(中略)

結局、私が巣鴨から仮釈放されたのは、講和条約発効から4年半後の1956年10月だった。
私の友人は、最後、翌年の1957年4月にようやく仮釈放された。

しかも、なんの支援も補償もなく、『第三国人』として東京の街に放り出されたのだ。
自由にはなったが、金も仕事もなく、『戦犯』『対日協力者』の烙印を貼られて、
故国に戻ることもできなかった。

私たちはもともと日本に住んでいたわけではない。朝鮮半島に暮らしていて、
戦後に南方から東京に送られたものである。釈放された地は異国で親兄弟もなく、
生活基盤がまったくないため、釈放後の生活は困窮を極めた。
生活苦と失望から2人の仲間が自殺した。また1人は戦犯に問われた衝撃で精神病になり、
釈放と同時に今度は隔離病棟に入れられた。
留守家族の生死にすら無関心のまま、40年の闘病生活の末、78歳で生涯を終えた。
約50人が故国に帰れず、そのまま日本に暮らし、もうほとんどが鬼籍に入ってしまった。

日本人として戦場に連れて行かれ、日本の戦争責任を果たすべく、仲間は命まで奪われ、
服役させられ、いつのまにか『外国人』にされた。そして、何の説明も挨拶もなく、
東京で刑務所から放り出されたまま、今日まで至っている。

その後、日本人戦犯は、公民権も回復され、恩給や弔慰金、遺族年金も受け取っていると聞く。
日本人は自分たちさえよければ、それでよい、戦争に巻き込んだ朝鮮半島や台湾の私たちの
ことはどうでもよく、配慮も関心もないのだろうか?日本国は冷たいとか差別しているというより、
人の道に反しているのではないかと最近強く感じる。