つづき
この「解釈」から導き出される「順当な演奏」を上回るために、どんなアイデアや感覚を持ち込めるか…となれば、
さすがにこれは「創造」と言ってよさそうにも思えます。しかし、同じ曲には無数の演奏例があり、本当に独自性のある
アイデアや感覚は通常は残っていないでしょう。必ず、すでに誰かがやっていると思います。話が微妙なレベルに及びます
から、技術の有無も無視できません。

まとめると、演奏において「創造したような気になる」ことは比較的簡単ですが、曲やこれまでの演奏史の「釈迦の掌の
上で踊っているだけ」と言うのもまたよくある話だと思います。であれば、様々な解釈や演奏アイデアを謙虚に学んだ方が
生産的ではないかと思います。

最後の「奏者の音楽的基盤や肉体的条件」ですが、チェコフィルはモルダウを弾くと神懸かり、N響は大河ドラマの
テーマ曲で神懸かり(いくら上手いとは言え、ベルリンやコンセルトヘボウが大河ドラマテーマ曲を本当に和風に弾けるで
しょうか?)…などのように、技術や解釈を超越して「そうなってしまう」部分が残ります。個性や才能は最終的には
ここに行きつくだろうと思います。でもこれも、残念ながら「創造性」とはあまり関係がなさそうです。