http://www.mammo.tv/interview/archives/no007.html
天本 英世 さん(俳優)

旧制高校から東大法学部といえば、その当時エリート中のエリートですね

僕は北九州の若松生まれで、田舎のある程度の秀才だった。英語が得意だったけど、
戦争中なので英語は敵国語だとされ、試験科目から外された。

こういうところは、文部省の今も変わらないボケたところだ。それで英語の代わりに数学が
出題されたが僕にはまったくわからない。

だからいくら受けても落ちた。おまけに文科は戦争の役に立たないから(募集人数を)35人に
減らし、理科は300人に枠を広げたからひどいもんだ。理科は23歳まで兵役免除だが文科は
20歳で徴兵された。とにかく1年浪人して旧制高校(鹿児島の七高、現在の鹿児島大学の前身)に
入った。それが昭和19年(1944年)だった。


戦争についてどう思っていましたか?

旧制高校は11人に1人の合格率で難関だったけど、田舎生れだから、とくに頭が澄んでいたわけ
じゃなかった。35人のうち半数は鹿児島出身だが、残りの半分は東京や関西から来ていた。
こういった連中は頭の仕組みが全然異なっていて、読む本の質も量まるで違った。
あの時代でもマルクスを読んでいたようだ。

そうした中でも早熟だったのは『仁義なき戦い』で有名になった作家の飯干晃一だった。
●飯干は「あと何ヶ月で日本は負ける」と言っていて、その通りになったからびっくりした。
彼はクラス一の立派な「非国民」だったよ。