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杉原氏は建武三年に所領授与されとるし、後の構図でものう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/taiheiki46.html
{ドラマでは直冬が九州に下る前に尊氏と会見する創作を挟み込んだので、直冬がどうやって九州で
勢力を広げたか分かりにくい。その辺りをここで補足しておこう。 直義が失脚した直後の9月初め、
師直は長門探題として鞆にいた直冬を、尾道に住む武士・杉原利孝に命じて討たせた。
古典「太平記」はこれを9月13日の こととして、危うく殺されるところだった直冬を
磯部左近将監が奮戦して救い、肥後の武士・川尻幸俊が直冬を船に乗せて肥後へと逃れたと
記している。…川尻に連れられて肥後に下った直冬に、少弐、阿蘇、大友といった九州の
有力武士たちが馳せ参じてくる。}と、九州勢たぁ杉原氏は反目の立場じゃったよ。
http://d.hatena.ne.jp/matinoneko/touch/searchdiary?word=*%5B%A4%C1%A4%E7%A4%C3%A4%C8%A4%B7%A4%BF%CF%C0%B9%CD%A1%A2%A5%EC%A5%DD%A1%BC%A5%C8%5D
室町期の杉原氏
後に戦国大名として雄飛する小早川氏が室町時代、幕府奉公衆として京都で活躍したことはよく
知られているが、杉原氏もまた多くの奉公衆を出した家である。
杉原氏一族が中央で活躍するのは意外に早く、康永三年(一三四四)三月、惣領の光房は、幕府
五番引付衆として名を連ね、また同年に設置されたと推定される「三方制内談」の一員となって
いる。この杉原氏惣領家が後の幕府奉公衆にあたる将軍近習として史上に現れるのは、応安八年
(一三七五)三月のことで、「花宮三代記」同日二九日の条に将軍義満の近習として光房の
子直光の名がある。以後、惣領家の満平・光親(満平の子)・親宗の名が将軍近習、或いは奉公衆
の一員として見え、明応初年(一四九二頃)の将軍義植の時代に及んでいる(東山時代大名外様付等)。
この時期の杉原一族の全貌を示す史料は見当たらないが、奉公衆となった家については幸い
康正二年(一四五六)の段銭京済者の名簿が残っており、その概要を知ることができる。}と、
小豪族でも足利幕府から信頼された理由は武勲以外何があるんなら(笑)。