>>259

■「私は『もう学校へ行かなくてもいいのかな』と思いました」

次に埼玉県の国民学校6年生の女子生徒がその数カ月後にその日を振り返った作文から。

昭和十六年十二月八日から昭和二十年八月十五日の間に、私たち国民は食糧増産や
飛行機や軍艦戦争に使う武器を作る為に働いていました。勝つのだ勝つのだといっていましたが
とうとうアメリカの勝ちで日本は無条件降伏したのです。十四日の夜は熊谷や私たちの村も
爆撃したのです。その時はもう死んだのか生きているのかわからなくなってしまいました。

みんな火でうづめつくされてしまいました。十四日の夜が明けて十五日になりました。
熊谷の方の人たちは焼け死んだ人もたくさんあるという事でした。私は「もう学校へ行かなくても
いいのかな」と思いました。負けても行くのだそうです。その時はみんなおどろいて働く人は
一人もいません。

お昼の時ラジオのニュースで重大放送がありました。熊谷付近は焼けてしまったので、
電気は通じていませんでしたのでラジオを聞く事ができません。その日の夕方
「日本が負けた」というのを聞きました。

この作文を書いたのは、吉田タケ子さんだ。作文は現在、埼玉県平和資料館が所蔵。
この続きには、

「政府は国民にうそをいって、アメリカの方がたくさん軍艦を沈めたのに、日本の戦果の方を
大きくしたり」していたこと、「東條は戦争を始める時、内閣としていばっていました。
終戦になって直ちに戦争はんざい人となりました」「今は東條のにくらしい事が思い出されて
急にくやしくなる事もあります」という率直な気持ちが書かれ、正確な情報が広まっていった様子がうかがえる。