあるね。
人間の脳には、大脳辺縁系という部分があって、ここでは、感情と記憶が
司られている。つまり、記憶(知識)と感情は、かなり関係が深く、いやむしろ、
感情は記憶によって作られていく、と言っても過言ではないぐらいで、
記憶(知識)を摂取する過程で、好き嫌いをしてしまえば、感情にも障害(般化)(防衛機制)
が起こる、という命題が導ける。
また、人間の脳には、前頭葉という部分があって、ここでは、合理的思考、
目的を達成するために、秩序立てて 作戦を練る能力 が司られている。
自然人類学では、人間の脳が新しく進化してゆく過程で、この前頭葉の進化、
あるいは全体のバランスがおかしくなってしまったがために、人類(文明)は、
現在のような、腐敗、滅びの道を歩むようになってしまったのではないか、と考えられているらしい。
槍という飛び道具を扱う クロマニョン人辺りから、人間は少しずつおかしくなったんだと。
それ以前のネアンデルタール人の段階では、たとえば社会学の福祉の起源はここにあって、
弱者を労る精神、人間精神、埋葬の儀式は、もうこの頃から存在していたそうだ。
イランのとある洞窟では、現在でも、周りに一面の美しいお花畑を広がっているんだが、
その洞窟で発見された6万年前のネアンデルタール人の遺骨からは、花粉が発見されたらしい。
つまり、6万年前も、あの洞窟付近では、現在と同じように お花畑が広がっていて、
ネアンデルタール人が、死者に手向けて、その花々を摘み取って、土に一緒に埋めたのではないか、
と現在のところ考えられているらしい。
養老孟子っていう、東大の高名な教授が出演してるDVDで、
NHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体U 心と脳』っての、ちょうど観賞してた。 スレタイを読めてない人が若干1名大量に連投してますね 「残酷な天使のテーゼ」(マ〜リ〜ア〜 のフレーズ)
「(魂)のルフラン」「心よ原始に戻れ」。そして最終話(特に劇場版)。
やっぱ、どれも、キリスト教と進化論の論争を反映していたようだ。
原始の心、動物の心、子どもの心。原始への還元。初歩のネアンデルタール人の
心を取り戻すことで、人類は善き方向に進んでゆくかもしれない、
と表明した、人類学の何たら博士と、まんま一緒の見解だったわ。 「魂のルフラン」( 最初の歌詞:「光よ〜 大地よ〜」)
途中の歌詞:
生命(いのち)はまぶしい朝を待っている (国破れて山河あり 城春にして草木深し)
最後の懺悔もかなわないなら いつか時代の夜が明ける
( 世界よ まぶたを閉じて ) 生命は目覚めて 時を紡ぎだす
あなたの証拠(存在)をさかのぼるように そして光が胸に届く 心よ 原始に戻れ
生命はまぶしい朝を待っている ( 破れた聖書を抱きしめるより )
いつか時代の夜が明ける ( あなたよ 祈りを捨てて )
生命は目覚めて 時を紡ぎだす ( 自然の法則(ルール)にその身をまかせ )
そして光が胸に届く 心よ 原始に戻れ
あれ、もしかして、思いっきり、西洋的人間観や人間社会を風刺する
アニメだったのでは… 人間よ 滅べ 、って言ってるような気がしてならない…
俺が勝手にそう思い込んでいる、あるいは投影しているだけか… >>111
>>114
>>115
113 名前:名無しさん@社会人[sage] 投稿日:2012/08/27(月) 00:22:42.12
スレタイを読めてない人が若干1名大量に連投してますね
上の発言に対して、気にするなよ。君は善く研究している。このあたりのことは、社会学では知られないだろう。だが、>>113は専門人らしい。
しかし社会学と名がつけば、社会現象を扱うのは当然だろう。違いますか? >>113。専門人は西部が批判しているようにろくでもないものである。
>>111 感情は記憶によって作られていく、と言っても過言ではない。
感情こそは生命進化39億年の傑作である、奇跡だ。それは悪くも働くが、よくも働く。しかしこれを取り去っては、われわれはもはや人間ではない!
豊穣な感情こそが人間の証だろう。誰が子猫を殺せるか? おかしな奴だけだろう。
>>111
記憶(知識)を摂取する過程で、好き嫌いをしてしまえば、感情にも障害(般化)(防衛機制)
が起こる、という命題が導ける。
記憶を摂取する過程こそ個性である。なにもかも知識を吸い取るのはかえって異常である。
君の書いていることはみな知っているよ。でも細かく云うと人の意識は分散されてしまいやすい。だから出てきたんだろ? 専門化が。 >>117
>豊穣な感情こそが人間の証だろう。誰が子猫を殺せるか? おかしな奴だけだろう。
子猫を殺せないとか奴隷を殺せるとかいうことには
もちろん感情も関わるけど、より大きく関わるのは知識だけどな
まあ両者の線引きは明確にはできないわけだけど
知識と感情の関係は構築主義が流行ってた2000年前後によく議論されてたこと。
知識を取り込むプロセスが個性というのはそのとおり。
ただ「記憶(知識)を摂取する過程」という言いかたはよろしくないね。
記憶というのは対象化された知識のことであり、したがって「摂取」後の知識。
それは「摂取する過程=摂取中」に現れるものではなく、「想起」という行為をするときにはじめて現れる。
だから「記憶を摂取する過程」という言いかたは語義矛盾。
「知識を摂取する過程」とすべきだった。