スペイン・ポルトガルの歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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外国人が思い浮かべるステレオタイプの「スペイン」とは、
フラメンコ、闘牛、ジプシー(ロマ)に代表される、
情熱的で激しくて、どこか翳を背負った世界であろう
しかし、アンダルシア以外の出身者の多くは
フラメンコを自分たちのものとは思っていないし、
そもそも、この芸術を生み出したロマは、
長らく異分子的な位置におかれていた外来の放浪民族である
各地の祭りにおける目玉興行として長く親しまれてきた闘牛も、
カナリア諸島とカタルーニャではもう消滅してしまった スペインが過去に行ったユダヤ人・ムスリムの追放だが、
現在のように多様性が高く評価される時代が過ぎたら、
「やはりあのときユダヤ人やムスリムのようなマイノリティを追放していてよかった」
と評価が変わるのかもしれん スペインのガリシア地方民の1〜2%はスエヴィ族の子孫らしい ガリシア地方は1年を通じて雨が降り、年間降水量も豊富。 イスラム支配下はみんなアラビア語しゃべってたのか? スペイン人やポルトガル人ってイギリス・オランダ・フランスなんかの西欧人からは
(ラテン系言語をしゃべる)アラブ人キリスト教徒と思われてんのかしら?
>>163
ラテン系言語のモサラベ語だったりも… アルバ女公爵である現アルバ家当主、カエタナ・フィツ=ハイメ・ストゥアルト・イ・
シルバは第18代目のアルバ公爵である
1926年生まれのカエタナは52の爵位、18の大貴族の称号を持ち、その数は
フアン・カルロス1世よりもはるかに多い。世界で最も多くの貴族の称号を持ち、
ギネスブックにも認定されている
アルバ家はスペインで最も長い歴史のある貴族で、その家系は1472年に
カスティーリャ王エンリケ4世によりガルシア・アルバレス・デ・トレドが叙位
されたことより始まる。近くはイギリスのスチュアート朝のジェームズ2世にも
つながっている。その庶子エンリエッタはスペンサー伯爵家と婚姻を結びダイアナ妃に
つながっており、男児誕生でフィーバーを起こしたウィリアム王子にいたる。
エンリエッタの弟ジェームズ・フィッツ・ジェームズはフランスに帰化し、その嫡系
子孫がスペイン貴族アルバ公爵につながっている >>132
城壁の有無としか言いようがないな
大陸の城市は、城壁で囲まれている
それを砲撃するのが大砲の役割 >>119
朝鮮は、明の一部だったからだ
現代の地図を見慣れた目には、朝鮮半島に独自の国家があるのが当たり前に思えるが、当時の認識としてはそうではない
豊臣秀吉も、現代人には朝鮮出兵に見えるが、本人にとっては明国出兵だった 幕末にも、日本には外交を求める外国使節が続々と訪れたが、朝鮮に来たのは海賊だった 馬は、火薬の爆発音が大の苦手
子馬の頃から慣れさせておかないと、パニックに陥って戦闘どころじゃなくなる
騎馬による戦闘が主体の中国・モンゴルで、火薬の軍事利用が早くから進んだのもうなずける
人を狙って射つ小銃のような精巧な機械を造るは、大昔から日本や西欧の独壇場であり、大陸の人間はそんなの得意じゃない ■8000年におよぶイベリア半島の古代人DNA、4500年前にいったい何が?
人類の移動が始まって以来、現在のスペインとポルトガルが位置するイベリア半島は、アフリカ、欧州、地中海沿岸の文化が混じり合う場所だ。
8000年にわたるこのイベリア半島の古代人の遺伝的特徴をまとめた新たな論文が、遺伝学者と考古学者からなる111人の研究チームにより、
2019年3月15日付けで学術誌「サイエンス」に発表された。論文によると、遺伝子は非常に複雑に入り混じっているという。
また、約4500年前に謎の大移動が始まり、それだけで古代イベリア人男性のDNAが完全に一新されたことが示唆された。
いつ、どのように、イベリア半島へさまざまな人々がやってきたのかを探るため、研究チームはDNAに刻まれた痕跡を調べた。
古代イベリア人271人のゲノム配列を決定し、これまでに公表された別の132人のデータと統合した。
結果は、予想以上に複雑だった。 ■男性はすべて置き換わっていた
イベリア半島の古代人の遺伝子構成は、青銅器時代に劇的に変化し始めた。
紀元前2500年頃から、黒海とカスピ海周辺のステップ地帯に暮らしていた人々に関連する遺伝子が、イベリア半島の人々から検出され始める。
その後、古代イベリア人のDNAの多くが、ステップ地帯の人々のDNAで置き換えられた。
インド・ヨーロッパ語族を広めたのはステップの人々だったという仮説がある。
その「ステップ仮説」では、ステップの人々はほぼ同時期に、東はアジアへ、西はヨーロッパへと広がったとされる。
今回の論文は、彼らがイベリアにも到達していたことを示している。
その前後で、イベリアの人々の60パーセントにはステップ由来の遺伝子が加わらなかったが、Y染色体は紀元前2000年までにほぼ置き換わった。
Y染色体を持つのは男性のみであるため、ステップ地帯から男性が大量に流入したことが示唆される。
「影響は男性にとても偏っていたようです」とナショナル ジオグラフィック協会の上級プログラムオフィサーを務める遺伝人類学者ミゲル・ビラー氏は話す。
なお、氏は今回の研究に関わっていない。
やって来た男性は何者だろうか? 争いはなかったのか?
ビラー氏は、ステップの男性は、馬に乗り青銅器を携えてイベリア半島にやって来て、青銅器時代の到来を告げたのではないかと推測している。
同氏はこの移動の影響を、1490年代に欧州人が上陸した際に、南北米大陸の先住民が直面した事態になぞらえた。
「欧州の端から端まで広がる大移動に成功し、いまだにこの西端の地に多大な影響を及ぼしているのです」とビラー氏。
その頃、青銅器が使われ始めたこと以外に、ステップ文化の明らかな痕跡はイベリアでまだ見つかっていない。
一方、今回の研究により、西欧でインド・ヨーロッパ語族ではない唯一の言語を話す現代のバスク人が、ステップの人々と非常に近い遺伝子マーカーを持っていることがはっきりと示された。
イベリア半島では、その後も何世紀にもわたり遺伝子が混ざり合ってきた。だが、現代のバスク人の遺伝子は、そうした現代のスペイン人のものとは異なるという。 ペルー の人口は,入植後
僅か 40 年程で,13 % にまで
減少してるんですね 【科学】古代南欧で謎の「男性大量流入」、一体何が? イベリア半島の古代人DNAを調査、4500年前から男性のY染色体が置き換わる
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553005474/ バスク人もごく最近に中央アジアから来たということか
遺伝子が変わるということは言語も変わるはずだから >>171
>紀元前2500年頃から、黒海とカスピ海周辺のステップ地帯に暮らしていた人々・・・・・・
BC2500年頃に、この地からインド・ヨーロッパ語族が一斉に欧州大陸に
移動し一部がイベリア半島まで侵入定住したということか?
おかしいな、ケルト人はもっと以前から欧州各地に居住していたのじゃないか?
男性だけ移動というのも不可解だ、男性だけの略奪軍なら、故地へ引揚げる筈だ。 サラザール政権って、なんとなくフランコ政権同様に枢軸国寄りの中立と思ってたけど、
親イギリスで連合国寄りだったんだな。 ゲーム「トロピコ」でのサラザールの特徴
財テクの天才
勤勉
けち >>175
>BC2500年頃に、この地からインド・ヨーロッパ語族が一斉に欧州大陸に
移動し一部がイベリア半島まで侵入定住したということか?
→YES
>ケルト人はもっと以前から欧州各地に居住していたのじゃないか?
→NO
>男性だけ移動というのも不可解だ、
男性だけの略奪軍なら、故地へ引揚げる筈だ。
→おそらく男女セットで移動して非配偶者のかたちで現地の女たちに子供を産ませた
現地女にありつけたのは侵入者の一部 >>175
ケルト人はケルト語に言語交替したからおかしくはない
元ケルトは印欧系ではないという事だ >>175
支配階級の女性の遺伝子は消えやすい傾向にある 古代は一夫一婦制で考えない方かいい
権力者の男たちは何人もの愛人がいた
農業開始以降の歴史の鉄則 支配階級の女性が平民に嫁に行くことはほぼあり得ないが
支配階級の男性が平民の嫁や妾を取る事は頻繁にあったはず
支配階級の女性の遺伝子はどんどん減っていき平民女性の遺伝子はどんどん増える 現代スペインにはモロッコ、東欧三カ国(ルーマニア、ブルガリア、ポーランド)、
中南米からの移民が多い フランコ時代のスペインでは、「フランコ」という言葉が私服警察にキャッチされたら
独裁者を誹謗中傷したという廉で直ちに連行された
また、公安当局が使っているデモ隊排除や鎮圧のための放水車が放つ水に、
青い塗料が混入されていて、それが一度衣類や皮膚に付着するとなかなか
落ちないので、デモ参加者は翌日でも事後逮捕されてしまった 欧州諸国の中でもスペインはパラサイトが多い。
20代の67.4%はいまだに親と同居しており、不況の余波でこの数字は
上昇傾向にある。したがって晩婚化も進み、スペイン人女性の初産年齢は
平均31歳である。
さらにスペインはニートの数でも欧州で上位である。18〜24歳の若者の
23.1%はニートに当たる。 2002年のユーロ導入以後、スペイン経済は見事に回復し、
1960年代の高度経済成長以来の、順調な、しかもEU平均を常に上回る
経済成長率を遂げることになった。
しかしスペインにもバブル崩壊の日が到来する。
2007年末から2008年春にかけて、米国のサブプライムローン問題が
引き金となってバブルが崩壊し、スペインは奈落の底に突き落とされた。
スペインの好景気を支えたのは住宅建設ブームだったのであり、
本来は産業構造全体にわたって研究・開発・技術革新を進め、
量よりも質の拡大を図る必要があったのである。 スペイン、セビーリャにあるモスクが、レコンキスタで歴代スペイン王が
過去に行った残虐行為に関して、現在のフェリペ6世にフェイスブックで
謝罪を要求した。ネット上では、その前のイスラム支配に対する反応に
過ぎないと反論される そりゃそうだ。
イスラム教徒がイベリア半島侵略を謝罪しない限り無理だろう。 アルガルヴェ王国ってわざわざ分けておく必要があったのか? 中世ポルトガルの貴族の男女比は、女性100人当たり男性112人だった。
ポルトガルの北アフリカおよびインドへの領土拡張行動に、次男以下を
中心とする土地を持たない上流階級の男性が参加し、陰の大きな
原動力となったといわれている。 >>195
一番数多く流出したのはブラジルだけどな 60年間もスペインに統合されてたのに再分裂したポルトガルってなんなん?
どんだけ当時のスペイン無能やねん ポルトガルがスペインと別の国である必要ってあるの? >>200
日本のどっかの親藩の藩が、
江戸幕府から独立してるような感じ >>182
ヨーロッパだと古代から上流階級の女は愛人を囲うのが一般的だったんだよな
スペインだとブランカ2世、フアナ、マリア・ルイサも御多分に漏れず複数人の愛人を公然と囲っていた
正直ヨーロッパの上流階級の血統なんてどこも怪しい >>195
そして現地の女に子供を数多く生ませた
その子孫が中南米人 理想はスペインとポルトガルではなく、以下のように別れるのがよかった
○北部(ガスコーニュ含む):
国家:ヒメノ朝ナバラ王国
言語:バスク語
文字:ラテン文字
宗教:カトリック
○南部:
国家:ズンヌーン朝トレド王国
言語:ロマンス語
文字:アラビア文字
宗教:イスラム
フアナ・ラ・ベルトラネーハって名前酷くね?
不義の子ですって宣言してるようなもんじゃねえか >>205
タイファをまとめるため、
アンダルスにも幕府と天皇的な存在が必要 ポルトガルには、国土の南北で地域差が存在する。
南部には、イベリア半島中央部を占める広大な台地「メセタ」の辺縁部が広がる。
一方、中北部ではスペイン国境をなす北部のジェレース山地、ペネーダ山地、
中部のエストレラ山脈など1000メートルを超す山々が連なり、相対的に起伏が
激しいのが特色である。 ブラジルへの近代移民は北部出身者が多い
サッカーのジーコはその二世 1960年代初頭から1973年のオイルショックまでの時期には、ポルトガルから
西欧諸国への移民が激増した。
とくにフランスへの移住者は1960年からの14年間でおよそ100万人に達し、
現在でもブラジルに次ぐ規模のポルトガル人社会が形成されている。
また、アフリカ大陸、とくにアンゴラへの移住者が増加したのも
この時期の特色である。 王家がそのままブラジルを本拠地にしたらまだ王国だったのか 16世紀ポルトガルの人口って200万から100万まで減少してるんだな
大航海時代って一部の階層限定の話かと思ってたけど
ゲルマン民族移動をしのぐほどの人口移動だったようだ ポルトガル人の海外移住の歴史は15世紀までさかのぼる。
大西洋上のマデイラ、アソーレス諸島への入植に始まり、
16世紀にはインド航路の発見にともない移住地がインド洋沿岸地域へ拡大、
さらに16世紀後半にはブラジルへと展開した。 >>197
ポルトガルのスペインからの独立戦争を支えたのは、
ブラジルの砂糖経済だったそうな ポルトガルではレコンキスタというイスラム教徒と戦う日常生活の中で
軍事が優先され、商業や手工業が卑しまれるメンタリティがかたちづくられた
このメンタリティは植民地だったブラジルにも影響を与えている
植民地時代のブラジルでは労働を賤視するあまり、奴隷が奴隷を買って
労働をやらせるということが行われていた。 今のスペイン的には、
アストゥリアス、ナバラ、カスティーリャ伯のどれがスペイン王国の元祖ってことになってるの?
三つとも対等な扱い? ポルトガルとスペインの国境は1249年のレコンキスタ完了以降、
ほとんど変化していないが、そこには険しい山地や大河川が
存在しているわけではない。
たとえば、国境線として利用されている河川は、ミーニョ川、
ドーロ川、グアディアナ川の一部にすぎない。
このように国境に地形的な障害がない中で、ポルトガルが
大国スペインから独立を維持することができたのは、
一つの奇跡といってよいかもしれない。 スペイン共和
左上 カスティーリャ
右上 レオン
左下 アラゴン
右下 ナバラ
紋章学として格は、左上>右上>左下>右下
なので、カスティーリャ>レオン>アラゴン>ナバラ ザビエル最強伝説
日本、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、中華民国や東インド諸島の都市や地域の守護聖人 ポルトガル初期のレコンキスタで王を支えたのは北部の貴族勢力であったが、
中部ではイスラムとの最前線に立つ平民の騎士たちが主力となり、
南部ではテンプル騎士団、ヨハネ騎士団、サンティアゴ騎士団、
カラトラヴァ騎士団が中心になってイスラム勢力と戦った。
その結果、南部の土地はほぼこの四騎士団によって占められ、
現代にいたるまで大土地所有制が存続することになる。 >>205
ナバラは王家も「バスク系」って書かれてるけど、
アストゥリアスはそこらへんぼかして書かれてる
(ペラーヨの血筋が絶えた後も)
国民は(カスティーリャも含めて)バスク系らしいけど ポルトガルってもともとカスティーリャの分家で、
カスティーリャに対するアラゴン、レオン、ナバラのような存在
もしくはそれ以下でしかないんだよな
別れている必然性がまるでない >>233
ポルトガルの場合、イギリスとの関係が深かったことが独立を保持できた
一因じゃね?
そのかわり経済的にはイギリスに従属することになってしまったけど ポルトガルを手下にしてジブラルタルも奪ってイベリア半島の統一を妨げるぐう畜ブリカスに草 >>236
スペインもスコットランドやアイルランドやイングランド国内の勢力の援助をすればよかったのに >>235
ポルトガルが独立を維持したのは土地が狭くて痩せてて魚くらいしか産物がなかったからや
だからこそ海にうって出たわけだけど >>217
「詳説世界史研究」(山川出版社)241ページ
ヨーロッパ世界の拡大
16世紀中にポルトガルの人口は200万から100万程度に激減したと見られている。
リスボンをくりかえし襲った疫病、若い人口が兵士や船乗り、あるいは役人として海を渡った結果である。 ポルトガルは北大西洋を回流するアソーレス海流を利用できる位置にあり、
古くから漁業が盛んで、造船術や天文航法に関する知恵がユダヤ人や
イスラム教徒から受け継がれていたことも同国が他国に先駆けて海外進出を
果たすのに有利に働いた。
政治的にもポルトガルは、1385年に成立したアヴィス王朝のもとで
中央集権化を進め、海外進出を国家的事業として推進する体制が
整えられつつあった。 ホルトガル→アゾーレス諸島→ブラジル南部
これが移民の流れ
18世紀頃だったかな・・・ ポルトガルは、とくに不況に見舞われた1870年代には、コーヒー生産の拡大と
奴隷制廃止にともなう労働力の不足に悩んでいたブラジルへ向かって大量の
移民が流出し、その数は1881年からの50年間に185万人にまでのぼった。 ガリシアは嘗てゲルマン民族の一派スエヴィ人が支配した
いまでもガリシア人の1〜2%はスエヴィの子孫だと言われている
↑
これ10年くらい前のWIKIに載っていた 無人島であったアソーレス諸島がポルトガル人によって発見されたのは、
史料では1427年(サンタ・マリーア島)から52年(フローレス島、コルヴォ島)
とされているが、すでに紀元前にフェニキア人が到達していたという説もあり、
実際には「再発見」であったといわれる。
アソーレス諸島は戦略上の重要拠点でもあり、今もテルセイラ島のラジェスには
米軍基地があり、湾岸戦争のときにも出撃のための拠点として重要な
役割を果たした。 ポルトガルの王侯貴族は、ブラジルから金が入ってきても、
その富を大邸宅や教会の建造に、あるいはヨーロッパ各国からの
贅沢品の購入に費やし、生産活動に投資することはなかった。 >>246
スペイン・ポルトガルが近代化に遅れた最大の理由だな ポルトガルで主要産業と呼べるのは、農業及び漁業、食品加工業、
繊維工業などである。
現在でもポルトガルは大きな所得格差で知られ、貧困線を下回る
人口の比率もEU内で群を抜く。
また、1961年に始まった植民地戦争が財政の40%以上を吸い上げ、
最終的には市場経済の足かせとなっていたので、同じ時期に
「奇跡の60年代」と呼ばれる高度成長を経験したスペインと比べても
ポルトガルの発展は控えめであった。 ポルトガル王女、チャールズ2世妃がイングランドに紅茶ブームをもたらした? インドのゴアに住むキリスト教徒の多くが、今もマリア・ロドリゲス、
パウロ・フェルナンデスなどのポルトガル名をもつ。
日曜日のミサに行くとき、男性は背広姿、女性はスーツかドレス姿が多い。 >>250
ポルトガル統治下のゴアだけど東チモールみたくポルトガル語を話せるのは
エリート層だけでそれ以外の住民は現地語という感じだったんかな。 ポルトガル系アメリカ人と聞いて思い出すはジョン・フィリップ・スーザ、
スペイン系アメリカ人(もちろん非中南米ね)だとアーネスト・フェノロサか 第二次世界大戦後、旧英領・仏領アフリカ諸国は次々と独立していったが、
ポルトガルは最後まで植民地の独立を認めようとはしなかったな
英仏と違って経済力のないポルトガルは植民地が独立した後も
新植民地主義をとるということができなかったからだが エンリケ航海王子は、かつてはルネサンス的な開明的指導者とされてきたが、
最近ではいまだ騎士的な要素を多分に持つ中世的な人物という評価に
落ち着いてるな
エンリケが創ったとされている有名なサグレス航海学校は、エンリケにまつわる
伝説のひとつにすぎず、その存在を証明する記録は何もない。 >>253
ポルトガルは、アメリカをも凌ぐ多民族国家 大航海時代、ポルトガルの成人男子の5人に1人は海の上にいた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています