ペルシャ人、ペルシャ語文化圏の歴史
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古代から世界に進出していたペルシャ人、ペルシャ語(タジク語、ダリー語等を含む)圏の 歴史、文化について語るスレです。 主な対象国・地域 イラン、タジキスタン、アフガニスタン、アゼルバイジャン、ウズベキスタン、イラク、 グルジア、パキスタン、バーレーン、インドのパルスィー等 *古代ペルシャも一応対象ですが、突っ込んだ話はこちらで、 ペルシア帝国について語るスレッド http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1304337577/ ウズベキスタン? イラク? バーレーンのどこがペルシャじゃ? >>2 ペルシャ語って、この地域に広く分布しているんだよ。 ペルシャ語の影響を強く受けたアナトリアやロシア南部は対象? まあムガール帝国の公用語だったしな。 今でも、意外に広い範囲で使われている。 >>5 大丈夫でしょ。 ネタがあるなら披露してください。 スレ主はバーレーンはアラブ人がほとんどでアラビア語が公用語と知らない池沼 ウズベキスタンはウィグル語とほとんど同じのウズベク語。 ソースは直接ウズベク人に聞いた。 ウズベキスタンのブハラはタジク語話者が多い地域。ペルシア語文化圏という スレタイには沿っているかと。 >>12 ウズベキスタンではウズベク語しか使って無いとでも思ってるのかな? 世の中、日本みたいな国ばっかりじゃないんだよ。 >>15 そいつはフォークランド紛争の時20代だったと他スレで言ったが、その年齢でも>>12 程度のことしか言えないから むやみに近づいちゃけない部類のおっさんだ。 世界史を語るスレなのに21世紀の国境線に拘泥する必要はないわな。 スレ主はイランではコーランがペルシャ語で書いてあると思ってる池沼 >>16 偉そうにインテリ脳内つもりか? てめー、このクソガキ! ウリがフォークランドで何を言ったか引っ張ってこいや! そんなもん忘れちまったぞ! 朝鮮人! 池沼って言葉使うやつで、池沼じゃなかったやつを知らない。 当然俺も池沼 まあ、宗教経典をその言語で書いてはいけない(書いてもいいけど一切神聖視されない)のに、 文章語として堂々と復活して、歴史書から詩文まで、世俗の様々な文書が書かれ、 さらに一つの国を超えて、一つの文化圏を作り上げたというのは、大したものだよな。 世界史的にもあまり例が無い。 早くフォークランドのスレを持って来んかい! 韓国人! 完全に忘れて捜すのめんどーなんだよ! 三国人! ペルシャ語スレを立てておきながらフォークランドがどうのこうの言っる時点で住民は池沼 どうでもいいけど朝鮮人だけはこの世の中から消滅して欲しい。みんなもそう願うだろw 2/14も終わったことだし、やっと落ち着いてきたか。 >>26 イミフ 流石に池沼が立てたスレだけあって日がわりで奇妙なレスがあるな? オリエントを語るスレもっと増えてほしいわ 少なすぎて悔しいです!<ヽ`∀´> >>15 隠語あつかいだけど、ウズベキスタンでもタジク語が通じる。 ウズベク・ウイグル語とタジク語のちゃんぽんのエイヌ(艾努)語もあるし なぜか基層にペルシャ・タジク系があるのだ。 トルコではある時期、クルド語やギリシャ語禁止だったけど ウズベキスタンでは、ウズベク語とロシア語以外を禁止することまではいっていなかった。 ブハラ国やホラズム国という国があり、ウズベク界隈は多言語世界だった。 しかし、スターリン時代にウズベキスタンへまとめられ国境も線引きされてしまったので ペルシャ・タジク系の言語は、公用語の地位を失ってしまったのだ。 超頭のいいヤツと超バカのどちらかだな。世界史スレは? 俺はドッチだ、バカヤロー! チュニジア、リビア、スーダン、エジプト、シリア、イラクは アラブ人に支配された所はアラブ化したのに なんでイランだけはアラブ化しなかった? イランだけじゃなくトルコ系諸国もアラブ化しなかったが?言語の問題じゃないの? 上記のセム語の国々はアラビア語を簡単に会得できたのだろ。 ちなみに俺の出会ったウズベク人はコーランは読むけど意味があまり分からないと言ってた。 トルコ語は微妙に分かってやウィグル語はほぼ同じだけどアラビア語が分からないと言ってた。 ややこしいのはアメリカのイラン人。多くがパーレビ時代にアメリカに留学してた連中で ほとんどが金持ちのユダヤ系。ビバリーヒルズは貸し家だらけで多くがイラン系ユダヤ人が大家。 ムスリムもいるがゾロアスターだと言って隠れムスリムになってるのが多い。 ユダヤスレに逝けってか? フォークランドの話してた奴はどいつだ? 12 :<ヽ`∀´> ◆NIDA/olocc :2012/02/14(火) 21:19:01.53 0 >ウズベキスタンはウィグル語とほとんど同じのウズベク語。 >ソースは直接ウズベク人に聞いた。 16 :世界@名無史さん:2012/02/14(火) 21:54:47.55 0 >>15 >そいつはフォークランド紛争の時20代だったと他スレで言ったが、その年齢でも>>12 程度のことしか言えないから >むやみに近づいちゃけない部類のおっさんだ。 >>16 お前の程度はどんなもんじゃ? ノウガキたれてみろやカス! 池沼は池沼同士でフオークランドスレで死ぬまでやれや ↓ ペルシャ人は今でもクルド語をペルシャ語の方言と主張しているらしい グノーシス派が今でもイランに残っているのには驚いた(マンダ教)。 イランのどこかに黒人少数民族がいるって話し聞いたけど真偽のほど知ってる人いる? 「インドのパルスィー」ってペルシャ文化圏だが、スレタイの「ペルシャ人」でも「ペルシャ語」でもないぞ? インドのパルスィー入れるんだったら「ペルシャ語」じゃなくイラン語派スレということでもよくなってこないか? タンザニアのゾロアスター教徒、クルマンジ・クルド人、オセチア人、西欧のロマもスレ的に可にするのか? >>34 アラブ人てウズベクまで征服したっけ? イスラム教は広まったけど >>42 8世紀初頭にはクタイバによってかなり奥地まで征服されてるよ。 ただ、この頃の中央アジアはまだトルコ化は進んでなく、 ソグド人などが中心だったから広義ではペルシャ文化圏に入るかも知れない。 >>40 >「インドのパルスィー」ってペルシャ文化圏だが、スレタイの「ペルシャ人」でも「ペルシャ語」でもないぞ? ペルシャ文化圏もありってことだろ。 すべて細大漏らさず書いていたら、きりが無い。 もう『シャー・ナーメ』を愛好する者たちのいる土地で良かろう。 そうそう。 >>40 だって、突っ込みながらパルスィーの話題に繋げればいいだけのこと。 延々定義ばっかりで、話が何も始まらない。 ザンド朝なんてどうよ。サファビー朝がほろんだあと一回は版図をとりもどしたけども短命だった王朝。 >>51 この時代のペルシャはかなり混乱してて分かりにくいよね。 アフシャール朝のナーディル・シャーとかはまだ有名なほうだけど。 僕も詳しく走らないけどザンド朝って地味に海外貿易に力入れたりしてたらしいね。 >>52 世界史板全体が最近過疎気味だから別にsageる必要性はないと思う。 ペルシャなんてマイナーだから下手したら過疎スレになりそうだしgeても良いでしょ。 ×僕も詳しく走らないけど ○僕も詳しくは知らないけど >>42 ペルシャもトルコも逆にアラブを征服してるが? それが仲間の中央アジアにいるイラン系やチュルク系に広まったんだろ。 ウズベキスタンまでアラブ人は行ってない。 >>55 >ウズベキスタンまでアラブ人は行ってない いや、クタイバが普通に中央アジアまで攻め入ってるよ。 ただ、この頃のウズベキスタン辺りはまだトルコ化してなくソグド人などが中心だったから、 トルコ系地域がアラブ化しなかったという>>34 の発言は少しおかしいかもね。 >>53 お前も分からない奴だなあ。 数日前にあれだけ荒らされて、みんなせっかく下げてるのに、なんで上げる? >>53 >ペルシャなんてマイナーだから下手したら過疎スレになりそうだしgeても良いでしょ。 このスレ最初から読み直せよ。 まともに話なんか出来ない状態だったんだけど。 実際古代ローマの制度って、かなりペルシャのぱくりのような気がする。 ヨーロッパ人はそんなの認めるの嫌だから、ギリシア由来のものばかり強調されてるけど。 >>57-58 あぁ、ごめん。荒らされてたからその対策ということなのね。 そういうことならsageるよ。 【不老】百歳以上生きた世界史上の人物【不死】 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1326441219/42,45 42 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 14:08:45.06 0 >>41 シーア派って、イスラームの皮をかぶったゾロアスター教っぽくない? 45 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 01:27:19.31 0 >>42 確かにな。 シーア派の分布地域がもろに、イランとその周辺だけだし。 さらに、伝説では、4代目イマームが、ササン朝ペルシアの王女の息子だしな。 何というか、圧迫されていたゾロアスター教徒が、当時、同じく圧迫されていたシーア派に共感を持ったか、 もしくは、単に宗教的な隠れ蓑にしようとした可能性も考えられるし。 いずれにせよ、イラン民族の意地のようなものが微妙に感じられるな。 アラブ人のフセインが一番嫌ってたのはアメリカじゃなくてかペルシャ人だったらしい。 パキスタンってアラブ化してるか? パシュトン人とかペルシャ系が多いだろ。 シーア派のイマームお隠れ説なんてのは イスラム教とは思えない ほとんど別の宗教 ムハンマド信奉者にとってムハンマドの直系子孫がカリフにつけなかったのが 許せなかったんだろうなとは思う >>62 フセインってサダムのこと?だったらイスラム共和制が嫌いだっただけだろう。 >>61 シーア派が今のペルシャの地域で多数派になったのってサファヴィー朝以降でしょ。 それ以前もそれなりにいたけど、多数派になったのはこの王朝の影響だよ。 >>62 パキスタンはほとんどアラブ化してないね。パシュトゥーン人は、 いわゆるアフガン人のことで言語的にはペルシャに近い。 まぁ、パキスタンで最大数を占めてるのはパンジャーブ人と呼ばれる人たちだけど。 >>66 今のイランの十二シーア派が多数派になったのは、サファヴィー朝がレバノン あたりから学者を招いたかららしいが、それ以前にもシーア派と定義されて いなくても、イマーム信仰は強く、ナジャフとかカルバラー信仰が流行していて、 イマーム信仰の形をまとった反乱が目立つよね。そういうところに、 なにかイランに土俗的な、ゾロアスター時代から続いている宗教意識を 感じるんだよね。ゾロアスター教も、経典は神官しか読めず(その神官も 辞書なしでは読めなかったという)、一般信徒は儀式だけだったらしいから、 サーサーン朝時代も、民衆の間には土俗信仰っぽいゾロアスター教が残っていて、 それがイマーム信仰と結びつき、シーア派を受け入れる土壌に結びついたのでは ないだろうか。という気がする。 >>67 確かにそういう面はあるかも知れないね。 ゾロアスター教的な信仰がイスラーム征服後のイランに残ってて、 それがこの地でシーア派が受け入れられた一因というのは一理あるし。 ムハンマドの時代までペルシャ湾岸とイエメンはペルシャの勢力圏? ペルシャ沿岸は基本的にそう。イエメンの南部は基本的にエチオピアの 勢力圏で、575年になってサーサーン朝が占領した。イエメン古代の歴史に ついては、↓の中近東協力センターが異様に詳しい。 http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Jeddah-2.html#2.11 アウグストゥス時代にローマ軍がイエメンのあたりまで遠征した話が詳細に 地図入りで掲載されている。 シーア派は基本肖像画にも寛容だし、確かに何か異質だ。 シーア派もスンニ派も関係なく、スーフィーは チュルク系地域や中国に浸透していった。 行者ダルヴィーシュ集団の歌舞音楽によって中央アジアで受け入れられた。 もともと外国語クルアーンが出版されたのはペルシャ語、チュルク系の順。 スーフィーは現地語訳クルアーンを使って布教した。 アラブ世界では、各国語は注釈書扱いでクルアーンと認めていないが現地では正式文書と対立がある。 >>72 スーフィズムはかなり広い範囲に分布してるからね。当然イランにも結構広まってた訳で、 この地でシーア派が広まるきっかけとなったサファヴィー朝も元を辿ればスーフィズム教団だ。 スーフィズムはペルシャやトルコなどで地域に根差した信仰を広めていったね。 シーア派とイランとの関係だと、ブワイフ朝の存在も気になるね。 イマーム消失から50年後に権力を掌握した彼らは、シーア派だったし、 しかも、イラン的な伝統を尊重していたから、何かしらの影響があったかもしれない。 例えば、ブワイフ朝は権力を握ると、シーア派である自分たちを誇示するために、 カリフのいるバグダードで、シーア派の行事アーシュラーを強行させたりした。 その時に、シーア派の人達に何かの刺激を与えたかもしれない。 また、ブワイフ朝の王たちは、自らをシャーハン・シャーと号しており、旧ササン朝を意識していたようである。 しかも、王族の一人アズドッダウラは、ペルセポリス遺跡を訪問して、 ゾロアスター教徒の神官にペルセポリス遺跡の壁面にあったササン朝期の碑文を解読させている。 さらに、その隣に自分たちの碑文を誇らしげに刻ませていたりする。 さすがに、ここがアカイメネス朝の遺跡であるとは知らなかったようだが、 ここがイラン神話の聖地であるとは意識していたようだ。 このように、シーア派の信仰とイランの伝統の両方に親しんでいたブワイフ朝が、 シーア派とイランを結び付ける上で、何かしらの影響を与えたんじゃないか?と思ってしまう。 >>74 へ〜、ブワイフ朝ってそんなにイランの伝統を重視してたんだ。 シーア派王朝だったのは知ってたけどペルセポリスを訪問してたのは知らなかったなぁ。 でも、確かにシャーハンシャーとか名乗ってたところを見ると、 シーア派と古代イランの伝統の結びつきに考えを巡らせずにはいられないね。 後にイランにシーア派を根付かせることになったサファヴィー朝の君主も、 シャーの称号を名乗ってたから、その先駆者的な意味はあったのかも知れない。 ブワイフ朝の支配者層の多くはペルシャ人で占められてたみたいだし何か関係ありそうだ。 640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2] 『平清盛』プロデューサー磯智明(反日・天皇制度廃止論者)の全プロデュース作品 @『監査法人 (2008)』反体制・反社会 A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会 B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会 C『気骨の判決 (2009)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会 D『鉄の骨 (2010)』反体制・反社会 E『15歳の志願兵 (2010)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会 F『心の糸 (2010)』反体制・反社会 シーア派 ペルシア系 スンニ派 アラブ系 宗派争いではなく民族対立ということか >>76 ネトウヨの人がコピペしたんだろうけどさ・・ 本当にネトウヨって頭悪いよね・・・ >>77 必ずしもそうとは言えないけどね。かつてはファーティマ朝など、 北アフリカのほうでもシーア派が興ったこともあるし、 現在でもイラクなんかはアラブ人が多いのにも関わらずシーア派が多数派だったりする。 まぁ、イラクのシーア派の場合はサファヴィー朝の影響が大いにあるんだろうけど。 イラクはシーア派の聖地であるカルバラーなんかもあるしね。 ファーティマ朝がシーア派でサラディンのアイユーブ朝からスンニ派になったわけだよな スンニ派とシーア派の対立ってのは俺らが思っているよりも深刻なんだろうな シャーハンシャーを称することと、イランの伝統を重視することは、 あまり関係が無いと思うけどなあ。 東アジアでの皇帝という称号の方が、よっぽど漢文化に深く根ざしているけど、 漢文化をちっとも尊重しなかった元の大ハーンだって皇帝を名乗った。 >>82 モンゴル帝国で初めて皇帝を名乗ったフビライはそれまでのモンゴル帝国の中では、 かなり中国かぶれのほうだったと思うんだけど。遊牧民の伝統も結構重視してたけど、 漢文化に興味がなかった訳ではないよ。でなかったら大都なんか建設しないだろうし。 とは言え、モンゴル帝国のことはここではスレチだから一応置いとくか。 ペルシャに話を戻すと、シャーハンシャーという称号はかつてのササン朝のものだった訳で、 それを名乗るということは、多かれ少なかれ古代イランとの繋がりを意識してたことは否めないでしょ。 まぁ、だからと言ってブワイフ朝が全てにおいてペルシャ的だったのかまでは知らないけど、 少なくともそれまでイスラーム圏で主流だったアラビア文化とは少し毛色の違うものだったのは確かだよ。 ファーティマ朝の起源であるイエメンは古代から独自文明が栄えた地域。 ローマ時代にはローマのインド貿易の拠点都市があり、航路警備のため ローマ軍も駐留していた。一時的とはいえ、サーサーン朝の支配下にもあり、 その前は長年エチオピアの影響下にあった。そして重要なのは、アッバース時代には 既に辺境地帯となっていたこと。 同じくダイラム地方、ギーラーン、マーザーンダラーンは、サーサーン朝以来、 サファヴィー朝中期まで細々と現地王朝が続き、「シャー」の称号を保持していた。 この地はアッバース朝・ウマイヤ朝通じて半独立辺境地帯だった。サファヴィー朝が当初から シャーを名乗ったのもアゼルバイジャンのカスピに近い地方出身だったからのようだ。 ファーティマ、ブワイフの二王朝の勃興は、イマームお隠れの数十年後や、 そろそろ亡くなったかも、という時期のあたりで 起こっているから、両者がイマームお隠れと連動していることは 間違い無いと思う。 不思議なのは、マームーン時代のメルブは、アブー・ムスリム時代からの シーア派が多く、マームーンも8代目イマームを一時後継者にしていたと されるくらい、シーア派の雰囲気にいたようで、8代イマームがトゥース(だっけか)で 死去し、現在マシャドの廟は広大な参拝地となっているくらいなのに、 サーマーン朝がシーア派色が見られない(ように思える)点。イマームお隠れの 時期に勃興し、その地を領内にもつサーマン朝がシーア派にならなかったのはなぜだろうか、と 思ったりしている。 まあな10世紀以降イランで「シャー・ナーメ」とかのペルシア語文学も徐々に復活し始める頃だしな… >>84 シーア派はイスラームの中では少数派だから、イエメンやダイラムのような、 アッバース朝の支配が及びにくい辺境地帯を拠点とせざるを得なかったんだろうね。 そう考えるとファーティマ朝やブワイフ朝がシーア派王朝だったのも不思議ではないね。 時期的に考えてもイマームお隠れの時期と連動してるそうだし。 サーマーン朝って確かわりと歴史あるイランの土着貴族が起源なんだよね。 そういう意味ではブワイフ朝と似たようなものなのにシーア派ではなくスンナ派だね。 アッバース朝から権威を借りて勢力を広げた点もブワイフ朝と同じなのに。 強いて言えばサーマーン朝のほうがよりアッバース朝に近かったからなのかな。 マアムーンはシーア派っぽい部分もあったみたいだけどあくまでアッバース朝自体はスンナ派だし。 とは言え、それでもサーマーン朝がシーア派になる要素も充分にあった気はするけど。 >>85 シャー・ナーメなどペルシャ文学はちょうどこのサーマーン朝の頃に発展し始めたね。 イスラーム後のペルシャ文化興隆のきっかけとなった王朝でもあるんだよね。 ブワイフ朝はパフラヴィー語の銘文を貨幣に刻んでいたらしい。 >>82 中東におけるペルシア文化の影響ってすごく大きいんだよ ブワイフもファーティマも独特だけど、サーマーン朝も確かに不思議だ。 ペルシア文学が勃興したり、ブハラのイスマイル廟に見るように、ペルシア的 建築も建てていて、辺境地帯ということでアブー・ムスリムが反乱の拠点とした ように、一応辺境地帯だった。あえて言えば、アブー・ムスリムの時代の ウマイヤ朝の拠点はシリアだったから、イラクを拠点としたアッバース朝の 方がブハラに近いという見方はできるし、征服戦争を行ったばかりの ウマイア時代の中央アジアと比べれば、アッバース時代の中央アジアは はるかに帝国の重要地として密接な地域となっていたのかもしれないな。 >>87 へ〜、そうなんだ。個人的にこの時期のペルシャ文化の保護者というと、 サーマーン朝のほうばかりを思い浮かべてたけどブワイフ朝も結構ペルシャ的なのね。 古代からのイランの伝統をそれなりに重視してたということか。 >>89 アブー・ムスリムなどアッバース朝建国の功労者と縁が深いことからも分かるように、 初期のアッバース朝においてホラーサーンは国の中心地域と言っても過言ではなかったらしい。 実際、初期のアッバース朝軍の中心はホラーサーン出身者で占められてたそうだし。 アッバース朝後期になると軍の中心がトルコ系のマムルークに変わってくるけど、 サーマーン朝はマムルークの供給地である中央アジアにも領地を持ってたからね。 ホラーサーンや中央アジアなどを主な領土してたサーマーン朝が、 アッバース朝と結びつきが深かったのもそう考えると分からなくはないかも知れない。 まぁ、その一方でサーマーン朝はかなりペルシャ的な王朝でもあるんだけどね。 >>91 確かにそうだね。アブー・ムスリム以前は辺境だったにしても、アブー・ムスリムの 時代からアッバース朝の重要地となったということか。そう考えると、 マームーンが即位前にメルブにホラサン総督として赴任したのもよく理解できる。 >>92 うん。そう考えるとそもそもアッバース朝はウマイヤ朝に比べるとだいぶペルシャ的なのかも知れない。 あくまで中心はアラブ人だったけどホラーサーンなどイラン東部とも結びつきが強かったし、 そもそもの成立の経緯もアラブ人中心のウマイヤ朝に対する反発によるところが大きいからね。 でも、あくまでアッバース朝はスンナ派王朝だったからサーマーン朝もスンナ派だったのかな。 アッバース朝も初期の歴史を見ると結構シーア派に傾いてもおかしくないところがあるけどね。 マアムーンがシーア派っぽかったのもそういう意味ではそんなに珍しくないのかも知れない。 マイナーな地域どころか、近頃珍しいぐらいの勢いでスレ伸びてるな。 なんやったっけ講談社の緑の表紙のシリーズ本の何巻だかに書いてあったんだが忘れた。 初めは別として後には混血を繰り返すから王家が何人かはあまり意味がないのではないかっていうことを アゼルバイジャンの歴史家に言ったとかみたいなこと書いてあった。 サファビー朝が色々持ちあげられるのは、 その前のイルハン国とかティムール朝に対して 久しぶりに土着の者が立てたっていうところと、 オスマン帝国とならんだ中東を二分する繁栄を築いたっていうところな。 >>96 講談社じゃなくて中央公論の世界の歴史シリーズだね。羽田正氏がそんなこと書いてた。 あの人、前はイラン史の研究家としてわりと色んな本出してたのに、 ここ最近はすっかり別分野に興味持ち始めてグローバルヒストリーみたいなことやってる。 それはそれで悪くないと思うけど、日本じゃイラン史の研究家は珍しかったから少し残念ではある。 まぁ、それはともかくサファヴィー朝の場合、初期はクズルバシュが中心だったりして、 トルコ系の要素も強いから必ずしも純粋なペルシャ人の王朝とは言いにくい面は確かにあるね。 あなたの言うようにイランに起きた久しぶりの土着王朝であり(白羊朝や黒羊朝もあったけど)、 オスマン帝国と並んでイスラーム圏を2分する大国だったことが、この王朝が有名な理由だろうね。 とは言え、サファヴィー朝も君主がシャーの称号を名乗るなど、ペルシャ的要素は備えてるんだけど。 >>97 こいつもどうせ三国志から世界史に入ったほうだろうよ ガチガチの西洋史以外歴史と認めないような奴はいない訳? >>59 ローマどころかギリシャだってイランのパクリですよ 西洋史以外歴史と認めないというが、そもそもなぜ西洋史以外を歴史と認めないという立場が存在しているのか。 それは西ヨーロッパが近・現代で世界的に力を持っているからだ。 今力を持っている諸国がどのようにできたか、それに価値を見出せば西洋史こそ研究すべき対象ということになるし、 逆に支配される側である地域にどんな王朝があったかどのような風習があったかは、どうでもよいという話になる。 ある地域の歴史(を学ぶこと)の価値とは現代におけるその地域の価値によって決まるということだ。 歴史は過去のできごとを現代人が整理し、まとめたものであるが、 そこに現代の政治性にもとづく要不要の観念を持ちこんで、過去に価値をつけ、知る必要のない過去と、知るべき過去とを分ける。 自分はそのような行為にはある種の胡散臭さを感じる。 西洋史以外歴史と認めない? 近代、いやルネサンス以前で脳味噌が止まっているのか? >>98 僕へのアンカの仕方からアルゼンチンスレの人と同じと思うんだけど(違ってたらごめん)、 一行レスの批判しかないで具体的なペルシャ史に関するレスをしたら良いんじゃないかな。 そういう書き方をしてもスレの雰囲気がギスギスするだけだと思うし、 批判するなら具体的にどこがどうおかしいのか具体的に言ったほうがスレも盛り上がるからね。 >>99 悪いけど三国志なんてほとんど知らないよ。 僕が世界史にはまったのはアメリカ合衆国史からだし。 三国志から世界史に入ったら何か悪いのか?という問題はあると思わないか。 巨人の星を見て野球選手になったりキャプテン翼を見てサッカー選手になった人がいても別にだれも笑わないだろ。 世界史を勉強するのにその興味を持ったきっかけが三国志であって何が問題なのか。 >>104 まぁ、確かに悪くはないと思うよ。 それはともかく、そろそろスレチだからペルシャに話を戻そうよ。 ちょっと質問なんだけど、なんで中国語でペルシアが波斯(ボースー)なんだ? ボースーって呼び名はどこから来てんの? >>106 中国語は良く分からないけど単に音に由来してるだけじゃないかな。 ペルシャの語源がそもそもファールスのギリシャ語形らしいから、 ボースーというのも似たようなものだと思うんだけど。 parsiのparの部分を波、siの部分を斯で書いてる。 波は今でこそポに聞こえるけど昔はパだった。 arという発音は中国語にないからrは無視してる。 現代では、伊朗(イーラン)と呼んでいるから 普段では使わないな ありがとう!でもみんなスゲー詳しいなw エイジオブエンパイアの中国語版はペルシアが波斯なんだよな。 ちょっと気になってた。 【ナジャフ】 イラクのシーア派聖地 【カルバラー】 [イラク情勢板] http://uni.2ch.net/test/read.cgi/iraq/1329392026/7,11 7 名前:国連な成しさん[] 投稿日:2012/02/18(土) 00:55:18.49 ID:tPAEZkiU イマーム・アリー――彼に平安あれ――聖廟の公式ウェブサイト (The Official Website of Imam Ali Alaihis Salam Holy Shrine) http://www.imamali-a.com/ ※英語、アラビア語、ペルシア語に対応しています。 (* English, Arabic and Persian languages are available.) 11 名前:国連な成しさん[] 投稿日:2012/02/19(日) 00:14:08.82 ID:8HM4g+8R イマーム・ホセイン――彼に平安あれ――聖廟の公式ウェブサイト (The Official Website of Imam Hussain Alaihis Salam Holy Shrine) http://www.imamhussain.org/ ※英語とアラビア語に対応しています。 (* English and Arabic languages are available.) イマーム・ホセイン廟ってペルシア語対応してないのか。 イラン人にとって、イラクのシーア派聖地は外国って感じがしないのかな? >>116 聖地巡礼は、過酷な外国旅行って感じだったらしいよ。 山賊の襲撃から身を守るために集団になったり、山賊一味を護衛として雇ったりしたり、 慣れない土地でのスンナ派住民とのトラブルなどが絶えなかったようだし、オスマン朝当局も歓迎してなかったし。 旅で死んだ仲間の棺を引きずりながら、旅を続けたりもしたようだ。(ドラクエじゃないけど) 過酷な旅+試練+聖地+感動+大勢の参詣仲間たち=「熱狂的なシーア派イラン人」になって帰って来る。 >>114 >彼に平安あれ ナニコレ?ペルシアの風習?? 419 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/01/10(火) 01:02:08.67 0 『イランはこれからどうなるのか』 (春日孝之、新潮新書) 日常的にイラン人と付き合い、その発想の仕方や行動原理を理解するにつれ、 イラン人をイラン人たらしめている核心は、その特異な民族意識にあると思い至った。 民族意識の底流にあるのは、中華思想のイラン版とでも言えそうな「イラン民族主義」である。 イラン民族主義を言い換えれば、古代ペルシャ帝国の末裔としての極端なまでの誇り高さである。 とりわけアラブ人蔑視に代表される優越意識は露骨なほどである。 ・・・ ペルシャ人にはもともと『反省』するといった思考回路がないということです。 基本的に自分のしたこと、することに間違いはないと考えている。 うまくいかなかった場合は『他人の責任』です。民族的誇りというより、民族的驕りですね。 イラン人は物事を主観的に分析はしても、客観的に分析することは極めて苦手です。 ・・・ イランの文化は曖昧であることを美徳とします。 物事の白黒をはっきりさせないことを良しとするのです。 はっきりさせることによって、多くを失うと信じているからです。 政治システムが不透明なのも、これに通じるかもしれません。 物事を割り切ってしまうアメリカ人には理解しがたいでしょうが・・・ ・・・いずれにせよ、イラン人との付き合いは、「あうん」の呼吸が求められる。 言葉に託された真意を忖度する必要がある。 日本人より極端。昔の京都人が比肩できるくらいか。 良くあるのが、「是非ウチに遊びにきなさい」と言われてノコノコ出向くと絶句されるのとか。 儀礼的なやり取りが山ほどあり、言葉のウラを読み取る繊細さが求められる。 開けっぴろげなトルコ人やアラブ人と同じように考えて対応すると、「品のないやつ」と内心思われる。 そうかー?今の京都人も変わらんとおもうが。実際 「是非ウチに遊びにきなさい」と言われてノコノコ出向いて困惑されたことあるよ。 大人だとあれだけど、子供なら許されるというものだ。 >>40 >タンザニアのゾロアスター教徒、クルマンジ・クルド人、オセチア人、西欧のロマもスレ的に可にするのか? 当然だろ ゾロアスターなんてまさに多神教に白黒つけた最初の宗教なのに、イランは文化的には曖昧なのか なぜそうなったんだろう 日本もヤオヨロズの神だから曖昧とか言われてきたが他に要因ありそうだな >>127 イラン研究家の見立てによると、被征服民であった期間が長いからだそうで。 アケメネス朝からサーサーン朝までの1200年間、偉大で洗練された民族として生きてきたのに、 辺境民として見下してた連中から次々と支配され、面従腹背的な本音とタテマエが強くなったと。 なるほど。 ペルシア語もアラビア文字になっちゃってるしねえ >>130 そうだね。 個人的には、シーア派のタキーヤ「信仰秘匿」っていうのは、迫害に耐えるゾロアスター教徒の姿にともダブってしまう。 >>134 初期のシーア派はわりと長い間迫害されてたから、タキーヤという概念を生み出したんだろうけど、 ここら辺はゾロアスター教への迫害と通じる部分も確かにあったのかも知れないね。 33 : 世界@名無史さん : 04/03/18 10:01 >イスラムといえば、当時のアラビアでは女性も顔をベールで覆っていなかったらしいな。 現代のイランのような厳格な宗教国家は、欧米に対する反発が原因で引き こもってるような状態なんで、もとからそうだったわけではない。 本来の中東人は、情熱的でおおらかな南国の民ですな。 >>136 イラン革命前のイランはパフラヴィー朝の下で近代化政策を進めてたこともあって、 イスラーム色はかなり弱かったしね。その反動で今のような宗教国家が出来上がった。 モハンマド・レザー・シャーはトルコのケマル・アタテュルク並みの改革を強引に進めてた。 パフラヴィー朝の近代化政策は、貧富の差・社会矛盾を増大させただけで、国王とその側近の私腹を肥やす結果に終わった。 しかも、国王は、CIAを使って、モサデグ首相を失脚させたような、脛に傷を持つようなヤツだったから、国民に人気があるはずがない。 さらに国王は、オイルマネーを使って、国民生活をかえりみず軍事力強化に走ったり、秘密警察を強化したり。 国王の求心力を高め、イスラム勢力を抑制するために、イラン民族主義を利用したが、 そもそも国民自身の生活に困窮しているような状態で、そんな宣伝をやっても、なびくはずがない。 国王が開催したイラン建国2500周年記念式典は、まさに茶番でしかなかった。 >>140 パフラヴィー朝は世俗的でナショナリスティックな国家形成に励んだけど、 あまりにも抑圧的すぎたせいで国民の反感を買うことになってしまったね。 パフラヴィー朝の初代皇帝であるレザー・シャーは同時代のトルコ並みに、 イランの世俗化や近代化を推し進めてた。そして、ナショナリズム高揚のため、 アケメネス朝やサーサーン朝などの古代ペルシャ帝国を大いに持ち上げ、 そこにイラン人としてのアイデンティティを求めた。でも、第2次世界戦において、 外交で失敗したため退位するはめになっちゃったね。彼の後を継いだ息子の、 モハンマド・レザー・シャーは当初こそイスラーム勢力との歩み寄りを模索し、 独裁的な姿勢も少し改めようとしてたんだよね。でも、首相になったモサッデクが、 あまりにも共産主義勢力に寄りすぎたせいで、モハンマンド・レザー・シャーや、 アメリカ合衆国などの反感を買うことになってしまった。ナショナリズムに基づいて、 行なわれた石油の国有化政策もイギリスとの関係を悪化させることになったし。 そしてとうとうアメリカの支援の下でモハンマド・レザー・シャーがクーデターを起こし、 その後の彼は独裁的で親欧米的な政策を展開するようになってしまったんだよね。 自身の独裁権力を強めるために、彼は父がやったように古代ペルシャ帝国との、 繋がりを強調してイラン建国2500周年記念式典なんかをやったけど効果はなく、 彼の独裁的で欧米寄りな姿勢はイスラーム勢力からも大いに反発されることになった。 悪名高いSAVAKへの反感なんかもあり、とうとう1979年にイラン革命が起こり、 イランの世俗化近代化は失敗し、イスラーム共和国ができることになっちゃったね。 モハンマド・レザー・シャー自身は 開明的かつ合理的な指導者だったのに 国民の脳みそが1300年遅れだったのが悲劇だな >>141 モハンマド・レザーの治世初期は、国王の権力基盤が脆弱だったし、 民衆の自由な政治参加が活発化していた時期だからね。この傾向はモサデグの失脚まで続く。 あと、欧米がモサデグを嫌悪したのは、彼の資源ナショナリズムに対して脅威を感じた面が大きい。 要は石油の既得権益の喪失を恐れたのさ。 ちなみにイラン民族主義とムスリム意識とを分けて考えていたのは、一部の知識人だけだった。 彼らは欧米帰りの富裕層であり、農村の一般民衆の意識とは大きく乖離していた。 民衆にとってのイラン民族のアイデンティティーとは、自分たちが「シーア派ムスリムのイラン民族である」ということにあった。 モハマド・レザー・シャーの白色革命と一連の経済政策の計画自体は高い評価を受けて、 ノーベル経済学賞候補だったと古い本ではあるが五十嵐氏が述べてますねえ。 彼はあとペルセポリスとかイスラム化前の古代ペルシャ帝国の遺跡の発掘にも力を入れて 古代より続く世界に冠たるペルシャとでもいうべきアイデンティティの構築を視野に入れていたとか・・・ 彼自身は名君だったとは思う。 266 名前:何語で名無しますか? 投稿日:2012/04/13(金) 18:13:33.02 4000人が暮らし、イランによる封鎖も懸念されているホルムズ海峡を見守り続けてきたオマーンの小さな漁村クムザール(Kumzar)。この村には、同地の住民しか理解-できない1000年の歴史を持つ独自の言語がある。(c)AFP 印欧語とアラビア語が混じった言語 クムザーリ あるオランダの専門家は滞在一ヶ月で話せるようになった 267 名前:何語で名無しますか? 投稿日:2012/04/14(土) 02:26:32.81 よくわからんが 印欧語とアラビア語が混ざった言語ならペルシア語が有名だし 話者数が4000人ならそれよりもっと話者数ご少ない言語もあるだろ 268 名前:何語で名無しますか? 投稿日:2012/04/21(土) 21:04:01.98 http://en.wikipedia.org/wiki/Kumzari_dialect アラビア半島で使われてる唯一のイラン語群なんだとさ >>144 前皇帝のレザー・シャーが退位してモハンマド・レザー・シャーが即位した経緯には、 第2次世界大戦における外交圧力が関係してるからね。まだ皇帝自身の権力基盤も、 そこまで強くはなかった。そのうえ、レザー・シャーの強圧的かつ強引な近代化政策で、 国民の民主化意識が強まってたしね。ここら辺はイスメト・イノニュの下で民主化を、 進めた同時代のトルコ共和国とかぶる部分もあるような気がする。共産主義寄りで、 そのうえナショナリズムの強い石油政策を展開してたために西側諸国から反感を、 買ったモサッデク首相の失脚によりその姿勢は変わっていったけど。特にイギリスは、 モサッデクのせいで石油利権を失ってしまうことをかなり危惧してたからね。そして、 モハンマド・レザー・シャーは父と同じようにイランナショナリズムに走った訳だ。でも、 あなたも言うように当時の民衆の多くはイスラームとイラン人意識を分けられなかった。 だから、国民の支持を取り付けることに失敗し、むしろその親米的な姿勢によって、 国民から反感を買うことになってしまった。そこら辺がイラン革命の起きた主な原因かな。 >>145 彼はある意味開発独裁的な君主だからね。人によって評価はかなり分かれるかな。 ノーベル経済学賞の候補になってたとは知らなかったなぁ。古代ペルシャ帝国から、 続く民族意識を高揚させようとした彼の政策は、多くの国民には受け入れられず、 失敗したけど方向性はそこまで間違ってなかったのかも知れない。彼の行なった、 イラン建国2500年式典は微妙だったらしいけど。個人的に、ここら辺の民族政策は、 トルコ共和国におけるトルコナショナリズムの煽り方と似てる部分があるように思える。 6 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/05/05(土) 11:59:21.32 0 中東も謎だよな。スンナ派は肖像画を許さないのにシーア派圏ではアリーの絵が売られてる。 7 名前:山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte 投稿日:2012/05/05(土) 12:13:50.83 0 >>6 確かに目立ちますね。ペルシャ文化圏独特の矜持でしょうか。 10 名前:オツガイ ◆EAbyJft1LY 投稿日:2012/05/05(土) 23:34:00.72 0 >>6 シーア派は偶像崇拝に対して寛容だからね。たとえ肖像画を描いても、 それを神として崇拝さえしなければ良いらしい。だからアリーの絵が多い。 >>7 中東における絵画はペルシャ文化圏の独自性に加え、トルコやモンゴルの影響も多いかな。 初期イスラーム時代においては確かに、中東にあまり絵画は残ってないんだけど、 モンゴル帝国が進出した13世紀以降には人物を描いた絵画が中東でもたくさん出てくる。 なにこれw 語彙がほとんどスラブ系(ロシアやポーランド)じゃん IT産業の技術者を養成して雇用を増やす・・・みたいな話? これ、オセット語ってロシア語わかれば、だいたい意味掴めるってことじゃないか で、オセット語って感覚的にどんだけペルシャ語に近いの? エロイ人教えて。 174 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/07/05(木) 21:23:55.28 O 「アフガニスタン地域はどの時代を見ても(少なくとも10世紀以降)ほとんど年中戦乱状態だよね」って書いたのは学生時代ザッと年表を見て思った事で詳しい事は知らないんだけど、詳しく見ると実際はどんな感じでしたか? 最盛期のイギリスでも結局実効支配は出来なかったよね? 176 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/07/05(木) 21:37:22.58 0 英国は、ロシアが南下して英領インドと接するのが嫌だったから、緩衝地帯としてアフガニスタンの王を 認めてやって、保護国ってことにしただけだから 実効支配しなくても、自分たちに逆らわなきゃそれでよかった まあ、逆らわれて、第2次、第3次アフガン戦争になるわけだけど 177 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/07/05(木) 21:42:05.31 0 アフガニスタンは国土の大半が山岳地帯だからゲリラ戦を展開されると 都市をいくら制圧しても治安は一向によくならないって地理的な問題がある 歴史的には英国やソ連、今のアメリカもこれに手を焼いている 後、米国は陸路からアフガンへ物資を送るためには事実上 パキスタンからのカイバル峠ルートしか利用できなかったため そこを重点的にゲリラに攻撃され苦しんでいることもある 近年はロシア経由コースも利用するようになってきたけど これはロシアへ大きく依存することになるのであまり乗り気ではなかった ロシアにとってはアフガンは南下する上で無視できない経路であり 英国にとってはアフガンがロシアの統治下になると 英国領インドへカイバル峠ルートを利用して侵攻される危険性から ロシアに渡すことはできない場所だった アフガニスタンって殆どスンニ派で同じペルシャ系でもイランとは同族意識ないんかな? それともタイに対するラオスみたいに列強の都合で分離させられてるだけなのか? アフマディネジャドは顔からしてイラン人じゃないだろ >159 鋭いのか詳しいのか判らないけど話が盛り上がりそうだw 大学の学部生ですが、教養科目の東洋史でイスラーム史履修中です。ペルシャもやってます。 ゼンゼン、オモシロクネー。 イスラム教化以降のイランは暗黒 アフマディネジャドはアルメニア顔 >>159 は>>160-161 のような方向を言ってるんじゃなくて、 中世以降流れ込んできたテュルク系の血脈が濃厚に感じられるって話じゃないの ペルシャって、アケメネス〜ササンと、 ヘレニズムの一時期を除けば、 1000年くらい西アジアの覇者だったんだよね。 イスラム以降は、アケメネス・パルティア時代の記憶は、 ほぼ、失われたんだよね。ササン朝の記録とかは、残ってたの?? ペルシャって、詩人の国というけど、 イスラム以前の詩人の作品て、残ってるの?? >>162 西アジア史とかイスラム史って、他の地域とちがって予備知識や基礎知識がないから、 初心者にはチンプンカンプンで全然面白くないというのはわかる。 なんかとっつきにくいし。 この分野に興味を持ってる人が、どういうきっかけや方法で知識を持つようになったのか、 そっちの方が気になる。 アケネメス・パルティアの栄光をもう一度・・て築かれたのがパウレビー朝 日本だと、6・7世紀から、一応、文化の連続性あるよね。 西アジアだと、イスラム以前の歴史って、 日本でいえば、邪馬台国とか、縄文みたいな認識なのか?? 文字も言語も、変わっちゃってるんだよね?? >>165 >イスラム以降は、アケメネス・パルティア時代の記憶は、 >ほぼ、失われたんだよね。ササン朝の記録とかは、残ってたの?? いや、イスラーム化後も古代ペルシャの記憶が完全に失われた訳ではないよ。 9世紀頃からイスラーム圏でもペルシャ文化が興隆してきて、シャー・ナーメとかで古代ペルシャの栄光が語られたりしてる。 イスラームという新たな宗教を受け入れながらも、ペルシャ人としてのアイデンティティも依然として保ってはいたんだろうね。 また>>167 も言ってるけど、20世紀にはパフラヴィー朝がナショナリズムを高揚させるために古代ペルシャを持ち上げたりしてた。 >>166 >この分野に興味を持ってる人が、どういうきっかけや方法で知識を持つようになったのか、 >そっちの方が気になる。 最近はイスラーム史の入門書も結構増えたから、まず最初にそういう本から読んでみれば良いんじゃないかな。 最初は教科書や簡単な入門書など、特に予備知識なしでも読めるものから始めたら良いと思う。探せば結構あるものだよ。 , --- , _ ノ) ┏┓ ┏━━┓ γ ==== ヽγ∞γ~ \ ┏┓┏┓ ┏┛┗┓┃┏┓┃ i l_|||_||_||_l | | | / 从从) ) ┃┃┃┃ ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━━━ | |ー. ー |) |ヽ | | l l |〃. ━━━━┓.┃┃┃┃ ┏┛┗┓┃┏┓┃┗━━━.ノ人 ワ ~∩| ! `从∩ ワノ)━━━━━┛.┗┛┗┛ ┗┓┏┛┗┛┃┃ ( (つ 丿ノ ( ⊂) ┏┓┏┓ ┗┛ ┗┛ ( ヽノ ヽ/ ) ┗┛┗┛ し(_) (_)J ストラボンの世界地誌によるとアルメニアとメディア、ペルシャはもともとは同じ種族だったそうな アメリカはイランを悪の枢軸として名指しにしてるのに放置プレイなのはまさか石油もシーレーンもないからなのか? イラン人は嘘吐きが多いから嫌い 個人レベルから団体レベルまで 大丈夫は全然大丈夫じゃない 必ずやるは必ずやらない アメリカ人は嘘吐きが多いから嫌い 個人レベルから団体レベルまで 大丈夫は全然大丈夫じゃない 必ずやるは必ずやらない >>175 あれって、嘘じゃなくて願望と事実をきちんと区分できんことから生じるもんらしいよ。 「なにも起こらなければいいな・・・」→「起こらないよな、きっと」→「ダイジョ〜ブ!」 「できるかな・・・」→「できるかも・・・うん、きっとできる」→「カナラズ、ヤリマス!」 このような傾向は、イランだけでなくアラブ・トルコ・インドなどでも一般に観察される。 このスレも一気に廃れたね 途中までは盛り上がってたんだけど >>178 過疎化の進む世界板に、イラン系スレが4つもあるからじゃ。 Facebookに潜伏する「中国やタリバンのスパイ」 http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120912/wir12091215450008-n1.htm 技術に精通したタリバン兵士たちは、可愛い女の子になりすまして、 オーストラリア軍の兵士から軍の機密情報を漏らすように誘いをかけている。 >>129 現在、パフラヴィー文字って全く使われて無いんだっけ? イラン人やアラブ人は問題が起きると英語でも、No problem と平気で言う。 >>181 ,183 古代ペルシャとアーリア人スレはここより先だから向こうに優先権がある。 ゾロアスターは丁度このスレが盛り上がっているときに立ったからあれは 二番煎じで、いらない。 ゾロアスタースレは途切れたけど過去スレあったからな・・・・リバイバルスレとしてアリと思う。 ちょっと経つと過疎るのも、これまで通りだけどなw サファヴィースレも昔あったような気がするが、勘違いかもしれない イラン人は先祖にあたるザラシュトゥラの教えである ゾロアスター教の方が本来の宗教なのに何故か余所者の ヘブライの流浪者モーセの流れを汲むイスラム教を奉じている。 >>191 ゾロアスター教を復興、とは行かなくてもアケメネス朝やサーサーン朝の栄光を取り戻そうとした パフラヴィー2世を追い出すとかどうかしているぜ。 >>190 サファヴィーの文字が入ったスレはあったと思うが、今回のは その後継を狙ったものでは無いのは明らかだろ。 で、このスレが伸びていたのはオツガイのお陰で、スレが止まったのも サファヴィーに持っていかれたからってだけ。 他のスレは死んでたようなスレだから、ほとんど関係ない。 サファビー朝のスレ主がここに情報提供していたら、ちょうどバランス的にいい感じ だったが、重複って指摘受けても強行していたからな スレの正当性なんて結果が全て。 このスレも雑談以外で伸びればいいだけの話。 どっちにしろコテ一人に依存しているようなスレはクソスレ。 >>197 じゃあ、コテ3人に依存している板は糞板なのかな >>187 アーリア人スレはいくらなんでも4つのうちに入ってないだろう。 あれまでペルシアスレといいだしたら、きりが無い。 イラン人の詩人オマル・ハイヤームの本職は天文学者で、 トルクメニスタンのメルヴに作られた天文台の台長だった。 彼の作った有名な暦、「ジャラリー暦」は1年を365.24日と計算し、 365.2425日と計算するグレゴリウス暦より精密であった(1太陽年は365.2422日)。 彼はまた数学者としても名高く、三次方程式の解法を考案していた。 パフラヴィー朝って、何で皇帝(シャー)の称号なんだろう? サファヴィー朝にあやかって? アルゲ・バムって今更ながら凄い遺跡だったんだな。 http://kaoridon.blog68.fc2.com/blog-entry-279.html 地震前にあの辺りうろついていたんで、行っときゃよかった。 >>204 むしろもっと古いアケメネス朝やサーサーン朝でしょ。 パフラヴィー2世はシャーハーンシャー名乗っているし。 シャーって、ロシアのツァーなんかと同じで、カエサルを自国語読みしたもの? 古代ペルシャ語xshayathiya(統治者)、インド・イラン祖語ksayati(支配)から。 梵語のksatriya(王侯)と同じ語源。 67 名前:世界@名無史さん 投稿日:2012/11/11(日) 11:46:49.27 0 トッドは未来はどうなるって言ってるの? はたしてそうなってるのか? 68 名前:名無し募集中。。。 投稿日:2012/11/11(日) 13:05:06.11 0 >>67 イスラムと欧米は対立せずにイスラムが欧米に接近する イスラム圏ではトルコよりもイランのほうが近代化している イランとアメリカは戦争しない イランは地域大国になる アラブの春を予言していたと行ってもいいと思うけど 96 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/02/19(日) 13:03:33 0 「千夜一夜物語」の世界の魔術はイスラム以前のセム系魔術の名残なんでしょうか? ランプの精、岩戸を開く「開けゴマ」の呪文等々。 怪鳥ロックは明らかに古代セム神話を受け継いだものだそうですが。 ジンはイスラム時代になっても廃れることなく残った不思議な存在ですな。 97 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/02/19(日) 21:39:27 0 >>96 「アリババと40人の盗賊」はイランの話だとか 98 名前:世界@名無史さん 投稿日:2006/03/02(木) 00:58:29 0 イスラム以前のイランの呪術についてのまとまった研究はまだ存在していないらしい 「マギ」のことか? アニメでは、テュルク系の集団も出てくるようだが イラン人は民族主義のペルシアよりもイスラムのほうが重要なんでしょ? アメリカに移住したイラン人コミュニティは真逆、特に2世以降は。 自分たちは「ペルシャ系」と自称する、 イスラム色はできるだけ無いように振舞う、 古代ペルシャの栄光を拠り所にしている、 自分たちは「白人」だと思っている、 本国に帰ったら西洋に魂を売った堕落した裏切り者だな 古代ペルシャの栄光は、アケメネス〜ササンまでのことだよね ササンが否定していたアルサケスは含まれる? あと特にゾロアスター教徒でもないんでしょ?(アメリカにもいるみたいだけど) でもよく考えるとアケメネス〜ササンって中国だと 春秋戦国〜唐初なわけで、古代ペルシャの栄光!っていうのは、 中国人がどや、漢でかいやろ!っていうのとあんま変わらんよな。 大秦国って呼ばれてたころやね 今のイランの人たちはアーリアのけっとうでしょ あるいは混血 ササンの滅亡、このころが渡来人がやってくるの最後なんだよなw もちろん今の日本人というわけじゃない 日本人の創生の一部になった人々って意味 すると人類の起源はアフリカ生まれの日本人ということになるな んにゃ、月の記憶を持ち日ムカとなってにほんにきた人だけ あくまで航路は太陽の動く方向、東西だから 北南に航路をとることはなし^_^ 北天文化だけは徹底的に否定させてもらいます どうみてもこれのせいで大勢死んでるから、丑の刻の方角だしな これまでイランの政治体制&シーア派についてどうにもめんどくさくて理解できなかったんだが、 この記事は非常によく噛み砕いてくれていて分かりやすかった。 「最高指導者」の影響力はどれくらい?--知れば知るほど混乱するイランの政治 http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20130702/250517/?mlp& ;rt=nocnt >>203 見てるかどうかわからないけど平凡社ライブラリー版がおすすめ イ…イスラム化以降のペルシャ文化の凄さは交易圏を広げるアラブ人の勢いに便乗してイスラム世界の東半分にペルシャ語の影響を与えた事にあるから…(震え声) ササン朝までは中国の歴史に近かったのに イスラムの影響で変わってしまった印象がある そうかな。 アラブ ≒ 鮮卑拓跋国(北魏−隋−唐‐五代) ブワイフ ≒ 宋 セルジューク ≒ 金 イル汗国 ≒ 元 チムール・サファヴィー ≒ 明 と比較的足並みは揃っているように思えるが。。。。 アフシャール朝が清朝並みであればよかったのだが、ここでイラン脱落。 >>239 まーわりとリンクしてるところはあるね ただイスラム教でペルシアの根源的なものが変わってしまったと思う 中国は異民族が支配しても異民族は文化的な影響を与えるけど 根源は変わってない印象 中国は古代から人口が多かったけど ペルシアの人口推移はどうなんだろう? いかほどの信頼性はわからんが、ウィキのMcEvedy&Jones推計だと、 1世紀〜近世以前のイラク+イラン+アフガン+西トルキスタンだと計9〜11百万人で推移させてるね 西トルキスタンの半分以上は諸ペルシア帝国の領域外だろうから、8〜9百万人って感じかな? >>244 帝国を作ってる割には人口が少ないよね インド、中国は古代から多いのに 中東は砂漠の影響で増えにくいのかな (@テヘラン)建前国家・イラン、真に受けると… http://www.asahi.com/articles/TKY201311150293.html ■特派員リポート 神田大介(テヘラン支局長) イラン人の言うことを真に受けてはいけない。 タクシーに乗る。支払いの段になって「あなたのような方を乗せることができるだけで光栄。 お代は結構です」と言われることがあるだろう。本気にして降りてはいけない。「とんでもない、 払いますよ」「いえいえ受け取れません」「そう言わず」「いえ本当に」といったやりとりを3往復 ほど繰り返し、「そんなにおっしゃるなら」と運転手が言うまで続ける。 >>246 これはそういう文化なんだよ。京都の建前文化と似ている。 古来から長年の文明の中心という伝統のありすぎる地域は形式的な儀礼を 極める傾向にあるが、優雅を極める過ぎると、外部の者からするとわけわからん ことになるという一例かと。 そういう習慣を知らない外国人にもするのはどうかと思うが。。。 >>244 モンゴル軍の大量虐殺の影響もあると思われる。 ペルシャ復活運動ってないんだろうか? ゾロアスター教の教理はかなり合理的なのでここから現代に耐えうる哲学体系が生まれてもよかろうもんだが。 アケメネス朝からササン朝ペルシアの詳細を多少とも知りたくば、 『西洋古典学事典』を読むことだ。 よいな。 よくわからんのは何でペルシャと石油契約を結んでいる企業が無いのかということ。 トタルとかマリエの親父の会社とか半島にまで影響をおよぼしているというのに。 >>248 いや、モンゴル侵入以前(1世紀〜)からその程度の人口となってるね ローマ帝国(当時、約5千万)と比べて面積も小さいし人口稠密地も少ないからそんなもんだろう エジプト・シリア・アナトリアを抱えてたアケメネス朝盛期は2倍以上の人口だったろうがな 112 :世界@名無史さん:2012/02/24(金) 00:27:28.17 O ペルシャの文化的特性は? 113 :世界@名無史さん:2012/02/24(金) 00:51:48.01 0 詩、庭園、タアズィーエ ペルシア文化圏の特性というなら、 詩、庭園、ノウルーズ だろうて 宰相 「陛下、ギリシアなる辺境地からの使者たちとの謁見の時間です。」 陛下 「うむ・・・よきにはからえ。」 宰相 「衛兵、使者をこちらにお連れせよ!」 使者 「オッス、オッス!オッス、オッス!」 宰相 「・・・コホン。こちらが地上世界を統べる偉大な御方、王の中の王、ダーラヤワウ陛下であられる。」 使者 「ダ・・・ダラヤ・・・・ダレイオッス!オッス!」 宰相 (・・・アカン。) 陛下 (・・・誰だよ、こんな筋肉バカよんできたの。) イラン人ってみんな アフマディメジャドみたいな顔している アフマディメジャドは改宗ユダヤ人家系との噂があるらしいな、過去を詮索すると秘密警察が出てくるらしいw それはともかく、サッカーのイラン代表とか追ってると5人に1人くらい南欧人レベルのすっきりした顔のやつがいる 1)元々のイラン人はそんな顔で、アラブとテュルクと混血したことにより今の暑苦しい顔が多数派になったのか、 2)それともスラブ系などと混血したテュルクが元々暑苦しい顔をしてたイラン人の中に入ってきた名残なのか・・・さて んなもんネアンデルタール人とアフリカから来た暑苦しいホモ・サピエンスの混血に決まってるだろ サファビー朝やムガル朝では「ハーン」の称号の価値が下落して その辺の豪族でも名乗るようになった。 人類史上最初の文明の発祥地オリエントを統一した最初の帝国がペルシャであり その後オリエントから東西へ波及した文明が合流して最も高まった場所から生じた最後の帝国が日本だった そんな風な事をふと思いついた ペルシャの前にアッシリアがオリエントの覇権を握ったが、 メディア・リュディア・バビロニア・エジプトなど主要国を威嚇して 隷属させる形であった為に反発を招き反乱を起こされた。 ペルシャの前にアッシリアがオリエントの覇権を握ったけど、 アッシリアは何故イランを征服しなかったのだろう? セミラミスがバクトリアまで派兵したという伝説はあるけど、 史実では隣国メディアを服属させたにとどまっている。 バビロニア人にとってイラン高原は寒過ぎるだろうけど、 アッシリア人にはむしろエジプトとかよりも気候的に 慣れやすかったように思える。 イランの語源はアーリアなので、かつてメディア以前に ヘラートがあるアリアナに強国があって、アッシリアを 防いでいたのかもしれない。 気候が違いすぎて征服の対象として見てなかったんじゃないか? エジプトならメソポタミアと同様大河があって同じような生活をしてる訳だが ペルシャだとそうはいかない ヘラート(ハライヴァ)とアーリアは語源的に関係ないぞ ハリー川が由来だから ハライヴァ=アーリアでヘラートはアーリアそのものの事で ハリー川とはアーリアの川という事なのでは? アッシリアはバビロニアの不穏な動きやスキタイの南下に手一杯で ペルシャまで軍勢を出せる余裕は無かった。 実際メディアはスキタイと同盟してアッシリアを滅ぼした ハライヴァは梵語のサラユーと同じで、単に「川、流れ」の意 ギリシア人が訛ってアレイアなんぞと呼んだから紛らわしいが アーリアとは別の語源 >>267-268 ザクロス山脈があったから、という要員は薄い? アルメニア王家ってガウマタを倒した一人が 始祖だよね? 古代ペルシャ人が崇拝していたアフラ・マズダは最高神ではあっても唯一神ではなかった 古代ヘブライ人が崇拝していたヤハウェは唯一神であり他の神の存在は認めなかった。 ペルシャ人がバビロン捕囚のユダヤ人を解放し、その宗教を保護したが、 ペルシャ人が保護したのはユダヤ人の宗教だけではなく、 支配下においた民族全ての宗教・文化を保護した。 9月20日〜11月30日に群馬県立館林美術館で、 『ペルシアのきらめき』展が開催されているぞ。 http://www.gmat.pref.gunma.jp/ex/exmain.html オリエントの専制君主と言うが、意外にも中東の国の方が自治都市には寛大だ ペルシア戦争でデロス同盟がペルシアを撃退したというが、 これがマケドニアやローマならそれだけでは済まない 経済制裁で降伏するまで追い詰める 実際にアテネ、テーベ、ティルス、カルタゴを滅ぼしたのはマケドニアやローマであってペルシアではない ティルスがどれだけ繁栄してもペルシアは直接支配下に置こうとはしなかった オスマン帝国も寛大であった むしろナポレオンの方が余程自治都市に高圧的であった ペルシャ帝国はどんだけ拡大しても気候の違う地域で止まってしまうイメージがする 88 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 05:45:29.79 0 イランのアゼリー人は、サファヴィー朝の頃から支配層側の集団だったし主流派の一翼 パフラヴィー朝の外戚もアゼリー人が固めていた(モハンマド・レザー・シャーの実母も嫁もアゼリー人) 最近でも、保守派領袖ハメネイ師と改革派の領袖ムサビの両方がアゼリー人という時期があった ほぼ辺境民として生きてきたクルド人集団とは、置かれた状況がまったくちがう 202 世界@名無史さん[] 2015/02/05(木) 20:05:26.11 0 シーア派は隠れゾロアスター教だろ。 こいつだけw まあシーア派の教義にゾロアスター教の影響があることは確かだがな ゾロアスター教の影響なんて審判の日に先駆けて救世主が現れる、ってくらいしかないだろ 多神教でもなければ二元論でもない シーア派って火を特別視するっけ イランにはそういう行事があるけど、それはあくまでもイランの伝統行事であってシーア派じゃないでしょう ちょっとググってみたら、ちょっとだけこういう文章がみつかった。 >密教で重要視される護摩の火はゾロアスター教が源流とされる、またイスラム教シーア派にも影響があるとされる。 http://mk123456.web.fc2.com/zoro-kyou.htm >>296 そういうサイトの情報は鵜呑みしないほうがいいぞ なんかおかしいこと書いてあるし(アヴェスターの記録がギリシア人によって行われた、パールシーがヒンドゥー教の儀礼に影響与えたなど) シーア派に影響与えたってなんの影響だよ、と言ってあげたい いや別に信じているわけじゃないから。 上のやりとりを見て、それっぽいキーワードで見つかるのはこのページぐらいだったと言ってるだけ ユダヤ人がバビロンからペルシャ人によって解放された過程で ユダヤ教がゾロアスター教の影響を受けた可能性は高い。 厳密にイスラムと言えるのはスンニ派だけだな。 シーア派は民族土着の宗教が混ざってる感じだな。 具体例出してないならデマカセを疑え >>300 シーア派とスンニ派が台頭に対立していると思い込むのは素人 スンニ派とはシーア派以外くらいの意味しかないため、スンニ派地域でも現地の民族土着の風習がアッラーの名において行われてるもんだ 主にアフリカでの女性器切除とかな スンナ派も四大学派に別れ、各地のシャリーアがあり、土着の風習が混じる シーア派もドルーズや12イマームやイスマーイールなどに別れ土着の風習がまじる 結局共通しているのはアッラーとコーランとムハンマドとそのハディースだけ、という感じ? ムスリム自体、全体像を把握できていないのではないか。 「イスラム国は真のイスラムではない」とよく言われるが、 イスラム国の言動が特定の宗派のシャリーアに合致するのは紛れも無い事実。 仮にイスラム国が真のイスラムでないなら、どの国も真のイスラムではない。 コーランの規定を厳密に守っている国など地球上のどこにも存在しないのだから。 経典があって預言者がいる、というだけで、カオスぶりは ヒンドゥーや道教と変わらんのでは 実のところ 元はといえば戦後に一部の中東学者が「全イスラームは一心同体! イスラム過激派への批判は全イスラム教徒への侮辱」と喧伝したのが原因。 乙嫁語り最新刊でペルシアが出てきました あれはカージャール朝時代でいいんでしょうか それと、姉妹妻についてggってもエロゲばっかりでてきます 森さんがわかりやすく日本語に置き換えたのでしょうか 元の言葉を教えてください >>304 西欧人が興味本位にデフォルメした いわゆるオリエンタリズムに合致するものしかないのが不思議 言ってることは諸学派の寄せ集めの挙句に斜め上の極論と強行手段だし イスラム原理主義じゃなくてシャリーア原理主義というべき >>308 いわゆるオリエンタリズムじゃなくていずれもオリエントに実在した教義 >>310 そうじゃなくて現代にないばかりか中世でも稀だったようなキワモノの行動ばかり 凝縮して野蛮なアラブを演じてることがオリエンタリズムだっていうんだよ お前はそういう詐術に騙されてそうだが イラン人がユダヤ人のモーセを預言者として認める一方で、 先祖とも言えるザラスシュトラを"無かったこと"にするイスラム教に帰依しているのに違和感を感じる。 イランの教科書には普通にザルドシュトのことも書いてあるけど しかも好意的に 国民的叙事詩である王書にもザルドシュトは出てくるし、イランにおいてなかったことなんかにはされていない ノウルーズ(イラン正月)の習慣ってまだ続いてるんだよね? ゾロアスター教の名残りだというし いとこ結婚を理想としてるもの神話で兄妹が結婚したからだろ アケメネス朝の遺跡をアラブ人が破壊しようとしたのを 「アッラーの宮殿だ」と誤魔化して破壊から守ろうとした イラン人はペルシャの歴史を抹殺しようとした イスラムを何故奉じるのか? アラブ人の支配がなかったらペルシア人は歴史さえ書き記しすことなかったわけだが >>316 はい? ササン朝の時代にすでに歴史書はあったけど ペルシア人を支配できなかったらアラブ人は歴史さえ書き記せなかったの間違いだろ 日本人からすると神道を捨てて仏教に帰依しているように見える。 実際の所イスラムにはゾロアスター教からパクった要素もいくつかあったから ペルシャ人にとってもゾロアスター教の新しい教義としてのイスラムを受け入れやすかった ちげーよ ペルシア人がムスリムになったからイスラムにゾロアスター教が入り込んだんだよ イスラムはムハンマドの布教と同時にアラビア半島で生まれたと思っている奴が多そうだけど 実際にイスラムのスンニ派の教義が完成したのは10世紀だから どこぞの横柄な名無しなんぞよりメアリー・ボイスのほうを信じるわ もともと共通点があったから受け入れやすかった 広まるのに共通点あるない関係ないよな 仏教なんか日本と全く共通点なんてなかったのに大流行したし ユダヤ人がバビロンからペルシャ人に解放された時にゾロアスター教の影響をユダヤ教が受けたというが。 >>326 エジプトに居た時にアテン信仰の影響を受けたんじゃないかと >>327 むしろユダヤ人が影響を与えたという説もあるが >>328 なるほど、そのほうがありそうだ。 ユダヤ人が元々一神教的な性向を持ってて、 それに影響されてアテン信仰ができたと、 そう考えるほうが理に適ってる。 アメンホテプ四世が突然一神教のアイデアを閃いたと考えるほうが無理がある。 一神教には無い光と闇の二元論や終末論はエジプトの信仰には見られず、 ゾロアスター教に起源を持つ可能性が高い。 ムハンマドとザラスシュトラのどちらが偉いのかと今のイラン人に問うのはタブーか? >>330 二元論はセム一神教群にはないだろ 全部一元論 >>331 普通にムハンマドって答えるだろ それよるムハンマドとアリーとどっちかと聞く方が荒れそう ササン朝がもう少し頑張ってムハンマド一味を倒してれば イスラム教がここまで人々を縛ることもなかったのに。 その代わり、現在も火に唾を吐いたりしたらタブゥで死刑になってたでしょう。 汚いゴミを火で焼いても死刑だから、ゴミを増やせない文明の世の中になってたでしょう。 近親婚が普通に行われたり、牛や犬の尿で浄めが行われたりした世界 それヒンズー教じゃん。↑ゾロはヒンズー教の姉妹版の要素もある。セム系ではなくアーリア系宗教の。 ゾロにはカースト制度もあったの?マギはカースト? 漢民族だって同姓でなければ近い血縁との婚姻の繰り返しだぞ。 ペルシャ人の血統崇拝主義はシーア派の預言者一族崇拝につながっている。 離婚して前の家に残してきた姉とか、再婚先で産まれた妹とか 氏姓が違っていれば「表姐」「表妹」なので論理的にはOKなんだよな。 連れ子してきて氏姓が一緒になった「堂姐」とか、 自分が連れ子されて氏姓が代わった先で生まれた「堂妹」だとダメ。 「表」=母方?「堂」=父方?という理解でいいですか? 最近の中国語では区別しなくなったようです? 無知無学なペルシャ人が、アラブ人に征服された途端、知識人を輩出しまくる民族に生まれ変わったな ササン朝までは文字というものが僧侶や外国人に独占されていてパンピーには手の届かない存在だったのが大きいな >>344 アラブ人に征服された途端に知識人を輩出しまくったのはもともと富裕層 >>343 父方の姉妹が嫁家で産んだ子ならば氏姓が違うので「表」です。 無知無学なペルシャ人が、アラブ人に征服された途端、知識人を輩出しまくる民族に生まれ変わったな ササン朝までは文字というものが僧侶や外国人に独占されていて富裕層ですら手の届かない存在だったのが大きいな >>347 無知無学だったのはアラブの方だろ アラブ人はイスラム化以前は同じ民族かつ違う部族同士で、 アラビア半島の中で血で血を洗う抗争を繰り返してきた『砂漠の蛮族』そのもの イスラームによってその部族対立&経済格差が解消され一つになった時、 その溢れる征服欲を外に向かって放出したのだが・・・ 征服するのは強ければ&相手の政治的混乱のスキを突けば割と簡単にできるが、 統治となったら先進文化圏の経験を借りなければいけない。 そこで征服したペルシャには優れた官僚がたくさんいたから、登用して統治させた。 初期段階で先進地域イランを併合したことがイスラームの文化的躍進のきっかけだろう ペルシャから見たアラブ地方って、 京都から見た大阪みたいな感じ? 「自分たちのほうが上品だよ」って目で見てる? >>349 上方からみた東国みたいなもんじゃねえ? アラビア半島についてはその自己評価で間違ってないとも思うが、ヒジュラ暦元年より前、 レバント地方についてはメソポタミア除いたイランよりも文化的に上だったんじゃないかなぁ ペルシャ語、ダリー語、タジク語はそれぞれ似てるけど、それを統一して大ペルシャ人を作ろうという考えはあったのかな? スンニ派とシーア派では一緒になれんやろ しかもタジク語に至ってはキリル文字化までされてる 韓国人と北朝鮮人を統一して大高麗人を作ろうという考え程度にはあるだろうとは思うが 古代ギリシャではモーセは知らないがザラスシュトラは知っているという状態 ハザラ人はモンゴロイド入ってるよな。(ハザールもだけど) ペルシャというかR1aに共通してる特徴だけど、落着きないよな。 イラン文化復興は、カリフラワーをポアしたモンゴリアン・ヒーローのフレグ、ガザンのハンのおかげですよ。 ブーヤ朝はシーア派なのに、カリフラワーをポアしなかった。 「アルスラーン戦記」というアニメの元ネタはベルシャ語文学だ ペルシャ語の名前は長音が複数回出てくることが多くてかっこいいんだよなあ 実際喋ってるペルシャ語なんかぞんざいな喋り方すると長短はっきりしなくなっておもんないんだが 詩の朗読なんか聴いてると意味分からなくてもウットリする 本当はアケメネス朝が続いておればユダヤ人はずっと親イラン民族のはずだった 今のユダヤ人は当然今のイランはアケメネス朝とは思想的に断絶した別物の敵対物と考えているな ユダヤ人はメジナの支配層だったのにマホメットは追い出したから良い感じを持つはずがないわな >>364 ユダヤ、イラン、スンニ派アラブの三国志 だからこのうち二者が同盟できれば残ったやつが滅ぼされるのが必定 アケメネス朝の継承者の立場をとったササン朝でもユダヤ人は一定の地位を保障され、 ユダヤ人の大臣や王妃も輩出している。 イスラム教団に金を出してササン朝を滅ぼしたのがユダヤだろう。 イスラム教はユダヤがムハンマドに入れ知恵して作ったもの。 イスラム教の創始にもマニ教の創始にもユダヤ教徒が からんでるんだよなあ。 アイツら世界中で人を洗脳して怪しげな集団を作り 上げてるから恐ろしい。 ソグディアナの心臓部におけるロシア人学者ら 2015年10月26日 20:45 http://jp.sputniknews.com/life/20151026/1080037.html モスクワのレフ・グミレフセンターがタジキスタンのヤグノブ渓谷における学術調査を終了させた。 目的は、古代ソグディアナに暮らしたソグド人の子孫を自任する原住民の生活を研究すること。 彼らは遠い祖先の伝統を現代に伝えている。彼らは今も土地を木製の鋤で耕し、火で病気を治し、 物々交換を行なう。ドゥシャンベ特派員ガリム・ファスフトジノフ氏が詳細を報じた。 ロシアの研究チームはヤグノブから膨大な資料を持ち帰った。原住民の口承文学や、タジキスタン人 学者のコメント、非常に色彩豊かな写真の数々。こうした情報は歴史家や文化学者だけでなく、学問 とは疎遠な人々にも興味深いものだ。モスクワのレフ・グミレフセンター所長で作家、民俗学者の パヴェル・ザリフリン氏がスプートニクに語った。 「ヤグノブ渓谷の輪郭を切り出すための探検だった。なぜそれが必要なのか。写真があればこそ、 今やヤグノブについてはロシアやCIS諸国の何千、何万という人々が知っている。自分たちと並んで、 このような、伝統的価値観を守り、ジーンズや現代的通信手段を持たずに暮らしている民族がいるのだ、 ということを、人々は知った。この民族は、伝統的な生活を守ることで、なにやら不思議な、内面的な パワーを保っている。彼らが巨大な内的エネルギーを持っていることを、我々は目撃している」 >>370 の続き ドゥシャンベからヤグノブまでは4時間の道のり。まずは車で移動、次に徒歩で山間の村々を目指す。 集落は海抜3000m以上のところに位置している。この人跡稀な山中に、ヤグノブ人たち、またはソグド人 たちは、8世紀の昔から住み続けている。まずはアラブ人の侵略から逃れて、次にはチンギスハンの 軍隊を逃れて。しかしそんな彼らの隠遁生活も、ソビエト政権によって破られる。半世紀前、原住民は 山から谷に引き降ろされ、綿花プランテーションに従事させられた。のち、この政策は誤りであったと 認められ、山中への帰還が許された。ヤグノブには今500世帯が暮らし、全員が昔ながらの生活を 送っている。金銭というものをもたず、農業を営み、文明の利器というものに対しては、独特の哲学を もっている。再びパヴェル・ザリフリン氏。 「私たちは色々なものを持っている。自動車、パソコン、アパート、暖房。しかし同時に、色々なものを 失っている。大都市に暮らす人々には、力がない。刹那的な活動に右往左往し、疲れやすく、長く眠る。 人生の目的というものを理解しない。それが諸々のトラウマ、自殺の淵源になっている。しかしヤグノブに 来ると、まるで一昔前の、人間が自分自身でいられた世界に帰って来たように感じられる。ズボンの縫製も、 パンの焼成も、獣を狩るのも土を耕すのも、全て自分でするのだ。彼らは独自の言語を持ち、文字という ものをもたず、子孫に言語を口伝していった。彼らは長所にあふれた人々だ。中世の版画から抜け出た ような、背中に一本筋の通った人々だ。こうした魅力あふれる彼らだから、世界中の人々がヤグノブを訪れ、 まがいものでない感覚を体験するのだ」 ヤグノブ集落はユニークな社会現象である。それを見出したのはロシアの学者たちだった。それも、 19世紀という早い時期に。であるから、150年も経ってモスクワの研究チームがタジキスタンを訪れた ことは象徴的だ。研究チームはこの「青空ミュージアム」を広く宣伝し、グローバリゼーションの圧力から このユニークな地域の独立自尊を守る考えだ。 http://jp.sputniknews.com/images/107/99/1079989.jpg 卑路斯です・・・ イスラム教徒に国を滅ぼされたとです・・・ 日本人が知らないイラン人驚きの「素顔」 アラブ人と同じだと思ったら大間違い http://toyokeizai.net/articles/-/90901 卑路斯です・・・ 唐の皇帝に支援を断られたとです・・・ 卑路斯です・・・ イスラム教徒からコーランが送られてきたとです・・・ 聖なる火にくべました・・・ 卑路斯です・・・ 卑路斯です・・・ 卑路斯です・・・ 古代メーディアー王国からアカイメネース朝、 パルティアー、そしてサーサーン朝ペルシアにかけての歴史 に関しては、京都大学学術出版会より刊行されている傑作 『西洋古典学事典』ないし『西洋古典学事典アプリ』は 必須のアイテムですね。 巻末の系図も、おそろしく詳細だし。 地元の図書館に置いてるのを確認したわ 図書館で借りればOKですよね、ナッ爺? 自ら所有しなければ、 なんの意味も無いぞ。 貴重な名作・名著というのは そういう物なのだからネ。 アプリはヴァージョン・アップされている上に 携帯至便かつ廉価だから、ちょうど良いのではないか と思うぞよ。 したが、何としても紙資料に拘泥する人々には、やや浩瀚なれど、 『西洋古典学事典』の最新刷を購入するようお奨め致しますぞ。 決して後悔すること無き世紀の傑作ゆえにのう。 詩人の高橋睦郎氏も、愛読して已まぬとの由、 「西洋古典学事典 高橋睦郎 三島由紀夫」で検索して みなされ。 よろしいな。 ↑ と変態カマババアが一人前に ほざいて居りやすぜ。 低能・痴愚・遅鈍の出来損ないの分際で、人前に出て来るナ! わかったな ↑ と超ド変態風情が人並みに言葉を返して居りますぞ! クズは棲息価値絶無なんだから、サッサと死に腐れーイッ!!!!!! 分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ペルシア語の神 khdawnd って語はアーリア語系 の言葉なの? ◆在日中国人 在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。 中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を 取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。 広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、 狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と 呼ばれることが多い。 独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が 外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。 既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する 神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、 兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。 このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が 顕著である[3]。 なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 日本国籍を取得した在日中国人の数は、平成12年から平成21年の10年間で4万人以上[4]である。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E6%97%A5%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA 『西洋古典学事典』ないし『西洋古典学事典アプリ』も読まネエ徒輩に 世界史を語る資格は絶無だゼッ!!!!!!!!!! 分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ユダヤ教のバビロニア・タルムードってササン朝の バビロンで作られたんだな。 ササン朝はユダヤ人に結構寛容だったのかな? ササン朝ははじめの頃はユダヤ人を迫害したけどシャープール一世の代から寛容になったらしい もともとペルシャの領域にはバビロンへの強制移住から続いていたユダヤ人社会があった >>389 超ド変態の精神異常者は、癲狂院の独房に拘束衣を装着されて 一生監禁されて居れーイッ!!!!!!! 精神分裂症患者のうえに性倒錯者の出来損ないめがーッ!!!!!!! 分かったナッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 醜悪なド変態めがーッ!!! 超ド変態の精神異常者の郵便局員はカレーを食いながら下記のアドレスから脱退届用紙をダウンロード《右側部分を切り離さないで》記入してJP労組の本部(上野)へ郵送する事を推進しよう!! http://ll.ly/ew1kTe JP労組本部の住所はダウンロードした文書の最後のページに書いてある。 海外のカードゲームのwiki見て興味持った人物がいるんだけど日本語名がわからない。 Apranikってなんて読むの? ササン朝末期の女性レジスタンスらしいけど。 ネットで探しても日本語のページが出てこない。 >>390-391 バビロン捕囚はユダヤ人が一方的に誰かを悪者にしているだけ。 ホロコーストやポグロムと同じ。 本当にユダヤ人の主張するような不寛容な社会があったら、アッシリアのように文字通り絶滅させられている。 バビロン捕囚は歴史的事実じゃないの? 反抗的な民を移住させるのはよくあること。 もっと遠くに帰れないくらいのところに 移したら面白かったのに。 あなたは40代新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか? それともいくつですか? それともいくつですか? それともいくつですか? >>396 「バビロンに連行された」のが史実なだけで そこで厳しい迫害を受けたとかどうとかはフィクションってことだろ 別に聖書でも迫害されてなくね? ダニエルなんかは一応バビロニアで役人に 取り立てられたというし。 どうしてバビロン捕囚は迫害だという誤ったイメージが付着してしまったんだろう ダレイオス3世の息子はアレクサンドロスに保護されたが、 その後どうなったのだろう。 ペルシャのことがめっちゃ好きなんだけど いつからだろうな 年バレるかもしれんが 自分が保育園の時はペルシャなんか知らなくて 中東のことと言うとアルカイダとかはニュースを見て憧れていたから知っているぐらいだった。 それからイラクとアフガニスタンに興味を持っていたけど 小学4年生ぐらいの時に池上彰さんのNHK週刊こどもニュース?的なのを見てイランは核兵器を持ってることを知ってその時からイランを好きになったのかな? で、中学生の時に電子辞書で調べてたらイラン系遊牧民族というのを知ってしばらくネットでイラン史を調べてたら ササン朝とかでっかい王朝も持ってたんだ!とおもって感動してより好きになりました。 >>398 >>400 行動を制限されて約束の地に住むことも 神殿を使うこともできなかったんだから十分不自由だろう 世が世ならその神殿で統治階級の最高位にいたようなエリートのラビたちなら尚更 ただ、鎖に繋がれ牛馬扱いというのと違ってインテリが騒ぐ軟禁状態みたいなものだったか バビロンで商魂たくましく商売をしていたと予想。 エジプトでもそうだったしね。 一般のユダヤ人はバビロンのマルドゥークとかを普通に拝みながら 金もうけもしつつ、楽しく暮らしてた 冷や飯くってたのはユダヤの古来の信仰にこだわってたラビだけ 旧約聖書には彼らの怨念が籠ってるんだよ ラビでなくても自主的な移民や出稼ぎと強制移住は捉え方が天地の差だと思うけどな 適応出来てたからって不満がなかったわけでもないだろ 中国の歴史書に見えるペルシャの都宿利城って クテシフォンなのかね? ササン朝の官制ってパルティアの官制を継承してるの? 詳しい本あったら教えて。 バビロニア・タルムードっていつ頃作られたんだっけ? パフレヴィ語(中世ペルシア語)はアラム文字で綴られたアラム語の単語をまるごと表語文字として扱い ペルシア語で「訓読み」したりその後にペルシア語の語尾の「送りがな」を付けたりする言語 会話はペルシア語で読み書きはアラム語、という習慣を何百年も(少なくともアケメネス朝時代から断続的に) 続けてきた末に生まれた表記法 ペルシャ語って印欧語の面影があんまりないのかな? アラビア語やトルコ語の影響も受けてるよね? アラブ人は良い時に統一できて半島をでたよな 当時既にササン朝が死に体じゃなかったら外征できなかったなじゃなかろうか イスラムがすぐに滅ぼされたとしても、そのあとまた似たようなやつが出てきたかもしれんぞ 西アジアってアブラハム系一神教の新章あるいは改変みたいなのを作り出すやつが多いし ササン朝もイスラム帝国も楔形文字系の文字を使ってなかったのが残念 >>418 文字は言語そのものとは違う ペルシア語はいつの時代もバリバリの印欧語 語彙の入れ替わりが激しくてだいぶ膠着語化してるけど基礎語彙や全体の文法体系はアラビア語でもチュルク語でもない >>421 それはしょうがない シュメール文字はシュメール語のための音節文字で、印欧語にもセム語にも結局向いていなかった アッカド・バビロニア・アッシリア・ヒッタイトその他様々な言語がこれを借用し フリガナや送り仮名を加えて自分の言語に使ったのは他の選択肢が想像できなかったから アラム文字のアラム語が普及したアケメネス朝の時点では誰も楔形文字なんか使わなくなっていた ただ楔形文字の使い方の学者的な知識とその時代の文明への畏敬の念だけは残っていて ペルシア語のために雰囲気だけそれっぽいいわば「なんちゃって楔形文字」(ペルシア語音節文字)が開発されたし 碑文などにはそれ以外にシュメール〜バビロニア式のアッカド語(すでに死語)の楔形文字も使われた どちらも国家の箔付けのためで、誰も読めないという意味で日本の私大の図書館の入り口などでよく見かけるギリシア語やラテン語の標語みたいなもの それらの知識も伝統もアレクサンドロスによってほとんど破壊される(少しだけ細々と後1Cまでは残ったらしい) アケメネス朝時点で楔型文字が使われなくなっていたのが不思議だよな メサポタミア文明の系譜に属するのに 楔型文字解読の切欠となったのがアカメネス朝の楔型文字の碑文 ペルシャ語であることは確実だったから解読でき、ここから楔型文字の構造が理解できるようになった アケメネス朝での楔形文字は使われてるけど使われ方がお飾りなんだよ 日常会話はペルシア語だが 手紙や日記や事務文書はアラム文字アラム語 公式の碑文でやっと音節文字ペルシア語(基本的に人気がない) 碑文に箔付けしたいときはシュメール語やバビロニア式アッカド語の対訳をつける ペルシア語の音節文字は楔形といっても全く他言語と字形上のつながりがなく、これを楔形文字と呼ぶのは 形が似てて筆記用具が同じだから西夏文字や契丹文字や女真文字は漢字の仲間!と断言するに等しい ペルシア人がメソポタミアの後継者だという政治アピールのためにのみ存在したものの、その伝統とは断絶している 楔形文字を日常的に使用していたエラムが紀元前6世紀に滅び、粘土板文化自体が衰退しつつあった 支配者層の宗教はゾロアスター教かその母胎となったイラン系の民族宗教だったと考えられているが ゾロアスター教の経典アヴェスターは楔形文字で書かれたことも音節文字ペルシア語で書かれたこともなく 西イラン語群のペルシア語と異なる東イラン語で暗誦によってのみ語り継がれ アラム文字で書き記されるのは紀元後6世紀になってから ペルシア語をアラム文字で書き記すのは>>417 のパフレヴィー語で紀元後3世紀から 現代アラム語はいくつかの言語・方言に分かれて二百万人の話者がいる シリア・ヨルダン・トルコ・イラク・イラン・アルメニア・ジョージアなどだが いずれも迫害を受け続けるキリスト教徒・ユダヤ教徒・マンダ教徒などであり (歴史的にイスラム化するとアラビア語使用者になっていったのでアラム語を話すムスリムはいないらしい) 移住先のアメリカやイスラエルではアラム語の能力を失う人が増えているという レバノン・シリアなどのキリスト教徒にはアラビア語話者も多いが、 その中には口頭でアラム語とアラビア語を併用している人もいる/いたはず 話せなくても正教の典礼では古典シリア語という一種のアラム語を使っている イランにもいるんだ・・・ 現代イランのキリスト教徒ってあんまりイメージ わかないが。 アラム語話者なんてマアルーラ村に数千いるだけで200万もいねーよ 適当な知識で書くな 典礼言語で使われてるなんて話者の内にはいらねーよ マアルーラ村にいるのは西アラム語で数百 残りは東アラム語で、200万といってもみんな生活環境が危ういから消滅寸前だ イディッシュ語もそうだがどれだけいたって消えるときは一瞬で激減する ダメな記者は西アラム語だけをアラム語と勘違いすることがある そんなもん鵜呑みにするな マンダ教徒の多くは典礼用に古典マンダ語(アラム文字で書かれたアラム語の一種)を使用し(5500人) 日常的にはアラビア語(イラク)、ペルシア語(イラン)、英語(アメリカ・オーストラリア)を話しているが、 イランのアフヴァーズに住む100〜200人ほどのマンダ教徒のコミュニティでは 日常的に現代まで継承された口語の新マンダ語を使用している 新マンダ語を文字に書く習慣は基本的にはないが、個人的な手紙や書類の署名などに使われている模様 (正書法は確定していないが個人の通信には即席の揺れがある文字表記が行われているという意味だと思う) またマンダ教の私立学校というのがあり(イランとオーストラリア)、そこでは古典マンダ語のほかに新マンダ語の書き方も教えている >>429 イランの国会にはキリスト教徒専用の議席がある。 それもアッシリア系とアルメニア系で別々に持っている。 ああ、党大会である全人代に実権があって 各衛星党や各界人氏が集まる政治協商会議は 全人代で決まったことを了解したり周知したりする機関なのと似てますね 奈良でペルシャから来た人が役人になったことを示す奈良時代の文書が発掘されたよ 仏教に貢献したソグド人の鑑真の弟子と同様に 奈良時代はペルシャから来た人々が行政等で貢献したのかな 破斯清通って、姓はわかるが名前きよみちか?w これは音というより意味で元の名にあわせてきたっぽい感じだな 奈良時代には唐と同じ服を着てたし大仏建立の式典には印度人僧侶が来てたらしいし 日本って平安遷都の頃からどんどんガラパゴスって来た感じだなあ 徒然草でも「調度品みたいなガラクタはもう要らないし海外のものは薬と書物があればいい」 と言ってたが、実際人的交流なんて厄介事しかなかっただろ >>440 パルティア人は王朝滅亡で消滅したわけではないからねえ イスラム時代になってからの文献にも、パルティア人が登場しているし そもそもササン朝末期に王位についたバフラーム5世はパルティア人だし 東イラン〜アフガニスタンはなんであんなに貧しい地域になったのか それまでの何万年もの伝統通りにアニミズムか多神教を信仰していれば 山の神を恐れて木をきりすぎず獲物も捕りすぎずに環境を保てたものを 一神教なんか信仰するから砂漠化するんだよ 戒律なんていったって人倫関係ばっかで自然保護についてはガバガバじゃないか パルティアとパールシーって語源的には同じじゃないの? パルティア人とペルシャ人ってなんで別物なん? >>450 ちがう、ギリシャ語化された「〜ィア」の名称がたまたま似ただけ ハルティアはスキタイの分派パルニ族(Parni)に由来し、ペルシアはファールス地方(Fars/Pars)に由来する パルニ族居住地はファールス地方とは全く別の場所だよ、スキタイだからイラン系言語話者ではあるけどね パルティアの名は地域名で、アケメネス朝時代のパルサワParθavaという行政区分に由来する カスピ海の南岸ヒュルカニアの南東で、ペルシャ湾に面したパールス地方とは別の内陸地域だ パルニ族は次のセレウコス朝期末期にそこに移住してきて、それ以降パルティア人と呼ばれるようになった パルニ族は東イラン語系の遊牧民で、パルティアに移ってからは現地の北西イラン語に同化したが のちにアルサケス朝の公用語となるパルティア語にはそんなわけで少し東イラン語の要素が混入している さらに後のササン朝の公用語であるパフレヴィー語(中世ペルシア語、南西イラン語)とはまっすぐにはつながらない "Achaemenid Empire population"でググると アケメネス朝の人口は当時の世界人口の44%に達したという記事があるけど、 一国で世界の44%の人口って本当ならヤバくね アケメネス朝=イラン・アナトリア・シリア・エジプト・中亜諸スタン・パキスタンの一部 パキスタンなどの人口集積を期待できそうなとこもあるが、これで44%とか紀元前4-5世紀とはいえ到底ムリ パキスタン除くインド亜大陸の群雄諸国や、チャイナの群雄諸国のほうが合計したら多いくらいじゃねえの 一政治権力が傘下におさめるものとしては最大人口だったろうが、せいぜい20%台ってとこだと思うよ メソポタミアが抜けてた >アケメネス朝=イラン・アナトリア・シリア・エジプト・中亜諸スタン・パキスタンの一部 >>453-455 アケメネス朝の支配領域って四大文明の発祥地のうちの三つが含まれてるな。 エジプト、メソポタミア、インダスがね。 アケメネス朝の時代より数千年昔だけど、 古代からの先進地域を三つも支配しているんだから 世界の半分くらいの人口がいてもおかしくはないかも。 世界の二大人口集中地域(東アジアとインド)抜きで世界人口の44%というのは信じがたいが インドはほんの少しだけカスってるけど(シンド地方) >一国で44% モンゴル帝国はどのくらいだったんだろ Achaemenid Empire - 44.0% (49.4 million out of 112.4 million[51] in the 5th century BC/480 BC) Sassanid Empire, Persia - 37.1% (78 million out of 210 million[52] in the 7th century AD) Qing Empire, China - 36.6% (381 million out of 1.041 billion in 1820)[53] Roman Empire - 35.9% (80 million out of 223 million[54] in the 2nd century AD) Maurya Empire, India - 33.3% (50 million out of 150 million in the 2nd century BC[55]) Umayyad Caliphate - 29.5% (62 million out of 210 million[52] in the 7th century AD) Mughal Empire, India - 29.2% (175 million out of 600 million[56] in 1700) Ming Empire, China - 28.8% (160 million out of 556.2 million in 1600)[53] >>466 「モンゴルに支配されたことのある地域」と考えるなら 世界の二大人口密集地域を抑えてたから過半数に行きそうだが 元とムガールを同時代ではないからな 同時代で考えればフビライ時代が最盛期だろうな その時代にはインドを支配してないが >>467 ここなあ・・・ http://www.allempires.com/forum/forum_posts.asp?TID=27633 > I just read it in "List of largest empires" article in Wikipedia: http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_largest_empires って最初に書いてあるけどウィキのほう見たらまったく異なる記載、たぶん内容に疑義つきまくりで一新されてる(※2004年以降) そこの掲示板内においても、ありえねーだろとケチがいっぱい入ってるね ウィキペディアの面積ランキングの記事、今は19000バイトだが 8月までは10万バイトもあり人口も掲載されてた。編集合戦スゲーバトってる https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=List_of_largest_empires& ;oldid=733745979 史上最大の帝国だった英帝国はどうだろう 二大人口集中地域の片方(印度)は完全に抑えてたし もう片方の人口集中地域はごく僅か(香港)しか抑えてないが >>473 URLから&とoldidの間のコンマをとってブラウジングしてみて アケメネス朝以上に、>>467 のサーサーン朝の数字にえぇー?と思っていたが、 ちょい前の編集版>>471 ではまともな感じになってて少し安心した Sasanian Empire 12.00% (25.0 million out of 210 million[32] in the 7th century AD) それでもガンジス流域だけのパーラ朝の数字とか、明らかにおかしいのが散見されるけど・・・ Pala Empire 24.00%[not in citation given] (60.0 million out of 250 million in 850)[14] ウマイヤ朝の人口が多過ぎかな ユスティニアヌス1世の頃に始まるペストの大流行や ホスロー2世の時のイラク大水害などで中東の人口は それ以前よりも激減していた アッバース朝の全盛期ならば人口が回復していたかも 南アジア〜西アジアの人間が参加してくる大帝国ランキングは眉唾で見るようにしてる 以前あるサイトのランキングで、カシミールからガンジス方向に伸張しただけのカルコタ朝をトップ10に押しきてた なぜか同時期の全盛期アッバース朝エリアを半分近く版図にしていたりだとか、土台からおかしかった 偏った文献にだけ立脚して、全体の整合性を顧みない者が目立つように思う アケメネス朝はキュロス2世の頃とダレイオス3世の頃ではかなり人口が違うはず キュロス2世の頃はアッシリア滅亡から間もないからオリエントは長年の戦乱に よる荒廃からまだ回復していなかったはず 特にアッシリア本国は大量虐殺で人口が激減したままだったはず ウィキペの人口ランキング記事、ノートの方に移行してる https://en.wikipedia.org/wiki/Talk:List_of_largest_empires それにしても厨二病全開記事だな 履歴の方にカルコタ朝も言及されてて領土が3km suqreだから落としたとある 日本語で検索しても記事が4つしかヒットしない。この王朝実在王朝なのだろうか? カシミールの神話にしか出てこないんじゃないの 記事の履歴見ても凄い編集合戦だし、面積と人口のランキングはそんなに厨二意識を刺激するもんなのかね >>479 いちおう玄奘の記録にも初期のカルコータ王がちょこっと出てくるんで実在はしてる。 ラシードゥッディーンが「集史」インド篇で、第5代ラリターディティヤが大征服を成したと書いたことが諸悪の根源。 たいしてインドの歴史を知らないから、カシミール王統叙事詩「ラージャタランギニー」を真に受けて載っけちまった。 本来はラシードゥッディーンの時点で即ボツにできたはず。現代の検証が必要となるような水準の話じゃないからね。 その記事みてると厨二病って世界どこにでもいるんだなあ・・・ 人種や宗教が違っていても人間ってあまり変わらないんだなあ・・・ と思った Karkota帝国は3平方kuしかねーし外しといたわ、ってとこ煽り口調っぽい 過大評価なのは間違いないがさすがにそこまで狭くはないだろうw wikiでアケメネス朝の公用語がエラム語だったってなってるけど、 エラム語→アラム語と公用語が代わったのかな? >>484 公用語の一つだったというだけ。 アケメネス朝の主要な言語は、地方語を除けば ・アラム語:セム系。アラム文字。パピルス、のち羊皮紙もあり。商用と実務。実質上の公用語。 ・ペルシア語:印欧語西イラン系。楔形表音文字。音声言語としてペルシア人が使用。文字は碑文だけのお飾りでやがて消滅する。 ・アッカド語:セム語。伝統的楔形文字。粘土板および碑文。この時代にはほとんどお飾り。 ・エラム語:系統不明。伝統的エラム式楔形文字。学術が中心。この時代おそらく唯一の「生きた」粘土板楔形文字言語。 ・アヴェスター語:印欧語東イラン系。この時代には文字がなく音声言語のみ。 マギたちが口頭でゾロアスター教の経典を伝承し祭儀を執り行う。 と非常に複雑だが、極論すればアラム語さえできれば生きていけたと思われる 粘土板そのものが時代遅れの無用の長物として淘汰されかかっていたが (けっこう合理的にできていたペルシア語音節文字がすぐ消滅した理由もおそらくこれ)、 辺境で独自に存続したので歴史だけはやたら長く文献が大量に残っていたため いつしか学術言語として高い地位を得ていたエラム式楔形文字エラム語が アケメネス朝の権威付けのためにも無視できない存在になっていた模様。 >>486 エリュマイス王国は多数のアラム語文献を残したがエラム語は無し。 通貨も残っているが刻印はヘレニズム国家パルティアの地方政権らしくギリシア語。 エラム語が記録されなくなってから250年後だが、それらしい国名と エラムを思わせる王名を残しているので、その名と権威ぐらいは借りたのかもしれない。 なおパルティア本国でもエラム語は記録がなく、 アケメネス朝ではエラム語よりも影が薄かった楔形文字アッカド語がまだ書き言葉として残っていた。 中国の歴史書に、波斯国(ペルシャ)は達曷水(ティグリス川) の西の蘇藺城を都としているとあるんだが、これはクテシフォン じゃなくてセレウキアのように思える。 ササン朝時代のセレウキアはまだ大都市だったのだろうか? アケメネス朝の軍隊はクソ弱かったが、ササン朝の軍隊は しばしばローマを破って皇帝を虜にしたりしている。 二つの帝国の軍はどう違うのだろうか? 重装騎兵の有無。別にアケメネス朝がクソ弱いとは思わんがね。 月刊正論2016年3月号 折節の記 高山正之 13世紀、ここにジンギスカンの孫フラグが攻め込んだ。絢爛のアッバース朝の王は残忍に殺され、財宝は奪われ、女は犯された。 彼らのイル汗国は1世紀も続かなかったが、「モンゴルに汚された血」は今も時々ひょいと顔を出す。赤ん坊が生まれると周りは まず「何色?」と聞く。白だと聞いてみんな安堵して「おめでとう」と言う。 滅多にないことだが、そうでないときもある。モンゴル風の子供は捨てられ、食っていくのもせいぜいパン焼き職人くらいになる。 先日、鬼籍に入ったラフサンジャニ師もそういう血が出た一人だった。ただ、裕福な家庭だったから捨てられる代わりに聖都コム のイスラム神学校に入れられたと、テヘランにいたころ聞いた。 その神学校の師があのホメイニ師だった。 アケメネスが弱いとかどっから 古代に稀な大帝国を長期に渡り維持してたろ いや、ペルシア戦争を見るとクソ弱いのがよく分かる。 あとアレクサンドロスの東征時の両軍の死者数とか。 ペルシャは古代から大帝国を築いてきたのになんで中国みたいに大きくなれずに今ではこじんまりしてるんだろう? サーサーン朝の時代でも人口1500万人未満とかその程度の世界だったから そのうえ中世〜近世にかけても全然増えず、サファヴィー朝では人口1000万人程度だ 地図ではデカくみえても中継貿易のアガリ除いたら大した生産力ないとこなんだよ元々 中国みたいな地力はない・・・しかも近くにロシアが育って辺境スタンを押さえられてしまったし 言語的なイラン系民族の広がりということで言うと 西はトルコ東部のクルド系諸民族から東はパミール諸語・パシュトー語・バローチー語とかなりのものだし ペルシア語の仲間に限ってもタジキスタンとアフガニスタンまで一つの言語と言っていい この2国を加えると今もイランは2倍の広さになるが その東イラン文化圏はだいたいスンニー派が強いのでイランもそんなに仲良くできないという >>495 メルカトル図法の地図では、南にあるほど小さく見える それを忘れてはいけない 緯度は同じようなもんや テヘランと済南や洛陽がだいたい同じ イスファハーンと長安がだいたい同じ スーサと成都、杭州がだいたい同じ イランは意外とデカいぞ そういうイメージがないだけ >>499 まあ、洛陽とか長安も、意外と暑い国だけどな 古代はイラン人の天下だったが、後でアラブ人、トルコ人、モンゴル人と、 さらに野性味あふれる連中がどんどん入って来ちゃったからな 一番暑いのは南京、武漢、重慶、成都な 温帯の酷暑は下手な熱帯地方より暑いし 大阪、東京の酷暑も南京、武漢、重慶、成都の続きだろう 丁度横並びだ テュルク系民族の汎テュルク主義、 アラブ民族の汎アラブ主義のように、 イラン系民族による汎ペルシア主義みたいなイデオロギーはないのかい? 現代でイラン系民族の主要な国家って イラン、タジキスタン、アフガニスタン(パシュトゥーン人、タジク人)くらいしかないけど ペルシア語は中央アジア一帯と北東インド一帯(パンジャブやシンド)でリンガフランカになってる ムガル帝国でも公用語はペルシア語だった ムガル朝は自称モンゴル人の大ハーンだったにもかかわらずモンゴル語なんか誰も知らない ウマイヤ朝やアッバース朝のサラセン帝国も、ペルシャ人の官僚なしでは 行政が回らず、ペルシャ語が事実上の公用語。 とにかく、文化水準の高さが圧倒的で、 近代ヨーロッパにおけるフランスみたいな存在。 >>505 >イデオロギーはないのかい? アーリア人主義に含まれちゃってるんじゃないのかな >イラン系民族の主要な国家って ノウルーズ文化圏ならもう少し広まるかも サファヴィー朝以降のイランはペルシャ人とアゼリー人が連合したシーア派帝国に見える 「アーリア」と「イラン」は語源が同じだが アーリア人主義といったらインドも含んでしまう イランとペルシアではイランのほうが包括的な概念で、 イラン系民族といえばクルドやソグドやパルティアも含まれ、ペルシアはその中の一つにすぎない だがペルシア人が中心となって起こした国が近代では「イラン」という名の王国や共和国となり 形態上はペルシア人中心の国民国家でもあるので(パーレヴィ朝の脱イスラム主義的イデオロギーであり、 これを倒したイスラム共和国であるはずの現イランも制度上はペルシア中心主義のペルシア国民国家か) イランという国名そのものにペルシア人の汎イラン主義の主張の名残りがあるといえる スラヴ人で言うなら今のロシア人が「スラヴ」という強大な国を立てて ポーランド人やチェコ人やクロアチア人を周辺に従えているような状況 >>513 一番近い状態なのはインド インドの中心部の大半をインドという国名の国が占拠してて 周辺部にパキスタンやバングラデシュやスリランカやネパールやモルディブが ペルシャ人から見れば、インド人は南の土人に見えるだろうな 直接きいたわけじゃないが 広大な国土を持つイランだが、人口は西北の高原に集中している。 そこはトルクメニスタンとの国境があるところ。 イラン系とトルコ系がかなり入り交じっている。 テュルク系のアゼリー人は一大勢力だわな、近世は言うまでもなく現代でも有力政治家が多い >>517 トルクメニスタンは、イランから見て東北にある 駅伝制について調べてるんだけど、 駅伝制の原点は、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世なの?キュロス2世? 大抵は、wikiも含めてダレイオス1世の王の道(スーサ〜サルデス)が原点だってなってるけど、 某文献で、初代のキュロス2世が整備したスーサ〜エクバターナ(パルティアの首都) としてるものがあって、ネット上にもその文献を出典としてるものがあって混乱してるんだが。 >>507 アケメネス朝時代 支配者の古代ペルシア語と事務的公用語のアラム語、 イスラム帝国時代 支配者のアラビア語と事務的公用語の新ペルシア語 セム語と印欧語の地位が逆転している 文化的な成熟度は系統ではわからないという証でもある >>521 「ダリオス一世は駅伝制を全土に敷きました」と歴史の教科書には載ってるけど、 実際には、もっと前から整備が始まり、ダリオス一世の時代に完成したということ。 歴史の教科書にはアリガチなことではあるが。 >>523 中国における漢文も、事務的公用語にすぎなかった 漢文は一つの言語ではないし言語としての原型も故地もわかっていない 系統の話と関係ないからつまらない 古代人にとって、ペルシャ帝国は、ほぼ「世界統一」に見えただろうな まだシルクロードの往来が盛んになる前だし、 中国のことなど誰も考えてなかっただろう たとえていえば、日本と欧州がアメリカの属国になったようなものか 全世界ではないが、文明世界の統一 千年近くも前に「フランク人は信じられないほど野蛮で狂暴だ」 と書き残した連中が、遊牧民なわけないじゃないか? >>528 内田樹センセーによれば、いまでも日本はアメリカの属国らしいよ? アッシリアは大帝国だった でも、その後にもっとすごい大帝国が登場したおかげで、すっかり霞んでしまった ペルシャ人はいまでも中東随一の大勢力だが、 アッシリア人はシリアの少数民族でしかない ただ困るのは、アッシリア帝国が分裂した後の情勢と、 ペルシャ帝国が分裂した後の情勢が、どうしてもこんがらがることだ 世界史選択者にとっては避けて通れない試練 >>533 シリアの少数民族のアッシリア人って 本当にアッシリア帝国の子孫なのか? あんな激動の地で民族が3000年も固定して存在するってのも不自然なんだけど >>533 その2つが全く別物だというのはどんな本にも書かれていること 今調べたらアッシリア人て自称はシリア人なのか ならそれに定冠詞付けてアッシリアなのかな セム系アッシリアの滅亡 → イラン系クルディスタン フルリ系ウラルトゥの滅亡 → 印欧系アルメニア クルド人=スキタイ アルメニア人=キンメリア人 >>536 ボヘミアやマケドニアとかと同じだろうね 中世以降のボヘミア人はスラブ系チェコ人で ケルト系ボイイー族ではない イランの歴史においては、東北のホラーサーン地方が重要だ 高校の世界史教科書のレベルじゃわからないが、 ここがイランのポイント 中国でいえば、満州みたいなものか ホラーサーンは、イラン東部の州の名称で、この州は広大であったため、 2004年9月29日、北ホラーサーン州、南ホラーサーン州、 ラザヴィー・ホラーサーン州の3州に再編された。 旧ホラーサーン州の州都は、マシュハド。 「太陽の登るところ」を意味する。 現在はラザヴィ・ホラーサーン州の州都となっている。 サーサーン朝がイスラム帝国に滅ぼされると(651年)、 ホラーサーンは急速にイスラム化し、この地域を治める総督府は、 メルブ(のちにニーシャプール)に置かれた。 ウマイヤ朝を覆してアッバース朝を建てさせた原動力はこの地域の人々だったと言われる。 9世紀以降、イラン系のターヒル朝、サッファール朝、 サーマーン朝、ゴール朝[1]、テュルク系のガズニ朝、 セルジューク朝、ホラズム・シャー朝が興亡を繰り返した。 この間、ホラーサーンは、ペルシャ文学復興の中心となり、諸都市は繁栄を極めた。 ホラーサーンといえば、サフランの名産地 最高の調味料とされている >>542 そういえば、イランの北東〜南東にある国はみんな国名にスタンが付く。 この「スタン」はペルシア語由来だか、 国名だけでなく地方名でもスタンが付く場所はユーラシアの割と広い領域でみられるな、 ペルシア文化の影響力の凄さを改めて思い知ったよ。 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ スターン_(地名) >>536 唐代のソグド人は昭武九姓と呼ばれ月氏の末裔だとされるけど ならばグレコ・バクトリア王国の頃までのソグド人と 大月氏の移住後のソグド人は別物という事になるよね >>540 メディア人とペルシャ人はアゼルバイジャンを経由して南下してきて バビロニアやエラムとか非イラン人の強い影響を受けて文明化したから ホラーサーンこそが本来のイランなんだろうね ホラーサーンのヘラートがペルシャ人が台頭する以前は アーリア人の中心地だったのだろう 単純に大月氏がトランスオクシアナを支配してた期間が長かったからアイデンティティが改変されたんでしょ 一般ソグド人が月氏の元々使用していたトカラ語を使ってたこともないだろうし 昭武姓なのは康居人で支配階層でしょ。 ソグド人自体はグレコ・バクトリアの頃と同じじゃないの? 言ってみればブルガリアみたいなもんだよ 第二次ブルガリア帝国が始まる前の時点でブルガール族の要素なんてほぼ皆無になってるけど、 土着スラブ由来の国名じゃなくかつての支配者ブルガールとの連続性を意識した、それと同ケース よくわかってもいないのに比喩を多用するのが好きな人がここにはいるようだけど、 たいていどこかが大きく違うので同じイメージが成り立たず 比喩として成立していない 余計なことはやめてほしい >>552 どこが似ていて、どこが違うのかを考えるのが歴史談義の醍醐味 >>548 ペルシャ人には、ホラーサーンが自分たちのルーツだという意識がかなりあったようだ 昔のホラーサーンは、イランの東北部からアフガニスタンあたりまでをカバーする広い概念。 中国からトランスオクシアナまできたシルクロードは、 ホラーサーンでインドコースとペルシャコースに分かれる。 インドの歴史も、イランの歴史も、このあたりから新興勢力が入ってくる歴史。 当時は、今ほど砂漠化が進んでいたわけではなく、 世界的な大都会があって、文化的にも最先端を行っていた 現代のイメージを捨ててかかる必要がある スーパー知識人のイブン・シーナーも、広義のホラーサーン出身 ブハラはサーマン朝の都で、ペルシャ文明の華だ (現在はウズベキスタンの領土らしいが) 往時のサマルカンドやメルヴは、現代でいえばロンドンとかパリみたいなもの だったのだろうが、現在の状況からは、ほんとイメージしにくい(笑) ロンドンやパリなんか行ったことないし本当のところはわからんなあ 比喩としてもありきたりで陳腐だ 黒人が多くて犬の糞がたくさん落ちてるってことか >>559 いや、街の雰囲気とか、そういう問題ではない。 現代人にとっては「砂漠の辺境」としか思えない地域が、 かつては世界の最先端を行く大都会だった、という話。 これはイメージしにくいのだが、先入観を捨ててかからないと、当時の状況が分からなくなる。 >>558 メルブとかホラサンには大勢のアラブ人の移民がいたようだ マアリブダムの放棄で農業が衰退したイエメンから 多くの兵士がイスラム帝国各地に入植したので アッバース朝創建のホラサン軍はイエメン人が中核だった ターヒル朝もアラブ系でイスラム版グレコ・バクトリア王国だった おそらく中世のホラサンはアラブ人の移住で人口が増大したけど モンゴル軍によってアラブ人らは虐殺されてしまったようだ >>560 バグダッドはアイヤール対マムルークの市街戦が 日常茶飯事で極めて治安が悪かった モンゴル人に破壊された後のバグダッドが、かつての栄光を取り戻すことは2度となかった よくわかってもいないのに比喩を多用するのが好きなクソバカは、>>553 だったか 実際のところ、大昔の大都会をイメージすることは、現代人には難しい。 いくら大都会と言ったって、昔のことだけに、多くても百万都市。 現代の巨大都市とは規模が違いすぎる。 でも、昔の人が長安やバグダッドを見て受けた印象は、 現代人がニューヨークや東京を見て受ける印象と 通じるものがあったであろう。 電車で都心に通勤するわけにもいかなかった時代に、 百万都市というのは途方もなく巨大なのは確か。 そういえば、カタールがヤバい状況になってるな 「テロリストに資金を提供した」という疑惑のおかげで、 国際的な村八分になろうとしている >>571 全盛期のバグダッドは町全体を囲む城壁はないけど カリフの宮殿を囲む円城の城壁は厚さ50ⅿもあったから アッバース朝は自国の領民をひどく恐れていたようだ 当時ムスリムは帝国人口の10%以下でイラク住民の 多くがまだネストリウス派キリスト教徒だったから アッバース朝は異教徒の中の孤島だった さらにアッバース朝はアブー・ムスリムを粛清したので ホラサン軍らに恨まれていたのでターヒルの率いた ホラサン軍はここぞとばかり円城を破壊してしまった オスマン帝国もムガール帝国も、ペルシャ語を公用語とするペルシャ文化の国 ある意味でペルシャ帝国の拡大復活 偉大なるペルシャ文明の、失われた40年 この遅れを取り戻すのは難しい >>577 全盛期のバグダッドは町全体を囲む城壁はないけど カリフの宮殿は三重の城壁の円城に囲まれていたから アッバース朝は自国の領民をひどく恐れていたようだ 当時ムスリムは帝国総人口の10%以下でイラク住民の 多くがまだネストリウス派キリスト教徒だったから 円城は異教徒の大海に浮かぶ孤島だった さらにアッバース朝はアブー・ムスリムを粛清したので ホラサン軍らに恨まれていたので後にターヒルの率いた ホラサン軍はここぞとばかり円城を破壊してしまった ムガール帝国の時代に、インドの文化は極めてペルシャっぽくなった 音楽も美術もペルシャそのもの キュロス2世は、アケメネス朝ペルシアの初代国王(諸王の王:紀元前550年 - 紀元前529年)。 古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して空前の大帝国を建設した。 現代のイラン人は、キュロスをイランの建国者と称えている。 エレミヤ書〜ダニエル書あたりはバビロニア、ペルシャ帝国の権威にマウントして恥ずかしいわ 古代ペルシャ語と現代イラン語ってどれくらい似てるの? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と 生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの 導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。 ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 古代ペルシャ人と現代イラン人はそれほど似ていないらしいけどな 同じ宗教なのにアラブや北アフリカと比べると民度が違う やはり経典主義の影響だろうか 民主主義がまともに機能しているのはイランくらい イランはハメネイが自主的に権力の座から降りて監督者評議会解散させれば文句なしだがな 中東とインドの間にあって両方に影響を与えたペルシャはすごい >>595 一応征服できたが、すぐローマに取り返された そうこうしてる間にイスラム軍がエジプトを奪った ササン朝とビザンツ帝国が、シリアを取ったり取り返されたりして、「おお、シリアよ。汝は敵にとって、なんと美し国であることか」とかなんとか言ってる間に、イスラムが勃興した 初期イスラム史では必ず語られる有名なエピソード シナは、唐と元の時代にペルシャ文化の影響を強く受けた ユーラシア規模に広がった遊牧帝国では、中国よりペルシャの文化が好まれる傾向にある オスマン帝国もムガール帝国も、ペルシャ文化に深く傾倒していた ヨーロッパにおける、フランスの位置づけと似ている 国土面積 インド 330万㎢ イラン 165万㎢ サウジアラビア 215万㎢ イメージ的にはインドが圧倒的にデカイ印象があるのだが、イランやサウジアラビアも負けず劣らず大きい そういえば、サウジアラビアは荒れてるな 皇太子が政敵を続々と粛正し、伝統的な部族均衡も崩れた どうなることやら ペルシア語の世界はイランだけでなくタジキスタンとアフガニスタン、パキスタンまでは考えたほうがいいだろう そして北インドにもペルシア語の文芸を教養とみなす文化圏が広がっている パキスタンの国父・詩人のムハンマド・イクバールも長らくペルシャ語詩ばかり作っていたくらいだからペルシャ語の影響力はデカい あとたぶんだけどバングラデシュもだろう 南アジアのイスラム文化はペルシア文化というか、「ペルシア語イスラム文化」 そしてイランを離れるとシーア派もいるけどスンニー派のほうが強い、でもペルシア語、という組み合わせのようだ ムガール帝国は、音楽・美術・文学・建築、みんなペルシャ風のイスラム様式になった。 音楽なんか、みんなペルシャ伝来の楽器ばかりで、それ以前のインドの伝統楽器など、博物館でも見つからないくらい希少。 日本が中国から受けた影響より、さらに影響が大きいくらいだ。 >>609 建築は偶像とかの有無でなんとなくわかるような気もするが、 衣服とかでは純インド式とペルシア式の区別がつかない 北インドのアワド太守は代々シーア派。 ムガル帝国初代バーブル帝はサファヴィー朝の支援を受けるため一時期シーア派に改宗していた。 息子のフマーユーンの妃でアクバルの母でもあるハミーダはシーア派信徒のペルシア人の娘。 ハミーダの父ジャーミーはバーブルの末子ヒンダール皇子の信仰上の導師だった。 バーブルからアクバルまで三代に渡って仕えた宰相バイラム・ハーンはシーア派の信徒。 でもインド全体ではおそらくスンニー派が多いんだろう イスラム世界は不思議とあちこちにスンニー派がいて絶妙の混ざり具合 アフガニスタンのハザラ族はほとんどシーア派で、モンゴル人の子孫と言われるが今はペルシア語しか話せない 容貌がとてもモンゴロイド風なので歴史の記憶からかとても差別されている(シーア派だから差別されるという説もある) ハザラ族に囲まれて見た目は区別がつかないモゴール族は近年までモンゴル語から別れたモゴール語を話していたがスンニー派 中国ムスリムは近年までペルシャ文化の影響下にあったのにスンニーだし、非アラブへのスンニーの影響の強さって何なんだろうか スンニ派の世界的拡大には、スーフィズムの果たした役割が大きいようだね スーフィズムはスンニ派内部の形式主義・立法主義・官僚主義に対する批判から出発する運動で、 スンニー派の活力の一つとして機能してきた もしイスラーム原理主義に対する抑止力として働くことのできる集団があるなら、それはスーフィズムかもしれない 中央アジアやインドへのスンニ派の浸透はスーフィー集団の影響が大きい 東南アジアへのスンニ派の伝播はムスリムのアラビア商人の影響が大きい 東南アジアでもジャワ島で布教に活躍したワリ・サンガ(九聖人)のような高名なスーフィーもいる 北米で先住民を対象にいくつもの部族を入信させたクエイカーの例のように、 神秘主義系の教団はこういうのが得意なのかもしれない ゾロアスター教(パールシー)もアーザル・カイヴァーン学派のようにイスラム神秘主義から影響受けてるからね インドのパッラヴァ朝がパルティア由来という説があるらしい。 美の基準はそれぞれである 【簡単に説明すると】 ・145人の男にプロポーズされた美女が公開される ・どうみてもおっさん ・しかし当時は絶世の美人だった http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/001-19.jpg 19世紀のペルシャカザール王朝(1779〜1925)の姫として紹介されてきた「伝説の美女」の写真が公開され話題になっている。 その伝説の美女は生涯に145人の男性にプロポーズされるほどモテモテだったという。 しかし、公開された写真を見ると意外にもそんなに美女では無い。今と19世紀では「美女」の基準が違うのだろうか。ぽっちゃり体型に太い眉毛、そしてヒゲまで描かれているように見える。今では美人に程遠いルックスであるが、当時では最高に美女だったのかもしれない。 この美女はナーセロッディーン・シャー(Naser aI-Din Shah Qajar)王の8番目の娘。 先ほども書いたように145人の男がプロポーズし、更に姫の気を引くために13人の男性は自ら命を絶ったという。 この美女は外見だけで無く内面も美人で男女同権のために常日頃活動していたという。 http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/002-15.jpg http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/003-9.jpg http://gogotsu.com/wp-content/uploads/2017/12/004-4.jpg http://gogotsu.com/archives/35487 逆に現代基準でいえば結構いい女が醜女とされることも歴史上多々あったろうな たとえば男衾三郎絵詞の、坂東一の醜女という設定の妻は描写だけみれば若き日の千堂あきほと思えなくもない 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』 9GANU タジキスタンの東部山岳地帯の少数民族パミール人はシーア派のニザール派で、 言語は東イラン系でタジク語・ペルシャ語とは程遠い パミール人はアフガニスタンのワハン回廊や中国新疆の南西部にもいる 中国の「タジク族」がこれで、パミール諸語のサリコール語かワハン(ワヒ)語を話す 中国パミール人もニザール派を信仰し、中国政府の制限や許可を経て 教主アーガー・ハーン4世の援助を何度か受けている パミール人は古くはフンザ藩王国を中心に奴隷貿易で羽振りがよかった。 主にヒンドゥー教徒やスンニー派のインド人ほかを北のウイグル人やブハラの商人に売っていたらしく 19世紀末にはイギリスが清と交渉し、新疆のインド人奴隷をインドに送還させている。 パミール人は外貌も白人に極めて近く その意味でも欧米人には興味を持たれているね 中国では波斯でペルシャをあらわしたようだけど、Parsiのrを表すなら八斯とか鉢斯とか入声の字を当てた方が近そうに思うけど 発音以外に字の意味も考えて当て字したのかな >>626 外国・異民族の地名や人名を表音的に記すいわゆる音訳字は、傾向として、 画数が多すぎず、特殊すぎる意味を持たず、読みやすい常用の字が多いと思う。 「斯」はそういう字として昔から色々な語によく見かけるし、「波」も条件には合っているので これはたいした意味を込めていないケースではないだろうか そう言われると悪字や悪い意味を込めた音写なんて中国史全体でみれば少ないのかな 方位的には天竺の向こうから来た人たちとでも思ってたのだろうか? 日本の読み物では「意味を込めた」ものばかりがよく話題にされるけど、 漢字はもっぱら表音的に使われてきた面もあると思う 特に多音節語の固有名詞は、一字一字は似たり寄ったりのものを使い、 特に「意味」が見いだせないものが多い傾向が感じられる ペルシャ人って東方見聞録やら欧州旅行記みたいなものを残してないのかな ペルシャ王朝やペルシャ系商人の視点で書かれた東方や西方の記述はないのか アル・ビールーニーはインド誌書いたけどインドいった訳じゃないのかな サアディーはインド旅行したみたいだけど旅行記を書いた訳じゃないし >>630 アラビア語で書いたものならすべての時期にわたって何かありそうだが、 特にペルシャ語文学となるとセルジューク朝以降に盛んになったらしい ただ文芸趣味が強くて数学や天文学の論文でも押韻させて詩で現したりした アッバース朝期には立場が平等になったとは言えペルシャ語の地位は低かったが 新しく支配者となった外来のチュルク人にとっては ペルシャ語は便利な文明の言語だったらしく、宮廷言語としてこれを重宝した そのぶんチュルク語の地位を高めようという方向には行かなかった どっちかというとペルシア語圏外でのペルシア語文化の受容に関する考察が中心のようだけど 例えばこういう研究書があるようだね ペルシア語が結んだ世界−もうひとつのユーラシア史 (北海道大学出版会) 東イラン語派の民族は一時期活躍したけど急速に冴えなくなったな ソグド人とかどうなったんだよ 東イラン語派はテュルク系の直撃を受けたからな、運が悪かった テュルク化って具体的にはどう進むのだろう あれだけ広い領域がテュルク化してるのみるに何か独自のやり方でもあるのか? まず、イラン系諸民族が何度か波のように北上して広まった 次いでチュルク系諸民族が何度か波のように西漸して領域を増やした 両者は中央アジア・西アジアの各地で複雑に絡まりあって多様な混交を果たした ここまではOK? 微妙にトカラ系がその前にいたという・・・ややこしい血統 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方 興味がある人はどうぞ 検索してみよう『立木のボボトイテテレ』 2KV タジキスタンの東部山岳地帯の少数民族パミール人は、 シーア派のニザール派で、 言語は東イラン系でタジク語・ペルシャ語とは程遠い パミール人はアフガニスタンのワハン回廊や中国新疆の南西部にも分布している 中国の「タジク族」がこれで、 パミール諸語のサリコール語かワハン(ワヒ)語を話す パフレヴィー朝の亡命皇族の皆さん今は何してるんだろう… アゼルバイジャン共和国ではサファヴィー朝は トルコ系の王朝ということになっている サファヴィー朝のシャー・イスマーイールは、 彼を実見した西欧人が、 「あまりに美しく、邪悪なものを感じさせるほどだ」 と感嘆したほどの美少年だった オスマン朝とチャルディラーンの戦いで敗れて以来、 敗戦のショックから立ち直れず、狩猟や酒色に溺れて 政治への興味を失っていったイスマーイール サファヴィー朝のシャーって、アッバース1世以後は、 側室や女官を中心としたハーレム勢力に牛耳られる 無能な君主ばかりだった >>658 まず、隣国のイラクと混同されて不便被ってるハズ イランとイラク、どちらかが国号改名すればいいと思う イーラーンとイラークでどうやったら混同すんだよ そんなの無教養な日本人だけ イランイラク戦争を連想したんだが… イラン側戦死者推定 750,000〜1,000,000 イラク側戦死者推定 375,000〜400,000 これ何気にお互い物凄い被害だよね?民衆レベルで禍根が残って当然だと思うんだけど日本だとその辺あんま聞いたことないというか、イラク戦争以降は有耶無耶なんだろうか >>658 イランとはアーリアンの地という意味 レザー・シャーが1935年に国名をペルシアからイランに変えた 自分たちが人種的には劣等なアジア人やセム族ではなく、 ヨーロッパ人と同じ血を引くアーリアンだと主張した アーリアンつまり「高貴なる者」であると国名の変更で 脱亜入欧を目指したわけである 1933年に人種主義を掲げたナチスがドイツで政権を握ったが、 その余波が二年後にイランの国名変更に跳ね返ったのである >>662 イラク側がもう違う国になってもたからどうしようもないやん それに元々イラクの住人の過半数がシーア派やから イラン側からしたら結果的に敵は滅びたということになる >>664 独ソ戦みたいなもんだろうね。 被害が大きかった方が戦勝国で、経緯は違うけど負けた側は国家解体まで行った。 しかもどっちも独裁政権だった。 >>661 英語表記でもIranとIraqの一文字違い 英語圏ですら、遠く離れたAustraliaとAustriaを混同する奴が居るのに、 中東の隣国同士じゃ混同する奴絶対いる まして、ThailandとTaiwanを混同してるアメリカ人には区別出来てない JapanとJavaを混同するアメリカ人けっこういるし 耳が悪いバカの>>660 一人が言い張ることに何の意味がある あ、俺>>661 でも>>663 でもないけどそれらをもっともだと思うよ >>671 ペルシャ語圏とアラブ語圏以外の一般人が区別ついてる訳ねぇだろ、クソバカ! java scriptをjapan scriptと間違える奴がいるのか? サファヴィー朝の王朝権力は、1722年のアフガニスタンの カンダハール遊牧民2万人の侵入を契機に、事実上命脈を絶たれた。 ある史料によると、アフガンの兵たちは馬に乏しく、 大半は牛に乗っていたという。 首都エスファハーンの女子たちはすべて陵辱を受けた。 侵略者たちは、略奪した金銀刺繍の衣服を着るなど 狼藉の限りを尽くした。 このために、往時70万の人口を誇り、「エスファハーンは世界の半分」 とうたわれて、壮麗をきわめた都城もなかば荒涼たる瓦礫の場と化した。 現代のテヘランにはいたるところにアフガン人の姿がある。 土木・建設工事や清掃、ゴミ収集に従事する出稼ぎ労働者たちである。 彼らの勤勉さが重宝がられている。 しかし、イラン人のアフガン人観はアラブ人に対するよりも厳しい。 改革派の知識人からも、その「後進性」について露骨なまでの差別感情を聞く。 >>664 後で色々調べてみたが、どうやら実際そんな感じで、もう別の国だしフセインがやった事だからという感覚らしい アメリカのイラク侵略についても、サダムフセインが死んだ事だけは嬉しいがイラク人が米軍に理不尽な仕打ちを受け殺されているのは許せないといった意見が多いようだ >>672 耳が悪い上に頭も悪いなお前 世界地図の上のカタカナの国名も読めないやつを「一般人」とは言わねえよバカw >>673 なんだ福岡人か 暴言王の松本龍を甘やかしてきたB利権王国のバカ県人だけのことはあるな せからしかくらさるぞってか やれるもんなら何かやってみろべろべろばーおしりぺんぺん >>680 イランの知識人いわく、 「イラン人はもともと世界最古の一神教であるゾロアスター教を信じていました。 だから同じ一神教のイスラムに新味はありません。イラン人がイスラム教を 吸収したのはゾロアスター教と似ていたからです」 「しかもイランに根付いたシーア派は『イラン化したイスラム』です。 モスクはゾロアスター教の神殿跡に建てられるなどイラン文化と融合しました。 シーア派はアラブ的イスラム(スンニ派的な要素)を排除して独自のイラン的部分を 取り込み、結果としてアラブ的イスラムより優れたものとなったのです」 ペルシャ=波斯パーシ=百済=パーシャ パルティアは建国者のアルサケスから「安息」国 大避神社、ユダヤ人ダビデ大避ダビデ王の漢訳「大闢」ダヴィ「避」と「闢 」が類字 唐の人皇甫東朝・波斯人李密翳(ミフライ) 唐人の皇甫東朝・ペルシャ人の李密翳(り・みつえい) 安禄山は、安国(ブハラ)出身のソグド人禄山は、彼の名(ロクシャン) 吐火羅国、都貨羅国トカーレスターン(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、ウズベキスタン) 覩貨邏人、乾豆波斯達阿 乾豆トカーレスターンの地名クンドゥズ、ペルシア人、ダーラーイ (ダーラーイ)こそが舎衛シャーフ 天武四年の正月に舎衛婦人と並んで参内する「堕羅女」「ダーラーイの娘」 ヤズダギルド3世には二人の王子と三人の王女がいたが、 このうち、王子ペーローズ(卑路斯)ペーローズの子、ナルセース(泥涅師)708年、唐に亡命 句麗、高麗=これ、こま=狛 新羅(城)=しらぎ 百済、これは「クダラ」とは読めない おそらく百済=パーシャ、ピャサはペルシャの当て字で 天から舞降りて来た人と想いクダルだと思う。 ここまでフレディ・マーキュリー(=パールシー)なし サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドのグジャラート地方 に退避する集団があり、現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。 インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが 非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。 インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、 シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。 シク教徒は14億人いるインドだからこそ2%の占有比だが、一応3千万人くらいはいる 10万人未満のパールシーは絶対数でも本当に少数で、それだけにあの影響力は凄い 日本で見かける印度人はターバン巻いてるの多い シーク教徒はインドでは少数でも 外に出る印度人の中では決して少数派には見えん ターバン巻いていないインド人が目につきにくいだけってのもある >>31 ウズベキスタンとタジキスタンは両語話者だろ 商売や立場で使い分けてたところをスターリンが比率に合わせて国境引いて強制固有民族化した テュルクとペルシャは突厥の時代から共存言語で多分もっと前からそうだったのだと思う 安禄山はソグド系突厥人。赴任地は遼東半島付近 日本に頻繁に訪れてる波斯人はこのあたりから来てたよう。 ムガル帝国ではペルシア文化が宮廷で受け入れられていた ペルシア文化の受け入れはペルシア語による文学から ウルドゥー文学の発展を促した サファヴィー朝滅亡後、トルクメン遊牧民の子から身を起こした ナーディル・シャーはアフシャール朝を作って、カフカース、 インド、中央アジアに勢力を拡大した。 しかし、この一代の梟雄も暗殺には無防備であった。 ナーディルが寝所で暗殺された後、イランはまたしても 大分裂の時代を迎えて荒廃をきわめる。 都市が秩序を失い衰えただけでなく、多数の村も無人と化した。 通商交易は退潮に向かい、往時のイランの繁栄は、 昔日の思い出にすぎなくなった。 イランの混乱は、カスピ海南岸からイラン中央部に覇をとなえた カージャール部族連合の力で収拾された。 これが1779年に成立したカージャール朝である。 土人宗教化したせいで全く発展できない社会になってしまった 宗教家に政治なんかできるわけないのに神権政治なんか機能しない 宗教教育が基礎教育の機能を負うのはヨーロッパでもよくある/あったことだろ その間も帝国主義やってたりした 18世紀末にイラン高原に成立したガージャール朝は、テュルク系ではあったが、 「イラン」の王朝として自らを表象した 君主の王冠は古代イランの伝説の王カヤーン朝と結びつけられた 第二代君主ファトフ・アリー・シャーは、古代イランの新年の儀礼を復活させ、 また、古代イランの諸王を模した自らのレリーフを巨岩の上に刻ませた また、文芸面では、ガズナ朝君主を理想とし、これに倣ってペルシア語文芸の 保護者となった すでに西欧諸国に諸々押され始めているからな 弱い統治者は、被支配民に擦り寄っていかざるをえない >>696 >古代イランの新年の儀礼を復活 まったく疑うわけでもないが、イランでノウルーズが 18世紀まで完全に途絶えていたとは考えにくい たしかにガージャール朝やパーレヴィ朝の歴代シャーはよく 国民国家形成のために非イスラム的な西欧文化(油絵やレリーフなど) を導入したり、一部のゾロアスター教文化を復興したりしたようだが 現代でも旧ユーゴのイスラム民族から 新疆のイスラム諸民族、中央アジアのチュルク系諸民族や トルコさらにタジク、アフガン、印パの東ペルシア語圏、 またさらには北アフリカ、コーカサスユダヤ人やイランのユダヤ人によっても ノウルーズは祝われている この範囲の広さを見るに、イランでもずっと祝われてきたのではないか 17世紀のタイではペルシャ人の商人が根拠地を作っていた関係で 日本にもペルシャ人が来航している。 江戸時代の長崎の通事が作った会話集『訳詞長短話』にはペルシャ語も掲載されているが 例によって単語は正しいものの動詞の活用は混乱している。 山田長政と同時代の人、シェイフ・アフマドがペルシャ商人だね 長政没後に残された在アユタヤ日本人を掃討した人物でもある 王宮内で確固とした地位を築いただけでなく、その子孫も摂政になるなど数百年に渡り隆盛していく 現代でも陸軍大将を出すような名家として続いていて、長政が夢見たであろうことを実現した人物だ シャムのような仏教国でよくイスラム教徒が生き延びられたなとは思う 交易の要衝だから他宗教にも寛容だったということか 宗教の違いで完全排除するとかそんな偏狭な考えはレコンキスタ後のスペインからだろ それまではどこでも異教徒にも安全を保障する区域を用意していた >>648 所詮日経 朝日ならこんな間違いはしなかったろう Behistun_Inscription_Eger.png (1013×643) https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Behistun_Inscription_Eger.png ダレイオス1世が反乱軍の王ガウマタに対して勝利したことを記念するレリーフ 描かれている人物は左から順に、槍持ち、弓持ち、ダレイオス1世。彼は僭称者ガウマタを踏みつけている。さらにその右に命乞いをする9名の反乱指導者がいる。 左からアーシナ(エラム)、ナディンタバイラ(バビロニア)、フラワルティ(メディア)、マルティヤ(エラム)、チサンタクマ(アサガルタ)、ワフヤズダータ(ペルシア)、アラカ(バビロニア)、フラーダ(マルギアナ)、最後尾の尖帽をかぶっている人物はスクンカ パルティア以前の歴史ってイラン・イラクにはろくに伝わってなかったっぽいな イスラムの歴史書はキュロスも出てこないし、パルティアの王名もメチャクチャだ 何故かアレクサンドロスはほとんどの歴史書が伝えている あんまり話題にならんけど、ペルシア人とっての王権というのはイラン伝統の宗教観と結びついてて、 古代さながらの”神の化身”が政治を行う神権政治のスタイル、というイメージがある。 (慣習より血統を重んじるシーア派がイランに根付いたのも、こういう思想と無縁ではない) 王朝が交代する時は『クワルナフ』という光の輪っかが次代の王に向かって移るもんだそうな。 ウィキペディアの記事には、ここらへんの情報が少なすぎる >>703 その朝日はビザンツ皇帝アレクシオスを「アレクシアス」と書いた記事を平気で載せてるぞ https://book.asahi.com/article/13090041 「アレクシアス」は本の名前だ ゾロアスター教は神の前では人間はみな平等がないから 滅びてしまったんかな >>709 いまでもパールシー教として世界にかなりの人数の信者がいる 日本にもごく少人数だけどいるが、おもにインドやイラン >>711 ゾロアスター自体の人口も少ないし マジに日本にいるんですか?一人二人ぐらいかな クイーンのボーカル、フレディ・マーキュリーはインドのパルシー シャーハンシャー(ペルシャ) ベイレルベイ(トルコ) ラージャラージャ(インド) このへん語源おんなじなんかな >>715 ラージャラージャ(インド) は ラジャスタン、ラージプートから来ているのでは >>714 バカペディアによると日本にもいるらしいけど、 そういう人は儀式とか行事のときはインドとかイラン、アメリカに行くらしく 日本には寺院もないそうだ 日本はジャイナ教とかバハイ教とか海外のマイナー(寄り)宗教の施設もけっこうあるのにね >>717 ゾロアスター教の寺院は聖火祭祀のために作られるが聖火は海を渡ることが禁じられている >>718 ネットで検索したがいまいちわからなかった 拝火神殿はなんとかなっても 鳥葬を行うための沈黙の塔は新設も維持も難しいだろう え、インドのパルシーは鳥葬をしてるだろ 一部の改革派的な人が太陽光で焼くけど批判されている >>698 ノウルーズがイスラム世界の中でペルシャ文化圏特有だと言うのは、日本の年中行事の大半が中国起源の中で、お彼岸は日本特有だというようなものか >>681 とはいえ、680の突っ込みが有りうるように、ペルシャが、アラブ起源のイスラム文明に呑み込まれ、本来の文明的、文化的独自性を失ってしまったのは確かだろ 何せ、イスラムというのは地域、民族を超越して、同じムスリムというのを強調する、普遍思考の強い宗教なので、ペルシャ人の民族意識は屈折したものにならざるをえない >>581 音楽に関しては、インド古典音楽の専門家は、中東音楽の影響を否定したがるようだが 確かに、インド、特に北インドへのペルシャの文化影響は相当大きいと思う イスラム勢力に支配されることが恒常化したことが、インドが古代のようにアジアの他地域に大きな文化的影響与えることができなくなった最大の要因だろう イスラム化以後のペルシャ文化圏は、独立した文明、文化圏ではあり得ず、イスラム教を共有する、イスラム文明、中東文化圏の一部という範囲内での地域的独自性を持つにすぎない 最も、イスラム誕生当時は、発祥地のアラブよりペルシャの方が文化レベル高かったから、イスラム文明自体に古代ペルシャの文化的影響は見いだせるだろう しかし、外来宗教に征服されることによって古代ペルシャの伝統が断絶してしまった事実は否めず、ペルシャの長い歴史に誇りを持ちたい民族主義者にとってこの事実がアイデンティテクライシスをもたらすのである >>727 ヲタクは歴史Aを歴史Bに、文化Aを文化Bに安易にたとえたがる いちいちたとえるな 何か違うところがかならずあるんだから そして違いの部分は全然共通認識じゃないんだから 自分ひとりがわかって納得したつもりでトンチンカンなことをあとで言うのがヲタク >>731 すぐそうやって卑しい思考に走る 世の中がみんなお前みたいに優越感と劣等感だけで生きてると思うな イランの王朝は、異民族の侵入によってあっさり滅びるというパターンが多いな 例えばサファヴィー朝は、1722年のアフガニスタンのカンダハール遊牧民2万人の 侵入を契機に、事実上命脈を絶たれた アフガンの兵たちは馬に乏しく、大半は牛に乗っていたという 往時70万の人口を誇り、「エスファハーンは世界の半分」とうたわれた都も なかば荒涼たる瓦礫の場と化した 北がもうソグディアナだからな 遊牧民は農業やってる国より戦いに強い セルジュークとかモンゴルとかティムールとかに征服される ユーラシア大陸では王朝や国家が異民族の侵入によって滅びることがよくあるが、 むしろ日本のように継続した歴史を持つ国のほうが珍しいのかもしれんな 遊牧民来ない時代のカリフ制は地域アミールの緩やかな連邦制で室町時代に近いと感じた シーア派でさえスンニ派カリフを尊重してたりする時代があった 古代ペルシア史を通史で学び直そうと思っているのだが青木先生の「ペルシア帝国」(講談社現代新書)はどうですか? 帯には「ハカーマニシュ朝とサーサーン朝という世界史上に輝く二大帝国は何故生まれたのか?」と書いてあるのだがその二大王朝に挟まれたパルティア(アルサケス朝)のことも書いてますか? 青木健かこれ本当かよ?みたいな話をさらっと書いて済ますから今一信頼できない サファヴィー朝って、アッバース大帝の後は、ハーレム勢力に牛耳られる 無能なシャーばっかりだよな イランの君主は基本無能 偶に一王朝に2,3人凄いやつがでてくる カージャール朝のナーセロッディーン・シャーは、3度にわたるヨーロッパ視察旅行を 試みたが、それは往時ロシアのピョートル大帝に倣った先端技術の大胆な習得という わけでもなく、同時期の岩倉使節団の真剣な視察とも違っていた それは貴重な外貨をいたずらに浪費する漫遊にすぎなかった しかも、次代のモザッファロッディーン・シャーも1900年から3回も大掛かりな 欧州漫遊をしている レザー・シャーは伝統的な服装を禁止して、洋装を義務付け、さらに女性のベールも 禁止したが、少し改革を焦りすぎたんじゃないのかな もっと国民が西洋文化に慣れてからやればよかったのに >>748 有能な奴も残酷さが抜きん出てるヤバい奴多いからな ナーディル・シャーとかアーガー・モハンマド・シャーとか。 有能でかつ純粋に尊敬されてた英主って (チャルディラーンの戦いで負けるまでの)イスマーイール1世とか サファヴィー朝中興の祖アッバース1世ぐらいのもんじゃないのか 中世は毎回テュルク系に支配されてる 古代もパルティアとかそうだったかな >>752 パルティアはスキタイ系、しかもスキタイ系は広義のイラン系でもある サーマーン朝とかもイラン系だったな サーマーン朝以降はテュルク系ばかりだが、大分イラン・イスラーム文化の影響を受けたテュルク系であり、 公用語もペルシア語だったりする 歴史を通してペルシア人はイランの支配層になっていた時期は短いと言えど、 文化的にはイランの”華”であり続けた 中世のイラン人って、インド人と同様、あまり記録を残すことに 熱心じゃなかったんだよね だからパルティアやサーサーン朝についてはわからないことが多い 中世どころか古代から イスラーム化してからやっと歴史学が始まったようなもの それ以前はファンタジー歴史物語しかなかった メソポタミアは大昔から遺跡に記録が残ってるのにペルシャは何故か ギリシャ側の記録しか無いし んでもサーサーン朝あたりは何かあるんじゃないの インドにもイスラーム文明が流入する以前には歴史という文化はなかった おそらく、いわゆるアーリヤ人に共通の「時」に対する感覚が、ほかの諸民族とは 異なっていたからであろうと思われる インド人にとっては、宇宙的時間においてはほんの一瞬の、それも人間界の 出来事だけを対象とする歴史は無意味であるし、また時間も繰り返し原初に 戻るとすれば、いよいよ歴史は成立しがたい この意味で、インドには歴史を成立させる時間意識が欠如しているといわれる イスラム化以前のインドやイランって技術的発展とか文化的進歩とかあったん? 歴史がないと発展しようもないと思うが >>758 あと、インドで文字が普及したのも意外なほど遅いよな ウパニシャッド哲学が出てきた時点では、まだ無文字社会だったんでしょ? カージャール朝は、英国とロシアに国の利権を売り渡した 電信線を引く利権が、カスピ海の漁業権が、そしてその他の様々な利権が 売り払われ、その代金が王朝のシャーたちの贅沢の費用と消えた 多数のお連れに囲まれたヨーロッパ旅行での散財のためにペルシアの 利権がばら売りされていった パフラヴィー朝は再び黄金時代を築く可能性があったのに、無能なカージャール朝より短命だったなぁ 解せぬ ペルセポリスでペルシア帝国の建国2500年の祭典を祝ったりしていたな 日本からは三笠宮殿下が参加している 料理を受け持ったのはフランスの高級レストランのマキシム 料理人からウェイターまで含めて165人が2万5000本のワインとともにパリから 空輸された そしてイラン軍の兵士たちが、アケメネス朝、パルティア、ササン朝の軍隊の装束を まとって居並ぶ賓客の前を行進した >>767 結局イスラム文化が定着して長い近現代のペルシア人に取ってみれば、 今更イスラム化以前の文化を復活させて 古代ペルシア人の誇らしい偉業の数々をアピールしようとするパフラヴィー朝なんて 単なる異教徒のイスラームに対する背教行為にしか見えなかったってことでしょ 異文化過ぎてもはや自身の祖先達の文化だとは到底思えない よく比較画像で持ち出される『解放されたテヘラン市民』の写真なんて、 ただのアメリカによる”演出された自由”だしな その後のイランが反動でパフラヴィー朝以前より余計に厳格になったことは否定しないが。 あのへん多民族すぎてアイデンティティが保てないからな アルスラーン戦記も随分羨ましかったらしい イランの西南部にはアラブ人、西北部にはアゼリー人、東北部にはアフガン系、 東南部にはバローチー人が住んでいた このほかに、アルメニア人、アッシリア人、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒など 宗教的少数派も多く住んでいた しかもイラン各地には、事実上の領国に割拠する有力部族がおり、歴代の王朝を 悩ませてきた なかでも有名なのは、中央部のバフティヤーリー、西北部のクルド、 東北部のトルクメン、西南部のカシュガーイーなど イスラムは普遍性があるから、宗教としては優れているんだろう。 イギリス人モーリアがイランを舞台に書いた小説、『ハジババの冒険』には、 敵兵力や敵戦死者の数をいつわる宰相や指揮官が登場する テヘランに報告書を送るのに、敵死者少数などと書くと、陛下の威厳に かかわるばかりか、周辺諸国に馬鹿にされる。 浴びるほどの血が流れた激戦でなくてはならぬ、というのである 「おびただしい捕虜の奴隷市場流入により、全アジア市場で、 奴隷の値は半値に下落した」 というのは、中国の白髪三千丈的表現を思わせる こういうのは中国やイランだけではなく、近代化されていない社会に 共通の現象なのだろうか? 亜細亜の東に大東亜とかいうものを築こうとした国にも大本営発表とかいうものがあったろう 最近でさえ大統領の就任演説に集まった聴衆数が現実とかけ離れてた国があったろう イランという国は、国土の中央部は途方もない広がりを持つ砂漠地帯であり、 人口は南北の端に集中している この砂漠のために国家としての一体感を心理的にも経済的にもなかなか持ちえなかった 歴史的にも歴代の王朝は常に首都をどこに置くかで悩んできた ペルセポリスやシーラーズのように南部に置くと、北部の支配が手薄になる テヘランのような北部に置くと南部と疎遠になる ペルシャからメソポタミア抜いたら砂漠と山脈しか残らんわな レザー・シャーがイラン縦貫鉄道を構想したのも、イランの南北を結び付け、 国家としての一体感を生みだすため レザー・シャーの時代、北部はロシアの経済圏に組み込まれていた また南部はペルシア湾の交易圏の一部であり、北部よりは対岸の アラブ世界と密接につながっていた >>775 北の中央アジアとのつながりは重要だし、農業とカスピ海漁業もある アゼルバイジャンの学者の中には、サファヴィー朝はイラン系ではなく、 トルコ系の王朝だったと主張する者がいるのだとか 何度もオクシアナの向こうからやってきてるからな 人種的にかなりのテュルク系がいてもおかしくない なんだけどハプログループ的には素のイラン人(アーリアン)は東欧系とおなじハプログループR1でほぼ主流だけど C(テュルク系)の父系遺伝子の比率は低いんよな アゼルバイジャンのバクーでは、長らくゾロアスター教徒が 灯明に石油を使っていた かつてはペルシアの支配下にあったこの街で、19世紀後半に 大規模な油田が発見された 次いでペルシア南部フーゼスターンのマスジェッデ・スレイマーンで 石油が発見された >>778 いや王家は半分はトルコ系だろ 特に王朝の創始者イスマーイール1世は 白羊朝のウズン・ハサンの娘を母に持っているんだから アゼルバイジャンの歴史学者はトルコ系どころかアゼリー人だと主張してなかったか? インドからはあまり人来ない印象 逆にペルシャからテュルク系イスラム王朝が出ていく インドの方が豊かだからか アゼルバイジャン共和国では、サファヴィー朝、とくにトルコ系のキジルバシを 率いて戦った初代のイスマーイール1世がアゼリー人の祖と考えられ、 民族統合の象徴になっているみたい ウズベキスタン共和国ではティムールが民族的な英雄になっているし >>782 インドのほうが農業生産力が豊かだからな ただ、インド人商人や両替商はおおぜいイスファハーンにやってきた 戦後の日本で農地改革が成功したことに驚いたアメリカは、 イランのシャーにも同じことをやるように勧めた シャーは大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが、 農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため 有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。 そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。 自作農にしても資本家による工場を建てるにしても豊かな民間層が育つ文化が無いとだめなんだろうな 日本の敗戦後は何も無かったが文化だけは残ってた パフラヴィ―朝は、バーレーンの領有権がイランにあると主張してたんだよな (後に領有権を放棄する) アケメネス朝やサファヴィー朝の時代にはペルシアがバーレーンを 支配していたという理由で。 もっともパフラヴィ―朝にしてみれば、イスラエルという国家があるから この主張もおかしくないと考えていたのかもしれないが >>778 親衛部隊のキジルバーシーとか明らかにテュルク系だしな。 キジルバーシーという名称がテュルク系言語で赤い被り物という意味。 >>751 アーガー・モハンマド・シャーは、ナーディル・シャーの末孫シャー・ルフを、 頭上から沸騰した油を注ぎながら拷問して隠していた宝物のありかを白状させたな その上、目的を遂げると時間をかけてゆっくりと殺した >>790 まあナーディル・シャーも主君タフマースプ2世とその2人の子を処刑しているので・・・ しかもアーガー・モハンマド・シャーとは関係ないけどデリー侵攻時に3万人の市民を虐殺してるしな ザンド朝に至ってはアーガーを去勢している こいつらがアーガーによって残酷な拷問の末殺されたと言ってもまあ、因果応報とも言える しかもアーガー自身も召使いに殺されたんだから因果応報 ガージャール朝は、テュルク系ではあったが、「イラン」の王朝として自らを表象した 君主の王冠は古代イランの伝説の王朝カヤーン朝と結びつけられた 第二代君主ファトフ・アリー・シャーは、古代イランの諸王を模した自らの レリーフを巨岩の上に刻ませた また、文藝面では、ガズナ朝君主を理想とし、これに倣ってペルシア語文芸の 保護者となった イランの中でアゼルバイジャンとホラーサーンは最も遊牧に適した土地 13世紀の半ばにイランの地に姿を現したモンゴル人たちが最も好んだのも この両地方だった 全人口の3分の2が農村部に居住するアゼルバイジャンはまた、イランでも 有数の豊かな農業地帯である 小麦、大麦、綿花、果実、野菜、堅果とその栽培作物の種類も変化に富んでいる サファヴィー朝とコーカサス諸民族の関係だけど、17世紀には後宮の女性の ほとんどがグルジア系だった 宮廷には王の身の回りの警護や世話にあたるグルジア出身者がたくさんいたし、 アッバース1世時代以後、イスファハーンの街の長官の職(ダルガ)には、 グルジアの王族がつくことがなかば慣例となっていた オスマン朝はヨーロッパ方面にしつこく進出したけど イラン方面へはあっさりした印象 どうして? >>795 オスマン朝が欲しかったのはウィーンとバグダッド ウィーンを目指してしつこく進出した バグダッドもイランとの間で何度も奪還戦が行われた しかしイランはそれ以外では殆どオスマンに進出する勢いはなかった 一方ハプスブルクとロシアはオスマンに進出し続けた サファヴィー朝はオスマン帝国だけでなく、シャイバーニー朝からも 攻められてるんだよな サファヴィー朝のシャーの中には、気まぐれに臣下を殺したりするような ヤヴァイのがいたらしい 寵臣でもシャーの気分が変わればどうなるかわからなかった 専制君主国というのはそういうものなのかもしれないが 敗戦後のイスマーイール1世について、 日本人が書いた本には酒色に溺れたと書いてあり イスラム人が書いた本には内省的になり瞑想に耽るようになったと書いてあり イギリス人が書いた本には銃火器の強化に励んだと書いてあり どの情報を選択するかにお国柄が表れてるな 16世紀初頭、シーア派が残存していた地域は、イラク南部、 シリア(レバノンを含む)、イエメン、コーカサスなどの限られた地域だった トインビーの表現を借りると、「歴史的意味がなくなった骨董品のような存在」に なっていた。 しかし、シャー・イスマーイールがイランでシーア派信仰を強制した結果、 シーア派はイスラム教の中では少数派ながら、世界に影響力を持つ 宗派として復活した >>758 それは古代ギリシャ人も同様で、たとえばアリストテレスは、永遠不変にして 普遍的なテーマを扱う「詩」を高く評価する一方で、無常一時的にして 個別的な問題を扱う「歴史」には低い評価しか与えなかった アッバース大帝以降のサファヴィー朝のシャーたちはというと、 シャー・ソレイマーンの時代には宦官たちが政治の実権を握るようになり、 彼自身はアルコール中毒で、ハーレムにこもりきりになり、隠遁生活を送っていた 次のシャー・スルタン・ホセインは、政治には無関心で、酒と放蕩に明け暮れた 彼の治世に、政治の腐敗に反発した宗教勢力が暴動を起こし、王室所有の酒の 貯蔵庫から六万本のワインを取り出し、廃棄したというエピソードもある 象兵千夫長 PE006は東ローマ帝国のカタフラクトみたいだな 他は中世イスラム風だけどPE006だけサルマタイ風で 砂漠じゃなくて寒いヨーロッパの兵士みたいだ ペルシア帝国 王子 2種 PE007はオスマン帝国のシパーヒーだな ポーランドの重騎兵フサリアにも似ている 背中に翼を付ければフサリアにそっくり フサリアは17世紀には背中に翼を付けていたけど 16世紀には馬の鞍に翼を付けていたから 16世紀のフサリアならばまさにそっくりだな >>765 初代科学大臣エエテザードッサルタネとかは自国主導の電信網の構築を目指していたようだ。 自邸にたくさんの実験機材を取り寄せており西洋人達からテレグラフプリンスと綽名される程だったが、 頑迷かつ腐敗し弱体化したガージャール朝政府の下では貧弱な電信設備しか構築できなかった。 せいぜいシャーに新しいおもちゃを提供したレベルにとどまったのが悔やまれる。 15世紀以降のイランの王朝は大体トルコ人が打ち立てた王朝じゃん 中国史に、遊牧民が建てた王朝が多いのと同じだな ちなみにパルティアはイラン系だが、遊牧民のパルニ族が建国した王朝 アフガニスタンのミール・マフムードがイスファハーンへ進軍したとき、 これを迎え撃つために出陣したサファヴィー朝軍は、武器も甲冑も 贅沢の限りを尽くして美しく、馬には金銀をちりばめた馬具を装い、 天幕も豪華壮麗をきわめたものだったとか 一方、アフガン側の兵士は行軍と炎熱に疲れ果て、衣服はぼろぼろで 身体をおおうにさえ十分でなく、馬具は革と真鍮。 彼らの持ち物で、光るものは槍と剣だけであった しかしこの軍勢にサファヴィー朝軍は敗れた アフガニスタンは伝統的に質素な歩兵だよね 中世のゴール朝も山岳地帯出身の歩兵が主力で 豪華なマムルーク騎兵が主力のガズニ朝を滅ぼしている アケメネス朝もペルシャ本国軍は軽装の歩兵が主力だった ペルシャ本国は免税と引き換えに国民皆兵で 成年男子ならば貧民も兵役の義務があったからだ 属州バクトリアやソグドは人馬ともに鎧で固めた重騎兵で マケドニア軍と互角に渡り合った イスラム時代のダイラムやアフガンも歩兵が主力で ホラサンやタジキスタンがマムルークの重騎兵の本場だった アッバース大帝が即位したとき、イランは西方のオスマン帝国、東方のウズベク族の 両方から脅威を受けていた アッバース大帝はまずオスマン帝国と条約を結んでおいて、東のウズベク族を攻め、 これをホラーサーンから放逐した 東方の脅威がなくなると、今度はオスマン帝国を攻め、アゼルバイジャンを奪還し、 アルメニア、ジョージアをも手に入れた このようにオスマン帝国に対して攻勢に出ることができた原因は、イラン軍にも 大砲が使用されるようになったことと、軍隊が改編されたことにある アッバース大帝に召し抱えられたイギリス人の中に大砲技師がいて、 大砲や小銃を製造し、砲兵隊を編成するようになった さらにキジル・バーシを解体し、それを一万の騎兵隊と一万二千の 歩兵隊に編成し、王自らがこれを統率し、またこれに給与することにした サファヴィー朝とキジル・バーシ アッバース朝とホラサン ファーティマ朝とチュニジア イスラム諸王朝では王朝創建の自由民出身の軍と 専制化を目指す王朝が対立して 王朝側は奴隷兵や傭兵に頼るようになり 衰退していく事が多い サファヴィー朝の場合、アッバース大帝の死後、無能なシャーが続いたことも 衰退の一因だろうな シャー・サフィーは政治は宰相たちに任せきりで、酒と女と狩猟に専念した それでいて残酷な性格の持ち主で、多くの高官を殺害した 彼の事績といえば、その治世を血で汚したことだけであった >>816 パルティアはその最盛期には、中央アジアからペルシア、メソポタミア全域を 支配していたから、東西を結ぶ絹の道を完全に掌握し、莫大な富を蓄積していた しかしこのことが勃興するローマと対立する要因になり、紀元前197年、 チグリス河畔にある首都のクテシフォンが陥落してから急に衰微した 最終的には、紀元224年、サーサーン朝初代のアルダシール1世によって滅ぼされる >>791 言わない。 たとえそういうことしたとしても 残虐刑をしていい理由にならない ナーディル・シャーの遠征のうちで最も有名なのがインド遠征 ときのムガール帝国はアウラングゼーブの死の後を受けて、 凡庸な後継者のムハンマド・シャーが帝位にあった 彼はかたときも両腕から女を話さず、酒杯を手から離さない 放蕩者といわれていたので、精力的なナーディル・シャーの 敵ではなかった またインド兵も士気がふるわず、イランの好戦的なアフシャール族、 クルド族に対抗すべくもなかった またムガール帝国の高官の中にも、ひそかにナーディルと内通する者があった >>805 HHMODEL x HAOYUTOYS 1/6 Imperial Legion-Persian Cavalry (Man and Horse Set) https://www.facebook.com/groups/coomodel/permalink/3920599824714312/ ナーディル・シャーは、息子のレザー・クリーが自分を暗殺しようとしたと 疑って、彼の眼球を取って捨てた また、デリーの財宝を手に入れてからは吝嗇家になったといわれる >>741 現代新書「ペルシア帝国」を買った。 我々が聞き慣れている「アケメネス朝」「ダリウス」区セルクセス」などの名前を使わないとこうも読みにくいものか。 それでいながら「アレクサンダー」という英語名で書いてるって、どういう基準なんだかね。 古代オリエントペルシア専門家だからこだわりあるんじゃないの アレキサンダーはギリシャで範囲外だからどうでもいいとか ペルシアのナポレオンといわれたナーディル・シャーも、 最後は家臣の手によって暗殺された 彼の大帝国は結局、短命に終わった 初期のサファヴィー教団は、イスマーイールがシャイバーニー・ハーンの髑髏に 金箔をはって勝利の美酒を飲んだとか、 キズィルバシュが儀礼として謀反人の肉を食べたとか、 スンナ派の高名な学者の遺骨を掘り起こして焼いたとか、 正統イスラームから逸脱した奇習の話が多いな トルコとイランは実質イスラームじゃないというのがスンナ派アラブからみた立場 サーサーン朝のヤズデガルド2世は、自ら出陣してエフタルと戦って敗れ、 エフタルの捕虜になり、莫大な身代金をエフタルに払って自由の身になった しかし、これ以後、エフタルはサーサーン王室に深く食い込んでいく ヤズドガルド2世の死後、三男のホルムズド3世が即位したが、ホルムズドの兄の ペーローズはエフタルの後援を得て王になっている エフタルはペーローズを即位させた報奨として、それまでサーサーン朝が 支配していたトハリスターン以北の国々を支配下に置いただけでなく、 莫大な報奨金をサーサーン朝に求めた >ホルムズド3世 これよく考えたらすげえよな・・・ ホルムズドって、神アフラマズダの中世ペルシャ語訛りだろ? 神名オンリーそのままで人名にしちゃうんだからな。まさに神の化身ってわけか 欧米だとダイアナ(ディアナ)のように、ギリシャ・ローマ神話の 女神にちなんだ名前ならあるな あとはキリスト教の聖人にちなんだ名前とか エフタルが意外に狡猾な戦法使ってる ベーローズ一世はエフタルが掘った落とし穴にはまって死んだ その前にも手足を切断されて放置されてたエフタル人の言うこと を信じて砂漠に誘導されて多くの兵を失ってる カワード1世もエフタルに擁立された王だが、彼の時代、エフタルは莫大な 報奨金を手にしただけでなく、サーサーン朝の宮廷の警備などを名目に、 王室深くに入り込み、内政に干渉した 金銭的に逼迫したカワード1世はビザンツ帝国に金銭の貸与を申し入れて 断られたりしている 「カワード」ってのも、考えてみれば凄い名前だな 英語で「臆病者」って意味だろ? サーサーン朝はホスロー1世の時代、北東アジアに台頭してきた 突厥と婚姻関係を結び、突厥と協力して、ようやくエフタル撃退に成功した ホスロー二世の頃には意外にもキリスト教国家になってた >>846 ビザンツ帝国との戦いに勝利して、いまでいうレバノン・トルコ・エジプトといったキリスト教圏の国々を征服したからだな ホスロー2世の時代は、サーサーン朝が最後の光芒を放った時代 628年にはビザンツ軍に敗れ、首都クテシフォンが陥落して焼かれた このとき、西突厥の統葉護可汗が、ビザンツの要請でホスロー2世を攻めた アリー次男坊の嫁がササン朝の王女だなんてね ゾロアスターの火は消えなかった ホスロー2世の死後、サーサーン朝宮廷内は混乱を極め、 突厥や貴族たちが勝手にそれぞれの思惑で王を擁立したが、 最期の王ヤズデゲルド3世が、アラブ軍に追われてトハリスターンに 逃れる途中、イラン東方のメルブで殺されて、サーサーン朝は 400年の王朝の幕を閉じる それまでは、シリアやエジプトがキリスト教圏だったからな つい忘れそうになる事実 パルティアの文化は、最初はギリシアの影響が強かったが、 次第に土着的な伝統が強まっていく コインにはギリシア語ではなくパルティア語の銘文が現れるようになった メソポタミアでは、ギリシア風の宮殿建築は一方にイーワン(屋根と柱のあるテラス) をともなう大建築に変わる ホスロー1世はシリアや小アジアに侵入して、アレッポやアンティオキアその他 多くの都市を攻略し、おびただしい金銀珠玉をぶんどり、多数の敵を虐殺し、 シリアからは大理石を大量に持ち帰った そしてクテシフォンの近くに、ルーミーヤ(ギリシアの町)という色とりどりの 石造の市街を建設した HHMODEL x HAOYUTOYS 1/6 Imperial Legion-Persian Cavalry (Man and Horse Set) https://www.youtube.com/watch?v=HkwG7N3SNG4 クセノフォンのアナバシスかなり面白かったわ アルタクセルクセスの時代だが、大王と言っても直接的支配圏ってそんなに広いもんじゃなかったみたいだな ギリシャ人舞台が北の山間の方に逃れたら追撃終わって後は原住民との戦いばかり ホスロー2世がバフラム・チュービーンを一騎打ちでボコった ってのはやっぱ話盛ってるの? ミタンニの支配階級である戦士は自分たちをマリアンヌ(勇士)[注釈 1]と呼んだ。 マリアンヌwww >>860 首都に近いところでもペルシア王に服さない部族とかがいるよね。 約3,000年前以前のイラン高原の住民は ペルシャ人・クルド人とトルコ系を取り除いた集団 どんなイメージだろうか? 黒羊朝、白羊朝というのがいまいちよくわからんのだが >>869 インド南部のドラヴィダ系は違うのかなあ ドラヴィダ系がパミール高原を越えて イラン高原に分布したと言う情報はまだない シュメールの一本眉人種はイランにも混じってるよね タジク人タイプ >>869 エラム人が先住してただろ 実際ペルシャ帝国も最初はエラム語を公用語にしてたし >>873 ただイラン高原先住のエラム語はドラビダ語との関係が指摘されてる ドラヴィダ人は基本的に以下の混血 ①狩猟採集民(オーストラロイド) ②イラン高原から農業をもたらした集団(9000年前頃にインドに進入か) ③①と②が混血して原ドラヴィダ人を形成 ④③にアーリア人やモンゴロイドが広汎に混血して現ドラヴィダ人を形成 ドラヴィダ語は②の言語ではないかという説がある そうすると言語のルーツはイラン高原ということになり 上記の指摘にあるようにエラム語との関係も頷ける アンダマンも絶対入ってるだろ ネグリトが入ってないわけない 小さいし アンダマンはデニソワはいってないから違う 南ルートで氷河期以前にすでに来てたサピエンス アケメネス朝ペルシャ ダレイオス1世は大帝国を統治する官僚組織、軍事組織を整えた。 また、地方行政を整え、貨幣を統一し、王の道を整え情報ルートを整備し、共通語を自分たちのペルシャ語ではなく帝国内で一番多く使われていたアラム語とし、大帝国を統治する技術を整えた。 この世界帝国を目指してギリシャ人が流入し、ペルシャ文化とギリシャ文化が融合しヘレニズムが始まった。 アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王は、ダレイオスの帝国のインフラを使って乗っ取っただけで、大帝国をゼロから作り上げたわけではない。 そう考えると統治者としての格はダレイオスが上に見える 「ある種の接辞が動詞を名詞化する役目を果たしたこと,そして今もなおそのような役目を果たすことは,オーストロネシア語族の多くの言語に共通の特徴である」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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