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>>511
ようは知らんけどなんとなくわかる
涅槃てのは要するに精神的な成熟ってこったろ 成仏をしたければで考えると、
禅の場合はとにかく自力で何とかしろに対して、
念仏は今生の生では無理だから、生まれ変わりを期待するのだなで
押し通すのだからなww
山登り理論で行けば確かにそれもありだなと笑うけど。 成仏はアイデンティティの変容だからな。
自分は、人間だとか、男だとか、女だとか、日本人だとか思ってるうちは程遠い。一歩も前進してない。 >>513
少なくとも浄土教(融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・時宗)では教義上「死後の世界」を認めなければ宗の教えが根底から覆るはずなんだがね。
にも拘わらず浄土真宗では原始仏典を持ち出して「来世は無い!」などと説く坊さんが結構いたりする。
むしろ「諸行無常は単なる方便で,仏の世界は永遠」と説く法華経を重視する日蓮系の仏教のほうが,素直に来世を認めていたりする。
法華経を重視する融通念仏宗は勿論,その他の浄土教でも「法華経は正規の仏説」が公式見解なわけで「法華経にあるとおり,仏の世界は永遠」と認めたほうが分かり易い教えになると思う。 戦後の浄土真宗は、「東西ともに左側通行」と言われていますから。
意識高い系の左派インテリが多いので、来世を堂々と信じられないのではありませんか。
色々な葬儀に出席した中で見ると、説教の仏典からの引用率がダントツで低いように思われます。
原始仏典からも来世(輪廻)が無いとは言えないと思うのですが、研究者でも自分が来世を信じていない
というので自分の考えに引き付けて無理のある来世否定をしている人がいます。 >>516
そういう連中は,我々が何のために葬儀や法事を行うか全く理解していないのではありませんかね。
「故人には今もどこかに存在していてほしい。我々を見守ってくれていてほしい」という願いがあるからで,もしも「死んだらそれまで」というなら仏式の葬儀など全く不要。
直葬するだけで話は終わりなんですが。
俗に「葬式仏教」と言うけれど,家族や友人を失って悲嘆に暮れている人々の心を慰め癒すことが出来ているのなら,それは立派な宗教で,何も恥じることなど無いわけです。
当の仏僧がそれを自らぶち壊しているのでは,仏式の葬儀がどんどん廃れていくのも当然でしょう。
ここで仏教が目覚めなければ「故人は神になって子孫を見守る」と明言する出雲系の神道や,死者の復活を説くキリスト教による葬儀ばかりになっていくかもしれませんよ。 >>517
いや、というか、浄土真宗はその点を捉えるなら、「実質的には直葬」でしょ?
人は死とともに一発往生して極楽浄土に逝ってしまう。だから中陰という概念がない。
この考えを基に、極楽浄土なるものに不可知論を持ち込めば、一種の無神論のようになる。
「俺らの手が届かない世界に逝った。語ることはできないし、語る必要もない。故人が幸せなことは確実だから安心しろ」
説法はこれだけになる。
浄土真宗は本質的に恐ろしくラディカルな宗派ですよ。あまりにアバンギャルドだから、
庶民の側で反動として、仏壇を巨大化したり、過去帳を崇拝の対象にしたりするけどw 浄土真宗は、他宗派で一般化してる般若経を否定してるんだよな。
浄土心経なんてのがあれば入りやすいのだが・・・ >>518
親鸞や後継者たちの説いた浄土真宗の教義に忠実なら,そんな感じかもしれない。
「浄土に往生した人のことは語り得ない・語る必要が無い」というのは真宗の教義と違うと思うが。
ところが現代の真宗僧(全員とは言わないが)はそうは言いたがらない。
清沢満之などの「浄土=無限の世界」という近代教学に難癖をつけて,唯物論そのものの話を散々聞かされた挙句「我らが拝むから阿弥陀仏がある」みたいに得々と言われたのでは「浄土なんて妄想だから」とケチつけられたのと何も変わらない。
「死は終わりではない」と明言しているのは,むしろ真宗大谷派と袂を分かった大谷暢順師(本願寺維持財団の門跡)のほうだったりする。 >>519
浄土真宗が般若心経を読まないのは真言(羯諦羯諦、波羅羯諦・・・)を含む経典を「必要としない」(と考えている)からであって,別に「あれはインチキ」などとは言っていないよ。
因みに法然の興した浄土宗や,一遍の興した時宗では,般若心経をちゃんと唱える。 浄土真宗に僧侶はないな
ただの儀式請負人兼寺の管理人 >>519
浄土系の「般若心経」に相当するのは、あの
「我、超世ノ願ヲ立ツ、必ス無上道二至ラン。斯ノ願、満足セスンハ誓テ…」
というあれなんじゃないの?
浄土真宗はこれも読まなかったかな?
浄土真宗は悪くないと思うが、勢至菩薩をディスるのだけはいただけない。
社会運動に不熱心なのも、勢至菩薩をディスるからだという指摘もある。 阿弥陀経が常用経典だから他のを読んでる暇あるならこれを詠んだほうが功徳あるんだわ まあ今の仏教を量子力学で例えると、
般若心経を唱える禅寺系は量子力学を真面目に5ちゃんねるの
科学板で語っているようなものだ。
スレ民いわく、言っていることは正しいかもしれないが、
何を言っているのかさっぱりわからんww
それに対して、念仏系は
般若心経なんて、言っていることは正しいのかもしれないが
さっぱりわからん。
それよりもパラレルワールドやタイムトラベルの世界に
入ってヒーローになろう、楽しんでしまおうと言っている
感覚だな。
時宗に至っては、バックツゥーザフューチャーみたいな
映画をリアルとして楽しめば良いと言っている感じでww 往生して極楽浄土に行って浄土で修行すると
その往生して修行する主体はなんなの?
浄土真宗でさえもアートマンは説かない無我説に立っているのだろうし、あるいは万が一アートマンだったとしてアートマンは清浄だから修行の必要などないよね
となると阿頼耶識とかその辺?あるいは仏性?
(仏性が往生すると聞いたことはないが) エネルギー保存の法則は常に成り立つが、質量保存の法則はそうではない。 >>526
あっさりと「往生する主体は魂だ」と答える宗派もある。
無我というのは「常住不変のものは無い」という意味しか無く,縁起(物と物との相互関係)によって常住不変ではないが肉体が存在するのと同様,縁起によって魂も存在すると考えれば矛盾は無い。
それでは幾らなんでも粗雑な議論過ぎると感じたのか「往生する主体は仏性だ」と,法華経を根拠に説く人も居る。
いずれにせよ「往生の主体は無い」というのは,むしろ仏教の教えの中では非常に少数派の考え方のようだよ。それは釈迦が否定した「断見(死んだら何も無くなるという考え方)」と同じだ。 「因果応報なるが故に来世なきに非ず、無我なるが故に常有に非ず」(阿含経)
輪廻の主体は魂とか阿頼耶識とか個我(ジーヴァ)とか真我(アートマン)ではなく単に業(カルマ)と説くのが本来の仏教
法華経だと輪廻するのは過去世に久遠仏から法華経を説かれた時に具わった仏種(仏から頂いた仏性)となる >>530
業というのは意思に近いものなのだよね。
少なくともある人間が生きている間に意思を有し,その意思を持つ主体が継続することは仏教も認めている。
そうでなければ「この前波羅夷罪(僧侶としての資格剥奪になる罪。殺人など)を犯した『私』と今ここに居る『私』は全く無関係な存在です」という言い逃れが許されてしまう(無論,実際には許されない)。
ならば「肉体が死んだ後も業は残る」と仏教の立場から考えることは十分に可能。
仮に「死ねば何も無い」というのなら,この世の苦から逃れるためには自殺すれば良いという安易な結論になりかねない。 坐してから、尊師は、鍛冶工の子チュンダに言われた。
「チュンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の嚙む食物・柔かい食物を修行僧らにあげてください」 と。
「かしこまりました」と、鍛冶工の子チュンダは尊師に答えて、用意したきのこ料理を尊師にさし上げ、用意した他の嚙む食物・柔かい食物を修行僧らにさし上げ た。
そこで尊師は、鍛冶工の子チュンダに告げられた。
「チュンダよ。残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。神々・悪魔・梵天・修行者・バラモンの間でも、また神々・人間を含む生きものの間でも、世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」 と。
「かしこまりました」と、 鍛冶工の子チュンダは尊師に答えて、 残ったきのこ料理を穴に埋めて、尊師に近づいた。
近づいて尊師に敬礼し、一方に坐した。
チュンダが一方に坐したときに、尊師は〈法に関する講話〉によってかれを教え、諭し、励まし、喜ばせて、座から起って、出て行かれた。
さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、激しい病いが起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた。
尊師は実に正しく念い、よく気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。
さて尊師は若き人アーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーに赴こう」と。
「かしこまりました」 と、若き人アーナンダは答え た。
パーリ涅槃経からだけど、この時は尊師が「世の中で、修行完成者(如来)のほかには、それを食して完全に消化し得る人を、見出しません」と嘘をついてまで毒キノコを食べたのはなぜ?
悪魔との約束を果たすため?
あと尊師は【激しい病いが起り、赤い血が迸り出る、死に至らんとする激しい苦痛が生じた】のに周りの誰もが気づかなかったの?
【その苦痛を耐え忍んでいた】のを見ていたのは誰?
「クシナーラーに赴こう」「かしこまりました」・・・この時アーナンダは尊師の体に異変が起きていたのに気がつかなかったの? 自力・他力というのは、支那の浄土教が、北伝仏教中の他諸派と浄土教とを区別するために
生んだ言葉ですが、
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E3%83%BB%E4%BB%96%E5%8A%9B-80954
私見では、マクロ的な見方をすれば、北伝仏教は全て他力・・「すべてのものを救済しようとする
仏(=人間主義者)の願いである本願(=人間主義の普及)の力」(上掲)・・、南伝仏教は全て
自力・・「悟りをひらいて仏になるため自己が修めていく修行の力」(上掲)・・、である、と言っても
良いと思うのです。
その上で、結論的に申し上げれば、自力で人間主義者になるのは、釈迦のような天才でない
限り、まず不可能であると思われるのです。それが、私の憶測などではないことは、歴史が
証明しているのではないでしょうか。
自力の道を採用した南伝諸国における、仏教のヒンドゥー教との混淆とその結果としての(?)、
タイにおける仏教のおぞましいまでの堕落、カンボディアでの仏僧として教育を受けたポルポト
による大虐殺、セイロンにおけるラフーラら仏僧達が事実上もたらした長期にわたる大惨劇、
ミャンマーで仏僧達によって現在進行中の民族浄化を想起してください。
自力の道は、大部分の人を狂わせてしまう魔の道である、とさえ言えそうではありませんか。 それとは対照的に他力の道は、取り分けそれを政治権力者が推進した場合、
成功する場合が相当あると言えそうです。アショーカ王は多分その最初の例であり、
彼が仏教徒になってからの施政は、
「彼の摩崖碑文などで・・・繰り返し伝えられるのは不殺生(人間に限らない)と正しい
人間関係であり、父母に従順であること、礼儀正しくあること、バラモンやシャモンを尊敬し
布施を怠らないこと、年長者を敬うこと、奴隷や貧民を正しく扱うこと、常に他者の立場を
配慮することなどが上げられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
という他力(人間主義の普及)を絵に描いたようなものであったわけです。
それは、恐らく成功したに違いありません。しかし、その結果は、彼が受け継いだマウリア
王朝の瓦解という悲劇であったことを我々は知っています。人間主義者達だけでは、
内外の非人間主義者達に付け入られて、その社会は瓦解してしまうということなのです。
そして、日本だけが、この難問を生来的に解決した社会であり続けてきたわけですが、
この日本社会を研究し尽くした中共において、この日本社会をそっくり継受しようという
壮大な実験が行われるに至っています。
これらの仏教史及び、その延長とも言うべき人間主義史を振り返って、そこから学ぼうと
しない欧米の瞑想オタク達の極楽とんぼぶりは、絶望的であると言うべきでしょうね。 目が滑る
あまりお詳しくはないのに一生懸命に考えたのですね >>533-544
諸法無我
自他不二
なるぞ
自力も他力もないのじゃ 外教の師匠に100人殺せば修行が完成するだろうと言われて99人殺したアングリマーラ
親鸞に1000人殺せば極楽往生間違いないと言われて私の器では1000人どころか1人も殺せませんと清く断った唯円房 >>535
「目が滑る 」なんて使い方知らん。
どういう意味?
どこで使うの? >>392
釈迦は悟って解脱して不死の門は開かれたと言ってたんだから死に対しての恐怖はなく生き続けたいという望みもないものだと思ってたが
意外と生きることへの執着はあったんだな >>539
disってるわけじゃなくて親近感わいたって感じでも、そういう主張すると「まさにうそも方便とはこのことであり本来解脱とは云々」ってのがよって来るぞw
釈迦も委曲を尽くせなかったのになんでおまえがわかったようなこと言うの?って話なんだが >>392
>「修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう」とほのめかしたではないか。
もし望むならというのは、自分でもっとこの世にとどまりたいと望むことなのか、誰かからもっとこの世にながくとどまってくださいと望まれることなのか、どちらなの?
そのあとに
>そのとき、お前はその意味が洞察できなくて、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しなかったではないか。
>もしお前が懇請していたなら、二度目までは退けたかもしれないが、三度懇請されたなら承認したであろう。
こういってはアーナンダの罪と過失を責めているから後者(誰かからもっとこの世に長くとどまってくださいと望まれる)ぽっいけど、
でも分かりにくい。 >>544
>もし望むならというのは、自分でもっとこの世にとどまりたいと望むことなのか、誰かからもっとこの世にながくとどまってくださいと望まれることなのか、どちらなの?
如来に不可能はないから生き続けることは可能だと言ってるだけ。可能だが自らそれを望むことはない。
夏目漱石が英語の授業中に可能性についてこういう説明をしている。
「吾輩がここで逆立ちをすることは可能(possible)である。しかし、そんなことをするはずもない(not probable)」 以前>>392を読んでアーナンダの所為にしてひどいお釈迦様だなと思ったけど>>546に思い至った結果
お釈迦様が死んで「なぜ不可能はないはずの如来が死んだのか」問題に直面した坊さんたちが
アーナンダに責任を押し付けて「アーナンダが請願しなかったから如来が死んだ」という話を作ったなと感じたな。 アーナンダもアーナンダで修行完成者にあれだけ「お前の罪だ過失だ」とその失態を咎められたのに「ごめんなさい師匠」してないんだよね 普通に考えて、んなわけねーじゃんとしか思えないでしょ むしろ忖度で社会が回ってくのが是、ってのが仏教としか解釈できんね |lililililililililili/ .ヽlili| /:::::::,ヽ#"ヽ` "゛/ :::::|
ililililil ilili〆 /⌒ lili/ /::::::/ .,,=≡, ,,≡=, l::::::|
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反 知 性 主 義 者 現在では真宗の家でも神棚を祠っていられる家がかなりあるようです。
これは、一つには神国日本という明治以後の国家の方針によるものでしょうし、もう一つには真宗門徒の信心があいまいになってきた証拠といえましょう。
「祈(いの)れば神、拝(おが)めば仏」と教えられています。祈る心は何かを要求する欲望の心であり、拝む心は報恩感謝の念であります。
神に祈る心は、いわゆる「家内安全、商売繁盛、無病息災」であり、幸わせになりたいと願う心でしょうが、これは個人的なものであり、自分さえよければというエゴイズムの表われに過ぎません。
このような勝手なエゴイズムの要求を満して下さる神様があるでしょうか。神様を祠り、神に祈る心は、つきつめれば気安めに過ぎないのでしょう。
今、ここに、現にスバラシイ生命が与えられ、日々を生きている。その事実に目覚めよと教えるのが浄土真宗です。
浄土はあらゆる生命の故郷であります。この世にある間は、二度とない大切な人生を共に生き合い、肉体の生命が尽きれば生命の故郷へ帰るのです。
このスバラシイ生命の世界、浄土に目覚めて生きる時、ああして下さい、こうして下さいと注文することの身勝手さが知らされ、
神に祈る必要のない、尊厳なる生命の事実をあるがままえられて生かされながら、神に頼り注文の心に生きることは、
浄土を見失い、浄土に背くことになります。
長年祠ってきた神棚を取りはずすことに恐れを感ずるならば、その恐れの心はどこから来ているのかを問い、明らかにして、
スッキリとした健康的な精神生活を送っていただきたいものです。
http://www.icho.gr.jp/yomu/faq/q_a_032 他宗教排斥とか真宗大谷派やばいな
創価学会と同レベルじゃん 今の真宗大谷派は共産党に乗っ取られてしまったというから唯物論で原則宗教否定なのかもしれないな
大谷派は自宗を宗教ではなく哲学とか倫理学とか思ってるかもね 真宗の神祇不拝は昔からだろ
昔は角の立たない言い方してただけで 昔は誰の彼も神仏拝んでたけど、今の時代にうるさく神だけ拝むないったら、阿弥陀も拝む必要ねーじゃんとブーメランくるからな >>555
親鸞自身は何度も神社に参拝してるのにね 人は欲望からなるものと言われる。
人の欲望に応じ,人の意欲はつくられる。
意欲に応じ,行為はなされる。
行為に応じ,その人が定まるのである。
これについてこの詩句がある。
「人の表徴である思いがつなぎとめられているところ,そこ(天界)へ,行為の結果とともに,欲望 ある人は行く。」
「人がこの世でなしたあらゆる行為,その行為の 結果が尽きたとき,その人はあの世から再びこの世 へと,行為を積むために帰ってくる。」
これが欲望を持つ人のばあいである。
他方,欲望 がなく,欲望を離れ,欲望を満たし,自己を愛する, 欲望を持っていない人の場合は,
…… この詩句が ある。
「心臓に存在するもろもろの欲望のすべてから開放されるとき,死すべき者は,不死となる。この世 でブラフマンに到達する。]
(『ブリハッドアーラニ ヤカ・ウパニシャッド』の第4章4節5〜7)
http://www.classics.jp/RCS/NL05/NL05Naka.pdf#search=%27%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3+%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6+pdf%27
この辺で仏教の土台ができてきてるね >>554
>大谷派は自宗を宗教ではなく哲学とか倫理学とか思ってるかもね
そもそもお釈迦様でも、新しい宗教を作ったとの意識は
なかったのでないの?
お釈迦様を宗教家認定したら、お釈迦様は自分は哲学者だと
言い返していたかもしれない。 (古代)インドという文化の中で、「法(ダルマ)」、「理法、世界の理(ことわり)」
などを思惟することは、人生そのもの、生きる意味であり、
他のあらゆるものよりも遥かに高い、唯一最上の価値(アルタ)なのだから、
哲学という呼称もまた、矮小に過ぎるのではないかな・・。
※その意味で、一般的謂いを踏襲して、
仏法を正しく歩む、生れに依らない修行者を(真の)バラモンと位置付けるかの如き教説があったりするくらいだから、
寧ろ「真のバラモン(≒梵行を完成させたもの)」とは自称しそう。 神秘と思想が不分離の時代で宗教だの哲学だの分けても仕方ない >>562
お釈迦様の時代は科学とも分離していなかったのではないかね。
お釈迦様は科学者気取りで解説していたのかもしれない。 インドの数学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E6%95%B0%E5%AD%A6
紀元前400年から200年頃にかけてはジャイナ教の学者たちが数論などの抽象的な数学を進めた。
膨大な数を扱っていたジャイナ教徒は無限を5種類に分類し、集合論や超限数の概念や対数に関心を示した。
また、宇宙構造についての哲学から等差数列、組合せ数学などを研究した。
今を生きる古代宗教ジャイナ教
http://d.hatena.ne.jp/Hyperion64+universe/20140609
面白いのが渡辺研二氏による仏教との対比である。
仏教はその後興隆して思想的内容がどんどん新規なものが追加になる(富永仲基の加上である)が、
ジャイナ教はほとんど思想的内容は変化しなかった。その替り、インド亜大陸で残存勢力として継続している。
この欄で取り上げるのにはひとつ理由がある。教義の本質部分に「数学」がハマっていることだ。
ゴンタによれば、
数を甚だ愛好し、計算は幾何学的図形を用いて論証した点を特徴としている。
自らを思惟できる七線分の説の創始者と呼んでいる。
ある数の空間に一定数の原理を配分して、その最大数と最小数を求めたりしている
七線分の説とは七つの真実(タットヴァ)のことであろう。
しかも、その世界観に「原子説」が含まれる。霊魂と物質による二元論。
その物質とは原子からなるとしている。つまり、原子説は宗教と相容れないわけじゃないということだ。
こんな宗教家は少ない。ほとんど皆無であろうから、もう少し注目されてもいいのだ。
少なくとも現代の数学者の宗教選択として、ジャイナ教は候補にしてもいいんじゃないだろうか?
後世に同名の数学者マハーヴィーラを輩出しているのも頷ける。彼は専門の数学者(おそらく史上初)であった。
『ガニタ・サーラ・サングラハ』はジャイナ数学の最高峰とされる。その宗教数学はピュタゴラス学派と対照されてもよいだろう。 ジャイナ教は仏教と違い最初から新たな解釈を加える余地すらないほど教義が完成されてたんだな ヴァルダマーナって全裸だった以外は立派な人なのに六師外道の一人にされて可哀想 ジャイナ教も経典派やら無経典派や全裸派と白衣派で教義違ってんじゃん ジャイナ教の分裂
http://www.kamit.jp/03_jaina/4_south/south.htm
ジャイナ教の開祖はマハーヴィーラであるが、仏教における「過去仏」と同じように、
それ以前に23人もの<ティールタンカラ>(ジナ、祖師)がいて、
マハーヴィーラは第24代の、そして最後のティールタンカラであるとされている。
初代のアーディナータから第22代までは全くの伝説上の存在であるが、
第23代のパールシュヴァナータは歴史上実在したことが確認されている。
それはマハーヴィーラよりも250年ほども前のことと推定されているから、
ジャイナ教の歴史は仏教よりもずいぶんと古いことになる。
ではなぜマハーヴィーラが開祖とされるかというと、彼はパールシュヴァナータの教えを改革し、宗教として完成させたからである。
王族であるマハーヴィーラの両親はパールシュヴァナータの崇拝者であったというから、
すでに「パールシュヴァ教」というべき宗教が存在したのであろう。
マハーヴィーラの死後数百年たって、ジャイナ教誕生の地である北インドのビハール地方は12年間に及ぶ大飢饉に襲われたと伝える。
生存をおびやかされたジャイナ教徒たちは聖賢バドラバーフに率いられて、現在の南インドのカルナータカ州に落ちのびた。
これらは伝説であるので、どこまでが真実であるかは定かでないが、
それでも西暦紀元ごろに南インドにジャイナ教が到来していたのは確かなようである。
そしてまた、この頃までにジャイナ教は<ディガンバラ>(空衣派、くうえは)と
<シュウェターンバラ>(白衣派、びゃくえは)とに分裂していたらしい。
伝説によれば、バドラバーフが北インドに戻った時、
北インドにとどまっていたジャイナたちは白衣を着するようになっていて堕落の兆候を見せていたために、
これと袂を分かち、裸行の厳格派たる空衣派を南インドに確立したのだという。
しかしそこには北インドと南インドの気候の差も反映していたかもしれない。北インドの冬は裸で生活するためにはいささか寒い。
そして空衣派と白衣派との間に、教義上の差はほとんどないからである。 結局ジャイナ教は金貸しをやるしかなくなったのだけど、
インドの社会では金貸しは嫌われなかったのかなぁ?
仏教のほうも教義の確立には金貸しの実務家がかかわった形跡があるけど、
マジで金貸しは蔑まれなかったのかなぁ? ジャイナ教徒は不妄語戒を固く守って正直だから商売人や金融業として信頼されるのだろう。
特にインドは値段とかあってないようなものだから安心して取引できるところが長く商売やって最終的には勝ち組になるのかもね。
仏典で仏陀がジャイナ教のマハーヴィーラ(ニガンタ )の弟子のウパーリを問答で打ち負かして
最後は降参させて仏陀に帰依させるのがあるんだけも仏陀のロジックは稚拙で簡単に論破できるのにと思った記憶があるな。
それとミリンダ王の問いが内容が稚拙だと思った二大仏教経典。 悪いと知ってて罪を犯すのと知らずに罪を犯すのとどっちが罪深いですか?
火(だったか湯だったか忘れたけど)が熱いと知って触ればひどい火傷は避けられます。
知っててやる方が軽症です。
納得いかん。 >北インドの冬は裸で生活するためには いささか寒い。そして空衣派と白衣派との間に、教義上の差は ほとんどないからである。
空衣派は女性の出家者を認めないのに対して、白衣派は認める。
これは女性の解脱を認めるものと認めないのと等しいわけで、これはわりと大きな教義の差だと思うが >>571
悪いことを悪いと認識してるかどうかの話じゃないの
悪いと認識せずに行うものはそれを改めようとも思わない ニガンタの論だと身の鞭(業)が一番罪深いのだが罪を犯している時点で身の鞭についてはイコール、
次に情状酌量の余地として罪と知ってるか知ってないかが来てそこで意の鞭となるのだろう。
何にもおかしくないのに仏陀はこれで身の業よりも意の業の方が罪が重いということにしてウパーリをやりこめたんだどどうしてそうなるのか?
それで納得するウパーリもおかしい。
身の鞭で等しければ意の鞭で判断するのです、と言えば良かっただけの話。
最後は神通力は意の業だが神通力を使って人を殺したら身の業はなにもしてないのに意の業だけで罪を犯していませんか、と仏陀が言う。
それでウパーリもまた納得してしまう。
神通力というのは使おうと思ったら意の業だが実際に思っただけで使わなかった場合のみ意の業のままですみ、神通力を使ったらそれは身の業と言ってもいいのではないか?
しかしウパーリは仏陀の智慧に感銘して在家信者となりニガンタはそれを聞いてショックで血を吐いてしまうのだから仏教側に都合よく出来過ぎだわ。
これはパーリ中部の経典だけど創作経典だと思う。 >>571
悪いと認識出来ないんだったら、しょうがないんじゃないのかな。
その火傷のケースはすぐに結果が出るから、判然としやすいけど、
数十年先に結果が出る、判然としない事は、罪に問う事もない。
少子高齢化への無策などが、将来的に社会に悪影響をもたらすものであっても、
はっきりしないが故に、自責し、反省する事もなければ、罪と認知して、罪に問う事もない。 >>575
>悪いと認識出来ないんだったら、しょうがないんじゃないのかな。
普通はそう思うでしょ?でもミリンダ王の問いは逆なんだ。
認識してやるのは罪が軽くて知らずにやるのは罪が深い。 人を殺した↓
1「人と殺してしまった・・・・・」(悪いことしたと分かっている)
2「はぁ?殺して何がわりーんだよ」(俺は悪くない)
「罪」というとわけわからんが、2の方がサイコで危険人物感すごいだろ >>577
そのケースは特殊だが、復元力はあるな。
(権力者がサイコの場合を除く。)
2「はぁ?殺して何がわりーんだよ」(俺は悪くない)
↓
社会問題化する。
↓
社会の秩序を守るために、サイコ以外のマジョリティが新しい規範を要求する。
↓
サイコを殺しても罪に問わない、またはプリクライムが行われる。
(前近代の私的制裁を許す社会か今のアメリカになるな。)
↓
2は消滅して、1だけが残る。
(罪を認識できずに犯すのは、知能の程度が低いものだけに。) 刑法第39条
心神喪失者の行為は、罰しない。
心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。
https://ja.m.wikibooks.org/wiki/%E5%88%91%E6%B3%95%E7%AC%AC39%E6%9D%A1
今でも精神障害者の悪行為は障害の度合いに応じて罪に問われないか減刑される罠 >>571
しつけのためと称してお湯を1歳児にかけるのは正しいこと、法的にも正しいと
信じていてそれを行うのを確信犯という。
それは虐待で犯罪行為になると知りながらやるのは、普通の犯罪。 「知っていて」というのは、それが「悪行」だと知っていて、ということか・・。
たとえば、エホバの輸血拒否。
確かに、命にかかわる悪行かもしれん。
けれども、 ≪当人たちにとっては≫、 輸血をすることこそ、避けるべき・忌むべき悪行なわけで・・・。 ミリンダ王の問いのは過去世の世尊(仏陀)が美王女を見るや否や、心乱れ、錯乱し、愛染しました。
常軌を逸し、動乱した心をもって動物何百頭を殺戮して血を飲む大ソーマ供犠祭を開いてしまう。
この過去世の世尊の乱行は乱れた心でやってしまったもので大罪ではないというもの。
https://gamp.ameblo.jp/nibbaana/entry-10677245206.html >>572
>これは女性の解脱を認めるものと認めないのと等しい
仏教でも摩訶波闍波提までは女性の出家が認められてなかったのは「男女混合での修行に対応してなかった」というだけの理由だぞ。
釈尊は初めから女性の悟る能力を認めてる。 >>579
意の業ってのが分からんけど、日本の裁判だと1は反省してるので検察の求刑より下、2は無反省なので検察の言う通りってのがよくあるよな >>584
>釈尊は初めから女性の悟る能力を認めてる。
すると法華経の竜王の娘が悟るために一旦男になる必要があるというのはいつ頃からそうなったの? >>579
人の身口意は37兆個の細胞の行動によって形作られるから、三業の軽重はどれも同じ。 日本の仏教は江戸時代まで神仏習合の独自形態だった。
もし明治の神仏分離をやらなかったら、上座部・大乗・ラマ教の
3大仏教と並んで4大仏教と呼ばれていたのだろうか。 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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258 極楽浄土っていうのは六道輪廻の天界とはまた違うんだったよな? だよね
ちなみに天界の住民は極楽浄土や他の仏国土に転生して行けないの? >>593
天界の住人も修行して輪廻を解脱すれば仏国土に行ける >>589
明治政府の神仏分離は根本的に間違い。
上座部仏教の仏子には必ず、守護神・帝釈天がついているからね。
その守護神は三社式の神社で祀っている。
ちなみに大乗仏教を呼ばれる道教やジャイナ教にも神がついている。
道教は二社式の神社。ジャイナ教は八幡宮。ジナ教は大社で祀るもの。 尊師はアーナンダに「如来は望むのなら寿命を超えて生き長らえることができる」とほめのかしたのに、
アーナンダはその心が悪魔に取り憑かれていたので洞察することができなくて「尊師は寿命のある限りこの世に留まってください」と懇願することができなかった。
そこで悪魔はこの機を逃さじと尊師のもとに駆け寄り、「尊師の弟子たちも今は立派になりました。今こそ涅槃に入ってください。今こそ尊師がお亡くなりになるときです」と何度も懇願したのだが、
尊師はそれを受け入れ今から三ヶ月ののちに涅槃に入るであろうと悪魔に対して言う。
もしアーナンダの心が悪魔に取り憑かれてなかったらゴータマはもっと長生きしていたであろう。
またアーナンダは阿羅漢まで達してなく未熟だったので心が悪魔に取り憑かれてしまうようなことになったのである。
尊師はそんなアーナンダを心配して、あのとき洞察することができなかったのはお前の罪ですよ、過失ですよ、と諭してやって早く一人前になるよう促してやったわけである。 しかし仏教は習合大好きだなww
あのイスラム教ですら習合して、輪廻転生を認めるイスラム教の一派
すらあるのだからな。
そのてんキリスト教は、仏教とは習合しなかったな。
昔はグノーシス派だの、カタリ派だの、マニ教だのと明らかに仏教と習合した
のがあったのだけどな。 >>599
地理的に広がっていくと習合は避けられない
メキシコの黒いマリア様は有名 ・・・中国メディアの捜狐・・・記事は、明治政府が太政官布告(だいじょうかんふこく)を発令し、
肉食妻帯などが許可され日本の仏教は大きく変わったと紹介した。
この背景について記事は、多くの宗派に分かれた日本の仏教が、乱世で生き残るため
それぞれ条件を緩くしたほか、殺生に関しても、内乱の時代に僧にも武装をさせたことから
許されるようになったと説明。状況ゆえに仕方がなかったということなのだろう。
記事は、日本の仏教は俗世により近いと分析、「野心と利益のために俗世の争いに巻き込まれ」
今の形になったと結論付けた。
http://news.searchina.net/id/1664529?page=1
いや、日本じゃ最初から、仏教の戒律じゃなく、精神(核心)に注目する傾向があったんだよ。 戒律こそ仏教の核心だったんだけど日本人にはそれが理解できなかった
大パリ・ニッバーナ経ブッダ最後の言葉
「また、生き方の規範となる戒律もすでに定められている。
真理と戒律。
この2つをそなたたちの師と考え、修行を続けていきなさい」
「よいか修行僧たちよ。今こそ、そなたたちに最後の教えを告げよう。
あらゆる存在は過ぎ去っていく。怠ることなく修行に励みなさい」
修行に励め=戒律を守ることは同意義だったんだが、日本人にはその真理を掴むことができなかった 仏教は掲示宗教ではなく釈迦は絶対神の託宣を受けたわけではない
釈迦は釈迦なりのアプローチで真理に至って当時の時代環境に即した方法論を説いたに過ぎない
大事なのは月であって月を指す指では無いって事 >>606
それは戒律が核心じゃないってことにはならないよね 戒律が自体が重要ではないというのは理屈ではあるんだが無限に堕落する一歩でもあると思う
逆に原理主義になっても困るけど 真理とか核心ってのを固定した時点で、ブッダのアドバイス集が教典になっちゃったってのはあるな >>609
それな
キリストやムハンマドと釈迦は違うんだよ アーナンダよ 、わたしは 、ある時 、ラージャガハ (王舎城 )のギッジャクータ (霊鷲 )山に住していた 。
そこで 、アーナンダよ 、わたしはいった 。
〈アーナンダよ 、ラージャガハは楽しい 。ギッジャクータは楽しい 。
アーナンダよ 、誰でも 、四つの神足を習い修め 、いくたびも繰り返して 、それに精通し 、それに乗り 、それによって立ち 、それを積み重ねてゆくと 、
アーナンダよ 、彼がもし欲するならば 、一劫でも 、それ以上でも 、生を保つことを得るであろう 。
そして 、アーナンダよ 、如来もまた 、四つの神足を習い修め 、いくたびも繰り返して 、それに精通し 、それに乗り 、それによって立ち 、それを積み重ねてきたので 、
アーナンダよ 、もし欲するならば 、如来は 、一劫でも 、それ以上でも 、生を保つことを得るであろう 〉と 。
だが 、アーナンダよ 、如来によって 、このような広大な兆が示され 、広大な光が示されたのに 、そなたはそれを悟ることができなかった 。
だから 、如来に請うて 、 〈大徳よ 、世尊は 、一劫の生を保ちたまえ。大徳よ、善逝は 、一劫の生を保ちたまえ 。
衆生の利益のため 、衆生の幸福のため 、世間の哀愍のため 、人天の利益のため 、幸福のために 〉と申さなかった 。
アーナンダよ 、もしそなたが如来に願ったならば 、如来は 、あるいは 、二度まではそなたのことばを却けるかもしれない 。だが 、三度目には許されたであろう 。
だから 、アーナンダよ 、これ(「わたし=如来」の死)はそなたの悪作である 。これはそなたの落度である 。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています