日本人の起源を考えてみる(呉起源説)(2) [無断転載禁止]©2ch.net
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日本人(日本社会)の起源は呉(中国人・中国社会)って説を聞いた事がある(流石に起源は多数だろうが)
100%ウソだと思うか?数%ぐらいなら本当(複数の起源の1つ)だと思うか?どうなんだと思う?
心酔的な皇国史観の水戸学派の連中だと血相を変えて怒りそうだが?(苦笑)
俺たちって呉(中国人)の末裔なんだろうか?それとも100%別物?
根拠1)中国大陸で呉が滅んだ時代と日本での古墳文化の始まりがほぼ同時期なのは何故?
船舶の建造・運用は呉の民のお家芸(得意技)だろ、国が滅んだなら船舶で脱出するのは自然では?
呉の民が日本列島の上層部に知識・技術で食い込む事は可能だったのでは?
根拠2)名称(呉服・呉・中国地方)
伝統的な日本人の民族衣装(和服)の名前が何故に呉服なの?(和服≒呉服)(偶然か?)
日本国内に呉って名前の都市がある→呉(クレ)のある瀬戸内地域の名称は中国地方(偶然?)
根拠3)中国人と日本人の外見が酷似しすぎている
中国人と日本人を外見で区別する事は何故か不可能・・・似てるにも程があるだろう
ドイツ系とフランス系・スペイン系は外見で容易に区別が出来る
他人の空似って事もあり得るが中国と日本に血縁関係があると推定するほうが自然では?
さてさて、如何ですかな? j──i ∫ 。
。 / \ /
〔_ ̄キムチ鍋 ̄ 〕
\___ / ぐつぐつ
;;/ ノ( \;
;/ _ノ 三ヽ、._ \;
;/ノ(( 。 )三( ゚ )∪.\;
..;< ⌒Y (__人__) ノ( ... >.; またフルボッキが捏造してるニカ〜〜??全部捏造ニダ!!どうだ論破したニダ!!
...;\u|.. |++++| イ.. /; (いつもどおり具体性ゼロ)
..;ノ ⌒⌒ \;
↑射精エベンキ >>500 平均寿命は30年とかそんなものでも生きるものは100歳でも生きたさ >>500
漢代の中国人も70歳越えわ普通に居たよ
80歳越える人わ珍しかったから表彰対象だけど >>503
で、北に行った事もないのに何で短粒種が寒さに強いとか分別できるんだよ?
行った事も無いのに、どうやって海の向こうに日本列島が在ると知ったんだよ?
で、弥生開始頃の耳付きの朝鮮無文土器は?
. >>504
稲作の民わその時点で黄河中下流域まで北上して居た
んで北部に行く程短粒種の区画が増えてる >>505
農民は田畑があるんだから基本的に移動しない。
つか、移動できないよ。
移動すれば食えなくなるんだから。
田畑は一日じゃできないしな。
かつて九州北部から青森まで稲作が伝播していったが、九州北部の
弥生人が青森まで北上したのか?
違うだろ。
人の大きな移動を伴わず、隣家から隣家へとリレー形式で稲作は伝播
していっただけ。 エベンキは朝鮮人の一部にはなったが日本には来ないことがこれで証明された
というわけで射精エベンキはまたもや論破されたのでしたwwwww
↓以下射精エベンキの無駄な発狂レスをお楽しみください ↑地球上で一番の嘘つきの江南褐色ブタ広鼻原人が祖先の台湾ブタクチビル土人
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。
日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋 >>508
おまえ、言論抹殺やってるよな。
書き込めねえじゃねえかよ。
この中華ゴキブリ! 射精エベンキついに自宅のIPを規制されネカフェから荒らすの巻www ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>513
>>468
前二千年紀に成ると多くの遺跡で栽培分けがされて居た >>512
ひどいなこれ
最初に来た連中まで台湾人にされてるのかよ 稲作を伝えたのは、始皇帝の不老不死の薬を求めた徐福
だというの読んだが さだかではない。しかし、もともとの日本人は小麦で生活
していたらしいから。紀元前200年ぐらいには日本人という民族がいたので
自分が考えるに本格的な渡来人は勘合貿易。明の時代に
来たので。日本人は 三千年前近くは単一民族だと考える。 なんでも中国騙るんだろうな
華夷秩序だったんだから昔はw 紀元前の日本には、イスラエルから古代アメリカに移住しマヤ文明などを築いていた民がアメリカから渡来して移住しました。
その後、紀元前に秦からユダヤ教徒の徐福たちが集団で西日本に渡来してました。
邪馬台国の文字は、当時の中国人が付けた文字で発音でいえば「ヤマト国」です。
「ヤ」はヘブル語の「ヤハウェ(エホバ)」の短縮形で、「ゥマット」は人民の意味があります。
したがって「ヤマト」とは「ヤハウェの民」です。
その後、紀元後の3世紀末、朝鮮半島を経由して、原始キリスト教徒集団が渡来しました。
初代天皇陛下は、原始キリスト教徒集団の長です。
釈迦はイスラエル人の預言者です。
イエス・キリストは、仏教の観音菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩であり、神道の高御産巣日神、豊受大神、天照大神です。
あなたの知らない物証と驚きの極秘情報があります。
日本人のルーツと神道、仏教の真実
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1025769358.html
天照大神の正体
http://blog.livedoor.jp/hideki4612/archives/1058533143.html とんこつラーメンを食ったんだが
中国起源の麺と日本で発明された豚骨スープの結婚は
素晴らしい BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 江南の高床式『住居』は5000年前にはほとんど消滅している。 その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式『倉庫』を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式『倉庫』が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 江南の高床式『住居』は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに「木骨泥墻」(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式『倉庫』を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式『倉庫』が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。
>私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html >私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 縄文人と弥生人が日本人の起源。呉は意味が分からない。越(高志)はあってもだがな。 >>523-525
何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い >>526
当人達が呉の太伯の末裔を自称して居たからね >>527-528
よお、タイワン豚広鼻ブラック!
タイワン褐色ブタ広鼻 突顎 巨大タラコクチビリーデ!w
台湾ハノイハノイ豚!w
それ5000年前なんだよ。
弥生開始はその2000年後の3000年前なんだよ。
江南は木骨泥墻のメッカメッカ。
つか、もう木骨泥墻が終わって戸建てに入ってた時代だがなw BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>530
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ ちなみに高床式建物は北方にもある
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/7754/liuhiyounoshiluet.htm
「地吹雪のなかを訪問した北方民族館には、このニブフに代表される北海の海辺と河川の民の風俗や生活用品の数々が陳列されていた。
彼らは、冬には保温性の高い竪穴式住居に住み、夏には魚干し棚や貯蔵庫のある高床式住居で暮らし、
衣装には木綿や魚皮で作った布を用い、白樺皮製の帽子をかぶり、アザラシ皮や魚皮の靴を履いていたようである。」
http://sakhalin.daa.jp/1q84/1q84sankou4.htm
「上の写真で左にあるのが「冬小屋」、右にあるのが「夏小屋」です。夏小屋はこのように高床式のものも、
そうでないものもありました。」
模型の復元
http://sakhalin.daa.jp/1q84/01530004trimmed.jpg
これも
http://homepage3.nifty.com/yokito/russia2002E.htm
「ハバロフスクよりバスで約1時間半かけて少数民族ナナイの博物館へ向かう。
写真はレストランの中。窓口の右側にナナイ特製の蜂蜜が置いてある。
帰国後、トーストにつけて食べたが格別においしかった。
http://homepage3.nifty.com/yokito/nanaihouse.JPG
ナナイ族の家。縄文時代の高床式住居と似ている。」
http://www.geocities.jp/putniki/siberia/ulanude/ulanude1.htm
「民族学博物館
エヴェンキ(以前のトゥングース)はタイガやツンドラを開拓した北方民族の一つである。
現在では少数のエヴェンキのグループが、エヴェンキ民族自治区、クラスノヤルスク州、チタ州、
ハバロフスク州、北バイカル、ブリャート共和国に住んでいる。ブリャートでのエヴェンキの人口は1700人で、
ロシア全体では約25000人程度である。最近までエヴェンキは狩猟、トナカイ飼育、採集、漁労をしていた。
http://www.geocities.jp/putniki/siberia/ulanude/ulan08.JPG
高床式の食物倉庫」 >>533
そんな事を言ってる考古学者一人もいない。
証拠も無いし、全部おまえのデマカセ。
結局、日本の高床式倉庫は朝鮮から導入しただけ。
朝鮮の高床式倉庫は掘立柱建物とか棟持式建物と呼ばれていて、
近年ドンドン朝鮮半島で見つかっている。 朝鮮の歴史や文化に詳しい西谷 正は、朝鮮半島の西南部、全羅南道の無文土器時代中期の
長川里遺跡から、新しい発見として松菊里型住居跡と共に、掘立柱建物跡が発見されたことを
紹介している。
そして、「ひとくちで弥生時代の大型建物といっても、朝鮮半島の無文土器時代における
掘立柱建物と、楽浪郡の楼閣建築の二者を念頭において考える視点が必要である」と
指摘している。
すなわち、西谷は、弥生時代の掘立柱建物は朝鮮半島から伝えられたというのである。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_04chugokutairiku_karano_torai.html 保寧寛倉里遺跡[李弘鐘2001]や公州新影里遺跡[吳圭珍 2005]で確認された地上建物は一般的
な地上建物とは異なり,梁部(短軸側)に突出した棟持柱を持っている独特な形態をしている点で
ある(図7)。このような形態の地上建物址は日本では多くの事例が知られてあり,多くの研究が行
われている。
では韓半島での独立(近接)棟持柱地上建物の特徴をみてみよう。現在,青銅器時代中期の保寧
寛倉里遺跡1 棟,扶餘松菊里遺跡1 棟,公州新影里遺跡1 棟,晋州大坪里玉房1 地区,泗川梨琴洞
遺跡などにその存在が知られている。そして,河南?沙里遺跡には原三国段階に比定される地上建
物7 棟,最後に三国時代の百済泗沘期に属する扶餘軍守里遺跡から1 棟が発掘されている。
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185002.pdf >>536-538
日本の高床建築って半島の開始年代所か弥生時代開始より遥かに古いんだよね 何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い 木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ >>539
その人基地外だから触れないほうがいいよ 江南の高床式『住居』は5000年前にはほとんど消滅している。
その頃の江南の住居はすでに『木骨泥墻』(もっこつでいしょう)。
江南から真っ先に伝わるべきは木骨泥墻のはずである。
つまり古代日本に高床式『倉庫』を伝えた地域は江南ではありえないという事。
弥生人が江南から来たなら木骨泥墻が伝わるはずだし、仮に高床式『倉庫』が
江南から伝わったものなら、なぜ列島に伝わった途端に住居利用しなくなるのか
全く説明がつかない。 >私が見たものでは高床建物を出す遺跡は右の二つだけで、あとは全部「木骨泥墻」を
>出すものでした。陰湘城がすでに述べたように木骨泥墻ですし、その東にある石家河遺跡が
>やはり木骨泥墻です。この遺跡は陰湘城と同じように環濠集落なのですが、はるかに巨大です。
>壕の長径は1.5キロメートルに達します。これはもう村というより都市だとされています。
>時代は石家河文化時代(前2600〜2000年)です。右の情報を横並べにしてみると、
>次のようになります。
>
> @河姆渡第3〜第4期(前5000〜前4000年)
> ロングハウス式高床建物
> A屈家ュ期(前3000〜前2600年)
> 木骨泥墻・環濠村
> B石家河期(前2600〜前2000年)
> 木骨泥墻・環濠都市
http://www.kyoto-up.or.jp/jp/authorsessay01.html 何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
捏造すんなカス 弥生最古の高床式倉庫(=掘立柱建物=棟持柱建物)は松菊里型住居とセットで
半島南部から伝わっている。
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から
弥生早期の遺跡がある。その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居が
すべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものである
ことが判明した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html >>545
そんな珍説、見た事も聞いた事も無いが。
で、そんな狂った事を言っている考古学者の氏名と所属団体は?
. >>546
松菊里って水稲作の開始が北九州より1世紀程遅いよな >>548
江辻遺跡、曲り田遺跡は稲作開始のかなり後。
だから弥生の掘立柱建物=高床式倉庫は松菊里住居とセットで
半島から伝わったと見て何ら矛盾はしない。 >>549
日本の高床建築って縄文時代から在るんだよね 今のところ日本最古は江辻遺跡、曲り田遺跡のもの。
桜町なら高床式倉庫確定じゃないぞ。
高床式倉庫の可能性もあると言っているだけ。
違う可能性だってあるし、単に時代の間違いという事も全然ある。
だいたい、その次の富山の高床式倉庫の登場が弥生までない。
連続性がない事自体おかしい。 いや、縄文時代の掘っ立て柱建築なんて各地に残ってるから >>552
各地にあるなら、10か所ほど、ここに列挙してみ。 10箇所に設定した理由を比較対象の提示と共に説明為ないとね >>552=>>554=>>555
各地にねえじゃねえかよこのホラフキ台湾ブタ広鼻半ニガー。
江辻、曲り田以前が三内丸山と桜町と北代しかねえじゃねえか。
全部、後続がないからアウト。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
捏造すんなカス 弥生最古の高床式倉庫(=掘立柱建物=棟持柱建物)は松菊里型住居とセットで
半島南部から伝わっている。
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から
弥生早期の遺跡がある。その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居が
すべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものである
ことが判明した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html >>558
そんな珍説、見た事も聞いた事も無い。
で、そんな狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. >561=>>558
台湾ブタだから日本語が分からないのかな?
俺は558みたいな見た事も聞いた事も無い珍説と言うか、狂った事を言っている
頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体を聞いてるんだが。
もう一度聞くが、
558のような狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. 弥生最古の高床式倉庫(=掘立柱建物=棟持柱建物)は松菊里型住居とセットで
半島南部から伝わっている。
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から
弥生早期の遺跡がある。その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居が
すべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものである
ことが判明した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html >>561=>>558
で、558のような狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. >>561=>>558
で、558のような狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. >>563
弥生早期だと松菊里の稲作開始より早いんだよね >>566
おまえマジで知恵遅れだろ。
稲作は菜畑だ馬鹿。
松菊里以外の半島のどこかから菜畑に稲作伝来。
100〜200年ほど遅れて松菊里あたりから江辻に松菊里型住居とセットで
高床式倉庫伝来。
何か矛盾あるのか知恵遅れ。
江南なんて5兆%ない。 >>566=>>561=>>558
で、558のような狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. 558 : 世界@名無史さん2016/08/17(水) 19:45:52.85 0
何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
捏造すんなカス >>566=>>561=>>558
で、558のような狂った事を言っている頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
. 弥生最古の高床式倉庫(=掘立柱建物=棟持柱建物)は松菊里型住居とセットで
半島南部から伝わっている。
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から
弥生早期の遺跡がある。その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居が
すべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものである
ことが判明した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html 縄文人こそ半島から渡来したんんだよな。
当時は渤海が無いから半島じゃなくて大陸の一部なんだが。
弥生人の方が半島じゃないんだな。
稲作が伝わった菜畑遺跡も、高床式倉庫を伝えた江辻遺跡も、搬入した
朝鮮土器は数点あるんだが、弥生人たちは朝鮮土器を全く作ろうとはせず、
何と朝鮮土器の器種や文様や製法をパクって自分たちの土器に付け加えて
オリジナルの土器を作ったのである。
弥生人たちは刻目突帯文土器と呼ばれる土器を作っていて、出雲に近い島根で
日本最古のき刻目突帯文土器が登場したのだが、この土器文化のルーツは
沿海州南西部にあったのである。 一方の金海からわ弥生土器が多量に発見されて居るという 何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
捏造すんなカス >>577
だから、そんな狂った大ウソをコイてる頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
って聞いてんだろがこのサギサギ台湾ブタ広鼻巨大タラコ唇ネシアンが。 >>579
何のソースも証拠も無いウソウソ創作のサギサギ台湾中華ブタ広鼻 褐色巨大タラコ唇原人。
で、577のような大ウソぶっこいてる頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
もうこれで9回目な。
次でおまえの首落とすからな。 >>581
何のソースも証拠も無いウソウソ創作のサギサギ台湾ブタ顔原人。
で、577のような大ウソぶっこいてる頭のオカシな考古学者の氏名と所属団体は?
もうこれで10回目な。
本日中に答えが無ければ、そんな狂言コイてる考古学者など一人もいない事が
確定するからな。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 以下の創作文の内容を唱えている考古学者の氏名と所属団体名を10回尋問しましたが、
一切出てきませんでした。
よって、以下の創作文はただの個人の脳内妄想である事がここに確定致しました。
>何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
>華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
>一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
>長江以南でわ殆ど見られ無い
>木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
>高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
>長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
>捏造すんなカス 何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
長江以南でわ殆ど見られ無い
木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ
捏造すんなカス 以下の創作文の内容を唱えている考古学者の氏名と所属団体名を10回尋問しましたが、
一切出てきませんでした。
よって、以下の創作文はただの個人の脳内妄想である事がここに確定致しました。
>何度も教えた通り高床建築は近代迄江南に於ける主要な建築様式
>華北でさえ春秋時代迄非常に流行して居た
>一方の木骨泥牆は長江以北に於いて多数存在して居た様式で
>長江以南でわ殆ど見られ無い
>木骨泥牆は専ら長江以北に見られる建築様式
>高床建築は華北ですら太古から春秋期迄流行
>長江以南でわ当然ながら弥生時代でも最も多い建築様式、近代でも高床建築は多いよ 弥生最古の高床式倉庫(=掘立柱建物=棟持柱建物)は松菊里型住居とセットで
半島南部から伝わっている。
板付遺跡の北東、約7kmのところに江辻遺跡(福岡県粕屋町江辻)という縄文晩期から
弥生早期の遺跡がある。その遺跡の中に第2地点と言われる板付遺跡と同時期の環壕集落がある。
その環壕の中には7つの掘立柱建物と11軒の竪穴住居が見出されたが、この竪穴住居が
すべて「松菊里型」と呼ばれる、 中央の炉の両脇に柱を配する、南部朝鮮独自のものである
ことが判明した。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html そのころの朝鮮南端と九州北端は同一民族の勢力圏だった説はないの? ない。
朝鮮南部に弥生土器の集落遺跡が無い。
朝鮮土器は弥生土器の影響さえ受けていない。
逆に、九州北部も朝鮮土器の集落遺跡は無い。
しかし弥生土器は朝鮮土器の影響は受けている。
ただ弥生人が当初 作っていた土器は沿海州南西部に文様が一致する土器。
つまり弥生人は沿海州南西岸から渡来した集団で、その人たちが朝鮮南部との
交流を通じて、文化や文物を輸入したり導入していた姿が浮かび上がってくる
という訳だ。
つまり、 >>591
逆々
半島南部からわ大量の弥生土器その物が発見されてる
一方の九州からわ半島土着の土器が数点しか見つかってない、而も交易拠点 >>591 つまり?
朝鮮半島経由説を否定できてるじゃない? >>592-593
おまえ考古学無知者だろこの江南ブタ広鼻ブタ顔半ニグロの台湾汚物が。
弥生土器が大量に発見されてるレヴェルでは朝鮮南部に弥生土器の集落遺跡があるとは言わんのだ馬鹿!
一方、朝鮮土器はその何十倍のレベルで西日本一帯で出土している。
だが、弥生人は朝鮮土器から器種や焼成法パクったくらいで、ほとんど朝鮮土器を作っていない。
朝鮮疑似土器を作った遺跡はあるが、朝鮮土器そのものは作れなかったのだ。
作っていたのが半島人じゃなかったからである。
593の全くのウソ詐欺狂言には呆れるぜ台湾ブタ広鼻半黒人が。 >>594
渡来人は古代沿海州人だが、弥生文化は朝鮮南部の影響のもと成立した文化だから
朝鮮半島経由は否定できんの。
渡来人と文化の故郷は別ってな話だけで。 何とか整合性取ろうとしてるのわ評価出来るw が、無理有り過ぎ >>595 は学問の板にきて人種差別的に鼻息荒いんだろ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>598
日本人の祖先が江南とか、そんなブタとボルネオ黒人の合いの子みたいな
クッサイ汚らしい醜悪極まりない汚物とウソブかれて何か嬉しいか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています