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【pamp】みんな集まれ!雑談スレ【LOUIS】

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2014/03/26(水) 22:07:00.73
ルイ、香山りか・円蔵 .ジョン.猫オヤヂ.
RIMO.Y.tomoyo.大道寺知世 .
あか.さくら.木之本桜
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2019/09/08(日) 20:42:37.75ID:AvO1MS8B
(写真)ソウルにある植民地歴史博物館で展示を見学する人たち=2018年12月(栗原千鶴撮影)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-08/2019090803_01_1.jpg

 「清日戦争、露日戦争、満州事変と中日戦争、太平洋戦争にいたるまで、60年以上にわたる長い戦争が終わった日」。韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、日本の植民地支配から解放されたことを記念する光復節(8月15日)の演説でこう述べました。
戦前の日本帝国主義による侵略と36年間の植民地支配は、韓国の人々から国を奪い、人間の尊厳を奪い、言葉や名前すら奪いました。韓国国民の中にその傷痕と怒りは今も消えていません。
日韓関係を改善するうえで、加害者である日本が過去の植民地支配にどう向き合うかは決定的です。日本の植民地支配はどのように進められたのか、改めて考えます。(若林明)

日清戦争と日露戦争
朝鮮支配めぐる侵略戦争

 明治維新から10年もたたない1875年、日本は江華島事件を起こしました。軍艦をソウルの入り口の江華島まで行かせて、衝突を挑発し、砲撃戦で砲台を占領し、大砲などを強奪。
翌年、日本は朝鮮に不平等条約を押しつけました。これを機に日本は朝鮮への圧迫を続け、本格的な侵略に乗り出したのが日清戦争(94年)でした。

 当時、朝鮮では官吏の腐敗と重税に反対して東学農民運動が起こっていました。運動は朝鮮半島の南西部の中心都市・全州を実質的に統治するほど力を持ちました。

 そのとき日本は、朝鮮王朝の要請もないのに、東学農民運動への対応を口実に大軍を朝鮮に派兵し、ソウルを制圧。開戦直前の朝鮮王宮を軍事占拠し、国王と王妃を拘禁しました。
そして、軍事的脅迫のもとで朝鮮に日本への協力を約束させたのでした。同時に、日本軍は農民軍の大量虐殺を行いました。その犠牲者は3万人、あるいは5万人に迫ると言われています。
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2019/09/08(日) 20:44:29.83ID:AvO1MS8B
 日清戦争に勝利した日本は下関講和条約(95年4月)で朝鮮への清国の影響力の排除を約束させますが、同条約で日本へ割譲をきめていた中国の遼東半島を、ロシア・フランス・ドイツの要求で清国に返還せざるを得ませんでした。
朝鮮での覇権を失うことを恐れた日本は同年10月、公使の三浦梧楼の指揮のもとに軍人らが王宮に押し入り、日本への抵抗の中心であった明成皇后(閔妃(ミンピ))を殺害し、遺体を井戸に投げ込むという暴挙を行いました。
こうして日本は朝鮮の植民地化への一歩を踏み出しました。

 日露戦争(1904年)は、韓国(1897年に大韓帝国に改称)と中国東北部をめぐる日露双方からの侵略戦争=帝国主義戦争でした。

 日本は開戦と同時にソウルを軍事占領した上、韓国に「日韓議定書」を強要し、日露戦争への協力を約束させました。
さらに、「第1次日韓協約」で、日本政府の推薦する「顧問」を韓国政府に押し付け、財政と外交の事実上の実権を握りました。
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2019/09/08(日) 20:44:57.27ID:AvO1MS8B
不法・不当な「併合」条約
どう喝・拉致・監禁下で

 日露戦争後、韓国に対する日本の覇権は無制限になっていきました。韓国の外交権を取り上げた第2次日韓協約(韓国保護条約)は、日本による軍事的強圧のもとで締結されました。

 特派大使の伊藤博文(初代首相、後に韓国統監)は「もし拒否するのであれば、帝国政府はすでに決心している。その結果はどのようなことになるか」(「伊藤特派大使内謁見始末」)と韓国の国王を脅迫。
韓国政府の閣議の場に憲兵を連れて乗り込み、協約締結をためらう韓国の大臣を「あまり駄々をこねるようだったらやってしまえ」とどう喝しました。

 さらに、日本の特命全権公使の林権助は回想『わが七十年を語る』で、韓国側の大臣が逃げないように「憲兵か何かを予(あらかじ)め手配しておいて、途中逃げださぬよう監視してもらいたい。
勿論(もちろん)名目は護衛という形をとるのです」などと、事実上の拉致・監禁下での交渉であったことを記しています。

 この条約で、日本は韓国に「統監府」をおき、属国化を進め、1910年に「韓国併合条約」を押しつけました。

 当時の国際法でも国家の代表者を脅迫しての条約は無効でした。しかも第2次日韓協約で韓国から外交権を奪っておいて、条約を締結させたのですから二重三重に「不法・不当」なものでした。

「義兵闘争」「独立運動」
抵抗する民衆 徹底弾圧

 しかし、日本の乱暴な植民地化に朝鮮の民衆は抵抗し、1906〜11年には「反日義兵闘争」が韓国全土に広がりました。
これに対して、日本軍は村々を焼き払い、義兵を大量に殺害し、日本軍に非協力的な民衆を見せしめに殺傷しました。(続きはソース)

2019年9月8日
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-09-08/2019090803_01_1.html
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2019/09/09(月) 20:50:23.82ID:I78tceoX
現在のアムステルダムの街並み
https://amd.c.yimg.jp/amd/20190907-00057562-jbpressz-000-1-view.jpg

 オランダは、1581年にスペインから独立を果たします。しかし独立以前にオランダは、すでにヨーロッパ最大の“経済大国”となっていました。それは、オランダの「寛容さ」によるものと言えます。

 ヨーロッパに広がったキリスト教は一神教で、他の宗教に対しては排他的でした。そして、「異端は異教よりも悪い」などとして、自分たちの考え方の絶対的正しさを強調してきました。
それが、今日にまで至るヨーロッパ社会の不寛容性を形成するベースになっています。

 そんなヨーロッパに、「寛容性」をもった地域が出現すれば、そこにはさまざまな宗派の人々が集まってくるのは自明の理です。
するとそこでは、さまざまな文化が融合するだけではなく、宗派ごとに持っている商業情報も集まってきます。まさにそれがオランダであり、とくにアムステルダムがそうでした。

■ 宗教的寛容と情報

 アムステルダムは、近世のヨーロッパ都市としては、信じられないほど宗教的寛容性に富んだ都市でした。
オランダ共和国はカルヴァン派の国家であり、同派に属する改革派教会はカトリックに敵対的ではありましたが、弾圧を受けるようなことはありませんでした。
他国に比べればオランダは、宗教的にははるかに寛容だったのです。

 それは1579年にスペインからの独立を目指すユトレヒト同盟結成時に、「何人も宗教的理由で迫害されることも、審問されることもない」と決められていたからです。
それを端的に表す文章を引用してみましょう。
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2019/09/09(月) 20:51:25.54ID:I78tceoX
 <オランダは、「哲学者にとっての天国であった」。・・・デカルトは、フランスではえられなかった落ち着きと安定をオランダに見いだした。
スピノザは、破門されてセファルディム(スペイン)系ユダヤ人のヨーデンプラー通りから追い立てられ、オランダ人市民の住む、より友好的な地域に引っ越した。
ロックもまた、ジェイムズ2世の暴虐を逃れて、オランダ人がイギリスの王位についた、より幸せな時代まで、この地に避難所を求めた。・・・
オランダは間違いもなく、フランス人ユグノーにとっての亡命地であった。しかし、オランダ人はきわめてリベラルで、ユグノーをも受け入れたが、ヤンセニストも受け入れたのである。
同様に、ピューリタンと王党派とウィッグのいずれをも、受け入れたのである。それどころか、ついにはポーランドのソッツィーニ派をさえ、受け入れてしまったのである。
いわば、それらはすべて、「禁止は最少に、導入はどこからでも」というオランダ人の商業上の原則のおかげを蒙ったのである>

(『近代世界システム2―重商主義と「ヨーロッパ世界経済の凝集」』I.ウォーラーステイン著、川北稔訳、名古屋大学出版会、1993年、69頁)。
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2019/09/09(月) 20:52:17.53ID:I78tceoX
 このような宗教的寛容の代表的都市が、アムステルダムだったのです。アムステルダムは、ヨーロッパ最大のセファルディム(イベリア系ユダヤ人)居住地でした。
さらに、ユダヤ教徒のためのシナゴーグ(会堂)までつくられていました。

 アムステルダムには、さまざまな出身地、宗派の商人が移住してきました。
彼らは、自分自身の出身地と緊密な関係を築いていることが多く、そのためアムステルダムにいると、さまざまな地域の商業情報が比較的容易に入手できたと推測されています。

 アムステルダムには、さまざまなバックグラウンドをもつ人々が商業取引に従事していました。プロテスタント商人とカトリック商人、場合によってはユダヤ人、さらにはアルメニア人までもがアムステルダムという狭い空間で商業活動をしたのです。
アムステルダムは、異文化貿易の中心でした。ヨーロッパの他の都市では、宗教的寛容性が乏しく、このようなわけにはいきませんでした。

■ 人口の流動性が高いアムステルダム

 上記の表に示されているように、アムステルダムに居住する人々のなかで、同市出身者の比率は、17世紀には30%台にすぎません。
それ以降も50%台とかなり少ない水準ですし、もっと言えば、オランダ国内からの移住者だけでなく、外国からの移民も多いことがわかります。

※省略

■ オランダが促進したヨーロッパの経済発展

 17世紀のオランダの生活水準は、ヨーロッパの中でもっとも高くなっていました。
商人の活躍のお陰で17世紀アムステルダムは、ヨーロッパの金融市場の中心となり、同市には巨額の富が蓄積されていました。

 あまりに豊かになったオランダでは、下層の人々にいたるまで、公債に投資するような、投資社会になっていました。(続きはソース)

9/7(土) 6:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190907-00057562-jbpressz-soci
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2019/09/19(木) 21:58:53.28ID:AHGlko47
汚染土の県外移設

私の中で三十年後って事を考えた時に、
三十年後の自分は何歳かなとあの発災直後
から考えてました。

だからこそ私は健康でいられれば
その三十年後の約束を守れるかどうかという
そこの節目を私は見届ける可能性のある
政治家だと思います。


      環境大臣 小泉進次郎
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