正史『三国志』 三十一巻 [無断転載禁止]©2ch.net
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蔡瑁の姉が黄承彦に嫁ぎ妹が劉表に嫁ぐ
そして黄承彦の娘(黄月英)が諸葛亮に嫁ぐ
つまり蔡瑁(劉表)と諸葛亮は縁者の関係にあたる さらにホウ統の一族に諸葛亮の姉が嫁いでるのでホウ統も血縁上その辺と繋がってて
荊州の名士、豪族なんかが血縁で案外結びついてるのがよくわかる 許昌の乱を名前だけ見て、最初許昌で起こった反乱だと勘違いしたのは俺だけではないはず・・・はずだよな? >>5
懐かしい
呉を主体とした呉三国志を読んだときはちょっと混乱したよ >>2,>>3
なぜ諸葛亮の血縁関係は広がっているのに,
相手のほとんどが曹操に仕えたのであろうか。 孔明の兄弟が各陣営に分かれているくらいだし
親戚ってだけで劣勢な陣営に身を寄せるなんてことはないかと >>8
諸葛亮がその血縁関係を纏め上げる宗族の長じゃないから 孟達に殺された諸葛亮の義理の兄はカイ越とカイ良とは同族なんかね 三国志の創作作品では諸葛亮のような政治家や周瑜、陸遜、司馬懿のような将軍でも知将系なら軍師で一括りにされがちだけど
正史三国志から見て実際に「軍師」と呼べるような人物はどんくらいいるんだろう カイ良・カイ越は軍師になるだろうか 軍師の定義を決めて貰わんと・・・
それこそ武人じゃなくて知略系の将は全て軍師とする考え方もあるしね 周瑜、陸遜、司馬懿は演義でも吉川でも横山でも軍師ではないと思うが 司馬懿って8日の昼夜兼行軍とかキチガイじみたことやってるから
自身も体力に恵まれてるだろな 司馬朗が家族親戚みなでかいと言ってるし
司馬懿はガタイがいいイメージあるな 何気に麋芳って君主三人コンプしてるのね
彭城国相(曹操)→南郡太守(劉備)→賀斉配下(孫権) 孫権配下の彭城国相のポストは麋芳→劉備→孫権経由で回ってきたのかな 地位としての軍師なら、入蜀前後の諸葛亮の地位は軍師中郎将→軍師将軍だな
参謀としての役回りの軍師として触れられたのは荀攸くらいかな? 黄氏って蔡瑁の姪だったのか・・・
孔明も劉表政権での出世を見込んで結婚した
可能性もあるのかな? >>21
家格の問題もあるんだろうけどその後の劉備政権での諸葛亮の出世考えると
豪族に対して血縁でいうこと聞かすことができる存在となってたであろうことは推測できるし
ある程度はその辺見込んでるだろうね 孫氏の場合だと顧氏とか陸氏とか関係微妙なところとも縁戚関係結んでるな BC3C末、徐福一行の故郷、江蘇省北部では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>13
じゃあ史書に謀主と書かれている人(わかりやすい) >>21
それはないだろうな
劉備に劉表から荊州を奪えみたいな進言をしているし そういえば、この頃劉備って中山王じゃなく劉表の一族の流れをくむとか自称してたんじゃなかったっけ? >>30
降伏後のキャリアで長水校尉とかあるし宮中勤務になったりしてる
曹操の朝廷工作の尖兵役担ってて殺すどころか物凄く信用されてると言った方がいいと思う 曹操の昔馴染みといえば許攸、婁圭、劉勲とかが思い浮かぶけどどいつもこいつもろくな最期じゃないな 同時代的な目線で言えばありえねーわwwwwwと思うことでも
はるか未来からの創作になれば因果関係とか事実とか多少違ってても気にならないんだろうなあ
三国時代の人間が劉備女とか趙雲女とか呂布女とかみたら、
あのおっさんどもが女とかあえりねーwwwwって爆笑するかも BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 一騎当千とか言う漫画ではみんな女体化してるのに何故か曹操だけ高身長イケメンちゃら男キャラになってたな
これはこれで当時の人間からしたらあえりねーwwwwだろうが 女体化漫画の話はこの辺で辞めてくれ
スレチだし気持ち悪い 蔡瑁の伯母が太尉張温の妻らしいから、
張允は張温の子だったりしないのかな。
とすると蔡瑁と張允は従兄弟同士ということになる。
張温も同じ襄陽人だしね。 漢民族同士じゃなくて異民族と血族スクラム組んでた一族っていないの?
馬超のオヤジさんぐらいしか知らないんだけど ビルマのパガン朝に孔明廟があったらしいが何でだろ?
南蛮討伐関係? 蔡瑁って多分イケメンなんだろうな姉と妹が美人だったんだろう
何進にも同じことが言える 袁紹と曹操の宦官論争ってさ
一見すると曹操が正論のように聞こえるけど
よくよく考えれば、君主制と言うものが常に理想的な君主を擁立できるものではない以上袁紹のほうがリスク管理の上では正しくないか 宦官がいなくても小姓あがりが側近になって権力をふるった国が スレ新記念カキコ。久々来た俺に誰か前スレからの流れを今北産業 >>44
リスク管理で語るなら「どっちも不正解」
宦官がリスクだから宦官を除去せよ、と言っても
宦官の権力掌握プロセスは皇帝と官僚、豪族という対立構造の隙間に生まれるもので
そちらの解消無しに宦官という制度を排除したら皇帝が官僚と豪族に逼迫されて
その中から権臣が生まれて皇帝が傀儡と化して最終的には王朝が乗っ取られるだけ
袁紹本人はその乗っ取る側の官僚、豪族の立場の識見であってポジトークなんだわな
逆に悪い宦官だけを処罰すればよいというのもこれはこれで
「宦官を常に管理、監視出来てしかも即座に処刑出来るだけの権力が非宦官勢力にある」という
つまり官僚が裁判権含めて常に全てを牛耳る必要がある、という前提が根底にあって
「皇帝の私的空間にいる宦官を官僚が処断してよい」というとんでもねえ思想
根っからの官僚的なポジショントーク
皇帝の私的空間の人事ポストを廃しろって言う袁紹から見ると過激でないだけ
そういう皇帝権に対する掣肘に抗って皇帝というのは自らの手足としての宦官を求めちゃうんだけど
両方とも皇帝の権力を宦官に利用させないためにどうするかという議論で
しかもどうしたら自分の感覚で都合いいかって話しかしてねえんだわ >>47
違うだろ、官僚豪族を単純化しすぎ
現実にはそんな皇帝と張り合うような臣下ばかりではないし、宦官に頼らなくても手足となる側近は取り立てられる
別に対立構造がなくても宦官は皇帝の私的空間になる強みを利用して君主に接近できる
どちらかというと宦官が権臣に対して対抗馬になった後漢が異常な例だ。そんなもんなくても世界の君主制はよくやってるし、そんなもんあっても権臣の台頭は防げていない >>48
常に単一の理由だけで王朝がどうこうなるってもんでもないのはその通り
しかし中華王朝の政治史においてはそう言った対立構造が頻出してて
最終的な解決って結局しないままに近代化で王朝政治が終了するまで続いたのもまた事実だし
後漢において見れば明確な対立構造がそこにあったということも否定は難しいだろう
臣下が皇帝と張り合わない云々というのは本人たちの意向は関係なく
官僚と皇帝が権力の綱引きをしている構造という話は個々人のミクロな問題ではない
皇帝権が強化されれば官僚機構は弱体化したりその逆もあって
官僚機構は組織防衛に走るし、機関としての皇帝も同様で、常にそれは相克しているという事 初心者にも分かりやすい正史三国志
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─( ゚ ∀ ゚ )< りゅうびりゅうび!
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( ゚∀゚ ) < そうそうそうそうそうそう!
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'"''"';';"'゙゙'";; "''';;;,、 鍾繇の書『薦季直表』に出てくる山陽太守 季直って誰だろ? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 移民なんてダメなのは、歴史が証明している
ローマ帝国時代にローマ人は奴隷や兵士育成のために、ゲルマン人を受け入れたが
やがてゲルマン人は権利を主張し、ローマ帝国内に侵入し、ローマ帝国は滅んでしまった
三国志時代の中国の英雄たちは防衛のために、北方の異民族を受け入れたが、その後に待っていたのは、五胡十六国時代と呼ばれる中国が異民族に跋扈された時代だったのだ
ゲルマン人や北方異民族によって、古代ギリシア人やローマ人は滅び、古代漢民族も滅んでしまったのだ
今のイタリア人もギリシア人も中国人も元々は乗っ取った異民族の子孫である
今の日本人が現在のヨーロッパ人や中国人よりも、三国志時代の中国人や古代ローマ人に親しみを感じるのは当然なのである
寛容と人の良さが発展を促したのだが、それこそが付け入る隙間を与えたのだ
このように、移民なんて受け入れるのは亡国に自ら進むことと一緒である
今、日本に移民を進める人間は本当の日本人ではない、敵国のスパイなのだ!! 季は末っ子もしくは四男に付けられる事が多い字だから「季直」という字の可能性もある 字の可能性が高いと思う。
読書百遍の故事で知られる董遇の字が季直なんだけど
山陽太守だったかは分からないんだよね。 >>53
かつて日本が国策で進めた北米・南米へのヤツは移民じゃなくて棄民だからセーフ >>56
一回曹操の時代に仕えてるのに後に仕えてない時期があるとかとか
どっちかというと官僚肌っぽいところとか家があんま裕福でないっぽいところとか
かなり似てるんだよね 薦季直表本文(かわいい文字で書いてある)
臣繇言、臣自遭遇先帝、忝列腹心。爰自建安之初、王師破賊關東。
時年荒穀貴、郡縣殘毀、三軍餽朝不及夕。先帝神略奇計、委任得人、
深山窮谷、民獻米豆、道路不絶、使強敵喪膽。我衆作氣、旬月之間、
廓清蟻聚。當時實用故山陽太守關内侯季直之策、剋期成事、不差豪髮。
先帝賞以封爵、授以據郡。今直罷任、旅食許下。素為廉吏、衣食不充。
臣愚、欲望聖録其舊勲、矜其老困、復俾一州、俾圖?報効。直力氣尚壯、
必能夙夜保養人民。臣受國家異恩、不敢雷同。見事不言、干犯宸厳。
臣繇皇恐皇恐、頓首頓首。謹言。
黄初二年八月日司徒東武亭侯臣鍾繇表 「今直罷任」「直力氣尚壯」の文から見ると、直は名なのか・・・ >>63
その辺は後の世の人が「季は姓、直が名」って認識して削られたりしてる可能性もあるから
単純には言えんとは思うがね 同時代の鍾繇が書いて拓本が残ってるんだから
文章の改変はないんじゃね? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 字を切り離して二文字目だけで呼ぶってのは
聞いたことないなあ・・・ >>64
鍾ヨウの書は書の手本として価値が高いもんだから
意図的に文字を消すというのは考えにくくね? 削ったり消したりする意味がない。
季氏は前漢の季布が有名で、その後はあんまり
聞かないが、後漢末にもいたんだね。 質問なんどけど
司馬氏陳氏荀氏が一族ぐるみで付き合いをしていたと書いてあるのってどこの列伝だっけ
めぼしいところを斜め読みしても見つからない >>71
いつの世代の話?
鍾氏陳氏荀氏なら党錮の中心的存在だし後漢書にも載ってるけど
司馬氏となると晋書の領域になってきそう
今すぐに史料を出せなくて申し訳ないが >>73
確かいつの世代か具体的に載ってない記述なんだよね
けど晉書じゃなく三国志の記述だったと思う
確かはいしょうしが引用してる何かで >>69>>72
拓本の元になったのは真筆じゃない可能性が高いので
拓本を作る段階で文字を消したのではなく写本を作る段階で削られてる可能性がある
書写した人が割と自分好みに原典から内容を変えてしまうってのは
書籍作りが写本メインだった時代にはよくある話
だからこそ古文書は○○本という形で書籍の異同があるのだし 表に字を書くなんてことが有り得るのかな?
薦季直表という時点で、仮に削られたという見解をとるとしても、少なくとも直は実名の一部だということでしょう。 削られていない写しはあるの?
改編の可能性があるってだけで疑ってたたらきりない気もするけど >>77
記憶だから完璧ではないけど令や勅だと字表記はあったと思うが
言われてみれば確かに表で字使ってるものは思い浮かばないな >>78
拓本が原典扱いになっちゃってるからそれが作られる以前にどうであったかは全くわからない 正始石経の一片が台東区の書道博物館にあるようだ・・・ 古代殷の神であるキが日本の山中で祀られてる事もあるから何の不思議もない 字といえば、夏侯惇の息子の夏侯子臧と夏侯子江はなんで名は伝わらずに字だけ残ったんだろ
普通ここまでやるなら名も残るか、もしくは字さえ伝わらないかだと思うんだがな 素人考えやが やっぱこの位できる人間も世の中にはいるよな
司馬懿の首が180度回ることを一例に晋書の記述を荒唐無稽としてる人がいたけど でも手を使わなきゃ曲がらないんだな
さすがに蒼天航路の後ろから声をかけられて前向いたままクビを後ろに向けるほどのことは出来ないんだねえ 当時、狼顧の体操っていうのがあって健康法とされていたようだな。
司馬懿もそれをやっていて真後ろに振り向けるようになったんじゃないか? >>86
晋書の司馬一族絡みだと司馬師が嫁毒殺した話が悪質過ぎ。 たしかにな
どうやってそれ知ったんだよと突っ込みたくなる
時代的にその後も夏侯玄と親しく付き合ってるし しかも夏候玄処刑されそうになった時に弟の司馬昭が「大兄!夏候玄はオレたちの義理の兄弟!処刑までする事ないだろ!」って反対してんのにね 兄が死ぬ前から部下に責任押し付けて殺したりしてるんだよなあ >>94
王義殺しは権力者らしいエピソードで結構好きだ
そういえば鄭小同殺しの時の司馬昭の「寧我負卿,無卿負我」という台詞
曹操の「寧我負人,毋人負我」と被ってるなと思ってたら
両方とも孫盛が書いてたんやね 賈充は
. -―- . やったッ!! さすがディオ!
/ ヽ
// ', おれたちにできない事を
| { _____ | 平然とやってのけるッ!
(⌒ヽ7´ ``ヒニ¨ヽ
ヽ、..二二二二二二二. -r‐''′ そこにシビれる!
/´ 〉'">、、,,.ィ二¨' {. ヽ _ _ あこがれるゥ!
`r、| ゙._(9,)Y´_(9_l′ ) ( , -'′ `¨¨´ ̄`ヽ、
{(,| `'''7、,. 、 ⌒ |/ニY { \
ヾ| ^'^ ′-、 ,ノr')リ ,ゝ、ー`――-'- ∠,_ ノ
| 「匸匸匚| '"|ィ'( (,ノ,r'゙へ. ̄ ̄,二ニ、゙}了
, ヘー‐- 、 l | /^''⌒| | | ,ゝ )、,>(_9,`!i!}i!ィ_9,) |人
-‐ノ .ヘー‐-ィ ヽ !‐}__,..ノ || /-‐ヽ| -イ,__,.>‐ ハ }
''"//ヽー、 ノヽ∧ `ー一'´ / |′ 丿! , -===- 、 }くー- ..._
//^\ ヾ-、 :| ハ  ̄ / ノ |. { {ハ. V'二'二ソ ノ| | `ヽ
,ノ ヽ,_ ヽノヽ_)ノ:l 'ーー<. / |. ヽヽヽ._ `二¨´ /ノ ノ
/ <^_,.イ `r‐'゙ :::ヽ \ `丶、 |、 \\'ー--‐''"//
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のような存在 司馬昭の悪逆非道はマジで少年マンガのラスボスを張れるレベル。 陳泰と司馬孚おじさんはまんまラスボスの凶行を諌める側近キャラだしね。 >>100
司馬昭よりも曹操や司馬懿のが酷くね虐殺やってるし 曹操や司馬懿はプラスの面も多いからな・・・
まあ司馬昭の陰湿さは確実に司馬懿のDNAだけど。 世説新語とかだと昭さん息子の炎同様ボケキャラなのにね。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 司馬昭は本人よりも部下が黒いイメージ
本人が黒いのは司馬師 57 : 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイ 7df8-sMwW)2016/09/14(水) 18:24:14.80 ID:jsGRthJh0
三国志は脳筋と頭でっかちばっかりの時代
両方こなせる将軍クラスの人材が全然いないから領土が増えない、維持できない
出来ない奴に無理矢理やらせて大敗、関羽とか夏侯淵とか夏侯惇とかこんなんばっか
↑
某スレからの転載 司馬懿はいい線行ってるとは言われるけどよく考えたらこんなんばっかだなこの時代 そういや五胡十六国〜南北朝では政治も軍事もこなせるチート出てくるけど三国志の時代はあまり見掛けない。
杜預ぐらいじゃないかな。軍人としても官僚としても文人としても1流って言えるのは。
なお、保身に関しては今ひとつの模様 >>112
いやそれ敗因を単純化して無理矢理政治能力の問題にしてるだけだろ SB新書
三国志「その後」の真実
http://www.sbcr.jp/products/4797380996.html
孔明没後の知られざる三国志「その後」系譜
孔明没後から三国の滅亡、西晋の興亡までの三国志の「その後」の世界は意外と知られていない。
そこには三国志を凌ぐ壮大なドラマが繰り広げられていた!
実はもっと面白くためになる、知られざる「その後」の世界への誘い――
●意外と知られていない三国志の「その後」
●「その後」を知るほうが、現代の混迷の時代を生き抜くヒントになる!
●三国志研究第一人者による「その後」の三国志・決定版!
■目次:
序 章 三国時代の形成
第一章 秋風五丈原
第二章 三国それぞれの混乱
第三章 三国の統一
第四章 西晉の滅亡と伝説のはじまり >>115
その本立ち読みしたけど三国志以降の話って少ししか書いてない 日本誕生の原因は司馬一族の糞政治が異民族にパワーを与えたおかげ >>116
本の主要テーマは三国志以降ではなく諸葛孔明以降 >>112
司馬懿は子孫が天下取ってなかったら脳筋の方に分類されてそう 頭でっかちでなく文武両道なんだよ、と渡辺御大の本に書いてあったような 陸機陸雲の兄弟も八王の乱に巻き込まれなければ文武両道の名将とか言われてたのかね 両方こなせる将軍クラスって、いたけどそれより戦だけ強い武将に負けたのを名将扱いしてないだけなんじゃないの 単純な戦闘なら脳筋でもいいだろ。
戦略を立てるのは軍師だし。
曹操は知勇兼備だからあそこまで領土を拡大できた。
杜預なんて曹操と同等に戦える器なのか? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 三国時代の武将や政治家が他の時代と比べると劣っている(と言われている)のはなんでや
小粒で地味な連中がひしめき合っていたから中国とかではあまり人気がない、とも聞く
例えばそうだなー 戦国時代だと、楽毅、白起、呉起、王翦なんか特に強いって言われてるけど
単に書き方の問題とか? 石勒と曹操が同等の戦力で対戦しても石勒が勝つ気がしない・・・ >>128
石勒は本人より甥の石虎や養子の冉閔の方が凶悪だからね。
個人的には過小評価されてんのは田予と毌丘倹かな 石虎や冉閔とか軟弱な晋兵ボコってオラオラしてただけじゃねえの? 劉コンも祖逖も倒せなかった男が
立場や状況の違いも考慮せず、曹操やら司馬懿やらディスって悦に入ってただけ
案の定魏晋より短命王朝で終わってやんの 質問があるんだが
Wikipediaにある桓階の妻は伏氏という記述について、誰かソース知ってる? 『山左金石志』の任城太守孫夫人碑に載ってるようだ
「桓階 伏」でググるとでる
wikiなら出典を明記して欲しいねところだが勉強になった ホントだ、ありがとう。曹丕何やってんねん
司馬懿の側室の伏氏と関係あるんだろうな 初歩的な疑問なんだが十二支からどうやって日にちを算定するのか全くわからない
どうなってんだこれ http://blogs.yahoo.co.jp/tamon19751127/33747132.html
この人が書いてる没年齢って推測だろうけど、曹洪62歳ってちょっと低くない?232年没だから170年生まれってことになるが
曹操に仕える前から県長とかやってたからむしろ古参の中じゃ年長じゃない?とかも言われてるけど たしかに20歳で県長になったと考えてもぎりぎりすぎるね
袁紹や曹操ほどエリートでもないからそもそも20歳で令長になれた可能性は低いと思うし 本家の人間がわざわざ宦官になる可能性は低いから
曹騰の兄弟の誰かが本家になるだろう、ぐらいしかわからんのじゃないか 趙雲子龍は全身肝っ玉やのう〜
という台詞はこのスレ的にはどうなんですか? 三国志のことなら何でも知っている、
えー、人形劇三国志の解説者島田紳助です
同じく、松本竜介です なんつーか・・・アレだ、政治家の二世はともかく、武将の二世って残念な奴ばかりだな、三国志は 逆に考えるんだ。
一代で出世したヤツはオヤジがしょぼかったんだ。 胡遵胡奮
王昶王渾
くらいしか成功例が思い浮かばん 曹操曹彰
孫堅孫策
とか有名どころでも親子鷹おるやん ○○の息子って触れ込みの男子がいっぱい居て、さらに縁故採用も普通なのに
親子で活躍してる例が少ないのは珍しい・・・逆に能力主義なのかも
大体えっお前こんなに子どもいたの?ってくらいいるのに名を残してるのはその内一人か二人だよな 武勇で一代で成り上がったヤツの子供はいい身分で育つから
戦場で命かけるような危険なことはしない→武功が少ない
となるんだろう。 司馬防の父の司馬雋は別に事績が伝わってないっぽいけど・・・ 高祖父と勘違いしてるんだな
あとウィキみたら代々尚書などを排出した家柄とか書かれてるけど
そんな記述あったっけ
世々太守クラスの家柄じゃね ウィキペディアの司馬懿の項見たが遺言が演義のになってね? そういや皇甫嵩の一族ってどうなったんだっけ
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1361779738
これ見ると息子についてもなんかはっきりしないな 曾孫は官職に就かなかったというが
じゃあ皇甫嵩の子や孫も魏に仕えるといったことはしなかったのか ウィキペディアといえば夏侯栄が曹叡の友人と書かれてるけど
曹丕の友人だよな? 皇甫嵩 嵩の甥・酈 子・堅寿 孫・不明 曾孫・謐 謐の叔父 謐の子・童霊、方回
確認できる一族はこんなもんだろう あと息子は事跡もはっきりしてるでしょ
皇甫謐は割りと当時から有名なのに伝に父の名が載ってないのは早世なのと仕官してなかったからだろうと思う >>177
訂正&『世説新語』にもっと詳しくあった
皇甫嵩の子・叔献は灞陵令(おそらく堅寿とは別人)。孫・叔侯(謐の父)は孝廉に挙げられてる 呉の四姓、顧氏と陸氏は分かりやすいが、張氏は張温が四姓の人だが印象としては徐州の張昭・揚州の張紘の方が強い
あと朱治・朱然(丹楊朱氏)と朱桓・朱拠(呉軍朱氏)がたまにどっちだったか忘れるのは俺だけではないはず・・・はず 左慈が曹操を妖術でからかった話ってどうやって生まれたんだろ?
真実の部分も一部あるのかな? 弟子の葛玄あたりが喧伝したんじゃないの?
一族に葛洪いるし 権力者の暇つぶしに呼ばれたサジが幻術・手品の類を
披露してビックリさせたってとこだろ 呉の国にはそういう話多いよね
そういう土地柄なのかな 葛玄って左慈の弟子だったんだ・・・
神仙伝読んでみるか。 中文版のウィキの呂伯奢の参考文献に
《三國志》郭嘉傳に曹操と戯志才と呂伯奢の話が載せられてるんだけど、何処出典の話なんだろう
三國志にも集解にもなかった >>188
文章を一部コピペしてGoogle先生に聞いてみると
同じ文章書いてる中文サイトいくつか見つかるけど
やっぱり出典わかんないな
生年書いてるサイトまである・・・ こことか
http://lsw1230795.mysinablog.com/index.php?op=ViewArticle&articleId=1874850
郭嘉伝の記述のとこ、「イク薦嘉。」までは原文通りなんだけど
その後は原文に無いんだよなぁ
混ぜるなよ というわけでガセ情報サイトを鵜呑みにして書いちゃったに一票 wikiに蛇矛は明代の武器とあるけど
晋書読んでたら普通に出てきたんだが 無為自然を尊ぶ道家が仙丹を作って長命を図るとか何か矛盾してるよね。 関羽(正史ver)が身に覚えのない子供(関索)や知らないおっさん(周倉)のことを知ったらどんな反応するだろうか。 誰か雲南からミャンマーの間にあったという諸葛亮城について調べてくれ。 なになに?諸葛亮城ってなぁに?
教えて>>200さん!(棒 >>199
そいつらより実子が養子になった関平の方が驚くと思うが 実子を養子にするってのは、華々しい戦果の無い長男をリストラして
大活躍した嫡子をねじ込むとかそういう類のだと思うんだけど、
関興も関索もそこまでするほどの重要人物じゃなかったよな? 関平は字が伝えられていないから
恐らく成人する前に死んだ可能性もあるんだよな
活躍はしたが、まだ若いから演義では養子扱いにしたんじゃないのか? 諸葛亮、司馬懿の両名から称賛された黄権
魏延と並ぶ名将と評された呉懿
生きていれば夷陵の大敗も無かったと言われた法正
劉備から忠義と武勇を惜しまれながらも劉璋に殉じた張任
そしてそれらの名士を塩漬けにしてた劉璋・・・ 諸葛亮城は漢の哀牢県の地、ミャンマー国境にほど近い場所にあるようだ。 そいつらって全員蜀生まれの蜀育ち?
江南の武官文官は地元民多いけど 関索ってイケメンでモテモテで優秀なオリキャラだから完全にメアリー・スーだよね 劉封って異姓養子ですよね 姓が違う人を養子にするのって当時の見方からしてどうなんですか?
それとも、劉封は多少でも劉姓の人と家の繋がりがあったんですか?(あまり詳しくないです。すいません。) >>218
おそらく劉表の親戚だから政略的な何かもあったんだろ メアリー・スーって思春期少女受け狙った悲劇のヒロインキャラのことだから
関索に使うのは大分ズレてる >>215が言ってるのは作者の願望背負わせた自己投影キャラってことじゃないの?
いやそれでも結局ズレてるんだけどさ >>218
母方が長沙の劉氏、劉備の自称する中山靖王と同じ頃に分岐した一族 王匡のwikiで胡母斑が娘婿になってる
妹婿だよね? 顔良・文醜は孔融曰く袁紹軍の勇将らしいけど・・・正史三国志にこの二人の具体的な活躍って一切ないわけじゃん?
こんな実績の一切ない奴が筆頭武将なんて、実はこの時から袁紹軍って大した将がいなかったんじゃないのか? >>83
亀レスだが、礼記には人の名前を、国号や主の名前、日、月、隠疾(病気)、山、川の名前をつけるのは良くないみたいな記述がある
曹氏は曹嵩(嵩山。本当は別の字だったらしいが)、夏侯氏も夏侯惇次男のボウみたいに礼記のルールを逸脱しかけてるんで、その絡みじゃないかとも思ったり
というか何でそんな名前なんだろう?字でなら子山とか明とか聞くけと 正史(ちくまの翻訳)読んで呂蒙が大好きになった。
人気者の関羽殺したせいでこの先永遠にワルモノ扱いなんだろうか。
不憫すぎる…。 あの国は関羽に踏まれ跪く呂蒙の石像とか作りそうだしな 呂蒙は極貧の母子家庭から身を立てて孫策に見いだされた。
張昭の推薦で別部司馬に任じられた。
無学文盲で役人殺しの前科もちにもかかわらず。
主君の勧めで軍中に学問を始めてその読書量は学者も及ばぬほどになった。
江東の2大困ったちゃん、甘寧と虞翻をなにかとかばってあげた。
病を得てからは主君自ら宮殿内に住まわせ介護した。
呂蒙死後、陸遜に語ったところの孫権の評価は、周瑜>呂蒙>魯粛であった。
YDK呂蒙 やればできる子 無学だったのに勉強して一時は呉の軍事のトップにまでなったわけだからな
最前線から最高司令官と上から下までを経験して現場も会議室もわかる軍人だ 呂蒙は叩き上げの武将だっただけに
スリーキングダムの最期の扱いが酷すぎると感じた
まあスレチだからスルーで 名と字って関連性もたせたり逆の意味をもたせたりするしな >>234
スリキンの呂蒙は周瑜のマネージャー兼付き人から魯粛の付き人になって
介護ばっかしてたよなw
これはきっと、呂蒙が孫権に看病してもらえるってことの複線か?
って勝手に期待してたのに…。
ダークサイドに堕ちた孫権によるまさかの毒殺とは…。
呂蒙、ほんっとにかわいそう。 >>237
孫権の末子孫亮の字が呂蒙と同じ子明だね
名も字もとにかく明るいw >>232
なんでそんなやつを張昭が推薦するわけ?
孫策にケツでも貸してたんじゃないか >>242
それは甘寧だなw
>>241
役人殺しの件は、15〜6歳のころ、義兄(孫策配下)の軍に無理矢理入れてもらった
が、義兄配下の役人からのしつこいパワハラに耐えかねての犯行だった。
おとなしく自首するとおまわりさんがかばってくれて、孫策に引き合わせた。
孫策は呂蒙を気に入って側に仕えさせた、といういきさつ。
孫策から張昭への口添えはもちろんあったんだろうけど、自分の名前を出すからには
張昭自身も呂蒙の素質に見るべきものを感じたんじゃないか。
無知だが胆力と知恵があったんだよ、きっと。
呂蒙の学問が進んだのも、張昭のサポートがあったんじゃなかろうかと推測する。 >>231
関帝廟には関羽を裏切ったビ芳、傅士仁、カク普が縄目にあってる
屈辱的な像がある、らしい。どこの関帝廟か知らないけど。 まあ岳飛に対する秦檜の扱いからして関羽死亡に関わった連中もそんな扱いなんだろうなぁ、とは予想してた 孫権夫人の藩夫人ってすごいな。
宮中の奴隷部屋(機織り部屋)に入れられてたのに、どういう経緯か
孫権に見染められ、生んだ息子が太子にたてられて皇后にまでなるんだからな。
孫権が危篤になったときは、呂太后が政治の実権を握った事跡を調べさせ、
自分もそれにならおうとする気満々。孫権が死ぬ前に殺されちゃったが。 三国時に最も価値ある10人(SHZXGOV)
shzxgov.com/lishi/2017/021…
1、張文遠
2、曹子廉
3、太史子義
4、馬孟起
5、高順
6、趙子龍
7、呂子明
8、于文則
9、郭奉孝
10、張任 曹仁って三国志ゲーでも他の名称、猛将の影に隠れがちだけど堅実に強い
曹洪はちょっと得意分野が重要だけど地味なパートだったな 魏…曹操のカリスマ。ホンダ
呉…世襲と同族経営。トヨタ
蜀…何度もコテンパンに負けてる。マツダ
なるほど 史官を置かなかったし、劉備自体が怪しい存在だからなぁ
最初の頃は臨邑侯劉復の子孫って言ってたけれど、皇帝になる時は中山靖王劉勝の後になってるし 出自が怪しいんならなおさら史官置いてもっともらしい
記述しとかないとあかんのにな。
陳寿がオール破棄してしまったのか。
てか、ハイチュウもなげやりな感じに少ない。 陳壽は益州で書いてたわけではないっぽいし
蜀時代には無官の身であった者が持ち出されるレベルの史料と
晋で手に入るものを合わせて書いたんじゃないかな 陳寿自身、蜀時代は姜維の属官(衛将軍主簿)だったし蜀の名士である譙周の弟子でもあるから資料や取材はその辺がネタ元やからな。 孫策って、戦争ばっかやってて26で死んだのに男1女3も子供いるんやな
孫権が娘3人とも豪族に嫁がせてる(陸、朱、顧) 孫策が殺しまくった陸氏に嫁ぐのはどんな気持ちだろうな 親父がしたことどころか親父の顔さえ知らない可能性もあるかも
むしろ陸一族が複雑だろうな
主君の姪っ子下賜されたら正妻にしなくちゃいけないだろうし
陸遜のもとの名の議から遜(=へりくだる)に変えたその心情を思うと
なんかせつないな これで手打ちにしようや?っていうヤクザっぽいやり取りを想像してしまう 孫策の孫の陸抗が最後まで勇猛に孫呉を守ったことを思うとなんか胸熱 孫翊も謎だよな
張昭に後継者候補とされたこともあるらしいし、
若くしてあの呉景の後任の丹陽太守に大抜擢されたと思ったら
突然の暗殺 孫翊の暗殺の下手人がその場で殺されたっていうのが、なんかいろいろ
陰謀めいた匂いあるんだよなぁ
裴松之は「呉歴」の注で異説を記してるけど 孔明って儒学的素養あったのかな?
科挙の時代だと役人になれなかったりしてw 朱然の身長は七尺に満たなかったって陳寿にディスられてるが、
この時代、170cm以下はチビ扱いだったのか?
でかい男ばっかりだと、戦闘用の馬はかわいそうだな。 あの時代の1尺がどのくらいなんだろうかと思って調べてみたけど結構まちまちだなぁ
七尺に満たずとなると160cm前半位になるんじゃないかな 三国時代は23センチぐらいと思ってたけどチビとまではって感じ 「七尺に満たなかったが、性格はからりとして云々」と身長の後の記述が
性格の褒め言葉だから、チビだった、とディスってるんだと思った。
23×7=161=チビだったら、現代の(日本人の)感覚に近いな。
墓には本人の遺体も残ってたのかな?だったら、身長も推定できる? 墓からの推定だと朱然は169以下じゃなかったっけ?
つか書かれ方は袁紹の體長婦人のが何かアレじゃね? 率いられる大将はいかにも強そうな大男の方が頼もしいだろうから
比較的華奢で弱そうに見えたとかあったのかも 中国の度量衡の統一ってどの程度信頼性あるものなの? 1800年前だったら160pってチビなのかなーって思っちゃうよね 曹丕の與王朗書「生きてるときは七尺の肉体をもつが〜」
管輅別伝「人間七尺の体を万物の変化の中に遊ばせ〜」
当時は7尺くらいが平均かもな あ、でも7尺に満たないだから150ぐらいだったのかな 陳寿「朱然、性格男前だがチビww 袁紹、女みてえwwww」
って感じ? 裴松之「平均は8尺くらいじゃね?
それよか陳寿は荀ケさんのイケメン描写カットすんじゃねーよ」 語呂がいいからって適当に決めてる感じがする
きちんとした身長計なかったら自称だろ? ここで言うのもアレだが、日経電子版のCMの劉備が
池沼みたいな声としゃべりにされててムカつく。 金正恩はリアル孫皓だな。
トランプ司馬炎が杜預と王濬の艦隊に進撃を命じたような状況か。 立地的にも三代目の僭主という意味でも金正恩は公孫淵に似てると思う
でもトランプは司馬懿ではないなw 金正恩の粛清ぶりは孫皓そのものじゃないか。
やたら自信たっぷりで行動が派手なトコも。 なにがなんでも安倍総理に文句付けたいキチガイがここにもでるのか レッテル貼って自己正当化する前に
支持率とか見ればひたすらケチつけてる奴らがいかに嫌われているかわかるだろうに
悪口しか言わない奴なんて嫌われるのが当たり前だ <丶`Д´>通貨スワップ中断した安倍は許せないニダ 夜中に「ニダ」とかつけて2chへ書き込み、親が見たら泣くだろうなあ はいはい、時代違いなんで現代の政治家とかに例えるのはやめましょねー
で終了では?
他の人は以降反応しないでね 陸抗はよく孫晧に殺されなかったよな
羊祜の件を口実に殺されても不思議じゃない 陸凱を殺せなかった孫皓に陸抗を殺せるわけがなくて
軍事においても政治においても孫呉政権が陸家にそれだけ依存していたってこと 具体的にどう依存してたんだろ
ここらへんの微妙なパワーバランスを具体的に理解するのがホント難しい 力も人望もある部下が最前線で敵と仲良くしてますって報告受けたら、
孫晧じゃなくても、殺そうとするんじゃと思っちゃう 孫皓も暴君とよく言われるけど大司馬荊州牧という地位にある陸抗を殺したらどうなるのかわからないほど暗君ではなかったと思うよ
陸抗病死後も荊州の守りは陸抗の息子たちに任せている(任せざるを得なかった)し 陸抗伝読み直したら陸抗の次男、陸景は孫皓の妹を妻としたと書いてあった
つまりは、互いが互いを内心どう思っていたかは別にしても、孫一族と陸一族は沈没寸前になるまで呉越同舟だったんだな 呉における陸家自体名門貴族なのに、さらには陸遜も陸抗も有能で、
呉での権勢も高いのにいきなりブチ殺されたりすることあるんかな ちょっと話はずれるけど、陸績が孫氏に復讐心を持たなかったのはなぜなんだろう?
学者肌の人間だったから?
陸氏一族と孫氏って、遺恨因縁を封じ込めるために無理矢理婚姻関係重ねてる感が
あるわ >>320
陸績が孫呉政権に仕えたのは年長の陸遜よりも早く、孫策の代の時だった
正史の記述が正しいとしたら陸績はこの時十三歳以下だったと思われる
陸績が自分の意思で仕官したというよりは陸家から孫家に出された人質に近い扱いだったんじゃないかなと思う
孫策が陸康を殺してしまったばかりに、孫家と陸家の付き合いは最初から拗れてしまってるんだよね 陸遜は陸遜で自分の大叔父を殺した孫策の娘と結婚している(させられた)し、陸抗はその間から生まれた
陸遜は晩年の孫権に疑われて憤死しているし陸抗は孫皓に警戒されてる中で病没している
孫家と陸家って本当に仲が良いのか悪いのかわからんね 呉の豪族たちがなんで孫氏の政権に付き合い続けたのかって言うことに関わる問題だね 突然で申し訳ないですが、友達がもっと欲しいな〜とか恋人欲しいな〜などとか、
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一度に覚えきられないかもしれませんので、メモ帳にコピーして貼り付けなどをして下さい。
以上です。https://ja-jp.facebook.com/ >>322
陸氏は孫策に征伐された後に袁術に仕えてる
袁術の勢力は単なる群雄の勢力と言うようなものではなく
「袁術帝国」、もしくは「仲帝国」とでも呼ぶべき新興国家としての体を為してたんだと考えてる
劉ヨウが袁術配下として攻めて来た孫策にあれだけ執拗に抵抗したのも
単なる群雄の勢力争いではなく漢対仲という構図が出来てしまったからなんではないかと思う
孫権が帝号を称する段階になってすら「袁術帝国の後継者」として
袁術の娘を皇后にするという発想が呉にはあったのがその傍証と出来ると思う
そこから考えると袁術死後の孫策の猛烈な拡大というのは単純な征服じゃなくて
「袁術帝国」の跡目争いとして既存の袁術帝国の勢力の再糾合となるし
勝者となった孫策に周辺豪族は従う形を取ったという説明が出来ると考えてる
陸績が孫策に仕えるというのは人質というのもあるだろうけど
「袁術帝国」の後継政権と陸氏が孫策を認定したというのもあるのではないだろうか
>>324
元々官界だと江南の人々というのはあまり尊重されて来なかったし
漢初の呉楚の乱以来の反目も感情としては微妙にあったと思う
そこに袁術が新しい国を作った
そして漢に絶望した南方の人々はそこに夢を託して新しい国に喜んで参画して行ったんじゃないかな
袁術の死後も孫氏がそれを繋いで行く事に江南の人々も賭けた、という説明が
「袁術帝国」の存在を補助線として引くとかなり分かり易くなる
袁術の残した帝国というものが残滓のような記録しかないので
推測と想像のツギハギになっちゃうけど、「袁術の作った国」というものは確かにあったと思うんだよね 孫策の娘を嫁にやるのが、孫家と陸家の手打ちってことなんだと思うけど
それで陸家から送られてきた陸遜って陸家の秘蔵の若者だったのか、
適当なのを送ってお茶を濁そうと思ったら実は大当たりだったのか気になる >>327
地元じゃ若いころから名声は高かったので順当な人選 >>327
陸康が包囲されて敗死した時に陸一族は半数が餓死したという
陸康の息子(陸績の兄)陸儁、陸康の孫の陸尚は陸康の忠節を認められて郎中として(朝廷に?)出仕することを許された、とあるがおそらく朝廷へ行くまでの道のりで難に遭ったのか、或いは朝廷に着いたものの李カク郭シの争いに巻き込まれたのかその後の音沙汰がない
(陸尚の妻の徐夫人は後に孫権と再婚していることから陸尚が早くに亡くなったのは確実)
あと史書に残る陸遜と同世代と思われる陸一族の人間は陸遜より年少の陸績と陸遜の弟の陸瑁だけ
消去法的推測ではありますが、陸康死後に陸一族を取りまとめる当主となったのが陸遜であったと思われます 当主は陸康の末子で陸績では?
陸遜は年長の後見役ではないかな
その後陸績の病死、夷陵での大勝利等を経て陸遜が当主になったっぽいのは確かだけどさ 陸家も壊滅状態だったのか
それでも嫁を送って縁を復活させたいくらい力を持ってたというのも凄い 陸康が包囲前に親族に故郷に逃がしてるから壊滅は無いでしょ 残った連中が壊滅しただけで
豪族としても顧雍に陸康娘、顧邵に陸駿娘を送れるくらいで家格は落ちてる感じもしないし 豪族ってことは陸康等の主だってプレイヤーしてる連中とは別に
本貫地にきっちり残ってる連中が居たってことでしょ
陸績、陸遜もそっちに退避して生き延びてるんだし 殺してくれたから陸遜が一族内での地位が向上したのだから孫策は恩人 陸遜の父の陸駿は九江郡の都尉だったらしいから、もしかすると孫策の従兄の孫賁が袁術の命令で九江郡の太守周昂を攻撃した時に殺されたのかもしれない
あくまで推測だけれど 孫堅が見つけた玉璽は、袁術に渡った後にどこへいったの? 袁術の息子だか親族だかが漢王朝へ返したんじゃなかったっけ 孫堅が玉璽持ち逃げしたのって史実なの?
ハイショウシ注で忠義を称えられる呼び名を貰っていた人がそんなことするだろうかとか反語してたけど 後漢書徐璆伝によると、袁術に捕縛監禁されていた後漢の廷尉徐璆という人が袁術死後、玉璽を見つけて朝廷に返したそうな
でもそもそも孫堅が洛陽で玉璽を手に入れたって話自体が眉唾だろ
孫堅が玉璽を持っていたとしたら、孫堅が敗死した時に玉璽は劉表の手に渡っていたのではないか 別に孫堅が肌身離さず持ってた訳じゃないでしょ、そんな危ない事出来る訳がない だいたい急な遷都とはいえうっかり玉璽を洛陽に置き忘れるなんてことあり得るのかな?責任者は誰だ
皇帝の玉璽を管理していたのって宦官? その前は何皇后派の皇帝と宮廷だったわけだし、
聡明の評判が高かったとはいえ献帝は董卓に擁立された偽皇帝とも言える
そんな連中に伝説のアイテムを渡したくないから意図的に隠したってのはまあありえるかなと Eテレの100分de名著、5月は陳寿の三国志とりあげるそうだ 最近の朝日系文化人は幼稚化しているからなぁ
先日の素粒子には驚いた
どんな珍妙な理屈で『三国志』を北朝鮮擁護に持ち込むのか
今から楽しみだw 玉璽は孫堅が井戸から見つけたって後漢書徐キュウ伝注
に書いてあるじゃん。
それを疑うなら全部注に書いてあるの疑わないと。 いや史料批判ってどこが信用出来てどこが信用できないかもちゃんと検討するもんやぞ 井戸から見つけたの何が信じられないのか・・・
別に光が立ち上ってたとかは書いてないのに。
袁術が盗んだという本伝の記述も疑うの? 今でこそ伝国璽なんて伝説の存在だが范曄が後漢書を書いていた時代には現存していたのかな 伝国の玉璽は五代後唐の時代まで残ってたっぽいよ。
後唐が滅んだ際燃えたか消失したらしい。 正直ホンモンの玉璽なのか怪しいと思ってたけど
五代の後に玉璽が出てないのを見ると本物だったのかねえ しょうもない疑問だけど
太皇太后
って太皇・太后と読むのか太・皇太后と読むのかどっちなん 生前退位した皇帝は太上皇、太上皇の后は太上皇后なんじゃない? >>351
注釈の出典不明な辺り
誰それ曰くじゃなくていきなり玉璽は井戸かためっかったんだよ!ΩΩΩ Ω
みたいな書き方だと胡散臭く感じちゃう 別に李賢が自分で作った訳じゃないだろう。
何らかの出典があったが、載せ忘れたんじゃないの?
徐キュウが届けた玉璽が本物認定されたんだから消失して
たのは事実だろうし。 ■『三国志事典』
http://www.fukkan.com/fk/CartSearchDetail?i_no=68325828&tr=s
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【著者】渡邉義浩
【発行】大修館書店
【予価】3,888円(税込み)※予価の為、価格が変更する場合がございます。
【発送時期】2017/05/下旬
『三国志』研究の第一人者による、初めての総合事典。『三国志』を読み、学
び、楽しむための情報を満載!
◇正史『三国志』に伝のある人物440人全員を取り上げ、解説。
◇三国時代の歴史・文化・宗教など、基本事項を網羅。
◇「三顧の礼」「泣いて馬謖を斬る」などの名場面を詳しく紹介。ビジネスや
生き方のヒントとしても役立つ。
◇邪馬台国や卑弥呼でおなじみの「魏志倭人伝」を解説。原文も返り点付きで
全文掲載。
◇索引や年表、資料類も完備。 ここで言うのもなんやけど実は正史三国志に触れるきっかけになったのが五星戦隊ダイレンジャーなんや すまんな 三戦は三戦、中英は中英の空気があるから単純に一方化できない 日本人の一般論的に過大・過小評価されてる人達
張角は過小評価されてるのではないだろうか
何も無いところから大勢力作って、政権を揺るがす大反乱を主導した人物ってすげー有能だと思う 100分de名著、孫権の回見た。
孫堅から孫策・周瑜への流れを10分もかけて説明するとは思わなかったw
映像はスリキンとレッドクリフ使ってたけど、どっちかに統一した方が良かったんじゃぁ。 まだ未見だけどアル中とか二宮とかはスルーなんだろうな 何キ伝に出てくる、一回しか名前が出てこないのにはっきりと「袁術の謀臣」と書かれている李業(術謀臣李業)
一体何者なんだ・・・想像することしかできないが謎の存在すぎて気になる あ、李業だったか
昔、とある小説ネタ考えてた時、韓浩をスカウトをする袁術の使いをそいつにしようと思ったんだけれど
名前思い出せなかったんだよなー、姓は李だというのは覚えてたんだけれど 敗者が歴史に名が残ることはないから仕方のないことではあるが袁術麾下の武将たちって出身地も生年も没年もよくわからない奴らばかりだよなぁ 孔明は忠義を尽くしたから歴史に残ったが逆に尽くさずに、皇帝になればチャンスはあった
劉家は趙匡胤みたいに、宗家としてきちんと保護する姿勢を見せれば下の者は付いてきただろう
兄貴と通じて呉で革命を起こせば荊州どころか江南も手に入り
天下を取ることは可能だったはずだ 三国志において「名士」という概念は渡邉義浩だけが使っているのですか? >>373
趙匡胤のそれは、当時の王朝は前王朝根絶やしがデフォだから評価されてるんであって
デフォになる前の三国時代とは比較できんよ デフォにしたのが宋の劉裕なんだよな・・・
ただ魏がデフォにしてもおかしくない >>373
むしろ孔明は呉の尖兵として荊州で派閥作りやってたように見えるんだよなぁ
劉表と距離を置く水鏡グループ入りしたり、サイボウに近い黄承彦に婿入りしたり、
怪しげな流れ者の将軍と昵懇になった上、後継者争いに負けかけてた劉キにも接触してる 孔明の兵法って史実だとどんな感じなの?
孫呉の兵法に基づいたもの? >>380
諸葛亮呉の間者というか諸葛瑾のエージェント説は面白い着眼点とは思うけど
諸葛亮が本当にエージェントだったとしたら
赤壁直前まで孫権は当初曹操と昵懇だったという点を反映して
もっと親曹操の派閥作りしてないとおかしいと思う
当時の劉表が反曹操だったという事から考えても
親孫を大前提として親曹な勢力を糾合するべきで
劉備取り込みなんて一番無理ある行動を成功させてるのが変
しかも劉備に兵力を蓄えさせる提案までして入り込んでその兵力でもって
許昌にほど近い葉まで攻め寄せてるのでエージェントどころか足を引っ張っちゃってる 呉の視点から見れば
そもそもなぜ諸葛亮を使おうという気になるのか 諸葛瑾が、弟のひきこもりをなんとかしたかったから、とか? 晴耕雨読は引きこもりどころか普通に外で農業に従事しとるやろw >>385
つうか、蜀書に伝が立ってる人をひとつひとつ検証してくとキチガイが多すぎるって結論に至るな
陳寿が意図的に曲筆していたのを差し引いても
諸葛亮だけでなく蒋琬や費禕も持て余していたんだもの
能力のわりにプライドばかり高い人材を宥めすかして使いこなした苦労を思うと、劉備か曹操クラスの器でなければ蜀で諸葛亮以上の成果を挙げることはできなかったと思う 諸葛亮と曹操との手紙のやり取りがどんなのだったのか気になる 諸葛亮伝には兄の瑾の名前はずいぶん後ろにならないと出てこないんだな 諸葛瑾伝にも孫策没後に孫権の姉婿の推挙で孫権に仕えたってあるだけで前歴は謎だよね
呉書には若い頃に京師で遊学していたってあるけど時期的に董卓専横の混乱期と丸かぶりしてるし
どういう経緯で揚州に流れ着いたのか、何故諸葛亮ら一族と行動を共にして荊州に移住しなかったのか、行動が謎 呉書は韋昭のコピペとか言われてるけど、韋曜伝は陳寿が書いたんだよね? 呉のであきらかに原典が違ってそうなのは陳寿自作っぽいな >>395
陶謙伝の呉書からの注釈部分かな?
裴松之先生は、曹操と陶謙が争ってた時に、曹操には帝に詔勅を出させる権力はないだろ!と否定的だけど >>396
袁紹は勝手に詔書出してたって言われてたんじゃなかったけ
つまり よく公孫サンって劉虞殺害したことで人望失ったとか言うけどさ
対外的には帝位僭称した大逆無道の存在なんだから
むしろ処刑した公孫サンを誉めたりせんのかったんかいな 劉虞が公孫サン殺そうとしたのは確かだから自衛っていえば自衛なんだけどね
あと劉虞は帝位僭称してない、その時点の袁術と同様に長安政権側の人間だよ 袁紹は勝手に勅書作ってたから誰の勅書って事にしてたかって考えると
劉虞を勝手に祭り上げてた可能性はあるんだけど確定ではないからな 袁紹は劉虞に皇帝に奉り上げようとしたが拒絶され、そのあと領尚書事として官爵の任免をするように頼んでるけどこれも断られてる(公孫瓚伝)
劉虞の立場からすると最初から傀儡にする気満々の袁紹に協力する謂れもないわな 公孫瓚「そもそも董卓が暴れるすきを作ったのって袁紹のせいじゃん・・・」 袁家は漢王朝のことはどうでもいいんだね…(・´з`・) この頃に天帝の姓が劉から張に変わるとか、帝舜の子孫が帝位につくとか、漢に代わるは当塗高なんて予言が溢れたら勘違いする人も出てくる 袁家の人間が四世三公の名家なんて威張ってられたのも漢王朝の権威があってのこと
後世の人間の後知恵に過ぎないかもしれないが、袁紹や袁術が積極的に漢王朝の権威を守ろうとしなかったことは結果的に致命的な失策に繋がってしまったと言わざるを得ない 一時は大勢力として君臨したわけで、袁家は知らんが袁紹には王者の器があったと考えていいんじゃないだろうか
皇帝だけすげ変わった第二漢帝国でしょ袁紹が作りたかったのは 袁紹が10年たらずでいち郡太守から河北四州を傘下に収める大勢力になったことを過小評価するつもりはないけど、でも曹操と違う時代に生まれてたら天下を取れた程の器ではないとも思う
袁紹の評価って難しいね 青年期、十常侍に抗い、党錮の禁の犠牲者を助けんと世直しのごとく暗躍
宦官一掃という誰もが夢見てもなし得るわけがないと思っていた義挙を実現
自らを取り込もうとする梟雄董卓に一括し、無官の身で出奔しながら関東軍盟主に衰退
自らを妾服と罵る弟の決裂
韓プク、公孫瓚、曹操みな袁紹に敵対すると内部分裂を起こして崩壊していく王道
北の遊牧民すら懐ける度量
若くして、信念を違えども友として、部下として慈しんだ曹操との決戦
どう見ても主人公だね >>409
まあなんていうか優秀だけど、乱世を一気に終息させて帝王になるようなとびぬけたエネルギーがないよな
周囲に天才が一人もいなかったら地味ーに全土統一した可能性はあるけど
大国の乱世って思いもよらなかった英傑が突然出てくるからそれには勝てない感が強い 群雄ってのがまず異常な存在だからね。
袁家は代々中央で大臣を務めた。
袁紹が朝廷でそのまま出世してたらどうなったかだな。 董卓は、何進が十常侍に討たれ、城外に二十万の西涼軍で
すぐさま洛陽を占領したが、暴政が故すぐ追討軍が結集
した。追討後力をつけたのは曹操。百万の軍勢は平原を
縦横無尽に駆け回り 十年のちに中国
の三分の一を支配した。董卓追討軍後の 戦果のメリットは
李確、郭巴を打ち破り洛陽、長安をいち早く占領し帝
陳留王を得た事。哀紹、哀術という強大勢力に引かなかっ
たワケ。 >>414
袁術陛下は確か二十代で太守やってたはず。 袁紹は乱世でこそ輝く器じゃないかな
宦官との折り合いが最悪すぎるからいずれ中央からははじきだされてただろ 世が乱れた時に伝統と進取性を併せ持った袁紹が宦官を放逐する程度で終われば中興の祖と称えられた
戦国の時代になるとタケノコのように生えてくる位も名声も無い有能の士を使いこなす度量が無かった
袁紹が産まれてくるのが遅かったな、トウコの禁あたりで活躍してれば漢帝国のその後も袁紹の運命も変わってたかも 西園七校尉で軍の中央集権化をめざしたのが何進・袁紹だと思う
皇帝や宦官サイドの横槍でだいぶ骨抜きになってはいるけど 蹇碩:宦官
趙融:太鼓腹
曹操:宦官の孫
鮑鴻:横領で獄死
淳于瓊:鼻削ぎ
馮芳:袁術の義父
夏牟:? 淳于瓊は
「俺も昔はよう、袁紹や曹操とタメだったのに・・・」って烏巣で酒浸りなイメージ 西園八校尉ね
下軍校尉の鮑鴻が豫州の黄巾討伐に派遣されたんだけど討伐後に兵糧を横領したのが発覚して獄死してる
西園八校尉はその後特に出番もなく霊帝の崩御とともに一年足らずで自然消滅した もともと霊帝が私財を投げ打って無上将軍として立つという話だったからなー 最初、西園軍って中央軍構想かなんかかと思ってたけど霊帝の私兵だったぽいんだよな
霊帝崩御でなんの意味もなくなって、後で実権握る董卓の私兵に再編されちゃったようだし >>425
私兵っていうかさ、そもそも中央軍って皇帝の直属であることが大前提だろ
大将軍(外戚)にフリーハンドで指揮権を委ねたらどうぞクーデターを起こして下さいって言っているようなものだぞ >>426
ところがその従来整備されてた漢王朝の近衛と中央軍は
有力豪族子弟のキャリアのための踏み台にしかなっておらず
しかも構造上は朝廷と外戚挟んでて皇帝直属でもなくなってたわけで
本来君主は最高位の指揮官であったはずなのに
皇帝が無上将軍として指揮官を兼ねる形にして
わざわざ従来の指揮系統から切り離して作ってるのは
これは新規の中央軍編成ではなく、皇帝の私兵を作った、と表現する方が合ってるかなと 曹操政権になってから太尉が任命されなくなったのはなんでだろ 宦官って男性器の無いナヨナヨしたオカマ野郎みたいに思われてるけど、皇帝の近侍ともなれば武芸の修練者や軍略に明るい者も混じってたりするんだろうな そら宋代には髭も生えてる童貫やら、正体は蛙の楊ゼンなんかもいますから 八校尉は霊帝の改革っていうより
皇帝の政治意欲を引き出して宦官から引き離したい何進の思惑と、無上将軍ごっこがやりたい霊帝の欲求が合致しただけのように見えるけどな
さほど私兵が必要になってないし
私兵として捉えると謎な人選だし >>437
宦官と官僚両方の顔の効く曹操
反宦官ながら袁基と別流で官僚たちへの牽制役も期待できる同世代の袁紹とか
かなり両睨みな人選だと思うよ
加えて皇帝の私的な召使である宦官の蹇碩を一番上の席次として置き
私兵色を相当色濃く打ち出してると思うんだがな
私兵が必要になってないということはないでしょう
後漢後期は豪族の軍に地位を与えて懐柔しつつ使い倒す対応をしてるけど
自分の軍隊無けりゃ最終的にはそういう軍閥に食われるだけなの皆わかってるはずだし >>438
いやいや、そもそも私兵で何のためにそういう睨みを効かせる必要あるんだ
むしろ結局は豪族に骨抜きされてしまうじゃないか
どういう意味で軍閥と言う表現を使っているのか分からないが
官軍としてまとめあげられない限り豪族の軍なんて弱小で別に巨大な連合なんて気づいてないでしょ
自分の軍隊というけど大将軍を通じて反乱軍なんて普通に潰せるでしょ
革命を警戒しての軍制改革って言う解釈はかなり飛躍してるように思う 軍閥なんてそもそもあったのか?
州牧や郡太守が独自に兵を動かすようになったのは、
董卓が朝廷を牛耳るようになってからじゃないの? >>439-440
>>438の下二段見てくれ
あと西園軍は豪族に骨抜きにされるもなにも作ってすぐに霊帝が死んで
董卓に吸収されてるから豪族に骨抜きされたことなんてないよ 豪族の軍って具体例で言うとどれ?
黄巾の乱以前でお願い。 いや。そもそも西園軍がどうなったかって具体的に不明じゃ
吸収されたのは何進の軍でしょ
董卓が入洛した頃には袁紹ももう西園八校尉じゃないしまともに存続してたのかすら謎でしょ 西園八校尉がどのようにして解散したのかイマイチよくわからないが霊帝死後、大将軍何進と元帥蹇碩が帝の後継を巡って対立して、蹇碩が何進を暗殺しようとして逆に返り討ちになった辺りで体をなしてなかったと考えていいのかな
そのすぐ後に何進が十常侍に暗殺されて、虎賁中郎将袁紹がその報復に宦官勢力を全て粛清して、最終的な勝利者になったのが董卓なんだから訳がわからねえ 董卓が宮中の兵力集めに工夫しているように重要な要素のはずではあるんだけどね >>442
以前て
以後に統治乱れまくってるところに導入された西園軍語るのに 西園軍って豪族の軍なの?
軍閥と呼べる豪族の軍について教えて・・・ 西園軍の兵は張楊や毌丘コクや劉備が并州や丹陽で募兵した兵士が主力なんじゃない?
劉備は赴任中に下ヒで黄巾軍に出くわして任地まで行かなかったようだが
軍閥がそれに結びつくのかは知らん
そもそもどういう流れなんだよ 西園八校尉の指揮権は蹇碩が握ってたようだね。
他は何進派閥のような気がしていたが・・・ >>443
宦官死んで趙融が失脚した後って袁紹が筆頭になってて
董卓が袁紹を部下に引き込んでるってことはそこに吸収されてるでしょ
その後曹操と袁紹、淳于瓊が身一つで逃亡してる
行動が不明な人々はキーパーソンじゃないから行動が残ってないのだろうし
結局この逃亡した人々の行動で完全に西園軍が宙に浮いてる形になったから
董卓が吸収以外の消滅理由がないと思うのだけど 董卓に軍権持ってかれたからさすがの袁紹も身一つで逃亡か
その後の曹操や袁術の逃亡の理由はまた別のところにありそうだが 董卓が私兵をバックにやりたい放題したからな。
何進の死後、中央の軍隊は誰が引き継いだんだろ?
車騎将軍は何苗の後誰が継いだんだっけ? 当時董卓は私兵の数が大したことなかったので手持ちの3000を夜に城門の外に出しては
朝に董卓の部下、続々増援!ってのを連日繰り返して大兵力がいるって誤魔化してたから
私兵をバックにというのは正しくもあり正しくもなし 董卓も涙ぐましい努力してたんだなあ
「董卓様の部下が続々と到着しておられるが、宮殿に入っていった兵は出てこないのう」 >>455
皇甫嵩って黄巾の乱の後に車騎将軍に昇進してなかったっけ? 曹操って呂布を一時撃退したあと袁紹からの援助の申し出断ってるけど
あれって言うほど断る必要かったかな >>432
>皇帝の近侍ともなれば武芸の修練者や軍略に明るい者も混じってたりするんだろうな
軍略はともかく武芸は無理だろ
類宦官症の人のサイトがググれば見つかると思うけど女に腕相撲で負けるほど脆弱と書かれてるし
十常侍も戦闘は全部配下の兵に任せてるだろ 類宦官症で参考にできるのは幼少時に去勢された場合じゃね?
成人後に去勢された場合だとあまり参考にならなさそう 武人として鍛えた高名な武士を去勢して近侍にするのって色々とやばくねーか >>458
袁紹は張バクとはなあなあで済ませたがってたようにも見える
東郡太守の人選とか >>461
現代の倫理観からしたらいろいろやべーと思うけれどw
それでもいくら男子禁制の後宮とはいえ、帝や妃の護衛や宮内の警備の需要はあるだろう
日本の大奥にも別式女のような武芸を担当する女官がいたようにさ 需要はあるだろうけど、武士として名を売るために厳しい鍛練に耐えてきた奴が
腐刑受けて宦官になりたがるだろうか?という
そういう人を無理やり宦官にしたら普通に恨みで寝首かかれそう 死刑になるところを腐刑で済んだなら我慢もできるだろ 戦争捕虜とか冊封国からの生口とか
そういうルートから宦官になる例もあるね 曹操が中国で有能でも人気がないのは
中国で人気出るのに大きな要因となる悲劇が曹操には足りないし
しかも三国志では一番の英雄だけど結局覇王になってない
もっと有能は他の時代にいくらでもいるしなって感じじゃね
チビの不細工なのもつらい
日本人って三国志を、演義や正史を元にした横山三国志やら吉川三国志で知ってるから
曹操をまず乱世の奸雄というか有能な奴としてみてるけど
中国人って場面場面を切り取って劇にした京劇とか講談で知るからな
そこで描かれる曹操は常に卑怯でズルいやつで、そのイメージがまあ強い
変な話だけど、日本のゲームやマンガというメディアを通じて
初めて三国時代の流れを知ったという中国人も多い >>463
>日本の大奥にも別式女のような武芸を担当する女官がいたようにさ
中国でも後宮の護衛は女官が行うのが普通だけどね
孫武が呉王から宮女の訓練を承ったとか石虎が女官に弓術を習わしたとかいくらでも伝わってるだろ
>>466
>戦争捕虜とか冊封国からの生口とか
こういう場合は普通は子どもが献上されるのが普通
「大越史記」でも中国がたびたび攻めてきては多くの幼男が宦官として金陵に連行されたという記述がある
朝鮮や琉球も宦官を貢いでるけど何れも子ども
通常、大人で宦官になるのは刑罰を受けた者か自宮した場合 それは全然女官を護衛に使う普通の証明になっていないような つうか秦漢の頃は女にも戌兵の役があったろ
労役も課せられていたし
実際に漢代の長城から出土した兵員名簿にも女の名前がでてるし 孫武のアレがガチ訓練ということになってるでござる
んなアホな 女の兵士とか扱いが面倒だし、男と一緒の軍隊生活なんて送れないだろ。
体力もないしな。
衛生兵とか慰安婦じゃないの? >>473
趙の平原君が邯鄲包囲された時に李同が提案で
「今君誠能令夫人以下編於士卒之閨vとか言ってて
意外に中原近辺だと女性兵士が抵抗なく受け入れられてた可能性はある 墨子とか商君書といって兵法書みると女は女だけで別に一軍を作って壮男軍とは混じらぬようにせよ
なんて書いてある
墨子 号令篇
諸男女有守於城上者,什、六弩、四兵。丁女子、老少,人一矛。(中略)女子到大軍,令行者男子行左,女子行右,無並行,皆就其守,不從令者斬。
商君書 兵守篇
壯男為一軍,壯女為一軍(略)壯男過壯女之軍
>>473
ウェイトリフティング部だった時の記憶だけどさぁ女子のトップクラスは自分より階級上の男子の記録抜いたりするんだぜ
訓練次第では兵士として十分役に立つ人材もいくらでもいると思うし思うし武器もたせたら余計関係ないと思う
呂布や関羽でも女4〜5人に四方から槍で突かれたらイチコロよ 秦軍にも女部隊とかいたんか?
キングダムの作者が喜びそうなネタだな。
防衛戦は総力戦だから女も戦わざるを得ないだろうね。 史記の平津侯主父列傳 に「秦禍北構於胡,南掛於越,宿兵無用之地,進而不得退。行十餘年,丁男被甲,丁女轉輸」
ってあるな
つうか商君書も墨子も秦でまとめられたものでしょ 秦漢以外だとどのくらい普遍的だったのかようわからん >>480
あれは皇帝の近侍や直属軍がモデルのはずなので、郡兵と一緒に考えるとちょっとズレるんじゃねえかな ちくま学芸文庫の正史三国志を読んだのですが、
当方、高校生で、大学では東洋史を学びたいと思っています。
そんな私がこの次に読むべき本は何でしょうか?
おすすめがあれば教えてください。ちなみに曹操が好きです。
また、専門的に三国志を学ぶ上で三国志集解は避けて通れないものだと、
三国志で卒論を書いた高校の先生に聞いたのですが、本当ですか?
三国志集解という本は調べても日本語訳は出ていないですし、
私には白文を読む能力はありません。大学へ行けば知識がついて読めるようになるものなのでしょうか? おなじちくま学芸文庫の史記と漢書でもよんでください
集解ぐらい読めて当然ですし
東洋史やるなら現地の語学も必要です
外国語の学習と同じで辞書もって努力してください
>大学へ行けば知識がついて読めるようになるものなのでしょうか?
読めません。英語本が大学入って読めるわけがないのといっしょです 曹操が好きなら
曹操―三国志の奸雄 (講談社学術文庫) 文庫 ? 1996/3
竹田 晃 (著) でも読んでください >私には白文を読む能力はありません
あとなら東洋史なんか日本語の本だけ読んで趣味にして
法学部か経営商学部で学んだほうが就職にいいでしょう
研究するなら読めて当然ですので >>482
大学行けば白文読めるようになるかっていう意識だと一生ならない
高校生なら受験でも有利に働く局面もあるだろうし本気なら今からガッツリやっておけよ
大学入試で出る問題程度なら満点取れる程度の漢文読解力は東洋史で食おうと思うなら必須に近い
専門でやってこうとするなら他にいくらでも身に付けるべき言語やスキルが存在するから
漢文読む能力なんて最低限度のものは高校時代にやっとかないと時間足りなくなるぞ
今読めない自覚あるなら猶更、今学習しとかないと後悔するからな、本当だぞ
そういう意識で今から勉強できないなら上で書いてくれてる人がいるように歴史は趣味に留めた方がいい
史学なんて金にならない学問やっても卒業したらクソニートか教員か
クッソどうでもいい三流企業を何十何百と回って内定を求めるゾンビになるだけだからな
歴史が好きで集まった史学科で学業で勝ち抜き、自分の席を勝ち取るにはそれくらいしないとダメだし
席が無けりゃ卒業後本気で路頭に迷うんだってことを肝に銘じてくれよ 皆さん叱咤激励ありがとうございます。目が冷めました。
高校時代に白文を読めるように頑張って勉強します。
やはり、東洋史を大学で学びたいですから。
史記はもう読んであるので、漢書と曹操三国志の奸雄も読んでみます。 大学卒業した後の心配もされてるからな
よほどの覚悟が必要だよ 少子化だし大丈夫じゃね?
むしろ助言してるヤツのがやばそう。 研究者の席って20代から60代までの分厚い層が奪い合ってるのに
どうして少子化だからと言って安閑としていられようか 少子化→学生数の減少→教育に必要な教員数の減少
少子化進行中はライバルの減少よりもポストの減少の方が深刻
さらに文系(文学部&教育学部)軽視で学部再編する大学が出てきてて状況がさらに悪化中 日本史はそれでも国内に博物館とか研究所ポストあるけど
東洋史なんてそれもねぇからなぁ 少子化だから史学科卒でも一般企業に就職しやすいって意味だよw 研究者目指してる人に対してそれって慰めにもならんけどな 高校生の時に白文読めないのは問題じゃないよ
就職とかは絶望的になることと、「曹操が好きだから」みたいな意識だと後に行けば行くほど辛い事だらけになっていく事の方が問題 もともとお金になることじゃないからなぁ
小説や漫画にしてひと山当てるでもしない限り
そっちも割りと飽和状態だし 横山三国志読んだから劉備好き
蒼天読んだから曹操好き
それだけでは何も 途中まではまともな叱責だったのに
段々ただの陰湿な嫌味になってるじゃねえか >>501
最初の方で言ってることの方がおかしいと思うが 話を戻してすまんが、女兵士を率いていたのは女将軍だったのかな?
男だと、同僚からからかわれたりすんのかな?
ハーレム気分を味わってたりすんのかな? 殷の婦好とか西周代の金石文では女でも兵を率いて戦功をあげて報償されるようなことがしばしばあったようだが
春秋時代になるとなくなるので全部隊の指揮をとるような将軍は普通は男なのでは
卒長や伯長とか末端の下士官は女がやってたかもしれんけど 官僚の時代になったら、女をきちんと教育して将軍にするプロセスを持ってないと使えないよな 県の有力者の妻だろ?
郡県を攻め落としてから王を称してる。 宦官って霊帝の時は目立つけど
その後の魏、蜀、呉にもいたんですか? 知名度があるのは黄皓だけか
後漢の後期の悪い印象が強いから魏晋では出世しないようにされたか 蜀は漢の伝統を引き継ぐために宦官も引き継いだ
って一般論でよく言われる 後漢の宦官vs豪族の抗争は魏晋南朝の貴族制樹立で豪族の勝利 すれ違いだけど五胡十六国の異民族王朝にも宦官はいたんだろうか 黄権が快男児との手紙を書いたころの司馬懿は若く見積もっても40代中盤 >>537
いつ頃かは知らないけれど、鶏舌香五斤ありがとうの手紙が曹操から諸葛亮に送られてる 鶏舌香は老人の口臭をごまかす香だから、「口臭いジジイ早く引退しろよ」っていう諸葛亮からのメッセージだったんだろ >>541
諸葛亮ごとき若造が何程のことあらんかと曹操の激怒する姿が見えてくるわ 趙雲は味が十分に染みたのり弁がぎっしり詰まった四角いアルマイトの弁当を食ってるイメージ >>538
キっていうのは殷の甲骨文に出てくる最高神、杖を持った一本足の猿の象形とされる
後に帝俊、派生して五帝の帝コクや舜、さらに派生して楽正(音楽を司る)后キになる。
後世になるとただの一歩足の動物になり、黄帝が蚩尤を破るためにつくった太鼓の皮にされたりしてる。
孔子と弟子の問答に、どうしてキは一足なりって書いてあるんでしょう?と弟子が聞いたところ
孔子は「優れた人物は一人でも足りるという意味(決して一本足の事ではない)」と怪力乱神を語らない孔子の性格を表現される話としてよく使われる。 >>53
孫権は日本列島を襲って倭人を拉致して兵員補充をした。 澶洲とは日本のことで朝鮮式山城はその時に日本人が造ったもの!
朝鮮人は関係ない!!って強弁するネトウヨおばちゃんが日本史板で暴れてて鬱陶しかったな
たとえ日本だったとしても「澶洲者所在絶遠不可往来 」って明記されてるから意味ないんだが 兵員だっけ?まぁ人口が増えれば兵員も増えるんだろうけど
失った兵のほうが多くて補充にならなかったかと 日本出土の赤烏年鏡は明らかに呉からもたらされたもの。 赤烏年鏡は呉から公孫経由で入って来たものとされている
そもそも三国時代に東シナ海つっきるほどの航海技術ないし 普通に朝鮮半島東南から最短距離で日本に来れるだろ。
400年以上前に徐福も来てるしな。 >>557
徐福が日本に来たとか言うのは俗説
更に言うと当時の朝鮮半島南部は馬韓が支配して帯方郡と抗争を繰り広げていたから猶更無理 つうかそもそも鳥居原狐塚古墳は5世紀と呉が滅んでから200年近く後のものだから
普通に半島からの伝来品だろ
邊津鏡と辺津鏡という前漢代と後漢代の鏡があるんだが
これも古事記によると新羅のアメノヒボコからの伝来品 徐福の船に乗っていたとか言う少年たちはその後どうなったんだろうな
徐福が楽しんだのだろうか 徐福は行く行く詐欺野郎で、出航せずに港でうだうだしてたのが
始皇帝にばれて大目玉食らったんだよ
そのあとまもなく始皇帝が死んじゃって話はうやむや
徐福は丸儲けw
あの始皇帝がよくその場で殺さんかったと思うよ 帯方郡って魏じゃねえの?
その前は公孫氏だけど、別に馬韓と呉が敵対する理由はないっしょ。
韓半島東南は辰韓じゃなかったっけ? 普通に敵対しまくってるが
帯方郡はもともと公孫康が戦乱で韓に逃れていた遺民をたきつけて
侵略して置いた郡だし仲良くできるわけないんだが 魏が滅ぼしたって書いてあるのは馬韓という解釈が一般的なの? どこをどう読んだらそんな頓珍漢な解釈が出てくるんだ 西成高速鉄道(西安~成都)が開業するけど
所有時間が16時間から3時間に短縮されるそうだ
日帰りで北伐できるねw >>556
赤烏(238- 251)年号の鏡が238年に攻め滅ぼされた公孫氏経由で
渡来とかあり得なくね? 教えてください
孫権の長男の孫登の教育係だったという支謙の伝は三国志にはないようですが、
(伝どころか一言も言及されてない)彼の伝が読める書物はなんでしょうか
和訳本はあるのでしょうか?
また、孫権はなぜ仏教僧を教育係にしたのでしょうか?
よろしくお願いします<(_ _)> >>576-577
ありがとうございます。
密林で見たらびっくりするほどの値段だったので、図書館で探してみます。
なぜ、呉書には支謙が登場しないのでしょうね?
捜神記や世説新語にも出てこないですよね。 >呉書に伝がない理由
支謙の功績は、呉の家臣としてよりも、訳教によるものだから、
順番が劣後してしまったのでは?
一言くらい言及があっても良さそうなものだけど、孫登の教師というだけなら、
その他大勢のうちの一人になってしまったのかも。
>呉と仏教
三国時代の仏教というと、地域も近い悪名高いサク融が思い浮かびますが、
それくらいしか分からん。
孫権としては仏教の専門知識ではなく、単に博学なところに期待したのかも。 ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%A2%81%E9%AB%98%E5%83%A7%E5%82%B3
原文で読めるならこれどうぞ >>579
孫登が太子になったのは221年、支謙が訳経作業を始めたのが222年で、
ほぼかぶってるんですよね。孫登の教師といっても、訳経作業の片手間程度の
ものだったかも知れませんね。孫登には是儀や陸遜がそばについてましたし。
孫権はスピリチュアルwなものに興味示す人だから、仏教にも関心あったんでしょうね。
>>581
ちうごく語読めませんがありがとうございます。
康僧会って、あの孫晧と対話した記録が残ってるんですね。こちらにも興味湧きました。 于吉みたいな怪しいヤツに洗脳されるよりマシって感じじゃね? 曹叡って本当に曹丕の子どもだったのか
自分は袁熙の子ども説の方が後々考えると納得してしまう
生年の謎に加え
曹丕の死の直前まで皇太子宣言をハッキリと明言しなかった
曹丕が実母のスウ氏何故か殺してるし
スウ氏に曹丕がやった事を曹叡は郭皇后にやり返してるし
曹叡自身その後の暴走もあるし(大宮殿増設など)
自分の出生にまつわる真実を知ってしまった曹叡が自暴自棄になったのかのも >>585
そもそもあいつ長男じゃないな
あざなに仲って入ってるから 誕生日といえば卞氏や曹髦のもおかしいな
少帝弁は後漢書と資治通鑑で生年が違うんだっけ? 曹昂が死ななかったら、曹操の次に魏のリーダーになったのって曹昂だったのだろうか >>589
曹丕でも危ういのに、曹昂がいるのに曹沖を後継者にしたら袁紹死後真っ青の大混乱が起こるだろう なんだかんだ曹植みたいに後継げない気がするなあ
10代前半の弟は可愛くても後半以降になるとライバルになるって生々しいな 曹沖に跡を継いで欲しかったと一番強く望んでたのは案外曹丕かもと
誄や追贈や逸話から思う >>585
鄴が包囲されていた時期を考えると袁熙の子説は無理がある 呂蒙は荊州侵攻で魯粛の三分の計を危うくしたといわれるが蜀を魏の牽制役に封じ込めたという意味ではむしろそれを完成したといえる 魯粛は後継者指名してないよね。
魯粛の賛同者がいなかった(つくれなかった)のが大きいのかな。
孫権は荊州問題以降は劉備に対して悪感情しか抱いてなかったし。 >>596
誰がそんなこと言ってるの?
魯粛の戦略ってそこまで劉備に融和的じゃないよ? 自分の陣営のことしか考えない近視眼的な人間じゃなくて
劉備ってそれなりの軍雄を上手く使って呉の援護させようって戦略立ててたんだろう
だからどうしても孫家陣営の中じゃ劉備よりって立ち位置になるんじゃない そもそも劉備を対立軸にして親劉備、反劉備という見方で魯粛を分析するのがどうかと思う 孔明の三分の計は最終的には三番目の漢による再統一だからな
だから三分自体が目的の呉としては当然に蜀から中原への最短コースを塞ぐ必要がある
そして外来政権の蜀漢としては名分的にも北伐を繰り返さねばならない
台湾に逃げた国民党政権が大陸光復を唱え続けたのと同じに >>603
蜀漢正統の演義からすれば親劉備ですら問題にならないからな
それこそ服劉備でなければ褒めるに値しないって
途中の三者会談で孔明が魯粛に孫権などさっさと劉備に降伏して引っ込んでれば良いんだと暴言する場面はまさに作者の本音だろう 劉備の死後に結ばれた新たな蜀呉同盟の最大眼目は蜀の荊州放棄
これによって隆中対は不可能となり以後の蜀漢政権は益州での政権維持自体が目的となる 演義の魯粛嫌いなんてないやろ
演義でも正史でも魯粛は諸葛亮の大恩人 演義の魯粛って、読者の劉備ひいきを外せば
劉備に肩入れし過ぎて呉に数々の負債を作っただけのおっさんだからな
周瑜と呂蒙に挟まれていつ死んだのかすらわからないレベル 昔学習漫画の周瑜がチビのヒゲのおっさんにされてたのには笑った。 呉は統一ではなくあくまで江東割拠主義だからな
いわば初期の東国政権としての鎌倉幕府みたいな物で
だから魯粛は三分の時点で皇帝を名乗れと孫権に勧めた 正史の霊帝って今じゃ再評価進んでる見たいだけど献帝はどうなのかな
演義じゃ初期は小帝との対比で持ち上げられてるけど結局のところ中の下? 献帝の時点では既に後漢政権は実質崩壊しており比較は出来ない 劉備応援して前面に出し弾避けにするってのは悪くないと思う >>614
劉備を対魏の前線に出すんなら合肥戦に駆り出してやればよかったのに
まさかそこから丹陽や蘆江の領地をかすめ取ったりはできないでしょ
劉埼が死んだ時点で荊州から引き離しとけばなぁ 劉備が、今の状態で呉の庇護下に入ったら一生飼い殺しだって判断して距離を保ったなら流石の嗅覚だな
呉よりはるかに強かった袁紹の元には身を寄せて、劉表の元にも入ったのに 霊帝は商人ごっこをしたり面白いオッサンというイメージ。 袁家を滅ぼした時点で曹操は中原を制したといえるんですか? 袁家を滅ぼした直後の話ならば、三輔はまだ馬騰韓遂ら関中軍閥がのさばってるし司隷校尉鍾ヨウも司州を完全に掌握しているとは言い難いし、厳密に言うのなら中原を制したと言えるほどではなかったのかも
徐州青州も昌稀とか曹操に反抗的な勢力を滅ぼして統治は臧覇らに丸投げしてるような状態だし 政治的には荊州侵攻前が、中原を制し終わったから南進を開始したんじゃないかなって思えるけど >>574
だよな。当時は朝鮮半島南部も倭国の領土なんだから、そこから日本列島に持ち込まれている。 やっぱカリスマってのが一番身につけるの難しいよな。 >>628
劉備はもとからカリスマがあったと思うけど
中原をさまよって、さらにカリスマがついたと思う 公孫サンって、演義のイメージで勝手にいい人かと思ってた
正史読んだら頭おかしい人で正直ショック 人望のあった劉虞を殺すくらい時勢を読めてなかったらしいなそのおかげで袁紹に簡単にボコされた
演義では劉備様のお友達ってことと、作者お気に入りの趙雲の最初の飼い主ってことですげー優遇されてる
コーエー三国志だとまあまあ能力高めにされる 劉備絡みで演義序盤の補正入ってる人物と言えば陶謙もだよなあ どうなんだろ?史料を追っていくと陶謙はどうにも評価が難しい気がするんだよね
過去の経歴をみると寒門の出身ながら清廉で剛直な官僚として順当に出世しているのだけれど
徐州牧に就任して以降は子飼いの小人官吏を重用して地元の不評を買っていただの、地元の名士を僻地に左遷しただの、天子を自称する妖賊とつるんでただの、取ってつけたような悪評が並べられている
それは正当な評価なのか、徐州虐殺の後ろめたさを軽減させたい曹操さんサイドのネガキャンなのか、個人的に判断できないんだよね
同じことは公孫瓚あたりにも言えるけれど 陶謙って、孫策を敵視してたし張昭や呂範を獄に繋いだこともあったし、
呉側から見てもディスっていい人物じゃないかと思うんだけど、
なぜか張昭は哀悼の辞の中で陶謙を持ち上げてるという… 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
NSYGR 孫策を敵視する人物は呉の内部にも結構いるのでは
表に出すかどうかは別として 陶謙は孫策というより、孫策のバックの袁術を敵視してたんだろう 孔明って平和な世ならどんな人生を歩んだんだろうな?
普通に一族のコネで中央の官吏となり、うまくいけば
二千石ってトコか? 腐敗した中央にはつかえねーぜ晴耕雨読タイプだから仕えなかったんじゃないの?
という疑問が割と抜けない 二千石は家柄からして別にそこまで出世じゃないな。
九卿くらいまでは行けたか。 嫁と二人で発明に明け暮れ、後漢書の方技伝に載せてもらえるのを目標に日々励む 徐州のアレを経由しない孔明が
その後どういう人生を指向するのかいまいち想像できん >>643
父諸葛珪は泰山の郡丞、叔父諸葛玄は袁術の元で(?)豫章郡の太守、その他の親族は前漢代の諸葛豊まで遡るまで目ぼしい人材なし
瑯琊諸葛氏は簡単に孝廉や茂才で推挙される程の名族ではなかったと思う
諸葛瑾は若い頃京師に遊学に出ていたらしいから相応の教育を受けさせる蓄えはあっただろうけれど 茂才って学識による推挙じゃないの?
家柄関係あるの? >>647
むしろ家柄のほうが大事だろ
仲間内で推挙しあうんだから 茂才は州刺史による推挙、孝廉は郡太守による推挙、でよかったはずだよね?
これらは郷里の評判、郷論を元に選考されるから各人の実力や品行そのものよりも家柄や学問の師匠の格が重視される選考になりがちだったと聞いた 独学じゃない?
鄭玄は190-196年ぐらいまで徐州にいた頃があったみたいだけれど 荊州の晴耕雨読族みたいなのってみんな相互に教え合ってるんじゃないの?議論って形かもしれないけど
司馬徽もなんかのことでは諸葛亮に教えたこととかあると思う 孔明はあんまり経書の学に打ち込んでなかった気がする 中国人って予定調和好きなのかな
なんか爺さんとかのエライ人が若者の今後を予言して果たしてその通りになった(美談)っての多い気がする
予見できない未来を見通したエピソードって中国式嘘松なんだなと 曹操とか馬超って長子は長子でも庶長子の噂もあるみたいだけどどうなんだろう あざなの「孟」の字は庶長子を示すらしいな
董卓の兄貴の董擢(字は孟高)や陳留太守張邈(字は孟卓)なんかも庶長子だったのだろう
他に誰かいたっけ >>661
それは理念だから当てはまる人もいれば当てはまらない人もいる まあ嫡男、正夫人って概念自体が曖昧だからな
後付けで嫡男、正夫人に昇格、或いは嫡男、正夫人から庶子、側室に降格することもあるだろう
庶子に生まれたとされている公孫瓚も字は孟珪ではなく伯珪だ でも、曹操は詩文「善哉行」の中で自らの半生を、賤しい身分に生まれ孤独に苦しみ両親からの愛情に乏しく身が裂ける思いをした(意訳)と述懐しているし、はっきりと庶子の生まれと明言していないが、恵まれた少年時代を過ごしたわけではなかったのはガチっぽい 宗家以外だと長男でも孟なんて法則があるわけでもないのかね 叔父さんをてんかんの振りして騙した話もあるし
曹操なんて基本的に子供のころからやりたい放題だよ
宦官の家に生まれた俺って苦労人でかわいそーってアピールしてるだけw あれは曹瞞伝のエピソードだろ、どれだけ信憑性があるんだろな
ところで曹操の叔父って何者なんだろうか? 他の正史だと
島夷 劉裕伝 とか最初から叩きが入ってるけど
あれ見るとああこれそういうもんなんだwってわかるけど
三国志や史記あたりだとあんまり感じられないのかね 曹丕の息子の曹協って、劉協が皇帝やってる時には
そんなん名付けられないだろうから魏朝成立後に生まれたんだろうけど、
仮にも自身に禅譲した皇帝の名を息子に付けるって
当時のモラル的に問題なかったんやろか 陶謙の配下に曹宏ってのがいて(曹豹の親族だろうか?)、王允にも王宏っていう兄がいて、両方とも霊帝劉宏と諱が被っている
これが問題にされなかったのかはわからないし当時は避諱という概念がどれだけ浸透していたのかはわからない
案外皇帝に諱が被ってても不問にされていたのかも >>673
ふたりとも霊帝より先に生まれたんじゃね? >>674
でも孟達みたいに劉備の叔父とあざなが被ってるから改めたって例もあるし
案外ガバガバだったのかも >>675
改名が伝わってない人は、仕方がないからわかっている範囲で書いたんじゃないかな。 法で定めてない限りはモラルの範囲内ってことなんじゃない
戦乱の時代だからモラル破り気にしない人も出るしそれをとがめて
とばっちり食うのも割に合わないし
不遜な乱暴者はやりたい放題 献帝ならともかく霊帝のときに戦乱だからってのは違わないか?
即位から黄巾まで16年あるぞ 霊帝の時代は宦官の専横と本人のやる気のなさが下々にまで伝播してモラル崩壊
モラル崩壊の一端で諱かぶりがする者が現れたとか? 呉壹も宣帝・司馬懿への避諱で実の名は呉懿だってのは
本当なのかどうか 司馬懿や司馬昭は三国志本文中で避諱されてる形跡があるけれど司馬師はされてないのは何故だろう
軍師将軍とか出師表とか普通に使われてるよな 呉壹は華陽国志では呉懿と書かれる。
張壹は後漢書では張懿と書かれる。
だからといって呉壹は呉懿が正しいとは限らない。華陽国志も後漢書の編纂者が、これは司馬懿の諱を避けたと思い込んで改めただけかもしれない。 呉懿とかいうよく分からんけどとにかく凄かったらしい武将 呉懿のつっぱりはいらんですよ
言葉の意味はよく分からんがとにかく凄い武将だ 呉懿は確かに謎が多い…実績もあって皇帝の外威っていう地位なのに正史に伝が無いのは妙な勘繰りを入れてしまう
伝を残すにはなにか不都合な点があったのかなあ ・諸葛亮に警戒されてあまり要所を任せてもらえなかった
・外戚呉氏が古参組から嫌われてた
・伝が紛失した
・陳氏との確執
・呉漢の子孫という理由で実は益州人に嫌われてた 「失其行事,故不為傳。」
って言ってるけどその割に季漢輔臣賛への補足ではちゃんと姓名字、本貫、来歴、魏延と共に挙げた戦功、
官位・爵位に没年まで書いてあるんだよな陳壽。
短いといや短いが蜀志なら黃忠伝や尹默伝の文字数を見ると十分伝は立てられそうに思えるんだが、後どんな事績が足りなかったのだろう。
それとも>>691みたいな別に理由があってそれの言い訳にしただけなのか。 >>692
張コウに対しても事績がよくわからんって書いてるし根本的にあちこちの資料が足りないんでは 置かなかったのか孔明が置かせなかったのか
その意味でも史官の意味は大きそうだが ポジション的に盛られているだけで
実はそれほどでもなかったとか >>>694>>695
後主伝に気象の記録が残ってるから史官がいなかったというのは諸葛亮時代の約10年間という可能性もあるがね 陳寿自身、蜀漢の東観秘書郎、史官だったんじゃなかったっけ
なんで蜀は史官を置かなかったなんて嘘ついたんだろう だから孔明はなぜ史官を置かなかったのかが問題になる 陳寿は父親が孔明に処刑されてるし
孔明の息子に虐められていたから恨みがあるんだよ
体裁を整えるために時々は孔明を褒めてるけど 晋書陳寿伝によると、陳寿は蜀漢に仕え黄皓に屈しようとせずに左遷され、その後父親の喪中に婢女に丸薬を作らせていたことが不孝として失脚している
時系列に直すと、諸葛亮の死(西暦234年)→陳寿仕官(時期不明)→黄皓の専横(董允が死んだ西暦246年以降)→陳寿の左遷(時期不明)→陳寿の父親の死(時期不明)→陳寿の失脚(時期不明)ということになる
俗に言われてるような陳寿の父親が諸葛亮に処刑されたっていう説はこれで見るとまったく根拠のない出鱈目だと思う
陳寿が諸葛亮の評価に辛いのは北伐反対論者だった師匠の譙周の影響だったのでは? 連弩ってベルセルクのガッツが装備してるようなヤツ? 本当かどうかは別として
普書で陳寿の父親がされたというのは
コン刑(断髪の刑)だから別に矛盾はしない。
個人的には陳寿の評価は客観的だと思ってる。 晋書は「壽父為馬謖參軍」
と書くが参軍は馬謖なので
よく知らない人が書いていると判断すべき 参軍って何人いるの?
馬謖擁護してる人物に参軍李?がいるけど 陳壽が最初に就いたのは衛將軍主簿らしいけど
この衛將軍とは姜維(247〜256)なのか
それとも諸葛瞻(261〜263)なのか
はたまた記録に残ってない第三の人物なのか。 なみの諸葛亮ファンじゃ、晋全盛期に『諸葛亮集』とか出せないし
宣帝・司馬懿さまに「天下の奇才」と言わせられないよ >>710
全面礼賛以外は全て誹謗にするのが孔明信者
南宋の朱子なんか悪いのは全部劉備のせいに 三国志群雄録
正史三國志群雄銘銘傳
コレって両方共坂口和澄著だけど
内容的には似通ってるの? 劉備と高誘が仲良かったっていう話ってどっかにのってる? >>715
正史三國志群雄銘銘傳こっちだけでよい
もう一個のはこの中から抜粋してるようなもん >>718
井ノ口哲也氏の書評,津田資久氏の書評,村田哲也氏の論文(書評が主)を読めば,
渡邉氏の学術的態度に対する周囲の評価が見えてくると思います。 渡邉義浩氏って中国大河ドラマのThree Kingdomsやレッドクリフの日本語訳をやっていたんだよな レッドクリフは監修だな
訳してたのはいつものおばさん
レッドクリフの副音声で渡邉が解説してたけど
めっちゃ面白かった
この人の授業受けてみたと思った 坂口和澄
渡辺精一
渡邉義浩
資料本はここらの漁ってたら十分? なんかさ、曹操の子孫のDNAサンプルを調査する研究ってあったじゃない?
そっちの方と照合したり裏取りは取れてるのかなぁ? 裏取りといっても遺骨の方じゃなくて
子孫の方の検証になりそう 曹操の父、夏侯氏からの養子説の出典は曹瞞伝や魏晋世語だし史料的評価の低いゴシップもどきだから無視してもいいんじゃね?
そうなると何故曹操が夏侯惇を常に武官筆頭格として厚遇し続けたのかがわからなくなるが 因みに
曹操の墓は「西高穴2号墓」と呼ばれ
遺体の無い「西高穴1号墓」は張繍の戦争で亡くなってしまい、最後まで死体が発見出来なかった
曹昂の墓ではないのか
と推測されています
http://m.51.ca/info/news/china/2018-03/633393.html 衣冠墓だっていう話だよね
典韋の墓はまだ残ってるんだろうか >>728
曹家夏侯家卞家が通婚を重ね合った連合組織だったからでは
曹操の旗揚げ時の夏侯家の首魁が惇だったと
後に気に入っていた淵の優遇が始まるけど 墓の上に立ってた建物って、やっぱり関羽に降伏した于禁の絵があったんかなぁ >>718
発想の原型は程cの故事にある「民の望」を集めうる人間という事なんだろうな こんなところで言うのも何だが、曹操の声を野沢雅子にする
日経って頭おかしいのか? 逆じゃないのか
趙雲なんかは人気あるからって知力や政治も高めに設定されてるし >>748‐750
そのへん、みんな演義の影響ってんだから凄い 僕が見た希望
趙雲 それはふれあいの心 幸せの趙い雲
趙雲 怒ったり恥じたりしてすぐ死ぬやつ多すぎだろ
なんて病気何コレ 曹操の墓が見つかって
本当の身長って割り出せないのかね〜
史実じゃ低かったみたいだけど その辺のことは「曹操墓の真相」って本に詳しく書いてあったはず 曹操クローンを作っても現代の食糧事情だと
すっかり大きく育ってしまいそう。 三国時代言うても親が官位を金で買えるくらい裕福なんだから、食糧事情はいいほうじゃないの? 少年期から青年期にかけて父親と死に別れたり故郷が曹操に荒らされたり叔父に従って揚州の僻地まで行って叔父まで殺されたり荊州まで逃げ延びたり満足に食えない時期が多かっただろうに
諸葛亮もよく大きく育ったものだ 司馬朗は童子郎(天才少年枠?)で官界入りしたけどデカいせいで年齢詐称を疑われたんだとか 手のひらに乗るほど小さな女性がモテた時代はあったかと >>773
それはそれで需要がある
だが一番重要なのは結局顔 阪神以外打ってないと言われてるけど
他でもきちんと長打でてるんだよな岡本
対東亰 11-3 二塁打2
対横浜 18-4 二塁打3
対広島 *9-2 二塁打1 本塁打1
対中日 12-3 二塁打1
計 50-12 二塁打7 本塁打1 >>767
まるであっちこっち放浪したみたいな書き方だけど
袁術系政治家の子弟として管理しやすい場所を移動しただけで困窮しちゃいないだろう
姉や弟もぴんぴんしてんだし >>780
同意。あの各陣営、人材不足のなかで奮闘する様は泣ける。 孫亮全夫人,全尚女也。
注)呉録曰:亮妻惠解有容色,居候官,呉平乃歸,永寧中卒。
↑これの「惠解」の訳なんだけど、ちくまでは「頭がよく」としてるんだけど、名前が「惠解」とは取れないのかな >>784
wikipediaの全皇后の項目の脚注にその事について書いてあるな
諱ともとれるし形容詞ともとれる
どっちが正しいのかわからん 三国志末期の祭りの後みたいな雰囲気好き、まあほとんど演義なんだけどさ
人材も国力も無い中で姜維や陸遜、陸抗などの末期の名将が奮闘するのは割と涙出る
大坂の陣の豊臣方武将みたいな感じ 俺も序盤の群雄割拠が好きだわ
ゲームでも中原制圧した辺りでつまらなくなってきてもう一度やり直す それぞれに面白いイベントあって晋の統一までずっと好きなんだがなぁ あと晋の統一からも八王からの数百年の大乱コンボが待ってるし
俺の大好きな遊牧民の時代とか一杯あるし
大陸史は大体面白い説 唐突だけど曹操の祖父曹騰の弟(兄?)で河間国相の時に汚職で摘発されたという曹鼎と、曹洪の伯父で尚書令の曹鼎と、曹休の祖父で呉郡太守の曹鼎、これらの人は同一人物なのでしょうか?
仮に別人だとしたら遺伝子鑑定の結果、曹操の子孫とDNAが一致したという曹鼎はどの人なんでしょうか? >>784
確かに名前とも思える、面白いね
しかし1800年も経つと固有名詞なのかただの文章なのかよく分からなくなるのが悲しい。
>>791
石井先生の著書だと同一人物になってるんだっけ?
でも
「曹操の祖父の兄弟」「曹洪の伯父」「曹休の祖父」
って世代がずれてないか?という気が……。
荀ケ荀攸のように兄弟が沢山いれば年齢差は無くなるって気もして結局何とも言えないけど。 曹休が避難先の呉郡太守の祖父の絵を見て泣いたというだけで名前不詳じゃね
曹休が曹騰の兄弟の孫なら同世代の曹操からすると族子扱いではなく従弟か族弟ぐらいでは
一方で曹操と曹鼎と遺伝子が一致という部分を考えるなら
曹嵩の父が曹鼎で兄弟の曹騰の養子となったというシンプルな話なのでは >>785
wikiの形容詞の用例は割と納得できるし、
よくよく考えてみれば二字名って珍しい部類なんだから名前じゃない可能性の方が高そうに思う。 まあ孫魯班とか孫魯育とか歩練師とか張春華とか王元姫とか賈南風などの例を見ると少なくとも三国時代後期には女性の諱には二名の禁が適用されてないように思えるんだな
歩練師以降の例は諱なのか字なのかはっきりわかんないけど孫魯班、孫魯育には大虎、小虎って字が別にあることはわかってるし 後漢末は鄭玄のように飛ばしている人間だと孫に二字つけだすしなあ 呉はなんか女性の発言力が強いよね
徐棍の母親(孫堅妹)とか「船が足りないのなら葦で筏を作ればいいじゃない」って戦にまで口出ししてるし >>800
早くから漢の徳が失われていたということさ >>781
定軍山となれば当然に法正
劉備と孔明の関係の一筋縄でのいかなさの意味でも 戦後、漢中太守に抜擢された魏延なんじゃね?
具体的にどんな戦功があったのかわからないけどさ >>806
普通に劉備では
劉備が張コウをボコって夏侯淵が予備を救援に差し向けたところで
黄忠の襲撃が成功したんだから 孔明「法考直が健在だったなら、よく主上を抑えて東征せずに済ませたであろうし、 たとえ東征しても、きっと危険を避けえたであろうに」 >>774
ないない
何故なら中国では女も体が大きいければ大きいほど徳が高く立派だとされるから
何皇后もわざわざ正史に身長が高かったことが記されているのもそのため 今だっておっぱいが大きくてセクシーな女性が人気ということになっているが
一方で貧乳童顔スレンダーの子どもっぽい女を好む人もいるわけで
んで後者の趣味はあまりおおっぴらにできない 外来の蜀漢政権ってのは要するに台湾の中華民国みたいなもんか 蜀正統論をもってしても正当化し切れない入蜀時の騙まし討ち
南宋の朱子があれは劉備のせいで孔明の意思ではないとしたが単なる贔屓というだけでなく君主と士大夫は本質的に対等という意識も伺えそうで興味深い
少なくとも家臣は主君の泥を被るべきという意識は見えない 物の見方はいろいろあるから正統論云々について深く踏み込むのもなんだけど、そもそもを云うならば劉焉は朝廷に任命された益州牧にすぎず、巴蜀は江夏劉氏の封土ではなく、劉璋が益州牧を世襲する正統性自体が無いんじゃないの?
それを踏まえると劉備の入蜀は、益州別駕張松ら益州豪族が法正、孟達ら扶風人士と組んで仕掛けたクーデターであり、劉備は「たまたま」盟主として担ぎ上げられた御輿に過ぎないとも言えなくもない その三人がその後にどうなっていったかも面白いんだよな
とにかく劉焉親子の政権は現地の支持が強く劉備でも平定に二年を費やしてるし そういや劉備にしろ劉焉親子も
白帝城にあった公孫述由来のもの破壊しなかったのって
公孫述に人気があったからかな
破壊されたの明代だったし
李雄が劉玄尊重したのと同じ感覚かな ばかにするなよ
台湾は製造業ででかい方よをリードしていた時期があるだろ はっきりいって荊州失陥後の蜀漢は中原への道も塞がれ益州での政権を維持するだけで精一杯の状況だったんだよな
だから南征だけでなく北伐ですらもいわばその負担を減らすための資源獲得と政治的パフォーマンスに過ぎなかった >>821
お前、劉二牧伝読めよ・・・
益州どんだけ荒れてると思ってんだよ
支持なんか全然強くねぇし、平定に時間掛かるのって
劉焉、劉璋の統治云々と関係なく、その後の諸葛亮時代見てもわかるように
現地勢力がそもそも従わない+強いんだよ
>>822
人気より何より余力もないのに破壊する意味あるか?
しかも後漢末に破壊しなきゃ!ってなるようだったらそもそも後漢初期〜盛期にやっとるだろ
あんまアホなこと言うなよ でも面白いこじつけじゃん
諸葛亮が北伐の際に子午道を使わなかったのは王莽が整備した道だから、みたいな 誰が何を言ったかって史書の中でも特に信憑性が怪しい部分じゃね? >>830
そうでもない
上奏文、勅書なんかは公式文書の引き写しだと考えられるし >>825
劉焉親子の基盤はこちらも外来の東州兵だったんだよな
要するに地元にしてみれば所詮は外省人同士の戦いに過ぎない
それも含めて孔明が如何に地元豪族を支持を苦労して取り付けていったのかも重要なわけだが じゃあ外州人とでもするか
とにかく後の台湾でも蒋介石が漢賊不両立を唱えていたし
大陸反攻と漢室光復も似たスローガン
もっとも入蜀がすんなりいかなかったため龐統を失い荊州の本軍の多くを呼び寄せねばならずそれが後の荊州失陥にまでつながるわけだが ホウ統生前から荊州軍呼び寄せしてるから時系列おかしいぞ
劉循率いる劉璋軍主力を劉備が1年抑え込んでる間に
益州に入り込んだ張飛ら率いる別動隊が各地を制圧してったんだから
「すんなり行かなかった」ってどうかと思うよ
むしろ1年で一州を完全にもぎ取ってるのは三国時代では結構早い方 演義では龐統を失った後に増援を呼んだ事になってるからその辺りの違いが面白い
そもそも最初から増援を呼ぶ計画があったのかどうかも含めて
いずれにしてもその結果として荊州方面の戦力が大きく減ったのに違いはない 劉循対策はしなきゃいけないだろうし
予定内の第二陣という気がしないでもないな 劉備の入蜀って蜀漢側の資料を見ると降伏者が相次いで出てすんなりいけたように思えるけど、同じ時期に漢中に偵察?に行った呂岱が劉備軍の敗退を予想していたり、同じ時期に魏国領内に劉備が死んだって誤情報が流れていたり、侵攻当初は相当苦戦していた様子も伺える 増援の派遣は益州の早期平定に役立ったろうがそれまでの本拠である西南荊州の防衛という観点としてはどうだったんだろうな
成都陥落後にはいくらかでも戻せたのか否か
その後の関羽の北進攻も絡めていろいろと気になる >>839
だから孟達が西から荊州を支えられるように宜都郡入りしてる たったそれだけ?
後の事を考えればまさに色々な意味で運命の人事だったわけだがどうして新参の孟達でなければならなかったかも気になる 現にホウトウが死んだり、張任殺したりしてる時点ですんなりとは行ってないよな >>841
人事見たら劉備が他にバックアップ用意してたのわかるようになってんだから
さすがにちょっと調べてから書き込もうか
無知なのはしょうがないにしても回答に対して「たったそれだけ?」とかいくら何でも失礼だよ 呉は呂岱のときも丁奉とのときも悉く蜀介入に失敗してんな >>844
孟達のサボタージュで機能しなくなるバックアップなんてその程度でしかなかったってことだろ
それ以上一体何を知る必要がある? >>848
孟達って関羽の動きに呼応して宜都から長躯して房陵、上庸を見事確保して
荊北西部方面から関羽に掛かる圧力を止めるサポートしてますけど…… >>851
寧ろ動いてたら荊州どころか蜀も危なかったんだよなぁ 陸遜が仮病で任地を離れた呂蒙の後任として陸口の督となったのが、関羽が于禁を捕えた建安二十四年八月以降
そこから三ヶ月あまりで呉は公安、南郡を陥して宜都郡を陥したのが十一月
更に房陵、南郷を降伏させその月のうちに麦城で関羽を捕えている
関羽の首が曹操に届けられたのが十二月
呉の荊州攻略が迅速すぎて孟達には上庸を堅守する以上のことは出来なかったはずだ
むしろ孟達を逆恨みする劉備の方がおかしいと思うのは俺だけだろうか 身近な人間が殺されたら判断もおかしくなるのは道理だと思う >>856を読んで呂蒙の軍略の才と実行力半端ないと思いました。 蒼天航路で鼻血バカみたいに描かれていたのが納得いかない 見事な電撃戦なのとそれを許す防衛力の低下ぶりが際立つね 呉書呉主伝によるとこの歳の荊州では疫病が蔓延していたらしく、孫権は荊州を獲った後にすぐに租税の免除を宣言している
呂蒙が孫権に医術の心得がある虞翻を戦に参軍させることを願い出たのも、呂蒙が南郡を獲った後に疾病者に医薬を給付したのもそれを踏まえた処置だったのだろう
麋芳、士仁らがほとんど抵抗することなく呉に降ったのも、もしかしたら疫病の影響で兵たちが満足に戦える状態でなかったのかもしれない ということは呂蒙はひょっとして南郡で罹患したのが死因か 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
6RT 蕭何「張良どのが引退されてなかったら主上の匈奴討伐を止めてくださっただろう、或いは討伐は止められなかったとしても冒頓単于に敗れることはなかっただろうに…」 冒頓戦はともかく荊州回復はあそこで動かないと不可能だし
劉備の信用を得られず良策のない諸葛亮が駄目なだけだろう 潘濬があの後も蜀にいたら何処まで出世出来たんだろうか?それとも干されて閑職に押し込められて終わりだろうか?
どちらにせよ劉備が生きてる内(呉と和解するまで)は風当たりが強いだろうが >>872
潘シュンが荊州治中従事だった時点で義兄の蒋琬は什県令、潘シュンの方が出世コースにいたように思える
蒋琬が諸葛亮に気に入られて異例の抜擢を受けたのを考慮しても同じとはいかなくても近いくらいの出世ができたのでは? 潘濬みたいな有能かつ節度のある幕僚がいたら諸葛亮の寿命がもう少し延びたかも
どちらにせよ蜀の文官は性格になんがあるやつ多いな 呂壱絶対殺すマンさんは有能かつ清廉の士だけど節度のあるというにはちと過激な性格をしているわ
その清廉さが酒色を好む劉禅とぶつからないとは限らない >>874
諸葛亮が劉備死後に政権の中心を獲得したとするなら
?義がもう一人できるだけじゃないかね 呉懿って何者だったのかな
・劉備の外戚
・魏延と並んで推される優れた武将
・尚且つ、「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。」と人望も申し分ない。
ホントに記実が焼け落ちたんですかねえ 後継に列伝を立てるほどじゃなかったけどしっかり出世した族弟の呉班がいるから
実際は呉匡没後に呉一族の代表になっただけでの人で、特に事績がなかっただけなんじゃないかな
書くことないのでふわっとした美辞麗句とかー伝焼け落ちたわーで誤魔化しただけで 呉懿の妹の呉氏が劉備に嫁いだ経緯もよくわからんよな
劉備本人が同族である劉璋の兄の未亡人を娶るのは礼教に反するとしてこの縁談に乗り気ではなかったのに、法正が晋の文公が甥の未亡人を娶った例もあると強引に説得してこの縁談をまとめている
政略結婚ありきの縁談だったってことなんだろうけど、つまりそこまでして懐柔しなければならないくらい呉懿ら呉一族が蜀領内で力を持っていたということになるんだろうか >>880
穆皇后呉氏はそう
呉匡の最期が伝わっていないけど、呉一族が劉焉を頼って益州入りした時もいたんじゃなかなあと
武官やっていた呉匡とその一族の力は外部から来た劉焉には頼りになっただろうし
そこから呉懿の妹を息子の嫁に迎えることによる強固な結びつきと政権の安定化を目指しただろうというのが推測しやすい >>882
昔は親子程に歳の離れた兄弟姉妹も珍しくない
三国時代の結婚観に関して鍾ヨウと鍾会の母だった後妻の関係でちょっと触れられてるが
地位ある男性はヤモメであることがよくないとして常に後添えを娶るように勧められるという話
呉懿の父親もそういう結婚をしていた場合、ある程度若い妹が呉懿に居た可能性は全くもって否定できない 劉焉存命中の婚姻なので劉備が回収した時に年齢がいっているのは確かだろう 政権を獲得するより新しい仕事に就いた方がかぶらずあらゆる面で
礼儀正しかったのでは。 結構劉備の子供は死んでそうだよな
家族見捨ててよく逃亡してたから捕まって殺されてそう 一回目の徐州失陥で妻子消滅、二回目は関羽降伏で生存
長坂で娘消滅
本拠地を失うとこうもなろうって感じだね 「国はまた作れば良い」
こんな考えだから何回も同じ歴史を繰り返す かんていだに渡辺崋山の描いた魯粛像が出てたんだが三国志好きだつたのかね?
見事な絵だったので他にもあれば見てみたい。 関羽と張飛は蜀創業の時代ではまぎれもなく英雄だったのは確か、ただ晩年の体制維持
特に大軍統率のカードとしては人格的にも器量的にも欠落点が多かっただけ
その欠点が事件として表れてしまったのが関羽の荊州喪失事件
張飛にいたっては昇進こそすれ実質的には田舎町の閬中に左遷だからね そういう思い込みで語るのよくないと思うよ
両方に対する指摘それぞれ間違ってる
関羽の敗戦って劉備のミスが目立つし張飛が任された場所って
益州の田舎どころか最重要拠点の一つだし 入蜀後の展開としては
荊州は関羽、諸葛亮
取り立ての蜀は劉備、張松、法正に呉一族
漢中方面進出に張飛、龐統的な人材配置をイメージしてたんだろうか
そうだとすると入蜀時に張松、龐統を失い法正も早くに亡くし軍事戦略、行政指導が諸葛亮がほぼ全部しないといけない時点で苦しいわね >>893
かんていだって何だ・・・
鑑定団と打ちたかった。 北、東より南西にスペースが広大。劉家の勝ちだろうね。 >>897
優秀な文官ならいくらでもいただろう
諸葛亮が彼らの権限を奪って独裁体制を構築していっただけ >>900
その独裁者の腰巾着の一人が晩年に実働部隊の魏延を謀殺に追いやって蜀の滅亡が規定路線に入った
蜀の末期は本当に酷い終り方 魏延の死が蜀の滅亡につながるとか重度の魏延オタでも言わないと思うw 軍権の継承がほとんどできないから二代続けて活躍は難しいでしょう
孫策だって孫堅軍団解体から孫家の代表が従兄に行ったりしてもう一度自分で組織した所あるし 北伐せずに勝手に魏は自滅したのを待ってれば良かったのにな
もしかしたら魏の皇族が蜀を頼ったかもしれんのに 馬騰の子、馬超 文欽の子、文鴦 孫堅の子、孫策
この辺は猛将っぽい
名将具合では親父に負けてるあたりうーんって 孫策は曹操との早期対立避けたり豪族の懐柔と討伐を使い分けてかなり巧みだと思うけどな
馬超は親の代より遥かに曹操の力が強くて辺境でやれる外交の選択肢少なくなってたし 蜀って今の四川でしょ?
「蒸し暑い」って描写あったっけ? 四川も広いけど四川盆地は1月でも10℃を超えて7月も30℃になる場所
蜀犬日に吠ゆという慣用句でもわかるように雲っていることが多い高温多湿の地域
だからこそ稲作が二毛作とか可能で生産力が非常に高い
三国時代は気温が下がって変化はしていたと思うけど というか馬騰は猛将でいいのか?
派閥領袖としては馬騰と馬超にそこまで大きく違いはないようにも思う
曹操戦を考えると馬超のほうがやはり上でいいのでは
文欽文鴦は文鴦の方が上でしょう。文欽は武勇あったとはあるけど匹夫で小者止まりという印象を受ける
孫堅孫策はどちらも猛将で間違いないけど、911が言うように孫策のほうが巧で上だと思う
これは強引一手の方針のせいで最終的に袁術の部将におさまらざるを得なかった父の反省点を受けてのものだろう 何が猛将だとか共有できるものも提示しないでただイメージだけでどうこうやってるのは
さすがに三戦板行ってやっておくんなさい
ここは世界史板という学問板ですぜ まともに動いている三国志スレはもはやここだけだけどな >>908
司馬氏の乗っ取りは蜀攻略の功績が大きいし
北伐しなかったら国力の差がより大きくなるだけじゃ? 三国志好きだからこんな元も子もない事言うのやだけど
戦乱の時代の個々の戦士の評価ほど信憑性の無いものは無いんだよね
勝った者が改ざんするから
昔話じゃない、現代においても何も変わらない
ナチスよりひどい市民虐殺をしたアメリカの正義がまさに今まかり通ってるのと同じ
ナチスは悪でアメリカが正義と見事に刷り込んだ、勝てば歴史も作れるんだよ
歴史はそういうものだと思いながら考察するといつの時代のものも実に面白い 長文で語らずともみんな正史ってそういうもんだって認識してるよ 歴史書に書いてあることを鵜呑みにせずに行間を読むことも大事だけれど、自分が信じたくないからといって史書にある史実を無視することは編纂者に対する冒涜だと思うんだよね >>921
知らんから上で猛将の定義って何?って言ってるんだよ 何言ってんだ?
猛将がどうこうって言ってる奴がいるから何を定義として猛将どうこう言ってんだ?って話だろ
猛将云々言い出した奴がまずどういう基準で猛将だと言ってるか説明する責任があるよ 名将ならもっと一般的な理解あるけど
猛将となると性格由来か? 普通に話が進んでいたのに、何故わざわざ定義どうこう言って場の空気を悪くするかね
一人の理解不足な人間が辺り構わず周りに迷惑をかけるいい例だな 半可通が陥りやすい状態だね
自分だけは学があるんだって思い込んで空気読めないレスをしてしまう
お前程度の学はみんなあって、その上でのある意味遊びをしているってのが理解できていない 学問板なのに定義が曖昧な言葉を曖昧なままにしておいて場の空気とか言い出すのはどうよ >>933
目くじら立てて騒いでるのが君だけという事実に、まず目を向けよう
自分の中で定義できてないなら話の腰を折るべきではない じゃあ巨根てのは長さ何センチ以上、カリ首周り何センチ以上なんだよ?
ろうあい お前の中での学問って巨根の定義なの?
他人の会話に文句ばかり言うくらいなら>>932を100回読んだ方が有意義だぞ >>903の話題があらかた終わってるので、もうこの話はヤメヤメ >>843
あれは吉川英治の原作まんまの描写でしょ >>935
逆でしょ
相手から「貴方の会話のソレは何?」と問われて応えられないようだったら討論にもならん
ただ言いたい事を言いに来てるだけならそれこそ三戦行ってやれ、って話だわ 夏休みらしいといえばらしいんでしょうか
不毛な言い争いだけどスレが伸びないよりはいいのか…? >>941
聞かれたことに何でも答えてもらえると思った?
頼むから最低限の教養くらい身につけてから来てくれ
ここは学問板なんだから >>943
猛将という辞書的にはふわっとした意味しかない単語を持ち出すんだから
どういった定義で猛将認定してるかってのは聞かれたら答えるとかそういうレベルの話じゃないよ
「一般名詞だけど意味や定義がはっきりしてないもの」に関しては
使った人が自分で使ってる意味がどのようなものかちゃんと答えないと
そもそも討論ならんでしょ、定義の提示は義務と言っていい
名士ってなんですかって言われたら名士論で売ってる先生とかは即座に定義出すでしょ 三國志トリビア
司馬懿は孔明に命を助けられたことがある by高士伝 >>945
自分が話題にしたものも説明できない、面倒臭いっていうなら
それこそ世界史板じゃなくて三戦行けばいいよ そういえばさ、司馬懿さん家の三男坊とか孫権さん家の末息子とか諸葛亮にちなんで命名されたのかなとか
三国時代の諱ってどのように名付けられるのかよくわかんないけど、現代では珍しくない友人や恩人や尊敬する人物にちなんで名付けられるような事例ってあるのだろうか? 尊敬してる場合はむしろ避けるだろ
古代とか敵国の人間は別だろうけど 例えば龐統士元の士とは男、元とは最初のと言う意味になるから日本風に言うと「太郎」みたいなもん。
その程度のもんじゃないの? WOWOWで「司馬懿 軍師連盟」やっているが司馬懿が曹操に狼顧の相を見せてしまうシーンが
凄みがあって良かった。 司馬懿ファン必見のドラマ w >>950
時期的にそれは無い
つか司馬亮みたいなバカなんか作らなければよかったのに >>950
日本人の場合、先祖や親から一字取って付けたりするものだけど、
中国はむしろ諱がかぶらないように注意するもんだぞ。
呉の丞相の顧雍は、師匠の蔡邕から名前をもらったけど、同じ漢字は避けてる。 大儒と呼んでも差し支えない博識な蔡ヨウの字は「伯カイ」で、父の字が「伯直」だから伯仲叔季は被ってもセーフ
他にも元、子、士あたりはセーフかもしれないし、「之」みたいなあまり意味がない字もセーフかもしれない >>956
孫奐の子と孫覇の子は「孫壱」、孫奐の弟と孫和の子は「孫謙」
後生まれである二宮の命名はガバガバ てか宗室内ぐらいちゃんと管理しろ 司馬一族って日本に渡来した人もいるんやな
大昔で子孫がいるかどうかわからんけど >>964
そうそう、wikiの受け売りで悪いけど
司馬達等は南梁の人と言われる。日本に渡来。飛鳥時代の人物。孫に鞍作鳥(止利仏師)
・・・だそうだ 河内温県の司馬氏だけが司馬氏ではないし
別系統だったりするんじゃないの? 司馬についた家が名乗っちゃうし違う血筋だらけだよな 勝手に名乗るとかあるのか・・・そういう時代だし仕方ないのか、系統調査も厄介だね
関羽も本人で血統は途絶えてるんだよね、関平の子孫はいそうだけど 裴松之先生は蜀記はデタラメばかり!と断じていたけど、龐会が関羽の子孫を皆殺しにしたって話も別のところで事実誤認が見られたり信憑性に薄いと思うんですけどね それでも裴注が無ければ後の演義も無かったろうな
それにしてもせっかくの劉氏なのに「漢」でなく「宋」を名乗ったという点にこの時期は「漢」の価値も無くなっていたという事か >>977
結局のところ後漢末期は官民の関係が最悪で、官の統制が取れない結果数百年の内乱を招いたわけで
民衆もだんだんその事実を冷静に咀嚼して解釈していったんじゃないかな
要するに民意の変化ってやつね「よく考えたらやっぱ漢てダメだったよな」ってね
無価値というよりむしろ再度名乗ってもデメリットになるムードがあったからだと思う
劉氏にとってこれ以上無いネームバリューだもん、無価値化してるくらいなら価値あるものに俺がする勢いで名乗ったんじゃないかな
それ以上の何か障害があったんだよ 問題の多かった時代の国号を名乗る弊害として、対外的にも大きい障害をもたらすと思う
むしろこっちのほうが深刻だろうね
「件の時代の政権を支持してる」「体質は変わらないのでは」「また何かあったら困る」「あまり大きい交易(交渉)は控えよう」
果ては西欧諸国にまで通じるシルクロードを抱えた貿易の盛んな国でもあったわけで
周辺国の疑心暗鬼を膨張させ交渉や経済にも大きい影響があったと容易に想像がつく
プライドだけでは飯は食えないってやつだね
中途で号を変えたような国の背景はまさにこういう事例が後発的に起こったんじゃないかな >>978
官民の関係が最悪なわけないじゃない
そもそも「世論」を作るのは民じゃなくて士大夫層だよ >>975
関平で思い出したけど彼の字が伝わっていなんだよな
若くして死んだから字が無かったと何かの資料で読んだけど
どうなんだろ?
馬岱の字も伝わっていないのが気になる 逆に字しか知られてない人っている?
女性の名前があだ名残ってないから、小説ゲームではほとんど捏造してるのは知ってるけど 馬岱の字は伯瞻って説が現在では有力
馬超が孟起なんだけど、本流は馬岱の系譜だったりするのかな 馬岱字伯瞻って清代にいきなり現れる記述だからなぁ
どこまで信じていいかは眉に唾しないと >>989
馬騰の一族自体が馬援後裔を自称しているだけのふわっとした集団だからどっちが本流も何もないだろう
後漢末の馬援一族の代表は馬融、馬日?達だし 劉岱「字がないとは岱四天王の恥さらしめ」
劉岱「やつは最も小物」
文岱「」 つか、この時代って誰もが字を持ってたの?
士大夫じゃなくて賊出身なのに字あったり、結構有名なのに字伝わってないとか、
昔は○○だったけど変えたとか。
本名を呼ぶのは失礼だから字で呼ぶていう割に、結構適当だよね。 記録に残る人間のが少数派だしそれらも常に氏名字が全部揃って残ってるとは限らない 正史『三国志』 三十二巻
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