出身/行方が分からない歴史上の人物
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どこから来たのか・どこへ行ったのか分からない人物について推測を交えて語りましょう。 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
BMLZ2 周の昭王
周の4代王で、初代武王の曾孫にあたる
南征に向かったまま行方不明 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
XEI パルティア王国の初代王アルサケス1世
のちにローマ帝国のライバルとなるこの大国の建国者に関しては
出自に関する同時代の情報がない。前後の状況からみてイラン系遊牧民の族長の
ようなポジションだったのだろうという歴史家、いやスキタイ人だろうという見方
ギリシア系かもしれないという憶測など、さまざまな説がある。 第4回十字軍が東ローマを乗っ取ってラテン帝国を建てたことは教科書で習うが
そのラテン帝国の初代皇帝となったボードゥアン1世は、ブルガリアとの戦闘で
捕らわれたきり消息不明になるという最後だった。
20年後にボードゥアンを名乗る人物がひょっこり現れ、詐欺師として処刑されるが、
案外本物だったりしてな・・・ >>518
初代だけじゃなくて歴代のパルティア王が全員アルサケスって名乗ってたから余計分かりずらいよな
ここまでくると初代アルサケスも個人名っていうより王のための特別な称号だったみたいな感じがする。
そもそも「アルシャーク」って英雄の意だし 旧宮家復帰の是非で
旧宮家の共通の子孫
>>73
の伏見宮貞致親王が脚光を浴びそう ポルトガルのセバスティアン1世はまだ出てなかったっけ。
やらんでもいい十字軍を起こして大負けし行方不明に。
これがきっかけでポルトガルという国自体が消滅するという
迷惑な王だったが・・・ >>524
うぃき見たら、日本人を奴隷として売買するのを禁じたってある。
いいとこあるじゃんよ。 >>512 >>513
いまごろ殺したって言われてもな・・・
もう存在を忘れてたわバグダディww >>516
その300年後、斉の桓公は「300年前に昭王が行方不明になったこと、3年前から楚が周に特産物
を貢納していないこと」を理由に楚に侵攻、楚軍は敗北する。
楚の使者は「昭王?知らねえよ!川っぺりでも行って探せや!」という言葉をオブラートに包み込
んで弁解し、特産物の貢納も約束して、兵を引いてもらった。
その直後、斉は「勤王の戦に不参加であった」として蔡を攻めている。
しかし、何故300年も前のことを今更取り上げたのか?
特産物というのも祭祀用に濁り酒を漉す茅であり、戦を起こすほどのものではなかった。
実はこれより先、桓公は蔡の公女を妻に迎えていた。
ある日、舟遊びをしていると桓公は舟が揺れるのを怖がって妻に揺らさないように言ったが、妻
は面白がって余計に揺らしてしまい、怒った桓公は妻を離縁した。 その後、思いなおして実家から元妻を呼び戻そうとしたが、すでに蔡では再嫁させた後であった。
桓公「勝手に嫁がせおって!許せん!蔡を攻めてくれるわ!」
名宰相の管仲は夫婦喧嘩で戦なんて出来ないと止めたが、桓公は言うことを聞かない。
やむをえず持ち出したのが「勤王の戦として楚を攻め、それが終わったら参加しなかったことを口
実に蔡を攻める」という、非常に迷惑な策であった。
という行方不明こぼれ話でした。 去年、世界遺産に登録されたラオスのジャール平原って
辻政信が行方不明になったところだったんだな 新型コロナの影響で公開延期されてる映画『峠 最後のサムライ』だが
この主人公である河井継之助(長岡藩家老)にガトリング砲を売ったという
スネル兄弟、ずいぶん日本で稼いだはずだがその後消息不明だな。 >>531
そのうち、観光客が白骨死体を見つけたりして・・・ 西ローマ帝国崩壊後のローマ貴族、殊に紀元前から続いてる家柄の連中って
中世の頃は何やってたん? 出自をあやふやにしといたほうが都合が良かったからだろうな。
現代でも関西生まれで幼少期に東京に引っ越したやつとか、場面によって関西人、東京人を使い分ける。 >>535
ヨーロッパで今残る一番古い家系ってパレオロゴス家?
パレオ=古い ロゴス=言葉 って何か意図があるのかな
キリスト教化して教会はコイネー以後の知識しか持たない中、ギリシャで古典ギリシャ語とそれによる知識を伝えた家柄? >>503
>王女様という説とハレムの女奴隷という説
その二説はべつに矛盾しないのでは。 日本だと役の行者かな
一応歴書にも記述されている実在の人物今の伊豆地方に流されたとされている
じっさい伊豆には役の行者に所以の加茂の地名が多く残っているし
伊豆葛城山と呼ばれる場所もある
伝説じゃ中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で
五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいたとされて
そこから不明w >>540
>伝説じゃ中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で
『日本霊異記』にある話ですね。
成立は9世紀前半なので、史書の『続日本紀』についで、比較的早い時期の成立です。
『続日本紀』
小角配流を699年とする。
『日本霊異記』
小角配流を699年とし、赦免を701年正月とし、その後飛び去ったとする。
『三宝絵』(平安中期の成立だが、霊異記も含めそれ以前の史料を引く)
小角配流を699年とし、赦免を701年5月とし、その後飛び去ったとする。
『扶桑略記』(平安後期の成立だが、霊異記も含めそれ以前の史料を引く)
701年の10〜12月に、再度罰を受けたとする。
道昭(霊異記では道照)は700年には没していますから、701年以降の遭遇は無理ですね。
そもそも在唐中の出来事とされていますが、それなら653〜660年の間です。
なお、行く途中ではなく唐から新羅へ招聘されたようにも読めます。
『日本霊異記』が道昭について別の説話で解説しながら年代を挙げないのは、矛盾に気づ
いた上で説話の収録を優先したためか。 ディアドコイの一人ネアルコス
激動の大乱の中どこでいつ死んだのかも分からない 清の初代皇帝(実質的に統一したのはドルゴン)・フリン
出家してどうなったのか アダム・ラクスマン
ロシア初の遣日使節。帰国して昇進したが、その後の動静がはっきりしない
ってかラクスマン家自体のその後も良く分かってない 永楽帝に倒された建文帝
遺体が見つからず生存説があった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています