正史『三国志』 三十一巻 [無断転載禁止]©2ch.net
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帯方郡って魏じゃねえの?
その前は公孫氏だけど、別に馬韓と呉が敵対する理由はないっしょ。
韓半島東南は辰韓じゃなかったっけ? 普通に敵対しまくってるが
帯方郡はもともと公孫康が戦乱で韓に逃れていた遺民をたきつけて
侵略して置いた郡だし仲良くできるわけないんだが 魏が滅ぼしたって書いてあるのは馬韓という解釈が一般的なの? どこをどう読んだらそんな頓珍漢な解釈が出てくるんだ 西成高速鉄道(西安~成都)が開業するけど
所有時間が16時間から3時間に短縮されるそうだ
日帰りで北伐できるねw >>556
赤烏(238- 251)年号の鏡が238年に攻め滅ぼされた公孫氏経由で
渡来とかあり得なくね? 教えてください
孫権の長男の孫登の教育係だったという支謙の伝は三国志にはないようですが、
(伝どころか一言も言及されてない)彼の伝が読める書物はなんでしょうか
和訳本はあるのでしょうか?
また、孫権はなぜ仏教僧を教育係にしたのでしょうか?
よろしくお願いします<(_ _)> >>576-577
ありがとうございます。
密林で見たらびっくりするほどの値段だったので、図書館で探してみます。
なぜ、呉書には支謙が登場しないのでしょうね?
捜神記や世説新語にも出てこないですよね。 >呉書に伝がない理由
支謙の功績は、呉の家臣としてよりも、訳教によるものだから、
順番が劣後してしまったのでは?
一言くらい言及があっても良さそうなものだけど、孫登の教師というだけなら、
その他大勢のうちの一人になってしまったのかも。
>呉と仏教
三国時代の仏教というと、地域も近い悪名高いサク融が思い浮かびますが、
それくらいしか分からん。
孫権としては仏教の専門知識ではなく、単に博学なところに期待したのかも。 ttps://zh.wikisource.org/wiki/%E6%A2%81%E9%AB%98%E5%83%A7%E5%82%B3
原文で読めるならこれどうぞ >>579
孫登が太子になったのは221年、支謙が訳経作業を始めたのが222年で、
ほぼかぶってるんですよね。孫登の教師といっても、訳経作業の片手間程度の
ものだったかも知れませんね。孫登には是儀や陸遜がそばについてましたし。
孫権はスピリチュアルwなものに興味示す人だから、仏教にも関心あったんでしょうね。
>>581
ちうごく語読めませんがありがとうございます。
康僧会って、あの孫晧と対話した記録が残ってるんですね。こちらにも興味湧きました。 于吉みたいな怪しいヤツに洗脳されるよりマシって感じじゃね? 曹叡って本当に曹丕の子どもだったのか
自分は袁熙の子ども説の方が後々考えると納得してしまう
生年の謎に加え
曹丕の死の直前まで皇太子宣言をハッキリと明言しなかった
曹丕が実母のスウ氏何故か殺してるし
スウ氏に曹丕がやった事を曹叡は郭皇后にやり返してるし
曹叡自身その後の暴走もあるし(大宮殿増設など)
自分の出生にまつわる真実を知ってしまった曹叡が自暴自棄になったのかのも >>585
そもそもあいつ長男じゃないな
あざなに仲って入ってるから 誕生日といえば卞氏や曹髦のもおかしいな
少帝弁は後漢書と資治通鑑で生年が違うんだっけ? 曹昂が死ななかったら、曹操の次に魏のリーダーになったのって曹昂だったのだろうか >>589
曹丕でも危ういのに、曹昂がいるのに曹沖を後継者にしたら袁紹死後真っ青の大混乱が起こるだろう なんだかんだ曹植みたいに後継げない気がするなあ
10代前半の弟は可愛くても後半以降になるとライバルになるって生々しいな 曹沖に跡を継いで欲しかったと一番強く望んでたのは案外曹丕かもと
誄や追贈や逸話から思う >>585
鄴が包囲されていた時期を考えると袁熙の子説は無理がある 呂蒙は荊州侵攻で魯粛の三分の計を危うくしたといわれるが蜀を魏の牽制役に封じ込めたという意味ではむしろそれを完成したといえる 魯粛は後継者指名してないよね。
魯粛の賛同者がいなかった(つくれなかった)のが大きいのかな。
孫権は荊州問題以降は劉備に対して悪感情しか抱いてなかったし。 >>596
誰がそんなこと言ってるの?
魯粛の戦略ってそこまで劉備に融和的じゃないよ? 自分の陣営のことしか考えない近視眼的な人間じゃなくて
劉備ってそれなりの軍雄を上手く使って呉の援護させようって戦略立ててたんだろう
だからどうしても孫家陣営の中じゃ劉備よりって立ち位置になるんじゃない そもそも劉備を対立軸にして親劉備、反劉備という見方で魯粛を分析するのがどうかと思う 孔明の三分の計は最終的には三番目の漢による再統一だからな
だから三分自体が目的の呉としては当然に蜀から中原への最短コースを塞ぐ必要がある
そして外来政権の蜀漢としては名分的にも北伐を繰り返さねばならない
台湾に逃げた国民党政権が大陸光復を唱え続けたのと同じに >>603
蜀漢正統の演義からすれば親劉備ですら問題にならないからな
それこそ服劉備でなければ褒めるに値しないって
途中の三者会談で孔明が魯粛に孫権などさっさと劉備に降伏して引っ込んでれば良いんだと暴言する場面はまさに作者の本音だろう 劉備の死後に結ばれた新たな蜀呉同盟の最大眼目は蜀の荊州放棄
これによって隆中対は不可能となり以後の蜀漢政権は益州での政権維持自体が目的となる 演義の魯粛嫌いなんてないやろ
演義でも正史でも魯粛は諸葛亮の大恩人 演義の魯粛って、読者の劉備ひいきを外せば
劉備に肩入れし過ぎて呉に数々の負債を作っただけのおっさんだからな
周瑜と呂蒙に挟まれていつ死んだのかすらわからないレベル 昔学習漫画の周瑜がチビのヒゲのおっさんにされてたのには笑った。 呉は統一ではなくあくまで江東割拠主義だからな
いわば初期の東国政権としての鎌倉幕府みたいな物で
だから魯粛は三分の時点で皇帝を名乗れと孫権に勧めた 正史の霊帝って今じゃ再評価進んでる見たいだけど献帝はどうなのかな
演義じゃ初期は小帝との対比で持ち上げられてるけど結局のところ中の下? 献帝の時点では既に後漢政権は実質崩壊しており比較は出来ない 劉備応援して前面に出し弾避けにするってのは悪くないと思う >>614
劉備を対魏の前線に出すんなら合肥戦に駆り出してやればよかったのに
まさかそこから丹陽や蘆江の領地をかすめ取ったりはできないでしょ
劉埼が死んだ時点で荊州から引き離しとけばなぁ 劉備が、今の状態で呉の庇護下に入ったら一生飼い殺しだって判断して距離を保ったなら流石の嗅覚だな
呉よりはるかに強かった袁紹の元には身を寄せて、劉表の元にも入ったのに 霊帝は商人ごっこをしたり面白いオッサンというイメージ。 袁家を滅ぼした時点で曹操は中原を制したといえるんですか? 袁家を滅ぼした直後の話ならば、三輔はまだ馬騰韓遂ら関中軍閥がのさばってるし司隷校尉鍾ヨウも司州を完全に掌握しているとは言い難いし、厳密に言うのなら中原を制したと言えるほどではなかったのかも
徐州青州も昌稀とか曹操に反抗的な勢力を滅ぼして統治は臧覇らに丸投げしてるような状態だし 政治的には荊州侵攻前が、中原を制し終わったから南進を開始したんじゃないかなって思えるけど >>574
だよな。当時は朝鮮半島南部も倭国の領土なんだから、そこから日本列島に持ち込まれている。 やっぱカリスマってのが一番身につけるの難しいよな。 >>628
劉備はもとからカリスマがあったと思うけど
中原をさまよって、さらにカリスマがついたと思う 公孫サンって、演義のイメージで勝手にいい人かと思ってた
正史読んだら頭おかしい人で正直ショック 人望のあった劉虞を殺すくらい時勢を読めてなかったらしいなそのおかげで袁紹に簡単にボコされた
演義では劉備様のお友達ってことと、作者お気に入りの趙雲の最初の飼い主ってことですげー優遇されてる
コーエー三国志だとまあまあ能力高めにされる 劉備絡みで演義序盤の補正入ってる人物と言えば陶謙もだよなあ どうなんだろ?史料を追っていくと陶謙はどうにも評価が難しい気がするんだよね
過去の経歴をみると寒門の出身ながら清廉で剛直な官僚として順当に出世しているのだけれど
徐州牧に就任して以降は子飼いの小人官吏を重用して地元の不評を買っていただの、地元の名士を僻地に左遷しただの、天子を自称する妖賊とつるんでただの、取ってつけたような悪評が並べられている
それは正当な評価なのか、徐州虐殺の後ろめたさを軽減させたい曹操さんサイドのネガキャンなのか、個人的に判断できないんだよね
同じことは公孫瓚あたりにも言えるけれど 陶謙って、孫策を敵視してたし張昭や呂範を獄に繋いだこともあったし、
呉側から見てもディスっていい人物じゃないかと思うんだけど、
なぜか張昭は哀悼の辞の中で陶謙を持ち上げてるという… 世界史のようにおもしろいかねがはいってくるさいと
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
NSYGR 孫策を敵視する人物は呉の内部にも結構いるのでは
表に出すかどうかは別として 陶謙は孫策というより、孫策のバックの袁術を敵視してたんだろう 孔明って平和な世ならどんな人生を歩んだんだろうな?
普通に一族のコネで中央の官吏となり、うまくいけば
二千石ってトコか? 腐敗した中央にはつかえねーぜ晴耕雨読タイプだから仕えなかったんじゃないの?
という疑問が割と抜けない 二千石は家柄からして別にそこまで出世じゃないな。
九卿くらいまでは行けたか。 嫁と二人で発明に明け暮れ、後漢書の方技伝に載せてもらえるのを目標に日々励む 徐州のアレを経由しない孔明が
その後どういう人生を指向するのかいまいち想像できん >>643
父諸葛珪は泰山の郡丞、叔父諸葛玄は袁術の元で(?)豫章郡の太守、その他の親族は前漢代の諸葛豊まで遡るまで目ぼしい人材なし
瑯琊諸葛氏は簡単に孝廉や茂才で推挙される程の名族ではなかったと思う
諸葛瑾は若い頃京師に遊学に出ていたらしいから相応の教育を受けさせる蓄えはあっただろうけれど 茂才って学識による推挙じゃないの?
家柄関係あるの? >>647
むしろ家柄のほうが大事だろ
仲間内で推挙しあうんだから 茂才は州刺史による推挙、孝廉は郡太守による推挙、でよかったはずだよね?
これらは郷里の評判、郷論を元に選考されるから各人の実力や品行そのものよりも家柄や学問の師匠の格が重視される選考になりがちだったと聞いた 独学じゃない?
鄭玄は190-196年ぐらいまで徐州にいた頃があったみたいだけれど 荊州の晴耕雨読族みたいなのってみんな相互に教え合ってるんじゃないの?議論って形かもしれないけど
司馬徽もなんかのことでは諸葛亮に教えたこととかあると思う 孔明はあんまり経書の学に打ち込んでなかった気がする 中国人って予定調和好きなのかな
なんか爺さんとかのエライ人が若者の今後を予言して果たしてその通りになった(美談)っての多い気がする
予見できない未来を見通したエピソードって中国式嘘松なんだなと 曹操とか馬超って長子は長子でも庶長子の噂もあるみたいだけどどうなんだろう あざなの「孟」の字は庶長子を示すらしいな
董卓の兄貴の董擢(字は孟高)や陳留太守張邈(字は孟卓)なんかも庶長子だったのだろう
他に誰かいたっけ >>661
それは理念だから当てはまる人もいれば当てはまらない人もいる まあ嫡男、正夫人って概念自体が曖昧だからな
後付けで嫡男、正夫人に昇格、或いは嫡男、正夫人から庶子、側室に降格することもあるだろう
庶子に生まれたとされている公孫瓚も字は孟珪ではなく伯珪だ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています