すでにポルポト派は1963年から、反シアヌークでゲリラ戦を始めている。
だがゲリラ5000名が集まっただけで、農村部に支持層を広める事が出来ずにゲリラ闘争は大失敗。

それを見たベトコンは、王政であるシアヌークと妥協し、シアヌークの黙認の下で
ホーチミンルートの設置を求めた。
シアヌークは、黙認する代わりに、ベトナム労働党やベトコンは、カンボジア国内で
政治活動を行わない事を求め、彼らはシアヌークと約束した。
これでシアヌークとベトナム労働党・ベトコンとの協力関係が出来た。

その為にベトナム労働党やベトコンは、反シアヌークゲリラ活動を行うポルポト派
が邪魔になり、かれらのゲリラ活動を妨害するようになる。こまったポルポトは、
シナに救援も求めた。ポルポト派を味方にする事でベトナムを牽制出来ると踏んで
シナはポルポト派支援に乗り出した。

しかし1970年にシアヌークが、ロンノル首相に追放されるまでは、ポルポト派の
反シアヌーク・ゲリラ活動は、さしたる成果を挙げる事が出来なかった。
カンボジア農民は、仏教信仰と合わせて仏教の保護者であるシアヌークを神のごとく
崇拝しており、シアヌークを批判するポルポト派ゲリラは、「トチ狂った赤」としか
見なされず、全く支持されなかった。
ポルポトを支持する勢力は、カンボジア農民から差別される少数山岳民族だけで
かれらがポルポト派ゲリラのメンバーとなった事で余計にカンボジア農民は、
ポルポト派ゲリラを嫌うようになってしまった。

シアヌークもカンボジア王国陸軍に数回ポルポト派鎮圧作戦を行わせ、
カンボジア平地から彼らを追出し、山岳部に追い詰め、農民達と接触させないように努めた。