NHK連続テレビ小説「ブギウギ」ネタバレスレ★ 1
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
連続テレビ小説「ブギウギ」のネタバレスレです
※ガイド本、小説(ノベライズ)、テレビ情報誌、ロケ目撃情報など
未放送分のネタバレを含む話はこのスレで
※ネタバレを含まないドラマ話や予想話は本スレで 買い物ブギ はメクラとかツンボとか言ってるからフルではできんやろ
フルでやるんやったら歌詞を改変するんやろ >>442
キングカズJrが学生時代に外構のバイトやってたってエピソードが面白かった 第22週は「世代交代」がテーマになるのね。タナケンの怪我、トミの死、山下さんの引退。
今まで「受け取る」側だったスズ子が、次の世代に何を教えるのか、そのあたりがタケシを
通じて描かれると。それは同時にスズ子の歌手引退へのプロローグでもあるのかもしれない涙 芸能人そろって焼香 大阪<時の話題>
放送年:1950年
演芸人育ての親、吉本せいさんの告別式が、おなじみの芸能人大勢参列の下に、3月27日、大阪・四天王寺で行われました。息子さんとの結婚を許されなかった笠置シヅ子さんの姿が目を引きました
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009182860_00000 そういえば、ヘイヘイブギーのライブはすっ飛ばすんだね。最後のネタに取っておくのか。 【連続テレビ小説】ブギウギ 第23週「マミーのマミーや」
(107)
タケシ(三浦?太)がスズ子(趣里)のマネージャーになって2か月、タケシはすっかりなじんでいた。そんなある日、羽鳥善一(草なぎ剛)からアメリカの公演に行かないかとの話をもらう。スズ子は、本場の客の前で挑戦してみたいという気持ちがある一方、愛子(小野美音)を連れて行くことはできないと聞き、迷ってしまう。スズ子がなかなか結論を出せずにいるなか、タケシが愛子にアメリカ行きのことを話してしまう。
(108)
アメリカ行きを決めたスズ子(趣里)だったが、愛子(小野美音)は置いていかれることにすねてしまう。旅立ちの直前に開催された「お見送りショー」には、おミネ(田中麗奈)たちも応援に訪れ、最後に披露された「東京ブギウギ」で会場は大盛り上がりとなる。しかし、客席で大野(木野花)と一緒に見ていた愛子は相変わらずの様子。出発の日、泣き叫ぶ愛子を残し、スズ子は胸が引き裂かれる思いで家を後にする。
(109)
スズ子(趣里)は4か月間にわたったアメリカ公演から帰国し、留守中に完成した新居を訪れる。スズ子は、愛子(小野美音)が自分を受け入れてくれるのか心配していたが…。スズ子が日本に戻ってから1年。スズ子はすっかりご近所さんとなじみになっていた。そんなある日、香川の松吉(木内義一)から電報が届く。がんで闘病していた梅吉(柳葉敏郎)が危篤だという。スズ子は愛子を連れて香川へと向かう。 (110)
久しぶりに香川に戻ったスズ子(趣里)は、梅吉(柳葉敏郎)が写真館を切り盛りし、繁盛していたとの話を聞く。梅吉が大切にしていた写真が倉庫にあると言われ、スズ子が倉庫にあったアルバムを見ていくと…。一方、愛子(小野美音)は、はじめは梅吉に近寄らずにいたが、ひとりでこっそりと梅吉の部屋を訪れる。やがて、医者から今夜が山だと聞かされる。スズ子は寝ている梅吉に、昔を思い出しながら話しかける。
(111)
スズ子(趣里)は、杖をつきながら歩く初老の女性と目が合う。それは、15年前に一度だけ話をしたことがあるスズ子の生みの親、キヌ(中越典子)だった。あのときは小さかった2人の息子たちも、今では立派な青年となっていた。スズ子は、キヌと2人で話をすることにする。
ttps://dimora.jp/
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41478/41478_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41479/41479_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41480/41480_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41481/41481_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41482/41482_1.jpg >>448
梅吉と愛子・・・たまらん(´;ω;`) あらすじありがとう。この感じだとアメリカ公演中の様子までは描かないのかな?
小夜ちゃんとの再会は帰国したスズ子の回想シーンになってしまう可能性もありそう。 〜父母の思いを知る〜 (6)
自分のことではあるのだが、シズ子は大阪の亀井家の長女として暮らす以前のことについては、マスコミが憶測で書いた記事以外には何も知らない。
実父母に対するこれまでのイメージは、新聞や雑誌から得た情報で構築されたところが多分にあった。
南原の話を聞いてそれが大きく変わる。
南原はこの後もシズ子のことを色々と気にかけて連絡をとりつづけた。
彼女の後援会が正式に発足すると後援会長にも就任している。
東京大学総長が流行歌手の後援会長になるというので、当時は大きな話題になった。
また、昭和51年(1976)故郷の相生小学校に南原の歌碑が建立された時、シズ子はその落成を祝って『児童の鑑』と題した長文の手紙を送っている。
それによれば「私もブギでデビューしてから先生に常にお電話まで頂きはげましのお言葉身辺の安否までお気つかい下さいました」と、深い親交があったことがうかがえる。
シズ子はいつも自分のことを気にかけてくれる父の親友である南原に、父の幻影を見ていたのかもしれない。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜父母の思いを知る〜 (7)
シズ子は鳴尾と再び会って親交するようにもなった。
初対面の時のように感情を押し殺した無表情ではない。
秘密をすべて知ってしまったシズ子の前では鳴尾も感情を露わに「許してや。ホンマにすまん、すまん」大泣きしながら幾度も詫びてくる。
その涙を見てわだかまりはすべて消えた。
その後も鳴尾は幾度か東京を訪れるようになり、色々な話をするようになった。
その人となりを知れば知るほど、自分はこの母親に似ていると思うようになる。
娘・エイ子のことはこの世の誰よりも愛している。一番大切な宝だ。娘のためならどんなことでもしてやりたい。
それと同じ感情が鳴尾のなかにもあることを知る。母娘の絆は深まってゆく。
それまでのシズ子は引田が故郷だという感覚は希薄だった。
義父母の故郷ではあるが、自分にはそこに何の思い出もない。
もしも引田での記憶が残っていたとしたら、それは冷たい仕打ちをされた嫌な思い出しかないだろうと。
その誤解が解け、改めてその街並みや目の前に広がる瀬戸内海の眺めを想像してみる。
と、心に浮かんでくる風景は、それまで見てきた眺めとは違って温かく懐かしい感じがする。
自分を愛してくれた父がいた場所、そして母がいまも住んでいる場所だ。とても愛おしく思えてくる。
自分の故郷は大阪だと思っていたのだが、どうやら、もうひとつ故郷が増えたようだ。
『東京ブギウギ』の大ヒットがなければ、南原がシズ子に関するマスコミ報道を目にすることはなかっただろう。
会うための行動を起こすこともなく、彼女は何も知らず生きつづけていたのかもしれない。
ブギウギの衝撃が、もつれて絡まった過去の誤解を吹き飛ばした。
シズ子が父母や故郷と向きあう契機にもなった。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜美空ひばりとの確執〜 (1)
さて、ここで話は少し前に戻る。
引田での凱旋公演がおこなわれる1年前、
昭和23年(1948)10月のことだった。
シズ子は横浜国際劇場の舞台に出演していたのだが、この時に美空和枝を名乗る11歳の少女が、同劇場の支配人・福島博に連れられて楽屋に挨拶にやって来た。
美空は横浜の市民芸能コンクールで、シズ子の歌い方や間奏の時の踊りをそっくりに真似た『東京ブギウギ』を披露して話題になっていた。
"ベビー笠置"などという愛称で呼ばれ、この頃はあちこちの舞台やイベントに出演している。
しかし、シズ子の叫ぶような地声や激しい動きを、小学生の少女がそっくりに演じるのだから違和感を覚える者も少なくはない。
詩人のサトウハチローなどは「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と酷評していた。
真似されたシズ子本人はべつに何とも思っていなかったようで、楽屋を訪問してきたこの少女と一緒に仲良く並んで記念撮影をしている。
モノマネの素人には、関心がなかったのだろう。
少女はこの前年、芸名を「美空ひばり」に変更して本格的にプロ歌手としてデビューした。
キワモノと批判する声はあいかわらずあるが、また、モノマネの域を超えていると高く評価する者もいた。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜美空ひばりとの確執〜 (2)
シズ子の持ち歌のひとつに『セコハン娘』というのがある。
歌詞の内容は、いつも姉のお古ばかりを着せられて、初めての彼氏も姉の元恋人だったというもの。
美空が『のど自慢狂時代』という映画に端役として出演した時に、のど自慢大会のワンシーンでこの曲を唄っている。
「笠置の歌はひどく陽気になるが、セコハンの哀しさといった感じは出ていない。
しかし美空ひばりがうたうと、なんともいえない哀れさがある。ホロッとするものを出す」
とは、この映画を監督した斎藤寅次郎の言葉。
竹中労の『完本 美空ひばり』に記されていた一文を抜粋したものだ。
この歌声に惚れ込んだ斎藤は、後に『東京キッド』など彼女の主演映画を多く手がけることになる。
美空は翌年の8月に『河童ブギウギ』でレコード・デビューするが、残念ながらこの曲はヒットしなかった。
笠置シズ子のモノマネで評判になった少女歌手だけに、その路線で行こうとしたのだろう。
が、それがウケるのは素人の少女だったから。
プロの歌手になるとそうはいかない、世間の見方が違ってくる。
モノマネでレコードは売れない。
また、個性がまったく違うシズ子の真似では、彼女本来の魅力も半減してしまう。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜美空ひばりとの確執〜 (3)
周囲もすぐにそのことに気がつく。
10月に公開された初の主演映画『悲しき口笛』で唄った同名の主題歌は、しっとりと濡れた日本的な情緒を感じる曲だった。
底抜けに明るくカラッと乾いたブギとは真逆の路線変更、それが功を奏したようである。
2枚目のシングルとして売り出されると、たちまちレコード売上10万枚を超えるヒット曲になっている。
美空ひばりがモノマネのブギウギと決別して独自の路線を歩みつつあったこの頃、ふたりの間に軋轢を生じさせる出来事が起こる。
昭和25年(1950)7月、美空は渡米して日系人慰問公演に出演したのだが。
この公演では音楽著作権協会から「笠置シズ子の持ち歌を歌わぬように」と通達がされていた。
シズ子が著作者の服部良一を動かしてクレームを入れたという。
デビューしたばかりの美空には持ち歌が少ない。
アマチュア時代から唄ってきたブギウギは、ショーやイベントで欠かせないレパートリーなだけに困り果てたようである。
彼女の近親者やスタッフはシズ子を恨んだという。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜美空ひばりとの確執〜 (4)
シズ子にも言い分はある。
美空のアメリカ公演から1カ月ほど後に、彼女もアメリカ各地をまわる日系人慰問巡業を予定していた。
美空に持ち歌をそっくり真似されて唄われてしまうと、後からやってきたシズ子のステージを観た客は「なんだ、またブギか」となって盛りあがらない。
遠く離れたアメリカで暮らす日系人には、どちらが本家なのか分からない。
訪米公演もシズ子のほうが早くから計画していたものだけに、営業妨害されているような感じだった。
世間はそうは見てくれない。
人気急上昇中の美空に嫉妬しているとか、
子ども相手にケンカを売るのは大人気ないとか、
この件に関してマスコミが報じる内容はどうもシズ子に分が悪い。
「センセー、子どもと動物には勝てまへんなぁ」
そう言って、服部良一の前で苦笑いを浮かべたという話が残っている。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜美空ひばりとの確執〜 (5)
シズ子と美空の争いはしばらくマスコミのネタになり世間をにぎわしていたが、
昭和26年(1951)2月のNHKラジオ「歌の明星」で共演した両者が番組の中で和解。
これで一件落着となった。
しかし、この件でシズ子本人は最初から争っている気などなかったのではないか?
仕事の邪魔になるから、権利を行使して正当な要求をおこなっただけのこと。
この後にも先にも、彼女は美空について何も語ってはいない。
まだ小中学生の少女である。
陰で操る大人たちには思うところはあったかもしれないが、美空本人に遺恨はない。
シズ子の性分からすると、相手を敵と思っていたのなら、もっと情け容赦なく対応したはず。
和解の握手など絶対にしなかっただろう。
上辺だけ笑顔で接するなんて芸当は無理。
人づきあいに不器用なのは、いくつになっても変わらない。
ラジオ番組の茶番劇につき合ったのは、敵でも味方でもない関心のない相手だったからだと思う。
ブギウギのモノマネをやめてくれたら、もう彼女と関わりあうこともない。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜ブギウギの時代は儚く消えて〜 (1)
美空が渡米公演とほぼ同時に発売した『東京キッド』は45万枚を売り上げる空前のヒット曲となっていた。
この年の4月に発表された芸能雑誌『平凡』の人気投票でも2位に躍進。
もはや美空ひばりを"ベビー笠置"などと呼ぶ者はいない。
また、この人気投票でシズ子が10位にまでランクダウンしていたことにも驚く。
ブギウギのブームは早くも過去のものになりつつある。
それはレコードの売上実績にもはっきりと現れていた。
昭和25年(1950)のレコード売上ベストテンを見ると1位は『東京キッド』で、前年まで一人勝ちの状況だったシズ子の楽曲は6位にランクインした『買物ブギー』だけ。
翌年の昭和26年(1951)にはとうとうベストテンから消えてしまう。
服部良一が言う通り、大衆の心は常に流れて一刻も停滞していない。
流行もすぐに変わる。
それだけに"流行歌"の命は儚いものだ。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜ブギウギの時代は儚く消えて〜 (2)
1950年代に入ると、流行歌の潮流にあきらかな変化が見られる。
美空の楽曲にあるような哀愁があふれ、七五調でつづる日本的なメロディーの流行歌が増えた。
『上海帰りのリル』などのように戦前を懐かしむような歌も流行っている。
「それは敗戦直後のアメリカ文化の模倣から、ようやく日本人の持つ独特の情念に回帰ようという動きだった」
評論家の竹中労はこのように語り、ブギの喧騒は去ったと断言している。
昭和25年(1950)に勃発した朝鮮戦争は、開戦から1年を過ぎても激化の一途。
アメリカ本土からも大勢の兵士が朝鮮半島に送り込まれ、その兵站基地として機能する日本では工場がフル稼働していた。
増産を当て込んだ設備投資もさかんになり朝鮮特需と呼ばれる好景気が生まれる。
復興の目処が立ってきた。
シズ子と美空がラジオでの和解会見をおこなった半年後の昭和26年(1951)9月8日にはサンフランシスコ講和条約が締結されている。
これで連合軍の占領統治も終わる。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜ブギウギの時代は儚く消えて〜 (3)
日本人には聴き慣れず違和感のあるブギウギが大衆に受け入れられたのは、敗戦による自信喪失も大きな要因だった。
アメリカのものなら何でも手放しで賞賛してしまう、敗戦国の負け犬根性…
植民地的な借物の音楽、軽薄で無責任なリズムに浮かれていた自分が恥ずかしいと反省を口にする者が現れる。
自信を失い、我を見失い、迷走する人々は、シズ子の明るく存在感あふれる歌声に引き寄せられて、猫も杓子もブギのリズムに身を委ねた。
しかし、日本が主権を回復して自信を取り戻した人々が我に返ると「自分は何故あんなに浮かれて踊っていたのだろうか」それまでの自分がバカに見えてくる。
正気の沙汰ではなかった、と。そんなところだろうか。
ブギウギの流行は、占領期の一時に生じた人々の"気の迷い"か?
さて、シズ子は自分が唄うブギウギについてどう思ったか。
ブームの終焉をどんな思いで見つめていたのだろうか。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より ◆ 第七章 歌手・笠置シズ子の終い方 ◆
〜紅白歌合戦に出場〜 (1)
昭和27年(1952)4月10日からラジオドラマ『君の名は』の放送が開始された。
東京大空襲の夜に出会った男女が恋に落ち、その後はすれ違いを繰り返して、会うことができない。
もどかしい恋愛劇に人々は夢中になっている。
「忘却とは忘れ去ることなり。
忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ…」
ドラマのオープニング・ナレーションが流れる頃になると、銭湯の女湯がどこも空になるという伝説が生まれていた。
戦時下を生きた者たちにとって、空襲の記憶は恐ろしく忌まわしい。
記憶から消し去りたい惨劇だった。
ところが、この頃になるとそれを、恋愛ドラマの舞台として楽しむようになっている。
惨劇の記憶は忘れ去られようとしていた。
『君の名は』の放送開始から2週間ほどが過ぎた4月28日には、サンフランシスコ講和条約が発効した。
日本を占領統治していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は撤退し、接収されていた帝国劇場や帝国ホテルなどの施設が返還された。
英語名で表記されていた道路の案内板も再び日本名に改められている。
主権の回復をその目で確認した人々から、敗戦時の負け犬根性は払拭されて自尊心が取り戻される。
そして取り戻された自尊心は、条約発効後も日本の国土に駐留しつづけるアメリカ軍に牙を剝く。
各地で米軍基地の存続に反対する運動が巻き起こった。
「ヤンキー・ゴーホーム」
という反対派が叫んだスローガンが流行語になっていた。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜紅白歌合戦に出場〜 (2)
流行歌は世相を反映する。
美空ひばりの『リンゴ追分』は、この年の5月にレコードが発売されると、すぐに戦後最大の70万枚に達して売上記録を更新。
日本的な情緒に満ちあふれ哀愁をおびた曲調が歌謡界のトレンドになってくる。
また、同年には江利チエミが現れた。
彼女も美空ひばりと同い年、数年後には雪村いづみをくわえた昭和12年(1937)生まれのトリオが「三人娘」と呼ばれ、歌謡界の人気を独占するようになる。
江利チエミは少女の頃から米軍基地内で巡業してきたジャズ歌手で、米兵たちのアイドル的存在だったという。
その下地から欧米のテイストが色濃く、どちらかといえば美空の日本情緒路線よりもシズ子に近い感じがある。
デビューシングルの『テネシー・ワルツ』も原曲は1948年にアメリカで発表されたカントリーミュージック。
それに和訳の歌詞を入れたものだった。
しかし、『テネシー・ワルツ』は初めて聴いた日本人にも、ブギウギのような違和感がなく耳にすぐ馴染む。
ワルツは三拍子が基本。
スローテンポで落ち着きがあり、しっとりした情感があふれている。
日本人の好みに適合し、抒情的な日本語の歌詞がよくはまる。
『テネシー・ワルツ』の人気にあやかり、ワルツと題された曲が次々に登場した。
柳の下に二匹目のドジョウを狙う、ブギウギがブームだった時と同じで歌謡界の常。
なかでも、日本髪と和服の芸者スタイルで神楽坂はん子が唄う『ゲイシャ・ワルツ』は大ヒットしている。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜紅白歌合戦に出場〜 (3)
「テネシー・ワルツに対抗できる日本調のワルツを作りたい」
と、コロムビアが力を入れて、戦前からのヒットメーカーである古賀政男と西条八十のコンビに依頼して作られた曲。
"日本風"の濃度がさらに濃くなっており、宴席で三味線の伴奏でよく唄われたという。
この後も「ワルツ」がタイトルにある曲が多く作られ、1970年代頃までは『星影のワルツ』『乙女のワルツ』など、ワルツと題する曲がヒットチャートに登場している。
ワルツは日本人の好みにあうよう様々なアレンジをくわえることで生きながらえていった。
一瞬のブームの後に消えてしまったブギウギとは違う。
シズ子が唄ったブギウギ。
圧倒的なパワーを見せつけられた人々には、いまもそれが鮮明な記憶として焼き付いている。
ブギウギといえば、シズ子が唄ったそれしかない。変えようがない。手をくわえると陳腐なものになってしまう。
それが必要とされた時代には圧倒的に支持される。
が、激しく変化する時代にあわせて変わることができない。
不器用な彼女の生き様にも通じるところがある。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜紅白歌合戦に出場〜 (4)
シズ子は、昭和27年(1952)のNHK紅白歌合戦に出場している。
当時はラジオ放送、収録はスタジオでおこなわれていた。
この頃の紅白歌合戦は正月番組として放送され、出場歌手は男女それぞれ12組と現在の半分程度である。
紅組のトップバッターはシズ子と同じ松竹歌劇団出身の暁テル子。
楽曲は『東京シューシャイン・ボーイ』だった。
その次は宝塚少女歌劇団の出身でジャズ歌手としても活躍した池真理子とつづく。
序盤戦は大正生まれの歌手ばかり。
公共放送であるNHKは、あらゆる人々への配慮が必要だ。
現代の紅白歌合戦でも「今年の活躍」「世論の支持」を歌手の選考基準にあげながら、時代とはかなりズレを感じる熟年層向けの演歌や懐メロもそれなりの枠を取っている。
そして、3番目にはシズ子が登場して『買物ブギー』を唄った。
この時はもう「今年の活躍」で選ばれたわけではなさそうだ。
日本中がブギウギに浮かれていた頃からさほど時は経っていないのだが、それがもう懐メロ枠?
激変しつづける昭和20年代を生きた人々は、現代人とはかなり違った時間感覚で生きていたのかもしれない。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
とは、日本を支配した連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーが退任演説で発した名言。
役割を全うした者は人々の前から消える。
しかし、まだ死んではいない。
表舞台に姿を現さなくなっただけのこと。
命の灯が尽きるまで、新しい生き甲斐をみつけて生きつづける。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (1)
『買物ブギー』が45万枚を売り上げて、ブギウギのブームが盛りだった昭和25年(1950)に、シズ子は世田谷区弦巻で300坪の土地を購入している。
高度経済成長期前の土地が安い頃とはいえ、電車網が発達した住宅地でこれだけの広さの土地を買うとなれば、それなりの資金が必要だ。
普通のサラリーマンでは難しいだろう。
翌年にはこの土地に建てた新居が完成した。
こぢんまりとした40坪の平屋建てだったが、愛娘とふたりで暮らすにはこれで十分。
家が小さいぶん広い庭が確保されている。
シズ子は庭をすべて花壇にして花をいっぱい植えた。
花の栽培は彼女の趣味となり、とくにバラを好んだという。
草摘みなどの作業もすべて自分でやる。
仕事が休みの日には一日中花壇で土をいじった。
顔は泥だらけ、爪の中も汚れて石鹼で洗ってもなかなか取れない。
そんな努力の甲斐があり、美しい花園が近所の評判になっている。
近所では「笠置ガーデン」という別名で親しまれ、道端で観賞する人も多かったという。
付近の小学校が「生徒の理科学習のために見学させてほしい」と申し入れてきたりもした。
花いっぱいの美しい庭を最愛の人たちと一緒に眺めて暮らす。それが夢だった。
穎右が残してくれたエイ子は4歳、庭仕事をするシズ子にまとわりついて離れない。
その姿を眺めるうちにシズ子の顔もほころぶ。
この数年間、忙しく働きつづけたのは最愛の娘と幸福に暮らすため、この笑顔を見るためだった。
目的をやり遂げた。心は達成感に満たされる。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (2)
ブギウギのブームが下火になってきた頃に、服部がシズ子に違った楽曲を歌わせようと試行錯誤したこともあった。
しかし、上手くいかない。
ブギの女王として大衆に周知されたイメージが強過ぎるということにくわえて、シズ子のモチベーションにも問題があったのではないか?
『東京ブギウギ』が大ヒットする以前は切羽詰まった状況にあった。
生まれたばかりのエイ子を抱えて、歌手として再起をはからねばならない。
頼れる肉親や親族もいない身の上。
再起に失敗すれば母子ともども路頭に迷う。
「ブギに再起を賭けた私は、全身のエネルギーをふりしぼり声帯のエンジンをフル回転させて、
歌い、踊り、咆え、叫んで客席と一体化した熱気のうちに、自分自身の新しく生きる力をヒシと確かめようとしました。
(中略)
その意味で、『東京ブギウギ』は私自身の復興ソングだったのです」
『婦人公論』(1966年8月号)の記事で、本人が当時の心境を語っている。
背水の陣、火事場のバカ力。
危機に際して目覚めた生存本能が爆発し、それに日本中が巻き込まれて一大ブームに。
もう一度それをやれと言われても…。
「あんなしんどいこと、もうできまへん」
それが本心だったと思う。
娘とふたり生きるのに必要な金はもう十分に蓄えている。
あの頃の危機感はない、すでに目的は達しているのだ。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (3)
歌うことがすべて、自分の使命であり存在証明と考え、そこに命を賭ける歌手もいる。
シズ子と因縁深い美空ひばりの場合はどうか。
この後も、彼女は歌謡界の女王として君臨しつづけた。
60年代末頃にグループサウンズのブームが起こると、日本情緒にあふれるその路線に人々は「古い」という印象を持つようになり飽きはじめる。
大衆の心はいつも移り気で身勝手だ。
日本情緒に飽きれば、今度はまたアメリカから入ってきた新しい音楽に関心が移る。
ブギウギの時と同じだ。
しかし、美空はそこで終わらない。
時代のニーズにあわせて大胆なイメチェンをはかる。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (4)
昭和42年(1967)に発表された『真赤な太陽』は、これまでの美空の楽曲にはなかったパンチの利いたグループサウンズ調。
当時は人気絶頂だったブルー・コメッツとのコラボ曲でもあり話題を呼んだ。
真っ赤なミニスカートを穿いてダンスしながら歌う美空の姿に大衆は驚き、新たな魅力に人気も再燃した。
歌いつづけるためならば、これまでの自分のイメージを破壊する変化を厭わず。そのための血を吐くような努力もする。
この後、美空は50歳の時に体調不良で倒れて約2年間の長期療養を余儀なくされるのだが、それでも歌を諦めなかった。
昭和63年(1988)4月には復帰を果たす。
不死鳥をイメージしたステージ衣装を身に纏い、完成したばかりの東京ドームでコンサートを開いている。
体調は万全ではなく、体力を消耗するステージに立つのは命を削る思いだったろう。
それでも歌はこの世で一番大切なもの、自分のすべてだと思うから。
死ぬまで唄うことがやめられない。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (5)
しかし、シズ子はそうではない。
歌よりも大切なものがある。
彼女にとって最も大切なものは家族、歌はそれを守り養うための手段だった。
両親や弟を亡くした後は、唯一の家族である愛娘のために唄いつづけた。
安住の家を得て、いまは母子が路頭に迷わないですむ蓄えもある。
人々を魅了しつづけたあの歌声は、娘を養わねばならないという切迫感が作用していた。
生存本能からくる叫び。
暮らしに余裕が生まれたいまは、その本能が発動しなくなっている。
ブギのブームが下火になった頃から、シズ子は引き際を考えていたようだった。
忙し過ぎて、娘と一緒にいる時間もなかなか取れない。
日々成長してゆく娘の可愛い今をすべて目に焼き付けておきたい。置き去りにされる娘も可哀想。
長い出張の時などは、夜中に寂しがって泣いていないかと気にかかる。
このままではお互い不幸だ。お金はもう必要ない。
いまは母子が一緒にいる時間をすこしでも長くして、愛娘の成長を見守りたい。
また、このまま人気商売の歌手をつづけることで、娘を危険に晒すのではないかと危惧していた。
派手で目立つ存在だけに、悪事を企む輩を引き寄せる。
それで寿命が縮むような恐ろしい体験をした。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜シズ子もブギの時代の終焉を望んでいた?〜 (6)
昭和29年(1954)3月31日、自宅に「俺たちの結社」を名乗る人物から
「指定する場所に6万円を持ってこい。そうしなければ、お前の娘・エイ子を殺す」
という脅迫電話が入ってきた。
この年の大卒初任給8700円、高卒だと5000円程度だからそれなりの大金である。
幸い犯人は素人の単独犯。
犯行計画もずさんなもので、すぐに逮捕されて事なきを得たのだが、事件が解決するまで生きた心地がしなかった。
当時は芸能人の住所や電話番号が雑誌などにもよく掲載され、プライバシーへの配慮は皆無。
それだけに馬鹿なことを思いつく者は後をたたず、この翌年には芸人のトニー谷の息子が本当に誘拐される事件も起きている。
誘拐は成功率が低く罪は重い。割にあわない犯罪だ。
それをやる者たちは、大概が金に窮して切羽詰まった状況にある。
芸能人の贅沢三昧の生活ぶりを雑誌などで目にすれば、怒りの矛先はそちらに向けられる。
能天気で明るいシズ子のようなキャラクターは、世間を恨む彼らにはなおさら癪に障り標的になりやすいのかもしれない。
このまま唄いつづけることで愛娘を危険に晒すことになりはしないか。
娘の安全を考えるなら、歌手・笠置シズ子は消えてなくなったほうがいい。
ブギウギの人気が凋落したいまがその頃合い、そんなふうにも考えるようになっていた。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (1)
昭和31年(1956)には石原慎太郎の小説『太陽の季節』が刊行されてベストセラーになっている。
石原の弟・裕次郎を主演に映画化されてこちらも大ヒット。その影響は大きい。
裕次郎を真似たサングラスやアロハシャツの若者が街にあふれ、太陽族と呼ばれるようになっていた。
映画の登場人物たちのように街でナンパすることもやる。
無軌道で不道徳な行動を問題視する声が高まっていた。
戦後教育を受けて大学生や社会人になった若者たちが増えてきた時代。
戦前を生きた世代とは考え方や価値観があきらかに違う。
大人たちには彼らが外国人のように映る。
シズ子が『東京ブギウギ』を発表した頃は、ステージの上で奔放に踊り唄う彼女に呆れ「下品」「退廃的」などと批判する声もあったのだが。
いまはそれさえ大人しく感じるほどに、世は変貌している。
音楽の世界でもアメリカでエルビス・プレスリーが脚光を浴び、日本でもロカビリーが流行していた。
コンサートが盛りあがってくると、興奮した観客は曲にあわせて総立ちで踊りだす。
2月に日劇でおこなわれた「ウエスタンカーニバル」では、ファンがステージを占拠してミュージシャンを客席に引きずり込む騒動が起こっている。
流行の音楽は、それを聴く客のほうも過激になっていた。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (2)
歌手・笠置シズ子はますます過去の人になりつつある。
それでも彼女にはまだ需要があった。
いまもそのネームバリューで大勢の客を呼べる。
義理堅い性格の彼女だけに、昔から世話になった人々からのオファーをむげに断るようなことはしない。
劇場にやってきた客たちは、ブギウギの時代を懐かしむ。
占領期の苦しい頃のことを思い浮かべながら、元気を呼び起こしてくれるシズ子のパワフルな唄声に耳を傾けた。
あの時代はブギウギ一色に染められていた。
彼女の歌声が懐かしい時代に誘ってくれる。
古代から巫女という存在があった。
神は巫女の体を借りてメッセージを伝えながら舞い踊る、その姿に人々は魅せられ崇めた。
大衆にとって歌手・笠置シズ子もまた巫女のようなものか?
占領期という暗闇の時代に、神の依代となったシズ子が現れて人々を明かりの見える方向へと誘った。
神が降りた巫女がそうであるように、シズ子もまたすべてを忘れて恍惚としたトランス状態だったのかもしれない。
ブギウギに熱狂する大衆と同じように、我を忘れて一心不乱に唄い踊った…宴の時が終わり、神が体から離れると巫女は我に返る。
神に選ばれた依代も、神が離れてしまえばただの人。
しかし、宴を懐かしむ者たちは、あの時の巫女の舞い踊りをもう一度観たいと願う。
いまのシズ子は、それに応えることができているのだろうか。
もはや、あの時のように神は降りてこない。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (3)
生身の人である彼女は、40歳を過ぎて衰えを自覚するようになっていた。
この頃は体重も増えて、踊っていると息があがる。パワーダウンは否めない。
せっかく金を払って来ている客をガッカリさせていないかと気になる。
ブギの女王・笠置シズ子。
そう呼ばれつづけることが辛い。
その看板が、今の自分には重すぎる。
「そろそろ、潮時やなぁ」
年齢を重ねて円熟味を増し魅力を放ちつづける歌い手もいる。
が、シズ子のブギウギはそれとは違う。
心身に力があふれていなければ…輝いていられる時は一瞬。
叫ぶように唄い、激しく踊る。
人々が期待するような絶頂時のパフォーマンスはもう無理だ。
衰えて醜態を晒しつづけるよりは、最高の自分の姿が人々のイメージにあるうちに消えたほうがいい。
強烈な輝きを放っていた頃の姿を人々の目に焼きつけておきたい。
その思いが強くなっていた。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (4)
昭和31年(1956)の3月に日劇で出演して以降、シズ子は舞台に出演しなくなった。
新曲を出すこともなく、時々、雑誌のインタビューに応じる程度で、公の場には出てこない。
表舞台から消えるための準備をしていたのだろう。
そして、久しぶりに人前に姿を現したのが年末の紅白歌合戦。
この時、シズ子は大トリで『ヘイヘイブギー』を唄っている。
それが歌手生活のフィナーレ。
そして昭和32年(1957)の年明け早々に、
「自分が最も輝いていた時代をそのままに残したい。それを自分の手で汚すことはできない」
という声明を出して歌手引退を発表している。
神が離れて役目を終えた巫女に、人々は宴の残香を求めて群がってくる。
きっぱりやめてしまわなければ、いつまでも人々に崇められてしまう。
ブギの女王、その重さにはもう耐えられない。
歌手・笠置シズ子と決別して、その存在を完全に消し去ってしまいたい。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (5)
彼女の歌手引退を知った服部良一は、
「笠置シズ子の歌は笠置シズ子にしか歌えない。俺の曲を葬り去るつもりか」
そう言って強硬に反対していたという。
他にも周囲には反対する者が多くいたようだが、最後は折れた。
言い出したら聞かない彼女の頑固な性格は皆がよく知っている。
説得は無駄だと悟ったようである。
また、そんな頑固で一途なシズ子の性格を愛し、いかにも彼女らしい引き際だと決断を支持する声もある。
女優・高峰秀子は著書『わたしの渡世日記』の中で、
「そのガンコさが、ある日、ある時、あれほどの歌唱力を惜しげもなく断ち切り、歌謡界からキッパリと足を洗わせてしまったのだろう。
ファンとしては惜しいことだが、小気味いいほど見事な引退ぶりでもあった。
見習いたいものである。」
このように褒め称えている。
高峰は撮影の合間を縫って、今日は浅草、明日は丸の内とシズ子のステージに通い詰めた熱烈なファンだった。
映画『銀座カンカン娘』で共演して親交を結ぶようになり、その気性を知ってからはますます魅了されたという。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (6)
歌手を辞めた後、シズ子は女優に専念することにした。
これまでも舞台や映画でのクセの強いキャラは評価されている。
これからは歌手業の片手間ではなく、生まれ変わったつもりで専業の女優として仕事に取り組む覚悟。
そのため「笠置シズ子」から「笠置シヅ子」に芸名を変更した。
ブギの女王という重い看板を下ろして身軽になると、目の前に広がる風景も違って見える。
なにやらすべてが新鮮に映りワクワクする。
こんな気分は久しぶり。
「歌手・笠置シズ子の高いギャラはいりまへん。これからは新人女優のギャラで使ってください。勉強させていただきます」
そう言って映画会社やテレビ局をまわった。
すると、本当に新人女優になったような…松竹楽劇部に押しかけ入門した時のことを思いだす。
撮影現場で目にするものや楽屋で耳に入ってくる話など、すべて芸の修行と考えて必死で見て聞いて学んだ。
貪欲になんでも吸収してやろうという気になってくる。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (7)
歌手を引退した年、連続ドラマ『雨だれ母さん』に出演。
夫と死に別れながら2人の子どもを明るく育てる母親役が好評だった。
30歳はもうオジサンやオバサンといわれた時代、いまと比べて人が老けるのはずっと早い。
40代の彼女には年相応の役柄だろうか、自らも子を持つ母親なだけに感情移入もしやすい。
素の自分に戻れたような気になれた。
シヅ子は演出家や現場のスタッフに会うと「笠置シズ子の名は忘れたってください」必ずそう言って、他の新人俳優と同じように扱ってもらうことを望んだ。
大勢が見ている前でも遠慮なくダメ出しをしてほしい、と。
自分は新人女優のつもりだが、周囲は彼女の過去の栄光に忖度してしまう。それが嫌だった。
40代の新人女優は演技の勉強に本気で取り組んだ。
その努力の甲斐あって、やがて、はまり役ができあがってくる。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜「輝いていた時をそのまま残したい」と、歌手引退〜 (7)
昭和35年(1960)から放送された連続テレビドラマ『台風家族』でシヅ子は太鼓焼き(今川焼き)屋のおかみさんを演じた。
それが世間の評判になる。
口は悪いが人情に厚い世話焼きオバチャン、テンポの良い大阪弁のセリフにテレビを観ている人々はつい引き込まれてしまう。
当時はテレビドラマの1クールが長く、1年間くらい放送がつづくのはあたりまえ。
視聴率が良ければ年をまたいで延長されたりする。
『台風家族』は4年間も放送がつづけられ、女優・笠置シヅ子のキャラクターがすっかり定着してきた。
歌手時代の彼女を知らない若い世代には、口うるさい太鼓焼き屋のおかみさんのイメージしかない。
また、その時代に生きた人々にも、彼女からブギの女王のイメージはすっかり薄れ、歌手・笠置シズ子が女優・笠置シヅ子と同一人物とは思えなくなってくる。
女優修行もそのためか?新たなキャラクターを作りあげ、それを上書きすることで昔の残像は隠れてしまう。
歌手・笠置シズ子の残像を自分の中から消去する。
女優として新しいキャラクターをつくりあげることでそれは達成された。
老兵は死なず消え去るのみ。
なのだが、世間の記憶を消し去ることは難しい。
世に強烈な印象を残した彼女の場合、過去を消し去りその後の人生を生きるには、美空が歌手として生きつづけるのと同様に、尋常ではない努力が必要だった。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜思い出がいっぱい詰まった日劇の最後を見送りながら…〜 (1)
昭和42年(1967)にシヅ子はテレビ番組の『家族そろって歌合戦』に審査員として出演するようになった。
司会の獅子てんや・瀬戸わんやから話をふられて、「カネヨンでっせ!」ギャグで応じて場を和ませる。
台所用洗剤のCMに出演するようになり、この決めゼリフがテレビでよく流れていた。
街中を歩いていると、子どもたちから「カネヨンのおばさんだ」と言われたりする。
ブギの女王・笠置シズ子のイメージは完全に払拭されている。
この年には「核家族」という流行語が生まれた。
祖父母から孫まで三代が暮らす昔のような大家族は都市部だとかなり珍しくなっている。
夫婦だけ、あるいは、夫婦と子どもだけの小家族が普通になっていた。
また、ベトナム戦争に反対する学生運動が盛りあがっていた頃でもあり、大人は機動隊相手に暴れる学生たちの思考が理解できず顔をしかめる。
若者もまた大人のいうことはすべて「ナンセンス」の一言で片付けて聞く耳をもたない。
世代間の断絶が深刻化し、昔からの家族の形や意味が大きく変わっていた。
そんな時代だからなおさら、家族そろって仲良く唄う姿に視聴者はほっこりさせられる。
「審査員のみなさん、スイッチをどうぞ」
司会者の声とともにカメラがまわって審査員席を映す。
そこには満面の笑みを浮かべながら得点のスイッチを押すシヅ子の姿がある。
彼女は「家族」という存在にはずっと執着していた。
父母兄弟を失ってからは、その大切さをいっそう思い知らされている。
「家族がおることは幸せなんやで、みんな仲良くしなはれ」
そんなことを思いながら、家族たちの歌声に聴き入っていたのだろうか。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜思い出がいっぱい詰まった日劇の最後を見送りながら…〜 (2)
さらに時は流れて昭和56年(1981)2月15日、「サヨナラ日劇フェスティバル」の最終日にシヅ子はステージに上がって挨拶した。
日劇はこの日をもって閉館となって取り壊されることが決まっている。
少女歌劇の頃からよく知る馴染み深い劇場だった。
終戦後最初の興行をここでおこない、師の服部良一と感動の再会をしたのもここ。
身重な体で『ジャズ・カルメン』を熱演した時のことが昨日のように思いだされる。
また、『東京ブギウギ』を歌った時には大劇場を埋め尽くした客がみんな曲にあわせて肩を揺する、それは壮観な眺めだった。
そんな歌手時代の思い出がいっぱい詰まった大劇場が消滅する。
歌手・笠置シズ子が存在していた証がまたひとつ消えてゆく。
それは彼女が望んでいたことでもあるだろうけど、寂しさを感じないはずがない。
シヅ子はこの日を境に公の場には姿を現さなくなった。
日劇が閉鎖されてまもなく、乳がんが見つかり手術をした。
その後は転移や再発を繰り返し、晩年は治療と療養の日々だったという。
そして昭和60年(1985)3月30日に永眠。享年70だった。
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より 〜思い出がいっぱい詰まった日劇の最後を見送りながら…〜 (3)
バブル景気が始まる直前の世には、どこか浮かれた雰囲気が漂っていた。
原宿には竹の子族が出没し、ハマトラやニュートラなどの女子大生ファッションが脚光を浴びている。
また、芸能界では松田聖子がデビューしてアイドルブームが到来した。
偶像はその時代の大衆の求めに応じて生まれてくる。
そして役目を終えれば、時代遅れになって消えてゆく。
世の中はその繰り返し。
30年以上も昔の流行歌手の死が、大きな話題になることはない。
静かな幕引きだった。
歌手・笠置シズ子をやめた時から、そんな最期を望んでいたのだけど…それにしても大衆というのは本当に移り気で忘れっぽい。
「ほんまに、よう言わんわ」
そう言って、あの世で苦笑していそうだ。
-完-
〈笠置シズ子 昭和の日本を彩った「ブギの女王」一代記〉より アメリカ公演って4ヶ月もあったんだ?
ピンクレディーだったか誰だったか忘れたけど海外公演で成功できないのはもちろん、
日本の芸能界を留守にしたら大衆に忘れられて日本での人気も落ちるとか聞いたような
笠置さんの人気が落ちたタイミングはよくわからないけど
(上のネタバレに書いてあるのかもしれないけど読みきれなくて) ピンクレディーは公演じゃなくて、アメリカの番組に出演していた。 「ブギウギ」の今後のあらすじ見たけど美空ひばり出るんでは?
もちろんひばりじゃないキャラとしてだと思うけど
本スレではひばりとの出ない、やらない、って繰り返し言われてるけど 【連続テレビ小説】ブギウギ 第24週「ものごっついええ子や」
(112)
羽鳥善一(草なぎ剛)の作曲2000曲記念ビッグパーティーの日が近づいてくる。羽鳥はスズ子(趣里)たちに、パーティーで余興をしてほしいと頼む。スズ子がりつ子(菊地凛子)に相談すると、羽鳥があっと驚くようなことをしたいと言われ、スズ子が内容を考えることになる。そこでスズ子が考えた余興は…。パーティー当日、まずはスズ子が「東京ブギウギ」を披露。しかし、りつ子は余興をするかどうかまだ迷っていた。
(113)
昭和30年、新しい家に越してから5年。スズ子(趣里)は、近所の人たちを招待し、愛子(このか)の8歳の誕生会を開く。しかし、愛子は誰とも話さず一人ぼっちでいる。スズ子はそんな友達のいない愛子を心配に思っていた。スズ子は子育てのことについて、大野(木野花)や麻里(市川実和子)に相談する…。しかし、スズ子に友達と遊ぶよう言われた愛子は、スズ子の言うことは聞かずに部屋にこもってしまう。
(114)
大野(木野花)が受けた電話は、3万円払わなければ、愛子(このか)を誘拐するという脅しの電話だった。そして、警察には伝えないようにと言われ、電話は切れる。スズ子(趣里)はすぐに学校に電話をかけるが、愛子はすでに下校しているという。急いで近所を捜し回るも、愛子を見つけることはできない。大野は、反対するスズ子を押し切り、警察に電話をする。やがて、スズ子の家に刑事の高橋(内藤剛志)らがやって来る。 (115)
誘拐の電話がかかってきた翌朝、スズ子(趣里)は愛子(このか)に、学校を休むようにと言う。しかし、友だちと遊ぶ約束がある愛子はどうしても学校に行きたいとだだをこねる。しばらくして、男(水澤紳吾)から再び電話がかかってくる。今日の午後3時に、日帝劇場のロビーにマネージャーに3万円を持ってこさせろという。タケシ(三浦りょう太)は、高橋(内藤剛志)ら刑事が張り込むなか、日帝劇場のロビーに向かう。
(116)
誘拐犯が捕まってから、愛子(このか)は3日間も学校を休んでいた。スズ子(趣里)は、学校に行くようにと言うが、友だちになった一(井上一輝)がいなければ、学校には行きたくないと拒絶される。大野(木野花)は、そんな愛子を少しそっとしておくようにと言う。スズ子は、羽鳥善一(草なぎ剛)と麻里(市川実和子)に相談しに行く。麻里に背中を押されたスズ子は、続けて刑事の高橋(内藤剛志)を訪ね、あるお願いをする。
ttps://dimora.jp/
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41538/41538_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41539/41539_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41540/41540_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41541/41541_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41542/41542_1.jpg 24週の脚本は足立さん?櫻井さん?
どちらが担当するかで大分雰囲気が変わりそうな気がする。 ムック本にも書いていない第26週は「最後のステージ」になるのかな?
https://news.yahoo.co.jp/articles/b62bb31d12acb6e0ae65654a4aa7118c25cacf6d
――気になるクライマックス、最終回はどうなるのか
「笠置さんの思いを大事にしながら、ドラマオリジナルの最後を迎えるという流れです。キーパーソンとなるのは、やはり羽鳥善一と菊地凛子さん演じる茨田りつ子。この2人とスズ子は大事な関係として、最後まで描きたいと思っています。最終週の台本を読んだ草gさんが『真摯に最後まで演じます』とおっしゃっていたのが印象的でした。最後は草gさん自身の思いの込もったお芝居になっていて、それが善一とスズ子の関係として本当に素敵なドラマになっていると思います。そして、クライマックスとなるのはスズ子の最後のステージです。スズ子の成長も感じられて、想像を超えるほど素晴らしく感動的になっています。いろいろな仕掛けも用意してありますので、楽しんで最後まで見ていただければと思います」 歌手引退で最終週か
今週更なる高みを目指したいと言ってるのに、中々描くのが難しそうだ 【連続テレビ小説】ブギウギ 第25週「ズキズキするわ」
(117)
東京ブギウギのヒットから9年、ブギブームも下火になってきつつある中、スズ子(趣里)や羽鳥善一(草なぎ剛)のブギは古いという記事が書かれてしまう。同時に、若手歌手の水城アユミ(吉柳咲良)が新たなスターとして台頭してきていた。そんななか、スズ子は丸の内テレビのプロデューサー・代々木(遠山俊也)から、年末の歌番組にトリで出てほしいとオファーを受ける。しかし、トリ前に水城アユミを持ってきてもいいかと聞かれる。
(118)
スズ子(趣里)のもとに、誘拐未遂事件を犯した小田島(水澤紳吾)が訪ねてくる。すっかり反省した小田島の話を聞いたスズ子は…。一方、年末の歌合戦では、スズ子は若手の有望株・水城アユミ(吉柳咲良)との新旧対決に挑むことになった。しばらくして、スズ子は水城アユミからあることを頼まれる。
(119)
水城アユミ(吉柳咲良)に「ラッパと娘」を歌わせてほしいと頼まれたスズ子(趣里)は、未だに結論を出せずにいた。記事にまでなってしまったため、スズ子は、羽鳥善一(草なぎ剛)に相談に行く。しかし、羽鳥は、自分の歌を簡単に歌わせると言わないでほしいと、厳しい言葉を投げかける…。一方、愛子(このか)は、体育の時間のかけっこが楽しみで学校に行っていた。しかし、ある日、落ち込んで帰ってくる。 (120)
愛子(このか)は、翌日の体育の時間に足の早い転校生と競走することになっていた。しかし、勝てる見込みがなく、愛子は学校を休みたいと言いだす。スズ子(趣里)は、自分も水城アユミ(吉柳咲良)との新旧対決から逃げたかったが、今は逆に楽しみだと話す。そして、逃げるかどうかは愛子が自分で結論を出すようにと伝える。翌日、学校に行くかどうか迷う愛子を家に残し、スズ子は羽鳥善一(草なぎ剛)のもとに向かう。
(121)
昭和31年、大みそか。第7回オールスター男女歌合戦当日。スズ子(趣里)は、楽しみに会場へと向かう。スズ子が楽屋で支度をしていると、股野(森永悠希)と水城アユミ(吉柳咲良)が訪ねてくる…。そして、いよいよ本番。羽鳥善一(草なぎ剛)はテレビの前で、愛子(このか)は客席で見守る。茨田りつ子(菊地凛子)も楽屋に応援に来た。水城アユミは「ラッパと娘」、福来スズ子は「ヘイヘイブギー」。新旧二人の歌合戦が始まる。
ttps://dimora.jp/
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41631/41631_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41632/41632_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41633/41633_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41634/41634_1.jpg
ttps://api2.bangumi.org/repix/monomedia/nhk/meta/images/bangumi/41635/41635_1.jpg 架空のテレビ局にするのか。
それで男女対決じゃなくて新旧対決 しかし売り出し中の歌手なら、歌合戦で歌いたい持ち歌があるだろうに。
ひばりの歌が無理なんだろうが。 ひばりがモデルではありませんってことを強調したいのかと
実際そうではないだろう 一応すず子の歌を歌いたい理由があるキャラみたいだし、そこはうまく考えた。 うたコンとブギウギコンサートに吉柳さん出るけど何歌うのかな
うたコン
「ブギウギ」SP!豪華キャスト集結
3月12日
五木ひろし,伊原六花,AKB48,えなりかずき,丘みどり,吉柳咲良,工藤夕貴,純烈,翼和希,新納慎也,藤間爽子,OSK日本歌劇団,MITCH,
「ブギウギ ~時を超える服部良一メロディー~ スペシャルコンサート」
3月21日
石川さゆり、石丸幹二、さだまさし、鈴木雅之、 河野純喜(JO1)、與那城奨(JO1)、木下晴香、友近、吉柳咲良 ほか 撮影は終わったのに趣里が出られないのはよほど体調が悪いんだろうか。
それとも口パクしかできないからか? 井原が歌えるのなら、井原がヒロインでも良かった気がするが160cmあるからか。 >>499
ラッパと娘を歌合戦で歌うならそれじゃない? あっ、でも放送よりうたコンが先だとわからないわね。 六花ちゃんは見るからに華のある美人だから笠置シヅ子役には合わないという ここで買えるやつが、何が有名で、そちらに移動してください。
単に興味もありません
また、これから四年も続けるのか >>430
空港行きのバスなんてどこから感染した際には 爆発前の報道ステーションの方が良かったのがいたかった +0.28%
-1.15%です・・・
もうちょいかかりそうだな >>172
ただの趣味やらせてる我々はタッチしてないやろまじで
ギフト還元しないよね、賛同してるというか
もともと面白かったの 他のチャンネル見れるからだな
メダル取ったがおさまらないな >>499
うたコン
▽OSK日本歌劇団「桜咲く国」
▽丘みどり&えなりかずき&藤間爽子「アイレ可愛や」
▽吉柳咲良&純烈&MITCH「ヘイヘイブギー」
▽新納慎也&AKB48「買物ブギー」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています