正史『三国志』 三十一巻 [無断転載禁止]©2ch.net
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外来の蜀漢政権ってのは要するに台湾の中華民国みたいなもんか 蜀正統論をもってしても正当化し切れない入蜀時の騙まし討ち
南宋の朱子があれは劉備のせいで孔明の意思ではないとしたが単なる贔屓というだけでなく君主と士大夫は本質的に対等という意識も伺えそうで興味深い
少なくとも家臣は主君の泥を被るべきという意識は見えない 物の見方はいろいろあるから正統論云々について深く踏み込むのもなんだけど、そもそもを云うならば劉焉は朝廷に任命された益州牧にすぎず、巴蜀は江夏劉氏の封土ではなく、劉璋が益州牧を世襲する正統性自体が無いんじゃないの?
それを踏まえると劉備の入蜀は、益州別駕張松ら益州豪族が法正、孟達ら扶風人士と組んで仕掛けたクーデターであり、劉備は「たまたま」盟主として担ぎ上げられた御輿に過ぎないとも言えなくもない その三人がその後にどうなっていったかも面白いんだよな
とにかく劉焉親子の政権は現地の支持が強く劉備でも平定に二年を費やしてるし そういや劉備にしろ劉焉親子も
白帝城にあった公孫述由来のもの破壊しなかったのって
公孫述に人気があったからかな
破壊されたの明代だったし
李雄が劉玄尊重したのと同じ感覚かな ばかにするなよ
台湾は製造業ででかい方よをリードしていた時期があるだろ はっきりいって荊州失陥後の蜀漢は中原への道も塞がれ益州での政権を維持するだけで精一杯の状況だったんだよな
だから南征だけでなく北伐ですらもいわばその負担を減らすための資源獲得と政治的パフォーマンスに過ぎなかった >>821
お前、劉二牧伝読めよ・・・
益州どんだけ荒れてると思ってんだよ
支持なんか全然強くねぇし、平定に時間掛かるのって
劉焉、劉璋の統治云々と関係なく、その後の諸葛亮時代見てもわかるように
現地勢力がそもそも従わない+強いんだよ
>>822
人気より何より余力もないのに破壊する意味あるか?
しかも後漢末に破壊しなきゃ!ってなるようだったらそもそも後漢初期〜盛期にやっとるだろ
あんまアホなこと言うなよ でも面白いこじつけじゃん
諸葛亮が北伐の際に子午道を使わなかったのは王莽が整備した道だから、みたいな 誰が何を言ったかって史書の中でも特に信憑性が怪しい部分じゃね? >>830
そうでもない
上奏文、勅書なんかは公式文書の引き写しだと考えられるし >>825
劉焉親子の基盤はこちらも外来の東州兵だったんだよな
要するに地元にしてみれば所詮は外省人同士の戦いに過ぎない
それも含めて孔明が如何に地元豪族を支持を苦労して取り付けていったのかも重要なわけだが じゃあ外州人とでもするか
とにかく後の台湾でも蒋介石が漢賊不両立を唱えていたし
大陸反攻と漢室光復も似たスローガン
もっとも入蜀がすんなりいかなかったため龐統を失い荊州の本軍の多くを呼び寄せねばならずそれが後の荊州失陥にまでつながるわけだが ホウ統生前から荊州軍呼び寄せしてるから時系列おかしいぞ
劉循率いる劉璋軍主力を劉備が1年抑え込んでる間に
益州に入り込んだ張飛ら率いる別動隊が各地を制圧してったんだから
「すんなり行かなかった」ってどうかと思うよ
むしろ1年で一州を完全にもぎ取ってるのは三国時代では結構早い方 演義では龐統を失った後に増援を呼んだ事になってるからその辺りの違いが面白い
そもそも最初から増援を呼ぶ計画があったのかどうかも含めて
いずれにしてもその結果として荊州方面の戦力が大きく減ったのに違いはない 劉循対策はしなきゃいけないだろうし
予定内の第二陣という気がしないでもないな 劉備の入蜀って蜀漢側の資料を見ると降伏者が相次いで出てすんなりいけたように思えるけど、同じ時期に漢中に偵察?に行った呂岱が劉備軍の敗退を予想していたり、同じ時期に魏国領内に劉備が死んだって誤情報が流れていたり、侵攻当初は相当苦戦していた様子も伺える 増援の派遣は益州の早期平定に役立ったろうがそれまでの本拠である西南荊州の防衛という観点としてはどうだったんだろうな
成都陥落後にはいくらかでも戻せたのか否か
その後の関羽の北進攻も絡めていろいろと気になる >>839
だから孟達が西から荊州を支えられるように宜都郡入りしてる たったそれだけ?
後の事を考えればまさに色々な意味で運命の人事だったわけだがどうして新参の孟達でなければならなかったかも気になる 現にホウトウが死んだり、張任殺したりしてる時点ですんなりとは行ってないよな >>841
人事見たら劉備が他にバックアップ用意してたのわかるようになってんだから
さすがにちょっと調べてから書き込もうか
無知なのはしょうがないにしても回答に対して「たったそれだけ?」とかいくら何でも失礼だよ 呉は呂岱のときも丁奉とのときも悉く蜀介入に失敗してんな >>844
孟達のサボタージュで機能しなくなるバックアップなんてその程度でしかなかったってことだろ
それ以上一体何を知る必要がある? >>848
孟達って関羽の動きに呼応して宜都から長躯して房陵、上庸を見事確保して
荊北西部方面から関羽に掛かる圧力を止めるサポートしてますけど…… >>851
寧ろ動いてたら荊州どころか蜀も危なかったんだよなぁ 陸遜が仮病で任地を離れた呂蒙の後任として陸口の督となったのが、関羽が于禁を捕えた建安二十四年八月以降
そこから三ヶ月あまりで呉は公安、南郡を陥して宜都郡を陥したのが十一月
更に房陵、南郷を降伏させその月のうちに麦城で関羽を捕えている
関羽の首が曹操に届けられたのが十二月
呉の荊州攻略が迅速すぎて孟達には上庸を堅守する以上のことは出来なかったはずだ
むしろ孟達を逆恨みする劉備の方がおかしいと思うのは俺だけだろうか 身近な人間が殺されたら判断もおかしくなるのは道理だと思う >>856を読んで呂蒙の軍略の才と実行力半端ないと思いました。 蒼天航路で鼻血バカみたいに描かれていたのが納得いかない 見事な電撃戦なのとそれを許す防衛力の低下ぶりが際立つね 呉書呉主伝によるとこの歳の荊州では疫病が蔓延していたらしく、孫権は荊州を獲った後にすぐに租税の免除を宣言している
呂蒙が孫権に医術の心得がある虞翻を戦に参軍させることを願い出たのも、呂蒙が南郡を獲った後に疾病者に医薬を給付したのもそれを踏まえた処置だったのだろう
麋芳、士仁らがほとんど抵抗することなく呉に降ったのも、もしかしたら疫病の影響で兵たちが満足に戦える状態でなかったのかもしれない ということは呂蒙はひょっとして南郡で罹患したのが死因か 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
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6RT 蕭何「張良どのが引退されてなかったら主上の匈奴討伐を止めてくださっただろう、或いは討伐は止められなかったとしても冒頓単于に敗れることはなかっただろうに…」 冒頓戦はともかく荊州回復はあそこで動かないと不可能だし
劉備の信用を得られず良策のない諸葛亮が駄目なだけだろう 潘濬があの後も蜀にいたら何処まで出世出来たんだろうか?それとも干されて閑職に押し込められて終わりだろうか?
どちらにせよ劉備が生きてる内(呉と和解するまで)は風当たりが強いだろうが >>872
潘シュンが荊州治中従事だった時点で義兄の蒋琬は什県令、潘シュンの方が出世コースにいたように思える
蒋琬が諸葛亮に気に入られて異例の抜擢を受けたのを考慮しても同じとはいかなくても近いくらいの出世ができたのでは? 潘濬みたいな有能かつ節度のある幕僚がいたら諸葛亮の寿命がもう少し延びたかも
どちらにせよ蜀の文官は性格になんがあるやつ多いな 呂壱絶対殺すマンさんは有能かつ清廉の士だけど節度のあるというにはちと過激な性格をしているわ
その清廉さが酒色を好む劉禅とぶつからないとは限らない >>874
諸葛亮が劉備死後に政権の中心を獲得したとするなら
?義がもう一人できるだけじゃないかね 呉懿って何者だったのかな
・劉備の外戚
・魏延と並んで推される優れた武将
・尚且つ、「非常に剛毅な人物であり、博愛の心を持っていた。」と人望も申し分ない。
ホントに記実が焼け落ちたんですかねえ 後継に列伝を立てるほどじゃなかったけどしっかり出世した族弟の呉班がいるから
実際は呉匡没後に呉一族の代表になっただけでの人で、特に事績がなかっただけなんじゃないかな
書くことないのでふわっとした美辞麗句とかー伝焼け落ちたわーで誤魔化しただけで 呉懿の妹の呉氏が劉備に嫁いだ経緯もよくわからんよな
劉備本人が同族である劉璋の兄の未亡人を娶るのは礼教に反するとしてこの縁談に乗り気ではなかったのに、法正が晋の文公が甥の未亡人を娶った例もあると強引に説得してこの縁談をまとめている
政略結婚ありきの縁談だったってことなんだろうけど、つまりそこまでして懐柔しなければならないくらい呉懿ら呉一族が蜀領内で力を持っていたということになるんだろうか >>880
穆皇后呉氏はそう
呉匡の最期が伝わっていないけど、呉一族が劉焉を頼って益州入りした時もいたんじゃなかなあと
武官やっていた呉匡とその一族の力は外部から来た劉焉には頼りになっただろうし
そこから呉懿の妹を息子の嫁に迎えることによる強固な結びつきと政権の安定化を目指しただろうというのが推測しやすい >>882
昔は親子程に歳の離れた兄弟姉妹も珍しくない
三国時代の結婚観に関して鍾ヨウと鍾会の母だった後妻の関係でちょっと触れられてるが
地位ある男性はヤモメであることがよくないとして常に後添えを娶るように勧められるという話
呉懿の父親もそういう結婚をしていた場合、ある程度若い妹が呉懿に居た可能性は全くもって否定できない 劉焉存命中の婚姻なので劉備が回収した時に年齢がいっているのは確かだろう 政権を獲得するより新しい仕事に就いた方がかぶらずあらゆる面で
礼儀正しかったのでは。 結構劉備の子供は死んでそうだよな
家族見捨ててよく逃亡してたから捕まって殺されてそう 一回目の徐州失陥で妻子消滅、二回目は関羽降伏で生存
長坂で娘消滅
本拠地を失うとこうもなろうって感じだね 「国はまた作れば良い」
こんな考えだから何回も同じ歴史を繰り返す かんていだに渡辺崋山の描いた魯粛像が出てたんだが三国志好きだつたのかね?
見事な絵だったので他にもあれば見てみたい。 関羽と張飛は蜀創業の時代ではまぎれもなく英雄だったのは確か、ただ晩年の体制維持
特に大軍統率のカードとしては人格的にも器量的にも欠落点が多かっただけ
その欠点が事件として表れてしまったのが関羽の荊州喪失事件
張飛にいたっては昇進こそすれ実質的には田舎町の閬中に左遷だからね そういう思い込みで語るのよくないと思うよ
両方に対する指摘それぞれ間違ってる
関羽の敗戦って劉備のミスが目立つし張飛が任された場所って
益州の田舎どころか最重要拠点の一つだし 入蜀後の展開としては
荊州は関羽、諸葛亮
取り立ての蜀は劉備、張松、法正に呉一族
漢中方面進出に張飛、龐統的な人材配置をイメージしてたんだろうか
そうだとすると入蜀時に張松、龐統を失い法正も早くに亡くし軍事戦略、行政指導が諸葛亮がほぼ全部しないといけない時点で苦しいわね >>893
かんていだって何だ・・・
鑑定団と打ちたかった。 北、東より南西にスペースが広大。劉家の勝ちだろうね。 >>897
優秀な文官ならいくらでもいただろう
諸葛亮が彼らの権限を奪って独裁体制を構築していっただけ >>900
その独裁者の腰巾着の一人が晩年に実働部隊の魏延を謀殺に追いやって蜀の滅亡が規定路線に入った
蜀の末期は本当に酷い終り方 魏延の死が蜀の滅亡につながるとか重度の魏延オタでも言わないと思うw 軍権の継承がほとんどできないから二代続けて活躍は難しいでしょう
孫策だって孫堅軍団解体から孫家の代表が従兄に行ったりしてもう一度自分で組織した所あるし 北伐せずに勝手に魏は自滅したのを待ってれば良かったのにな
もしかしたら魏の皇族が蜀を頼ったかもしれんのに 馬騰の子、馬超 文欽の子、文鴦 孫堅の子、孫策
この辺は猛将っぽい
名将具合では親父に負けてるあたりうーんって 孫策は曹操との早期対立避けたり豪族の懐柔と討伐を使い分けてかなり巧みだと思うけどな
馬超は親の代より遥かに曹操の力が強くて辺境でやれる外交の選択肢少なくなってたし 蜀って今の四川でしょ?
「蒸し暑い」って描写あったっけ? 四川も広いけど四川盆地は1月でも10℃を超えて7月も30℃になる場所
蜀犬日に吠ゆという慣用句でもわかるように雲っていることが多い高温多湿の地域
だからこそ稲作が二毛作とか可能で生産力が非常に高い
三国時代は気温が下がって変化はしていたと思うけど というか馬騰は猛将でいいのか?
派閥領袖としては馬騰と馬超にそこまで大きく違いはないようにも思う
曹操戦を考えると馬超のほうがやはり上でいいのでは
文欽文鴦は文鴦の方が上でしょう。文欽は武勇あったとはあるけど匹夫で小者止まりという印象を受ける
孫堅孫策はどちらも猛将で間違いないけど、911が言うように孫策のほうが巧で上だと思う
これは強引一手の方針のせいで最終的に袁術の部将におさまらざるを得なかった父の反省点を受けてのものだろう 何が猛将だとか共有できるものも提示しないでただイメージだけでどうこうやってるのは
さすがに三戦板行ってやっておくんなさい
ここは世界史板という学問板ですぜ まともに動いている三国志スレはもはやここだけだけどな >>908
司馬氏の乗っ取りは蜀攻略の功績が大きいし
北伐しなかったら国力の差がより大きくなるだけじゃ? 三国志好きだからこんな元も子もない事言うのやだけど
戦乱の時代の個々の戦士の評価ほど信憑性の無いものは無いんだよね
勝った者が改ざんするから
昔話じゃない、現代においても何も変わらない
ナチスよりひどい市民虐殺をしたアメリカの正義がまさに今まかり通ってるのと同じ
ナチスは悪でアメリカが正義と見事に刷り込んだ、勝てば歴史も作れるんだよ
歴史はそういうものだと思いながら考察するといつの時代のものも実に面白い 長文で語らずともみんな正史ってそういうもんだって認識してるよ 歴史書に書いてあることを鵜呑みにせずに行間を読むことも大事だけれど、自分が信じたくないからといって史書にある史実を無視することは編纂者に対する冒涜だと思うんだよね >>921
知らんから上で猛将の定義って何?って言ってるんだよ 何言ってんだ?
猛将がどうこうって言ってる奴がいるから何を定義として猛将どうこう言ってんだ?って話だろ
猛将云々言い出した奴がまずどういう基準で猛将だと言ってるか説明する責任があるよ 名将ならもっと一般的な理解あるけど
猛将となると性格由来か? 普通に話が進んでいたのに、何故わざわざ定義どうこう言って場の空気を悪くするかね
一人の理解不足な人間が辺り構わず周りに迷惑をかけるいい例だな 半可通が陥りやすい状態だね
自分だけは学があるんだって思い込んで空気読めないレスをしてしまう
お前程度の学はみんなあって、その上でのある意味遊びをしているってのが理解できていない 学問板なのに定義が曖昧な言葉を曖昧なままにしておいて場の空気とか言い出すのはどうよ >>933
目くじら立てて騒いでるのが君だけという事実に、まず目を向けよう
自分の中で定義できてないなら話の腰を折るべきではない じゃあ巨根てのは長さ何センチ以上、カリ首周り何センチ以上なんだよ?
ろうあい お前の中での学問って巨根の定義なの?
他人の会話に文句ばかり言うくらいなら>>932を100回読んだ方が有意義だぞ >>903の話題があらかた終わってるので、もうこの話はヤメヤメ >>843
あれは吉川英治の原作まんまの描写でしょ >>935
逆でしょ
相手から「貴方の会話のソレは何?」と問われて応えられないようだったら討論にもならん
ただ言いたい事を言いに来てるだけならそれこそ三戦行ってやれ、って話だわ 夏休みらしいといえばらしいんでしょうか
不毛な言い争いだけどスレが伸びないよりはいいのか…? >>941
聞かれたことに何でも答えてもらえると思った?
頼むから最低限の教養くらい身につけてから来てくれ
ここは学問板なんだから >>943
猛将という辞書的にはふわっとした意味しかない単語を持ち出すんだから
どういった定義で猛将認定してるかってのは聞かれたら答えるとかそういうレベルの話じゃないよ
「一般名詞だけど意味や定義がはっきりしてないもの」に関しては
使った人が自分で使ってる意味がどのようなものかちゃんと答えないと
そもそも討論ならんでしょ、定義の提示は義務と言っていい
名士ってなんですかって言われたら名士論で売ってる先生とかは即座に定義出すでしょ 三國志トリビア
司馬懿は孔明に命を助けられたことがある by高士伝 >>945
自分が話題にしたものも説明できない、面倒臭いっていうなら
それこそ世界史板じゃなくて三戦行けばいいよ そういえばさ、司馬懿さん家の三男坊とか孫権さん家の末息子とか諸葛亮にちなんで命名されたのかなとか
三国時代の諱ってどのように名付けられるのかよくわかんないけど、現代では珍しくない友人や恩人や尊敬する人物にちなんで名付けられるような事例ってあるのだろうか? 尊敬してる場合はむしろ避けるだろ
古代とか敵国の人間は別だろうけど 例えば龐統士元の士とは男、元とは最初のと言う意味になるから日本風に言うと「太郎」みたいなもん。
その程度のもんじゃないの? WOWOWで「司馬懿 軍師連盟」やっているが司馬懿が曹操に狼顧の相を見せてしまうシーンが
凄みがあって良かった。 司馬懿ファン必見のドラマ w >>950
時期的にそれは無い
つか司馬亮みたいなバカなんか作らなければよかったのに >>950
日本人の場合、先祖や親から一字取って付けたりするものだけど、
中国はむしろ諱がかぶらないように注意するもんだぞ。
呉の丞相の顧雍は、師匠の蔡邕から名前をもらったけど、同じ漢字は避けてる。 大儒と呼んでも差し支えない博識な蔡ヨウの字は「伯カイ」で、父の字が「伯直」だから伯仲叔季は被ってもセーフ
他にも元、子、士あたりはセーフかもしれないし、「之」みたいなあまり意味がない字もセーフかもしれない >>956
孫奐の子と孫覇の子は「孫壱」、孫奐の弟と孫和の子は「孫謙」
後生まれである二宮の命名はガバガバ てか宗室内ぐらいちゃんと管理しろ 司馬一族って日本に渡来した人もいるんやな
大昔で子孫がいるかどうかわからんけど >>964
そうそう、wikiの受け売りで悪いけど
司馬達等は南梁の人と言われる。日本に渡来。飛鳥時代の人物。孫に鞍作鳥(止利仏師)
・・・だそうだ 河内温県の司馬氏だけが司馬氏ではないし
別系統だったりするんじゃないの? 司馬についた家が名乗っちゃうし違う血筋だらけだよな 勝手に名乗るとかあるのか・・・そういう時代だし仕方ないのか、系統調査も厄介だね
関羽も本人で血統は途絶えてるんだよね、関平の子孫はいそうだけど 裴松之先生は蜀記はデタラメばかり!と断じていたけど、龐会が関羽の子孫を皆殺しにしたって話も別のところで事実誤認が見られたり信憑性に薄いと思うんですけどね それでも裴注が無ければ後の演義も無かったろうな
それにしてもせっかくの劉氏なのに「漢」でなく「宋」を名乗ったという点にこの時期は「漢」の価値も無くなっていたという事か >>977
結局のところ後漢末期は官民の関係が最悪で、官の統制が取れない結果数百年の内乱を招いたわけで
民衆もだんだんその事実を冷静に咀嚼して解釈していったんじゃないかな
要するに民意の変化ってやつね「よく考えたらやっぱ漢てダメだったよな」ってね
無価値というよりむしろ再度名乗ってもデメリットになるムードがあったからだと思う
劉氏にとってこれ以上無いネームバリューだもん、無価値化してるくらいなら価値あるものに俺がする勢いで名乗ったんじゃないかな
それ以上の何か障害があったんだよ 問題の多かった時代の国号を名乗る弊害として、対外的にも大きい障害をもたらすと思う
むしろこっちのほうが深刻だろうね
「件の時代の政権を支持してる」「体質は変わらないのでは」「また何かあったら困る」「あまり大きい交易(交渉)は控えよう」
果ては西欧諸国にまで通じるシルクロードを抱えた貿易の盛んな国でもあったわけで
周辺国の疑心暗鬼を膨張させ交渉や経済にも大きい影響があったと容易に想像がつく
プライドだけでは飯は食えないってやつだね
中途で号を変えたような国の背景はまさにこういう事例が後発的に起こったんじゃないかな >>978
官民の関係が最悪なわけないじゃない
そもそも「世論」を作るのは民じゃなくて士大夫層だよ >>975
関平で思い出したけど彼の字が伝わっていなんだよな
若くして死んだから字が無かったと何かの資料で読んだけど
どうなんだろ?
馬岱の字も伝わっていないのが気になる 逆に字しか知られてない人っている?
女性の名前があだ名残ってないから、小説ゲームではほとんど捏造してるのは知ってるけど 馬岱の字は伯瞻って説が現在では有力
馬超が孟起なんだけど、本流は馬岱の系譜だったりするのかな 馬岱字伯瞻って清代にいきなり現れる記述だからなぁ
どこまで信じていいかは眉に唾しないと >>989
馬騰の一族自体が馬援後裔を自称しているだけのふわっとした集団だからどっちが本流も何もないだろう
後漢末の馬援一族の代表は馬融、馬日?達だし 劉岱「字がないとは岱四天王の恥さらしめ」
劉岱「やつは最も小物」
文岱「」 つか、この時代って誰もが字を持ってたの?
士大夫じゃなくて賊出身なのに字あったり、結構有名なのに字伝わってないとか、
昔は○○だったけど変えたとか。
本名を呼ぶのは失礼だから字で呼ぶていう割に、結構適当だよね。 記録に残る人間のが少数派だしそれらも常に氏名字が全部揃って残ってるとは限らない 正史『三国志』 三十二巻
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