匈 奴2 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>831
僕も、このスレ来るまでは犬戎を犬だとばかり思ってましたよ(笑) ガンファン(羊丼)
カザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、中国・ウイグルなど、中央アジアに広く分布する。
サイコロ大に切った赤ピーマン、タマネギ、ニンジン、セロリ、羊肉と細切りしたトウガラシを
鍋で炒め火を通す、その後水を加え1時間〜2時間位じっくりと煮る、
灰汁を取りつつ煮立ったらホールトマトを適量入れ塩と胡椒で味を整える。
火を止めたら仕上げにディルやコリアンダー(香菜)などの香草を入れて
このスープはご飯にのせると、中央アジア風牛丼(羊丼)の「ガンファン」になる。
美味そう。でも当時は米の入手がな・・・江南は遠すぎだからイラン北部のヒュルカニアからの交易品だろうか うまそう
ロマンというか悠久の歴史というのかワクワクが止まらない シュメール人は玉ネギ、きゅうり、キャベツ、レタスなどをたべ
やはり多種多様の肉のシチューを好んだようで
大麦ビールを飲み、甘いはちみつのケーキを焼いて喰い、
砂漠の遊牧民を「食を知らぬ」と軽蔑した 犬戎がチベット系って可能性あるのかね?wikiにあったが トルコ系なんじゃないかと思うけど >>833
アレクサンドロス大王はダレイオス三世と対戦した時は4万前後の兵を率いていたけど
インドに攻め込んだ時には10万もの大軍を率いていたとされる
アレクサンドロス大王はロクサネとの結婚で彼女の父オクシュアルテスらの配下の
バクトリアやソグドとサカなどイラン兵で大幅に戦力を増強したようだ
アレクはイラン兵でフィリッポス2世とパルメニオンが育て上げたマケドニア兵を牽制した
アレクと類似の例ではアケメネス朝のキュロス2世がマッサゲタイの女王トミュリスと
結婚しようとしたがこれは実現しなかった
ホラズム・シャー朝のテキシュはカンクリ族のテルケン・ハトンとの結婚で戦力を増強し
ホラズム・シャー朝は帝国化に成功したけど彼の死後テルケン・ハトンの専横により
ホラズム・シャー朝は滅亡する事になる 王昭君や江都公主さんのこともたまには思い出してやってください ロクサネも最後はギリシャで息子とともに殺害されているから
波乱の人生とは言えるね 匈奴は日本のルーツの突厥の前身で白人の中の白人だったね。 アレクサンドロス大王はダレイオス3世の娘スタテイラと
オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚したけど
ヘファイスティオンもスタテイラの妹ドリュペティスと
ロクサネの妹アマストリネと結婚した
ヘファイスティオンが死ぬとスタテイラとロクサネは
アレクサンドロス大王にとって用済みとなったようだ
アレクの死後スタテイラとドリュペティスの姉妹は
ロクサネに殺されてしまった
セレウコス朝初代セレウコス1世はマケドニア版徳川家康
セレウコス1世はスピタメネスの娘アパメと結婚したけど
彼はアパメと離縁せずセレウコス朝はスピタメネスの末裔となった 古代ギリシア人は遊牧民由来のため肉、とくに豚をこのみ、魚をさげすんだが
のちには魚の塩焼きを好んで食した
ギリシャ半島は土地がせまいため耕作に適さず交易で麦を手に入れ
大麦の粥なども食べるようになりやがてエジプト人から教わったパン作りに精を出す
マケドニア首都ペラは北緯40度だから、オルドスや北京、日本でいうと秋田県小阿仁村
や岩手県岩手町・・草も生えない北の地で農業に適さない
このあたりは遊牧民が強盛の土地なので大王は、おそらく羊肉を好んだと思える
ソクラテスによればギリシアのスポーツマンや闘士は牛肉を喰ったらしいので
豪傑英雄を気取る大王が、体力つくりで牛肉をこのんで食べていても不思議ではない
しかしマケドニアはコメが取れる土地ではなく、イランまで東征すれば
ヒュルカニアで米が取れる
妻ロクサネの自慢料理に羊丼や牛丼が並んでてもおかしくない
というわけでアレキサンダー大王は
牛丼好きだった!という結論でおわる ロシア古儀式派の高僧アヴァクームは、総主教ニコンの取り決めた儀式に従わない反抗者として
最北端の、北極海に面した要塞プストブルクに移住されられた。
ここは丸太を組合わせた木造の教会があるきりで最も寂しい土地だった
北緯67度という極限のため、プストブルクはサモエド族に頻繁に襲われる
村は人口は次第に減っていき40人になり第二次大戦では19人が徴兵され戦死した
そのご、人は離れて廃村となったが丸太の教会は考古学的に重要とされる
高僧アヴァクームは15年間北極海に幽閉されたが節を曲げず、彼を英雄視する古儀式派がひろまった
ツアーリは彼を捕らえて火刑に処した
古儀式派への拷問や処刑など弾圧はきびしくなり、古儀式派の人はドイツやアメリカや日本に移住した
北極海に住むサモエード人はモンゴロイド。人口は4万とされる
ウラル系Y染色体ハプログループNが97%であり、8000年前の中国の遼河文明でもこの遺伝子
が6割と支配的であった。現在でも遺伝子はフィン人が6割、バルト人が4割、ロシア人も2割もっており
北欧人において、ハプログループNとの血縁は薄くない
モンゴロイド遊牧民が、南下して農耕スキタイ人を強姦しまくったのだろうか。 その割にフィン人もバルト人も色白金髪
もう少しモンゴロイド的要素があっても良さそうだが・・・ 北欧の原住民サーミ人は顔は白肌で目はグリーンだがモンゴロイド
Y染色体ハプロNは50パーセントにたっした
トナカイ遊牧で生計を立てるサーミ人はスェーデン帝国では厳しい人頭税など課されれるが何とか生きてた
しかし北欧にロシア帝国が台頭するにつれて水使用権など基本人権は剥奪され
サーミ人はフインランドやスェーデンに移る
フェルトの服をきるが被差別民サーミ人であることを告白するにひとしく、この勇気を持つものはなく、すたれる
サーミ人はサーミ人の信仰は、森羅万象に宿る様々な精霊を対象とした精霊信仰た
ノアイデと呼ばれる巫女、シャーマンと崇拝。ほとんど、古代日本と卑弥呼
ローマ時代のタキトウースのゲルマーニアにスカンジナビアに女王があることは
驚きを持ってしるされ
これが北欧イギリスの女王制度の源流では、ある 今、嫌儲板で鎌倉武士300VSスパルタ兵300スレがあります
時代も違う架空戦記スレですがこのスレの皆様暇でしたらご意見よろしくお願いします
板のスレの新陳代謝が早いのでDAT落ちや完走等で流れてしまいましたらごめんなさい
またスレ違いすいません
このスレで弓騎兵の強さを学びましたが集団のイメージが薄い鎌倉武士で、というのが面白くここの住人の皆様のご意見聞いてみたいなと 単純化すれば
・スパルタのレオニダス王は300人親衛兵とともに、クセルクセス王ひきいる200万のペルシア軍に首をはねられる
・クシャーン帝国(月氏)のカニシカ大帝はパルティア人を9億人殺す
・匈奴は40万の大軍で月氏を「最終解決し」オルドスから抹殺。月氏王の頭蓋で髑髏杯をつくる
・匈奴の末裔は東胡王の末裔烏桓におそわれ、鮮卑(モンゴル)にほろぼされる
・モンゴルのさしむけた大軍を鎌倉武士にたたきつぶされ、松浦党に海に沈められ皆殺しにされる
・新田義貞のひきいる新田荘のグンマー人20万の大軍に鎌倉は大虐殺
東に行くほど強い、東高西低の世界史では
最強は新田義貞か >>856
昔読んだ一般向けの評論誌で、もし秀吉軍を朝鮮半島で敗北させることが出来なければ、
おそらく、中国大陸を超えてはるか西方まで進軍していたのではという発想が掲載さていた
戦国時代で切磋琢磨し、当時最新式の火縄銃を大量生産でき、その戦術を磨いていた秀吉軍(日本軍)は
最強だったのではとの見解 日本軍は鉄砲を知らぬ朝鮮軍をやぶるが
明軍の仏郎機、フランキにやぶれる
フランキ砲は後装の大砲である
日本では国崩しといわれた
これは後に満州の太祖ホンタイジに利用されて明を滅ぼす
のちにモスクワ大公国がユーラシアを制覇するのは
大砲の威力に拠るものだった
ピョートル大帝が死ぬときロシア帝国は世界で最も
多くの製鉄所と大砲をもっていたとされる
ただ、近代化をを急ぎ重税を下賜し農奴制(どれい制)を整備したのも大帝であり
この農奴制がいずれソビエト連邦を産む イタリアにはリゾットという米料理があるが、これは北イタリアのミラノがつくった
調理法はもともとローマ時代からある麦粥が母体となってる
正確には1470年代、ミラノ大公のスフォルツァ家がオリエントの米を
欲したようでガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ大公に12袋の米が献上されたという
残忍で知られたガレアッツォ・マリーアは女傑カテリーナ・スフォルツァの父でもあるが
このカテリーナの母ルクレーツィアは有名な美少女だった。肖像画がよく知られている。
ガレアッツォ・マリーアに監禁・強姦され4人の子を産んだという
そもそも性交して4人もボコボコ生んでるのだからどっちが強姦したのかわからないが
ルクレーツィアは20歳、ガレアッツォは16歳だった。
しかしこのようなイメージとことなりガレアッツォ・マリーアは米作りを奨励するなど
なかなかの明主だったようだ
ルネサンスの君主は、政敵を殺してその死体をホルマリン漬け標本にして飾っておき
楽しむという鬼畜が「ごくふつう」だったからむしろ仁君だったのかもしれぬ >>858 日本の戦国大名は広大な大陸での兵站を貼ってからの武器、食料の補給
と言ったシステマティックな発想は苦手なようなので、その辺から絡めとられて敗北という気がする。
毛沢東が蒋介石に勝てたのも、それまでは支配した戦地から適当に略奪、補給だったのを
農村に手厚く接する事で農村自体を食糧基地化できたからと言われる。 アッチラ大王の死後、史上はじめてロシアと北欧ドイツを支配した大帝国は崩壊した
アッチラの息子はもっとも忠実なゴート族長、ゲピード王にやぶられて四散した
帝国の中心地、パンノニア(ハンガリー)はゲピード王国が支配する
なお発掘の調査によれば末期のゲピード王国はゴート族といいつつ
ほぼ「アヴァール」ふうのアジア衣装を着ていたとされる。フン族との混交の結果だろうか
やがて東ローマはイタリア支配する東ゴートとパンノニアのゲピード族を牽制すべく
より野蛮なランゴバルド族(長髭)を呼び寄せる
ランゴバルド王アルボインは、柔然、アヴァール遊牧民とむすび、ゲピード王を滅ぼす
柔然アヴァールはハンガリーという土地を得て
ランゴバルドはこのとき多くのゲピード人を従えて併合しイタリアを征服
ランゴバルド王アルボインは異民族融和のためかゲピード王のむすめロザムンダを強姦して后とした
残忍なアルボインは、ゲピード王クニムンドの頭蓋骨で盃をつくり、これをロザムンダに飲ませる
ロザムンダは復讐を決意、ランゴバルド王が無防備なベットを狙って暗殺する
アッチラが若い美しいゲルマン金髪娘に殺される題材もそうだが
ロザムンダはイタリア人が好む題材で絵も描かれる、
父王の髑髏杯をのまされくだりはあまりに陰鬱なためイタリア人以外では嫌悪される イルディコの婚礼の夜に
花嫁はベールをかぶり泣きじゃくる
アッチラは血の海だったそうな ざっくり言うと匈奴も鮮卑も大半は漢民族に吸収され融合してしまったのか?
現代の中国人は自分たちが匈奴や鮮卑の子孫でもあると認識しているのか? ハンガリー人はアッチラや妻レカの名前を多用する
ハンガリー王国を建てた遊牧民マジャール人はウラルの東方から移動してきて
もとはフン族と同族で大昔に別れた余種だと称してる
また伝説上のハンガリー王の1人はアッチラの息子だとも
その家からでたのが、聖王イシュトヴァーン1世であり、歴代のハンガリー王は聖王の宝冠を
かぶることで即位できる。この儀式はハンガリー人はアッチラ大王への尊敬を深める
ハンガリアの伝承によればアッチラを見てローマ教皇は「神の使徒」だと激賞したという
エヴァのシトではないぞ、
したがってローマカトリックの人にはアッチラはペテロとおなじ使徒・聖人の意味を持つ
俗説だが有り得る話である
新しい教皇アレクサンデル6世を毛嫌いしていたシャルル8製は2万5千の大群を率いて
イタリアに南下してフィレンツェ共和国に向かって進軍した。
修道士サヴォナローラはシャルル8製侵攻を「神の裁きだ」と迎合した
フィレンツェの腐敗ぶりやメディチ家独裁を批判し追放
次に教皇をも攻撃し、教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門されるけど・・ >>868
穴居人生活の中国各地の蛮族が、もとの中国人に近いそうな。野人という
現在の中国よりも小柄で美人のはず、遼河文明の頃は文明人はサモエド系だったようだ
羊飼いの胡人や羌奴が西方から多く入ってきて吐火羅人やイラン人の血が入る
それで大柄になる
匈奴は目が緑でトカラ系かもしれないし、東胡もすこしまざってる
鮮卑の王家とみとめられていた慕容垂が、身長184センチ
顔は親しみやすいモンゴロイドだが、体はでっかいという遺伝子が増えたみたい
現在の中国男性の平均身長は日本人以下ですけど
中国女性は日本女性より背が高い ギボンによれば「パンなどという軟弱な食べ物は口にしない」アッチラ大王だが
パンはエジプトからやっとギリシアに伝播して
下層ローマ人は油で炒めた大麦リゾットを食べていた
まチュルク人ならパンのような野蛮なものよりもひき肉の饅頭マントウが好みだろうが
欧州で米のリゾットやパエリアをくえたのはミラノ大公が奨励した14世紀以後で
いま欧州の観光地スペインは海産物をいれた炒飯パエリアが超人気となり
ドイツ人や北欧人が「うまい!おらの村でこげな美味いものを喰ったことはねえ」
とパエリアを食べまくるにでスペイン人はこまってる
白人がアフリカの海産物を買い占めて、イカやタコが暴騰して日本人が困ってる >>864
ダキア(トランシルヴァニア)をゲピード王国が支配した
パンノニア(ハンガリー西部)は東ゴート王国が支配した
フン帝国はゲピード王アルダリックらに倒されたけど
ほぼ百年前に羯族らも石虎の漢人養子の冉閔に滅ばされた >>868
現代のフランス人にも欧州匈奴=フン族の子孫はいる このスレに関連するような古代日本の話てありますか?
元寇より前の サーサーン王朝は北方遊牧民を起源とするパルティア帝国の中では
旧王朝の首都ヘリオポリス、つまり北緯29度という南方で
ゾロアスター教の神官であったアルダシールが太守として力をつけた
サーサーン朝はパルティアを破り「諸王の王」アケメネス朝の復興を掲げた
宗教色がきわめて色濃く、流行した仏教やマニ教にを邪教として排斥
また地方貴族の力を削いで、中央に仕える官僚体制を目指した
きわめて簡素な体制だが、ただしいったん敵に敗れるとまったく敵の
いいように頭部をすげかえることも容易となる
硬直化した王はイスラム共同体の容認ができなくなり最悪の対立に進む
ペーローズ1世はエフタル白匈奴を排除すべく469年にエフタルを大攻勢。
敗れて白匈奴の捕虜となり、息子を人質に差し出しエフタルに貢納を納める
旱魃により財政事情は逼迫、エフタルを攻めたが敗死した
外部圧力からサーサーン朝はよわまってき、腹背にイスラム共同体の決死攻撃を
うけたときは都市の多くは抵抗を諦めてイスラムに帰伏した。
折悪く、南部における大洪水で農地が破壊、暴政で人は飢餓に苦しんでいた
頼朝の旗あげのときも西日本は飢饉に苦しんでいた。この読みと時機をつかむことで、
ゾロアスター教には邪教とされたであろう、新宗教共同体を、世界帝国におしあげる サーサーン朝のヤズデギルド3世はイスラム共同体への反攻を企て、ローマ皇帝ヘラクレイオスとの関係強化した。
両皇帝は連携してウマルを撃滅しようと企てた。
ウマルは兵の乏しさになやんでいた。まだ新顔ペルシア人には頼れず、当然ながら勢力基盤の砂漠の民はすくない
名門出のサード将軍は4000の兵を引き連れて進撃した。集められた軍勢はアラビア中の新兵の寄せ集めだった。
イスラム軍は2万程度とされる。坐骨神経痛に悩むウマルは小高い丘で検視し、若きサードが兵を率いる
装備は全身を覆う鎖帷子で、ササーン式のきらめく銀兜と長剣で武装。
ササーン朝の軍隊は10万。切り札はインド属州から来た象兵で、インド人部隊ともいわれた
これら歴戦のロスタム将軍が指揮する。つまり負ける恐れは皆無だ
各地で転戦して弱まったりと言えどサーサーン帝国はやはり比類なく強大で、しかしビザンチンの主力戦線にくらべ
よろいは軽装であり配備部隊は新兵もおおかった。偶然イスラムと同条件でウマルの心労は当たらずに済んだ
ウマルは礼法にしたがってヤズデギルド3世に使者を送り改宗をすすめる。王は軽蔑の印に「かごに土を入れて」
使者にもたせる。これをみて使者は「王は土地を譲って下さる」とよろこんだ。ロスタムは激怒した
新兵どうしの戦いは長く続いた。これはイスラムの策で二日目に古参兵5千が到着。がぜん戦闘は有利になる
インド象に苦しめられるがササーン式のきらめく長剣で目を潰すように命ずる。象は剣を恐れて逃げ散ってしまう
ウマルの苦肉の策で援軍は少しづつ小隊で、切れ目なく、旗を掲げてめだつように加入した
董卓の西涼軍の作戦と同じである、はったりだが、この心理圧力でササーン朝は動揺した
ロスタム将軍はほえた「やつらドンドン数が増えるぞ。このままでは戦線の維持は困難だ、すぐ決着をつけろ」
3日目の戦闘が最も激しく、戦場は両軍の戦士たちの死体で覆われ疲労困憊の激戦は夜明けまで続き、両軍とも崩壊寸前。
ほぼイスラムの勝利だ。だがサーサーン軍も4日めの朝でへこたれない。「このままでは一時間もすれば全軍崩壊する」
シリア援軍を率いた指揮官が駆け出し突撃。バヌ・タミム族の600人の戦士が、ロスタム将軍の指揮する鉄壁に穴を開けた
彼はロスタムに斬りつける。全身を刺され無数の傷を追ったロスタムは息絶えた 現在のイラン民族はサーサーン朝を尊崇して自分の先祖としてる
なぜかというとそれまでのイラン民族は文字で歴史を表すのは物質化で卑しいとかんがえ
高僧による口伝だったが、サーサーン朝末は盛んに文字で歴史編纂した
とうぜん記憶の新たなサーサーン朝の歴史が多く残り、これら書籍はのこり、
当時神聖視されたアケメネス朝はさほど尊敬されずサーサーン朝がイランの英雄となる
それとサーサーン朝最後の君主のヤズデギルト3世の娘がシーア派の尊崇するアリーの子のフサイン
に嫁ぎ、これ以後はシーア派のイマームは「サーサーンの貴き血」をひきつぐことになる
これはイラン民族にとって何より重い。つまりアラビア宗教であるイスラムだが
イランの多数支持を受けるシーア派にとっては
サーサーンのお姫様、われらイラン人がイマームということで神聖視される
アリーとその子孫のみが指導者してイスラム共同体を率いることができるという主張から始まった
シーア派はやがてはマフディー(救世主)となって再臨するという終末・救世主信仰をもつ さてサーサーン朝のヤズデギルド3世は反乱におびえつつも帝都クテシフォンに拠っていたが
サーサーン朝軍は大敗してロスタムは戦死。帝都クテシフォンはムスリム軍に陥落し
イラン東部に逃走する。ホラーサーン州はインドの国境にあたり
歴代の皇太子が守る険阻な地で安心とも思われるが傲慢な態度で総督の反感を買う
帝はエフタル匈奴や突厥から援軍を得られることに賭けたが殺された
ヤズデギルド3世はアム川の北方のバクトリアとソグディアナなどに呼びかけて軍を募ろうとし、
息子のペーローズ王子を唐にまで派遣。
なお日本に来て斉明天皇に援軍を訴えた吐火羅人ダリウスとは、どうもバクトリア人の意味
であったらしい。年齢的にペーローズ王子の子息、サーサーン皇太孫という可能性もあったろう
このとうじ唐は、ペーローズ王子を将軍職につけ、日本との戦争ちゅうでイラン遠征の困難を
釈明したろうから、サーサーン朝は日本を味方につけようと使者を送りつけた
ダリウスというイラン人にうったえる古式ゆかしい名前、インド人の妻でインドの援軍も
期待し、さらに縁もゆかりもない日本援軍も求める、なかなかの策士だ
もしここで想像が許されるなら日本軍がサーサーン朝回復のためイスラム軍とたたかい
みごとシーア派のイマームを擁立してイラン人の称賛を受けつつ帰る、という展開もあるいは >>875
575年ササン朝とアクスムの抗争によりイエメンのマアリブダムの維持が断念され
農業を諦めたイエメン農民らがベドウィン化しイスラム軍に加わりイエメンから
移住しようとしたのでイスラムは大帝国になったとされる
イエメン農民が急速にベドウィン化出来たのは鐙が普及したからだろう
当時ササン朝軍と東ローマ軍は鐙を使用しており配下のアラブ兵にも装備させた
かつてアラブ系のパルミラが重騎兵でササン朝と互角だった事あったけど
パルミラの重騎兵は元パルティア兵とかイラン系遊牧民の傭兵だった
鐙の普及でアラブ人自身が重騎兵になる事が容易になり
イラン人のアラブ人に対する軍事的優位が崩れたようだ サーサーン朝の重装騎士といえば有名であり
重騎兵の起源は鮮卑の鉄騎とされてる、(まぁ慕容垂とか北魏あたりが有名
そのご、重騎兵といえばヨーロッパでも主力をなし
20世紀にポーランド有翼騎兵が3号戦車に蹴散らされるまで無敵の兵種
東方蛮族のマッサゲタイ(アラン族)やサカはすでに重騎士をもっていたが
サーサーン朝はいち早くその影響を取り入れる
鮮卑の鉄騎はモビルスーツ並みに無敵だが、ヨロイ製造にとんでもなくお金がかかり
これがサーサーン軍の強さと影になる
ローマ帝国も流石にサーサーン朝の重騎士をとりいれる
ペルシャ風の騎兵を使った新しい戦闘教義、カタフラクトという兵種になる
これはサーサーン流の銀兜、首元までおおう鎖帷子、馬は銀鱗の装甲で覆われる
おもに騎馬にたけたアナトリアの住民がこれを担当したがしかし東ローマが
トルコ帝国に圧迫されるとアナトリアの地も失い、帝国の衰退を早めてしまった しかしふしぎなのは宗教色濃く、イラン世界帝国を数百年統治したサーサーンが
かくもあっさり滅んだこと
サーサーンもバクトリア、ソグディアナ、さらに奥で独立帝国を100年たもっても
ふしぎはない。唐は安禄山の乱で滅亡寸前になりながら復活してる
安禄山は3600万人、地球の6分の1を殺戮した。その安禄山とは
もとより東イランのソグド語で光の意味で
アレキサンダー、イスカンダルの音訳であったということだ 鮮卑は重騎兵が有名とのことですが烏丸はどんな特長が(軍装やら文化)だったのでしょうか? >>122に烏丸について書かれてますが何か他にも物語があれば教えて頂けたら嬉しいです >>122
>>212
>>319
>>687
>>826
他にもありましたらよろしくお願いいたします >>881
ローマ帝国ではウァレリアヌス帝がササン朝に大敗して捕虜となったので
息子のガッリエヌス帝が騎兵を主力とする軍の改革をした
乗馬に長けたバルカンの住民らは鐙なしでイラン人そっくりにカタフラクトを
模倣出来たの軍の主力となりアウレリアヌス帝やコンスタンティヌス大帝など
多くの皇帝を輩出し名実ともにローマ帝国の支配層となった
バルカン出身者に軍が依存していたのでバルカンにゴート族が移住して
バルカンを荒らしまわるとローマ軍は急に無力化し始める
バルカンがスラブ化するとバルカン出身の皇帝はいなくなった
鐙の普及するとアナトリアのテマ農民がカタフラクトになるようになり
ヘラクレイオス帝などアナトリア出身者が皇帝になるようになった
鐙が普及しなければカタフラクトになる者がいなくて
東ローマ帝国はササン朝に滅ぼされていたはず 西洋でキリスト教以前に巫女、シャーマン信仰があり
それは北欧に特につよく、サーミ人はノアイデという巫女を信仰した
キリスト教化でイギリスでは、マクベスの魔女となる
しかしタキトゥスのゲルマーニアで北欧には女王国が存在した
と驚きを込めてしるしてるように
ローマ人は女王はなくそれはペルシア人も同じだった
ただ帝政後期になると女子の称号として女帝、アウグスタともいうが実権はない
ギリシャ神話もアマゾーンは黒海沿岸に住むという、マッサゲタイや月氏の女王だろうか
日本人も卑弥呼女王を見ればおそらくアマゾーン族になる
漢の呂后は冒頓単于からすればまさに女王国だ
ロシア人もよく「魔女の婆さんの呪いか」という。これはロシア民話によく魔女がでてくるからで、
ロシアの魔女は破壊と殺しを好むが、悪人が破滅し、善良な娘が救われる筋立てとなる
これもキリスト教化まえの記憶と言われる ペルシア人は文字に拠る歴史は嫌い口伝に拠った
ササン朝でようやく歴史編纂をするが、おそらくローマや唐の影響だろう
お隣インドでも無文字文明でないが歴史記録はされない
しかしインド神学はねっしんに記録してるので単に歴史に興味がないもしくは禁則事項だった
中国では史官、史家という特殊貴族を設けたほど古代より記録熱心だがむしろ例外と言える
為政者にとっては記録保持はむしろ弊害が大きい
秦では「古代の例を引き政を批判する」理由で狭書の法がしかれ、不要な本は焼きすてててる
アケメネス朝ペルシアも文字はなかったわけでなく実務クラスではエラム語をもちいた
エラム帝国の首都スサにペルシァ帝国の首都が置かれたこともありエラム人の官僚が用いられる
もともとペルシア王はアンシャン王で、古代エラム帝国の副都アンシャンだった
エラム語は死語で解読すら出来ないが膠着語であり周辺の言葉と関連がない
最後のエラム語の記録はアレキサンダー東征のころで、以後はギリシア語にとってかわる
おそらく膨大なエラム語の公文書記録は破棄され、アレキサンダーはとんでもない破壊をしてくれたといえる
イラン民族はギリシア文明によるアレキサンダー征服、アラビアによるイスラム征服をうけて
二度も完膚なきまでに高度文明の断絶があり奴隷化されてる。イランの学者によれば
それがイラン人の幸運だと言うが・・ 烏桓は蒙古語で聡明という。したがって東胡王の時代は学識ある貴族の称号であったとされ
ガンダムのマ・クベの副官もウラガンであったがロシア語ではウラガンは暴風という
赤狄の子孫がロシア人であるとすると暴風や嵐をとりたくなる?が狂暴な部族の意味であろうか
なんでそれが蒙古で知的聡明になったかといえば、よくある皮肉であろうか
ともあれ鮮卑の鉄騎はひとことでいえば重装甲、西洋の重騎士だ
馬も重装甲で鎧うのだから数百キロの鎧となる
これだけ固い重いやつが突撃してくればモビルスーツと同じで中国の農民には手がつけられない
重いよろいをのせるのは名馬でなくてはならず、それを養育するのはまた大金がかかる
漢の武帝が西域フェルガナから入手した名馬は30万頭もかわれたがその費用で宮廷は破産しそうであった
西洋騎士のよろいが現代ではベンツなど高級車に匹敵する価格だから重騎士は価格がつけようもないほど高い。
中国の領主がおいそれとまねができるものではない
ゆえに、魏晋はほろび、関西の鮮卑貴族様の時代が唐までつづくのだが、
烏桓は鉄の鍛造が得意であったとされる
鉄の鍛造にたけた烏桓こそ重騎士の華かも知れない、あいにくなことに烏桓は魚は食べないようで
焼き肉とヨーグルトを好んだ
烏桓と匈奴は人の少なさになやまされ、倭人のおしえで魚を食うことをおぼえた鮮卑は人口爆発し、時代は移る ペルシャとエラム、ギリシャとクレタ、ローマとエトルリア、
アルメニアとウラルトゥ、バビロニアとシュメール、そしてトルコと匈奴
匈奴の言語はフンザで話されているブルシャスキー語だったのかもしれない エラムはメディア帝国にほろぼされ一部になる
メディア語はほろび手がかりはないが古代ペルシア語中に大量の借用語があるから大方は想像つく
インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する古典語のメディア語を話したメディア人
はエラムの北にエクバタナを7重の城壁を張り巡らせ都とした
エラムはシュメールの支流、兄弟ともされる。エラムの都がスサ、アンシャンが一地方
アンシャン王のペルシアが天下ととるとかつてのエラムの首都スサをみやことし
メデイア人のエクバタナを攻略してこれを、夏宮殿とした キュロスとカンビュセスの親子はエラム系アンシャン人で
ダレイオス1世からイラン系ペルシャ人だという説がある シュメール人から見て西の民族をマルトゥ、野蛮人、猿、礼儀を知らぬ・・・
と罵り、また東方のエラム人を「混血野郎」と言っていたようである
マルトゥがのちのバビロニア帝国、ヒッタイト帝国になる。海の民でヒッタイトは滅びる
「混血やろう」エラムはイラン民族となり中東を支配する
そしてマルトゥの予言どおり地獄巡りのような混血をくりかえしてゆく >>891
唐を創建した李世民は重騎兵の馬甲を廃止して機動力を強化して
天下統一を成し遂げるに止まらず唐は突厥と高句麗をも征服した
この身軽になった重騎兵を主力とする唐軍をタラスで撃破したのが
イエメン人入植者を主力とするアッバース朝のホラサン軍だった >>899
カッシート人とクシュ人が混同される事がある >>891
唐を創建した李世民は重騎兵の馬甲を廃止して機動力を強化した
唐は天下統一を成し遂げるに止まらず突厥と高句麗をも征服した
この身軽になった重騎兵を主力とする唐軍をタラスで撃破したのが
イエメン人入植者を主力とするアッバース朝のホラサン軍だった エーラーンの王とはアーリア帝国ののことで
すなわちヒトラーのナチスドイツもエーラーンの王 アーリア=アレイア=ハライヴァ=ヘラーウ=ヘラート タラスの戦いで有名なのは751年のだが、匈奴マニアにとってはBC36年の戦いも忘れられまい
郅支単于、康居に居座る前は結構強かったのに康居に入京したら暴虐非道尽くしで、
人心を失い、漢が差し向けた遠征追討軍に殺られてしまった
まるで、野戦では連勝し上洛後、狼藉尽くしまくって頼朝・義経の遠征追討軍に殺られてしまった
木曽義仲のようだ 鳥孫に行った公主の漢詩でも
「天幕が部屋の代わり、土の壁がない!
まいにち潰した獣肉、ドロドロのヨーグルトしか食べ物がない」
「白鳥に変死して長安に飛んで帰りたいわ」とうたってるから
米を買いグルメ生活を楽しんでいた匈奴も同じ思いだったのだろう
単于は土の壁のなかに住もうと人民を徴発して土城を建設したが恨みを買ってしまった インド料理は手で食べるが、最近はほとんどスプーンを使うようになってるそうだ
アフガニスタン料理もスプーンとフォークを両手で使う
ソフレ、食布という絨毯をしいて一家で囲んで座り込んで食う。この風習はイランも同じ
イラン料理は真鍮のスプーン中心で、煮込みウドンもあるのだが
うどんを短く切ってスープに入れ、あくまでスプーンですくう仕様になってる
お米は香があり、パラパラでやはりスプーンで食う
イラン東部と中国の陝西はお隣のはずなのにスプーンと箸と食事風景が違うのは面白い
ただ陝西の貴族の古墳では金銀の箸とスプーンが副葬品に添えられており
箸はなくスプーンのみという例もおおく、古代ではイラン風のスプーンのほうが優勢だったようです
隣の韓国でもスプーンと箸をかならず出すので大陸は日本とはちょっと違うようだけど
イランのカバブは羊肉をミンチしてつくね状にかためたもので
トルコの削ぐ肉塊のケバブとは違う、ミンチ肉は遊牧民のなごりかな
江都公主が食ったのはイラン風のカバブかも トイレの後、お尻を紙で拭かずに水で洗う「アラブ式トイレ」?
少ない水でけつをどうやってあらうのか難題だわな 古代匈奴の王族はグリーンの目、彫りの深い顔だったという
白人を思わせるが、しかしこれは確定的なことは何も言えない
三国志の呉皇帝の孫権は言動がおどけていて、無茶苦茶な冗談を飛ばしてからかう性格
孫権は背が高く、青い目と赤い髪をもっていたとされる。
これは吐火羅系をおもわせるが、おそらく南方の一族や生母からしてありえず
陝西など北中国でさげすまれた異民族・胡人のイメージで架空の設定かもしれず
つまり異民族の血がはいってる、どことも知れぬ蛮族に屈するわけにゆかぬという想像の宣伝であろう
匈奴に白人ぽい騎兵が混じっていたのは確かで
それはオルドスの西半分はトカラ系の月氏で、古代のトカラは金髪碧眼だったとされるから
混血の匈奴がグリーンの瞳でも間違いではないだろうが、むしろこの事実は
つまり異民族の血がはいってる、気持ち悪い蛮族に屈するわけにゆかぬという漢の政治意図であろうとも
とれるのである 本当に青目茶髪なのか
堀の深い顔立ちなので創作されているのか
昔の日本人の
長崎の人は髪が赤いと言う類なのかね >>912
何度も同じことを書いてすまないが、
その割に、現代中国人(大多数は漢民族)は、極めて典型的な黄色人種顔ではないか!
古代から白人と隣り合わせに暮らし、戦争で違いに捕虜や強姦で血が混じったはずのに、
ぜんぜんハーフぽい顔はいないぞ
漢民族の黄色人種の血って、それほどまでに濃いのか?
それとも、中国周辺異民族にはやはり、白人はいなかったんじゃないのか? >>914
極東の人口がきわめて多いの忘れてないか?
遊牧民やオアシスの定住民がエスニックグループあたりで100万とか200万とか言ってる時代に、
中原〜長江流域に億単位の人間が居たんだぞ
そりゃ飲み込まれるわ、生物学的にもな >>914
白人と隣り合わせって認識がホラッチョって事だろ
西域には白人の子孫はいくらかいた様だが外見的にはほとんどが黄色人
ここからスパッと人種が変わる様な状況になるにはヒマラヤみたいに高い山で土地が隔てられていなければならない
ごく稀にいた白色人種の特徴を持った人物の例を出してあたかも白人が隣人であったかの様にいうのは明らかに誤解 >>906
郅支単于軍はローマ式ファランクス、木曽義仲軍は火牛軍団を擁していた
どちらも早期滅亡は非常に惜しまれる 鳥孫国はあきらかに金髪碧眼であったようだけど
現在のカザフスタンは混ざったモンゴロイドが多数派のようだね サッカーで昔はアジア枠だったが今は欧州枠になったねカザフスタン
欧州枠の方がレベルは高いものの出場枠が多いという政治的な判断なだけかもしれないけどアジア予選で戦ってた当時はロシア人ぽい白い選手が大半な印象がある 烏孫くらいの中堅遊牧国家でも、イラン系、トルコ系、モンゴル系などの混成部隊だったんじゃまいか 烏孫王昆莫は匈奴の西境にある小国の王子として生まれる。
匈奴は父を殺し昆莫も殺そうとしたが単于は思い直し育てる
昆莫は単于に仕えた。勇猛なので従う衆は数万となり
やがて昆莫は部下を引き連れて遙か西方のカザフを遠征し征服
匈奴に従わなくなった
遊牧民にとってカザフスタンはアンドロ信夫文化で戦車チャリオットを発明した
アーリア人の起源というべき古き土地で東のオルドスに匹敵する、西の要地
しかし匈奴の支隊長に過ぎぬ昆莫が、大要地カザフスタンを征服できたとは
モンゴロイドが戦闘民族として優れていたのか
あるいは平和な遊牧民のなかで、匈奴が傭兵を生業とする変わり種だったのか・・・ 古代匈奴はしらんが、フン族は軽騎兵、アラン重騎兵と色分けされていた
しかし弓ではフンが百発百中の剛弓、那須与一か
ササン朝も重騎兵だったしローマも重騎兵をもっていたらしいが
フンの軽騎兵のおそろしい突撃には到底耐えうる者ではなかったという
西洋重騎兵は鮮卑の鉄騎が起源だが、鎧だけで百kgの重騎兵は重く行動が制限される恨みがあり
機動力では軽騎兵がまさり、唐で鉄騎は廃止される
時代が下って蒙古では
14万の装甲騎兵が常備兵としてチンギスハンに使われた
ただこの頃の蒙古兵はかなり進歩していて革をベースに鉄鋲などをうめこみ
重さ7キロながら剣は通らぬというものだった
フンの軽騎兵は
おそらく鎖カタビラのチョッキで無いかと思える
毛皮丸帽子とチョッキが、カザフスタン民族衣装でこれがよくフン族の絵に似てるのだ やっぱり匈奴や戎の出自にはアンドロ信夫や見ぬ伸介の影響が! >>922
東胡と匈奴と月氏の三国が割拠していた時代に烏孫がどこにいたのか不明だけど
匈奴が東胡を征服した時に月氏は東胡と同盟して匈奴を挟撃しなかったから
月氏はどこかと戦争していて匈奴の領土拡大を妨害する事が出来なかったのかも
おそらく烏孫が月氏の西の隣国で月氏は烏孫と争っていたのでは? 烏孫はもともとタリム盆地敦煌のちかくのオアシス都市で
西域26カ国が匈奴に征服されたとき、かなり大きな街であったらしく
烏孫王は老単于に個人的に気に入られて西城太守となった
ラオ単于はさらに烏孫にイリ地方の征服を命じて
しかしラオ単于がしんだあと烏孫王は匈奴に服しないことにした
おそらく個人的な面識がない次の単于に服する理由もなかった
イリ・バレーをかれらは赤谷城と名付けた。
これは匈奴の先祖である赤狄が美しいとして赤服を着たことを
また赤狄の子孫であるロシアで赤は美しいとされる
つまり美しい谷、という意味になる
・・西部地域の野蛮人の中でも、烏孫の外観は珍しいです。
緑色の目と赤い髪があり、猿のように見える現在の野蛮人は、この人々の子孫です
烏孫人はかつては白人混じりのモンゴロイドとされたが、ソ連時代の87遺骨の調査では
純粋なコーカソイドということが判明した その当時から大きな街だったんすね
昔、佐藤浩市、西田敏行出演した敦煌ていう西夏時代を扱った映画見たことあります だから烏孫はアファナシェヴォの直系の子孫なんだろう
その一部で南下したのがトカラ人 車師国はオアシス国家で匈奴配下の小国。おそらくそのまえは、独立国だった
車師の首都である交河城は世界最大級の版築でつくった巨城で、紀元前2世紀につくった
巨大な船のような形で、全長1,7キロ、断崖の高さは30メートル
真ん中に大路があり東西2つのエリアに分けていた。官庁エリアと寺院エリアである
このへんは長安や洛陽と同じでオアシス国家の繁栄を伺わせる
漢の使者をたびたび捕らえたため、漢はこれを討ち、車師王は服属した 車師=ジムサ 車師はトカラ人
タリム盆地最大の都市だった亀茲もトカラ人
烏孫=敦煌 トカラ人?
月氏=昭武 昭武九姓はイラン系ソグド人
紀元前1800年頃の小河墓はトカラ人だけど漢代の楼蘭はイラン人
アファナシェヴォ文化のトカラ人がミヌシンスク盆地からタリム盆地に移住したが
タリム盆地の砂漠化が進行すると砂漠慣れしたイラン人が移住してきたようだ >>930はイシククールに行って赤谷城の発掘調査やってきてくれ! オルドス地方てどこいな?と検索してみたら後漢期に南匈度が居た辺りなんすね
このへんの西側半分に白人のような風貌のトカラ人が住んでたてのが驚き
秦らが万里の長城築いた理由や位置関係、心情も少しずつ理解できました そもそも冒頓単于も白人並みの容貌してたって説もある
西の末裔アッティラが東洋人顔だったって説との対比が面白い まぁ中央アジアにくわしいとされる宮崎パヤオアニメで言えば風の谷のナウシカが赤谷城(美しき谷)
で、匈奴の老上単于が、トルメキアのクシャナ王女
個人的には信頼や友好を結べるが、どっちかが死んだら
ふるきエフタルの民が、野蛮なトルメキア帝国にしたがうわけ無いでしょ的な アッチラ王のフン族の帝国、史上はじめてドイツとロシアを統べたという
ソ連以上のアッチラ王の大帝国に期待したのはギリシャ人だった
それは、そうだろ
アレキサンダーのマケドニア帝国でオリエント全域をしめる
ギリシア文化を波及しオイシイ思いをした
さらにローマ帝国も家庭教師としてギリシア文化を重んじた
ローマ時代の大金持ちはギリシア人
したがってフン帝国にいちはっやく臣従したギリシア人は、地球帝国でいちばん重んじられる・・・ハズ
ところがアッチラは、ゴマすりギリシア人を奴隷としてあちかい
ギリシア語も文化もまったく興味を示さない。
それは、そうだろ
フン族はローマのラテン語は大変早く習熟したがギリシア語はまったく興味はない
ローマ帝国の支配言語のみがフン族の興味であり、大王の食事に付き従うゲルマン王たちは
フン語(トルコ語)とラテン語、ゴート語をまじえた喜劇を楽しんだ
ローマ歴史家は「下品で大王の権威をおとしめる」と批判したがもちろん、野蛮人の匈奴どもが
芝居でラテン語やゴート語に慣れ親しむことはアッチラの重要な政治でもあった 烏孫の国の構造は、少数の貴族と、1万ほどの奴隷や職人
人種は上位が烏孫族、下位は戦争に負けたり、周辺の土地からさらってきた
月氏やサカ、スキタイ人であった
貴族は数千頭の家畜で遊牧していた
どれいは赤谷城の建築など労働をさせられていて不要になればころされる
富の偏在と、移民による奴隷はサウジアラビアなど産油国に似てる気がするが・・
現代日本人が観光に行っても奴隷ばかりで面白くなさそうだ
基本としてタリム盆地のオアシス国家はどこもこんなものだったろう
ギリシアのポリスも少数の市民と、農民の大多数のバルバロイでなりたち
貴族は奴隷の家にいつでも略奪強姦をおこなってよい
だだ、忍び込んで窃盗するほうが知識人とされる
そういえばギリシア人の先祖はもともと遊牧民だった
烏孫の貴族はトカラ語で、奴隷はソグド語だろう
薔薇戦争の前イギリスも上流貴族はフランス語で喋っていて平民は英語をしゃべる
社会にちょっと無理があり、どれいにされた月氏やスキタイは
ドンドン逃げていったと予想される。だから最終的には烏孫国は滅ぶ レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。