え?この時代からあるの?という技術・発明 Part.2 [転載禁止]©2ch.net
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※前スレ
え?この時代からあるの?という技術・発明
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1420102261/
前スレ折り返し辺りからネタ切れ感あったけどとりあえず >>70
「弓を横に倒す和式弓術」というおぼろげなイメージについて、
皆の前に出せるようなソースを見つけられなかったわけね。
ご苦労さん。 >>71
いや単に妥当な資料がオンライン上にないってだけなんで
結城合戦絵詞とか塀の上から腕だけ出して垂直?何それ?おいしいの?状態で射たりしてるんだがな 塀から腕だけ出してとか、弓の実物を見たことがない人間の発想じゃね。
伸ばした腕の力だけで弓を引くなんてムリだよ。 >>76
そりゃお前の発想が狭いだけだわ
別に弓で狙撃するわけでなく、それで射殺すわけでなく、最大射程でなく
ただ近くに適当に射掛けるだけならそんなに全力で引く必要はないよ 弓の特徴の一つに「自由に曲射ができること」があるはずだが、塀の上から射掛ける必然性がよくわからないな。 最近のアニメやドラマで見た、拳銃を横に構えて撃つ中二的なポーズに影響されて、
日本のサムライも昔から弓を横に構えて射かけていたんじゃという妄想が生まれたのですね・・・
わかります。 >>78
曲射出来る道具だからと言ったって常に出来るとは限らないんだがな アニメそのものの影響じゃね?
もののけ姫のアシタカが横構えで矢を放って敵兵の首をすっ飛ばしてたアレw
蝦夷だかアイヌの人ならそれでいいと思うよ。
しかし上下非対称な和弓であれと同じ構えをするとかなり間抜けだな。
まともに矢が飛びそうにないし、わざわざ非対称に弓を作った意味が無くなる。 遮蔽物の陰からの面制圧射撃って、それこそ曲射の出番じゃないか。 んで結局>>72は、結城合戦絵詞のいったいどこを見て弓を横にして射ていると主張したいわけ?
どの場面で誰が? >>84
壁から腕出して射てるところは今の弓道とは全然違うやり方しないと射れない
他の合戦絵巻は馬首より身を乗り出して射てるものがあるが
これをやろうとすると弓と体が横向きにならないと出来なかったりして
弓道とは全く違うやり方しないといけないんだわ 昔の絵巻物の表現技法では、縦向きと横向きの見分けがつかないんじゃないかな。 >>86
実際に棒状の物持ってその姿勢取ればいいさ 弓道のことなんて何も知らないけど
絵巻物から正確な仕草なり型なりを見て取ろうというのはちょっと無理がありそう 鵜呑みにはできないだろうな
ただよく出来た絵巻物なら弓に関する当時の「通念」を読み取ることができるかもしれない >>85
>壁から腕出して射てるところ
弓を横に倒して射ていると判断できる描写は見当たらないな。
念の為にここに絵を貼って端から何人目の人物って書いてみてよ。 弓を縦に構えれば左手いっぱいから右肩まで引けるが、横構えだと
左手の付け根までしか引けず、その威力は半分でしかありませんな。 >>91
勘違いしてるようだけど弓を横にするのと弓と体の位置関係が横になるのは別だぞ? 古墳時代の出土品に靴あったよなごてごてと飾りついてる奴、弥生時代だっけ? 自分が書いてあるようにようはい付きの靴は古墳時代だぜ 単純にもちにくいので横にもつことはあんまなかったでしょうね
とりあえず弓を横にする派はソースだしなさいな
絵は解説もないしソースになってない
ソースだせないなら妄言で確定 どうでもいいけど
長弓と短弓の関係は周圏分布っぽいな 以前もどっかで尋ねた気がするけど
なんで北条氏ってコンクリートで総構え作んなかったのかな?
コンクリって、石灰、砂利、水の混合でそ。秩父で材料幾らもあるし
ローマ人も使ってるので16世紀の日本で作れないはずない。
コンクリで5m壁の総構えとか作ったら、当時の攻城術だと為す術もないんでないか 金がかかる上に小田原城の総構え最北端の土壁は
5メートルなんて余裕であるぞ
実際20万の秀吉軍も抜けなかった 日本の城は近代兵器相手でもタフだよ
会津若松城は戊辰戦争でボロボロになっても
最期まで落ちなかった
熊本城も西南戦争で天守が事前に焼失したにもかかわらず
堀、土塁が健在で落ちなかったし 天主はたぶん戦争中に燃えると面倒だから
前もって防御側が燃やしたんだろう この時代からあるのという事でいえば、西日本各地にある古代山城(朝鮮式山城)。
城壁の延長が数キロメートル以上というのがざらにある。
ところによっては、戦国期の山城よりも立派な石垣があったりもする。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/2d/Oonojou.jpg 何で朝鮮式なんだろな
朝鮮なんて李氏朝鮮まで存在しないのに >>102
朝鮮半島に多かった築城形式が日本に輸入されたからだろ常考 >>103
じゃあ百済式とかだろ
何で朝鮮式なんだか
おかしいよ >>104
ああいう山の天辺を城壁で囲むのは、
元は唐の大軍相手に戦った高句麗の戦術だろ。
それが百済や新羅との抗争で朝鮮半島全体に広がり、
日本にも波及したという流れだ。 ハイキングのつもりで福岡の大野城に登ったことがあったが、
ああいう山城は登るだけで疲れる。
そのうえ戦なんかしたくないわ。 昔の人は一日中戦っててすげえわ
特に行軍のあとすぐの戦闘とかよくやる気出るわ 行ったらわkるけど水城とつながってるから意味がある城やで 行軍すぐあとの戦争は一般的ではないやん
行軍直後の戦争は名将なら奇襲&勝利フラグだが
一般的には敗戦フラグだよね
クラウディウス・ネロの話はどうも信用できん ナポレオン戦争では普通
アウステリッツのときなんか第三軍団は110kmを48時間行軍して
即戦闘突入して勝利 あえて名将を除外したのはそういうのを想定したからやで
第一あれが世界史的に一般的かね 110kmを48時間行軍って時速3km切ってるんですが
この行軍時間と距離だと20時間5.5km行軍+28時間の休息と睡眠、食事
くらいの配分になるだろうし、行軍即勝利ってのはちょっとおかしい話 装備背負って2日で100キロはご勘弁頂きたい。
1日50キロって、歩くだけならなんとかこなせる、って距離だぞ。 >>120
そりゃ現代人の貧弱な足ならな
あと最低限の装備は手に持つが輜重くらいあんだろ
ナポレオンは輸送重視してたんだし ナポレオン戦術イケイケ強行軍
リヴォリの戦いでヴィクトール旅団を強行軍で増援させ勝利
マレンゴの戦いでドゼー旅団を強行軍で増援させ勝利
ウルムの戦いでオーストリア軍がフランス軍のスピードが速すぎて
補足しきれずに包囲されてしまい、フランス軍勝利
イエナ・アウエルシュタットの戦いでは、プロイセン軍がやっぱり
フランス軍のスピードが速すぎて補足しきれずに背後に
回り込まれて、フランス軍勝利
「最良の兵隊とは闘う兵隊よりもむしろ歩く兵隊である。」
「戦闘の翌日に備えて新鮮な部隊を取っておく将軍はほとんど常に敗れる。」
byナポレオン言行録
そんなナポレオンも最期はワーテルローに強行軍で現われた
プロイセン軍の増援により敗れるのであった >>119
強行軍は寝ないよ。飯も歩きながら食う
当然、兵は3割から5割は脱落するが、兵力が戦場に
間に合わないよりは遙かにマシと考える
徹夜行軍は現代の軍隊でも普通に訓練する
自衛隊死の行軍事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E9%9A%8A%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6
>1957年(昭和32年)2月5日夜、広島県賀茂郡八本松町(現東広島市)陸上自衛隊原村演習場にて、
「行進競技会」と呼ばれる夜間行軍演習が開始された。その演習は、80Kmの道程を、
約10Kgの完全装備で行軍するという過酷なものであった。加えて、行軍時は強い雨が降っており、
その過酷さから落伍者が相次いだ。しかし、行軍は続行され、翌2月6日、第7連隊所属の
自衛官2人が過労で倒れ死亡した。
こういう訓練をしているから東北三陸沖地震のときも迅速に展開できた
あと運が悪いと会社の新人研修でやらされるからなw これからはそういうのはロボット二等兵にやらせてほしい >>125
うん、だからこれは全然強行軍ではないという話 >>126
三等兵と思われます。
農薬
桃山時代の日本でトリカブトなどの有毒植物の混合物が使用され、明末の『天工開物』にも砒素を利用したことが見えている。
江戸時代にはやはり有毒植物であるアセビを煎じ、水で薄めて撒くことも行われたが、これは汲み取り式の便所に撒くことでも
殺虫効果が重宝されていた。 >>128
そういえばズバリ「除虫菊」という花がありますね。
私は子供の頃「女中菊」だと思っていました。番町皿屋敷の話を知っていたからですかね。 汲み取り式でウジ虫を根絶すると溜められた糞便が軟化せず詰まりやすくなる >>126
今は現代なのにサラ・コナーさんがロボット犯罪について報道したらしいww 除虫菊って古くからあるイメージだったけど、日本に入ってきたのは
明治時代だったんだね ヨモギはかなり古くから防虫に使われてたんじゃないかな。
ちなみに見た目がかなり違うが、ヨモギもキク科の植物。 農薬の歴史については、農薬工業会のホームページが面白い。
http://www.jcpa.or.jp/labo/column/control/
ギリシア・ローマ時代から燻蒸法(今で言うバルサンみたいな?)を
使っていたとか、江戸時代の日本でウンカ対策に鯨油を使っていた
というのは知らなんだった。 >>134
これ、おもしろいですね
書いた人はもっといろいろと言いたそうなww 使い方は書いてないのか?
どこかで書いたが、一応書いておくと
クジラの脂を水面に広げてから稲を揺らして落とす
ウンカは水に落ちても死なないが
脂に落ちると死ぬ
であとは脂を水と一緒に排水する グスコーブドリの伝記では、石油を沼ばたけに撒いていたな 俺はこうした故事に学んで、台所で油虫を見たら洗剤(界面活性剤)か油をかけるな 虫の体は細かい毛が水を弾くので濡れない。だから雨も水に落ちるのも平気だ。
しかし、油や界面活性剤など表面張力の低い液体には濡れるので、窒息したり動きが取れなくなったりする。 >>133
俺の母親は毎年お灸用のヨモギ綿を作ってたよ。
秋になってヨモギが堅くなると刈り取って乾燥させ、
葉を揉んで綿だけを残し、お灸綿として一斗缶で保存。 >>139
台所のアブラムシは
テカテカじゃんぷ
って感じですかね? >>142
言うこと聞かないとお灸据えるよ!と脅された口ですかね いんや、爺さんと親父がおっそろしい肩凝り症だったためとか >>144
私の世代ですと、脅しではなく実行されましたが。 うわっ、山野先生だ! お目にかかるの15年ぶりくらいですね
お元気にしてらっしゃいますか? また蘊蓄うかがわせてくさい >>148-149
一般的には149さんの仰るとおり。
但しわざと傷口を化膿させる「打膿灸」という手法もあって、これは当然、火傷の跡が残る。
元々は廱や感染創傷を早急に排膿させる手法だったらしいが、今では頑固な凝りや深刻な体調不良を治療するのに使うとか。 >>147
流石に15年前だと2ちゃんねるに出て来る前になってしまいますが、まあぼちぼちと。
>>148
特に何かしてもらった記憶はありませんが、物心ついた頃には何もありませんでしたよ。
今なら児童虐待扱いでしょうね。 >>151
悪いことすればするほどお灸据えられて健康になりませんでしたか(笑)。
私は40歳ですが、子供時分に悪さをすると、明治生まれの祖父に頭の形が変わるほど殴られたものです。
私はつい最近大学院に行って、昭和最後や平成に生まれた諸君と机を並べましたが、この話をしても信じないか、よほど悪逆な祖父だったと思われるかですね。
随分と私を可愛がってくれた祖父なのですが。 頭の形って所謂たんこぶってことかな?
なんかぞっとするはなしだぜ >>153
さすがに頭蓋骨が粉砕されるほど殴られた訳じゃ無いよな。 俺が思ったのは子供は頭蓋骨かきちんとかみ合ってないから
そういう意味で変わったのかなと 健康に、なったと思えばそうかもしれません。
>頭の形が変わるほど殴られた
(事実ではなく、普通にある言い回しだと思っていましたが、ひょっとして若い人には通じない?)
私はいよいよ口で言っても分からないという時には、親から「お前は牛や馬か」と言われました。
要するにぶたないと言われた通りに動かないのかという意味でしたが、牛馬が廃れた今ではもう通じないでしょう。
>よほど悪逆な祖父だったと思われるかですね。
普通ですよねえ。
私の祖母の思い出は、家事を手伝っていたら「男の子のすることではない」と『怒られた』ことです。
祖父も父も、配膳どころか己の飯をよそう事にすらまるで関わらずに座っている男でしたが、今時の人は非難するでしょうね。
スレタイに沿って言うと、声だけで演じる、今でいう「声優」の芸でしょうか。
石田彰さんが女子高生も含めて演じた一人芝居を披露しておいででしたが、清末の江蘇省には、声による一人芝居の名人がいたそうです。
暗闇で観衆が耳を傾ける中、男一人で若い男、老人、人妻、商売女、田舎者、家畜の声まで真似てみせ、違和感がなかったという。 今の若い人は知らない人かもしれないけど、その昔赤塚不二夫という人が居て
天才バカボンというマンガがあった。当時はマンガは、紙に印刷してあって
今あるデジタルコミックのアナログ版で子供に人気があった
で、そこにバカボンのパパと言うキャラが居たわけだけど、その人の有名な台詞に
「たりらりらんのこにゃにゃちわ」というものがあった。こにゃにゃちわは不明だけど
たぶんこんにちわ、の口語だと思う
たりらりらん、の方は中世の神楽などに見える多分古くからの囃しのことば。
バカボンのパパにはハジメ(=初め)という一人息子が居る等、色々隠喩に溢れている 落語なんかも声が似ているかどうかは別として
特に違和感はないですね 有名どころでは三代目の金馬が声色のバラエティーに富んでて面白いね たりらりらんが囃しことばに由来するのは知らなかったわ >>153-155
ピンピンしてますよ。頭の形、結局変わらなかったみたいです(笑)
>>156
私も祖父には良い思い出しかありませんね。
叱り方こそ陸軍式の鉄拳制裁でしたが、叱られた理由も「弱い者(人間に限りません)を虐めた」「人の大切にしているものを故意に壊した」といった、誰が見ても妥当なものでした。
将棋を教えてくれたり、小さい頃は一緒にお昼寝してくれたり、とても優しい祖父だったと思っています。 >>159
そもそもバカボンからして「薄伽梵」という仏教用語由来 バスローブの歴史というのがよく分からないのですが、どなたかご存じないでしょうか。
大黒屋光太夫がロシアに行った際、現地ではサウナ風呂に入ってから直接寝巻きに着替えていた
ので寝巻きが濡れていたが、光太夫が浴衣を伝えたので皆真似をして広まったという。
ひょっとして、浴衣が(バスタオルも含めて)由来かなどと考えてしまうのですが。
ルイ14世(1715年没)は即位後2回しか入浴しなかったといい、西欧で王族が湯の風呂に浸かる
のが当たり前になったのが1740年代以降。光太夫の帰国が1792年。
余談ながら、それまでロシアには鬼灯はあっても口で鳴らす遊びがなかったのを、光太夫が伝
えたということです。 フェルメールの絵画などでヤポンロックの話が出てましたね 仰る通り、室内着としての着物(一時は外出着)はかなり知られていたようですね。
ただ、水滴と汗をぬぐう用途はなかったと思ったので。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています