素人の我流(崩し)というものは得てして、
それが我流であるという正にその事によって、
かえってどれも似た印象を与えてしまいがちなものです。

最初に改変した人、最初にラストのrit.&フェルマータを行った人は、
なるほど個性的であったかも知れません。
先駆者としての勇気を讃えても良いでしょう。

しかし、あらゆる曲であらゆる人が、吊るしのスーツを選ぶような気軽さでそれらを行う昨今、
そこにはもはや紋切り型、類型しかないと指摘せねばなりません。

同じような髪型・メイク・制服の着崩しを行い、それで自分が大層個性的になったかのように錯覚する若者の姿…
日景氏が「改竄コンクール」と嘆く現状は、
むしろ没個性的と見るべきそうした若者文化の音楽版、と称しても差し支えないように思われます。

我々は、物分かりの良い大人である振りをすべきなのでしょうか?

直ちに答えの出せる問題ではありませんが、
たまに分からず屋の頑固親父が現れて説教するぐらいは、
一見活発そうに見えて実は澱んでいるかも知れないアマチュア吹奏楽界の水を、
ちょっと掻き回してみるような効果が期待できる、と評価しても構わないのではないでしょうか。