>>31
推古天皇の18年(610)に、高句麗から五経に通じた僧侶曇徴が渡来しており、
絵具・紙・墨・水力でつく臼の製法に通じていたとあります。
しかし、同じ天皇の10年には百済の僧侶観勒が暦・天文地理・遁甲方術の書を
献じており、国書で煬帝を怒らせたのが同15年。

『日本書紀』では、5世紀初期の応神天皇の時代に百済から複数の文人が渡来
して「経」を伝えたとされていますが、『日本書紀』には天皇の事績を伝える
散逸した百済の史書が引用されており、実在した可能性のある天皇です。

また、欽明天皇の時代と言えば仏教伝来ですが、占い等の書籍が持ち込まれた
という記述もありますし、仏教は仏像・幡蓋・経典が伝えられていました。
経典は当然紙製だったでしょうし、曇徴も製紙・製墨に優れた人物というだけ
で初伝とはされていませんから、敏達天皇の時代には紙があったと思いますよ。
ここで公伝が実際何時だったかという話になると、またややこしくなりますが。

銘文の残る鉄剣を見ても、5世紀にはすでに文章が作れたようですし、まさか金属
への銘文だけに限られたということはないでしょう。
倭王武の上奏文もあります(本文は中国に着いてから製作されたともいいますが)。