>>199
>>201の鬼平賀の平賀氏についてはこっちものう。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/a_hiraga.html
平賀氏の奮戦  
応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して平賀弘宗は西軍山名氏に属して出陣、
応仁二年八月の京都相国寺の合戦における働きは目覚しく、戦後「鬼平賀」の異名をとった。
 応仁の乱は、はじめは細川勝元が率いる東軍が優勢であったが、大内政弘が山名持豊(宗全)の
率いる西軍に 加担したことで、両軍の勢力が拮抗するようになった。
永正五年(1508)、京に入った義興は細川高国と結んで幕政を牛耳った。その間、細川澄元の
反撃によって 丹波に奔るという一幕もあったが、船岡山合戦の勝利によって大内・細川高国政権は
京を支配下においた。 船岡山合戦における平賀弘保の奮戦はすさまじいもので、祖父と同じく
「鬼平賀」の異名をとり尾張守に任じられた。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand/4618/oninnoran.html
応仁元(1467)年、応仁の乱最初の大合戦にさいし、小川(こかわ)に架かるこの橋には
細川勝元配下の三宅・吹田・茨木・芥川氏など摂津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と
激しく戦った。}
と、広島県以外の史料でも確認出来るわけじゃし。