スペイン・ポルトガルの歴史 [無断転載禁止]©2ch.net
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ポルトガルとスペインの国境は1249年のレコンキスタ完了以降、
ほとんど変化していないが、そこには険しい山地や大河川が
存在しているわけではない。
たとえば、国境線として利用されている河川は、ミーニョ川、
ドーロ川、グアディアナ川の一部にすぎない。
このように国境に地形的な障害がない中で、ポルトガルが
大国スペインから独立を維持することができたのは、
一つの奇跡といってよいかもしれない。 スペイン共和
左上 カスティーリャ
右上 レオン
左下 アラゴン
右下 ナバラ
紋章学として格は、左上>右上>左下>右下
なので、カスティーリャ>レオン>アラゴン>ナバラ ザビエル最強伝説
日本、インド、インドネシア、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、中華民国や東インド諸島の都市や地域の守護聖人 ポルトガル初期のレコンキスタで王を支えたのは北部の貴族勢力であったが、
中部ではイスラムとの最前線に立つ平民の騎士たちが主力となり、
南部ではテンプル騎士団、ヨハネ騎士団、サンティアゴ騎士団、
カラトラヴァ騎士団が中心になってイスラム勢力と戦った。
その結果、南部の土地はほぼこの四騎士団によって占められ、
現代にいたるまで大土地所有制が存続することになる。 >>205
ナバラは王家も「バスク系」って書かれてるけど、
アストゥリアスはそこらへんぼかして書かれてる
(ペラーヨの血筋が絶えた後も)
国民は(カスティーリャも含めて)バスク系らしいけど ポルトガルってもともとカスティーリャの分家で、
カスティーリャに対するアラゴン、レオン、ナバラのような存在
もしくはそれ以下でしかないんだよな
別れている必然性がまるでない >>233
ポルトガルの場合、イギリスとの関係が深かったことが独立を保持できた
一因じゃね?
そのかわり経済的にはイギリスに従属することになってしまったけど ポルトガルを手下にしてジブラルタルも奪ってイベリア半島の統一を妨げるぐう畜ブリカスに草 >>236
スペインもスコットランドやアイルランドやイングランド国内の勢力の援助をすればよかったのに >>235
ポルトガルが独立を維持したのは土地が狭くて痩せてて魚くらいしか産物がなかったからや
だからこそ海にうって出たわけだけど >>217
「詳説世界史研究」(山川出版社)241ページ
ヨーロッパ世界の拡大
16世紀中にポルトガルの人口は200万から100万程度に激減したと見られている。
リスボンをくりかえし襲った疫病、若い人口が兵士や船乗り、あるいは役人として海を渡った結果である。 ポルトガルは北大西洋を回流するアソーレス海流を利用できる位置にあり、
古くから漁業が盛んで、造船術や天文航法に関する知恵がユダヤ人や
イスラム教徒から受け継がれていたことも同国が他国に先駆けて海外進出を
果たすのに有利に働いた。
政治的にもポルトガルは、1385年に成立したアヴィス王朝のもとで
中央集権化を進め、海外進出を国家的事業として推進する体制が
整えられつつあった。 ホルトガル→アゾーレス諸島→ブラジル南部
これが移民の流れ
18世紀頃だったかな・・・ ポルトガルは、とくに不況に見舞われた1870年代には、コーヒー生産の拡大と
奴隷制廃止にともなう労働力の不足に悩んでいたブラジルへ向かって大量の
移民が流出し、その数は1881年からの50年間に185万人にまでのぼった。 ガリシアは嘗てゲルマン民族の一派スエヴィ人が支配した
いまでもガリシア人の1〜2%はスエヴィの子孫だと言われている
↑
これ10年くらい前のWIKIに載っていた 無人島であったアソーレス諸島がポルトガル人によって発見されたのは、
史料では1427年(サンタ・マリーア島)から52年(フローレス島、コルヴォ島)
とされているが、すでに紀元前にフェニキア人が到達していたという説もあり、
実際には「再発見」であったといわれる。
アソーレス諸島は戦略上の重要拠点でもあり、今もテルセイラ島のラジェスには
米軍基地があり、湾岸戦争のときにも出撃のための拠点として重要な
役割を果たした。 ポルトガルの王侯貴族は、ブラジルから金が入ってきても、
その富を大邸宅や教会の建造に、あるいはヨーロッパ各国からの
贅沢品の購入に費やし、生産活動に投資することはなかった。 >>246
スペイン・ポルトガルが近代化に遅れた最大の理由だな ポルトガルで主要産業と呼べるのは、農業及び漁業、食品加工業、
繊維工業などである。
現在でもポルトガルは大きな所得格差で知られ、貧困線を下回る
人口の比率もEU内で群を抜く。
また、1961年に始まった植民地戦争が財政の40%以上を吸い上げ、
最終的には市場経済の足かせとなっていたので、同じ時期に
「奇跡の60年代」と呼ばれる高度成長を経験したスペインと比べても
ポルトガルの発展は控えめであった。 ポルトガル王女、チャールズ2世妃がイングランドに紅茶ブームをもたらした? インドのゴアに住むキリスト教徒の多くが、今もマリア・ロドリゲス、
パウロ・フェルナンデスなどのポルトガル名をもつ。
日曜日のミサに行くとき、男性は背広姿、女性はスーツかドレス姿が多い。 >>250
ポルトガル統治下のゴアだけど東チモールみたくポルトガル語を話せるのは
エリート層だけでそれ以外の住民は現地語という感じだったんかな。 ポルトガル系アメリカ人と聞いて思い出すはジョン・フィリップ・スーザ、
スペイン系アメリカ人(もちろん非中南米ね)だとアーネスト・フェノロサか 第二次世界大戦後、旧英領・仏領アフリカ諸国は次々と独立していったが、
ポルトガルは最後まで植民地の独立を認めようとはしなかったな
英仏と違って経済力のないポルトガルは植民地が独立した後も
新植民地主義をとるということができなかったからだが エンリケ航海王子は、かつてはルネサンス的な開明的指導者とされてきたが、
最近ではいまだ騎士的な要素を多分に持つ中世的な人物という評価に
落ち着いてるな
エンリケが創ったとされている有名なサグレス航海学校は、エンリケにまつわる
伝説のひとつにすぎず、その存在を証明する記録は何もない。 >>253
ポルトガルは、アメリカをも凌ぐ多民族国家 大航海時代、ポルトガルの成人男子の5人に1人は海の上にいた ブラジルのポルトガル系白人,父方のご先祖様が植民地時代に移住した人と
19C後半(具体的には1870年以降)に移住した人とでは前者のほうが多いのかしら ポルトガルからのブラジル移民数
16〜17世紀 100,000
18世紀 600,000
19世紀以降 1,900,000〜2,000,000
移民者数は19世紀以降の方が多い
ただし19世紀の時点で過去からの移民者の子孫は相当数になっているはず そういえばジーコも父方が19C以降の移住者だったっけ
あと作家ヴェンセスラウ・モラエスの伝記にはモラエスが外交官時代に
(ポルトガルからの)ブラジル移住者に関する報告書を作成してたという
箇所があったの思い出した。内容はおぼえてないけど。 ジーコの父親もポルトガル北部からの移民
ポート地方からの移民が最多だが
まあ人口が多い地域だからな 19C後半以降にスペインからラテンアメリカへ移住した人だと
フィデル・カストロの父親がいたっけ。
植民地時代はアンダルシアやバスクからの移住者からが多かったけど
それ以降はガリシアからの移住者が多かったってどっかの本で読んだ
おぼえがある(カストロの父親もガリシアの人)。 かりんとう、スペインのチュロスに由来する南蛮菓子かと思ってた時期がありますた(´・ω・`)
そのチュロスは中国の油条に由来してるともいわれてるみたいで。 ポルトガルのスポンジケーキから派生したカステラ,ポルトガルへ逆輸入されたものの
「ぼろぼろこぼれ落ちる」とかであまり現地での評判はよくなかってたのを昔,ポルトガル
関連の書籍で読んだことがあります。
中国におけるチュロスの評判ってどうなんでしょうね・・・ スペイン内戦に、モロッコ兵がおおぜい動員されていたというのは、
日本ではあまり知られていないな
モロッコ人兵士の徴募活動は、内戦が長期化するにつれて強化され、
最終的にスペインで戦ったモロッコ人兵士は7万人にものぼる >>266
そのへん、深澤安博氏の論文しかしらないんだけど
他に何か適当な著作を知っていたら教えてほしい。 イベリア半島のDNA
@狩猟採集民流入→色黒・青目
A初期農耕民+@→初期農耕民が遺伝的には主となる
Bビーカー人流入→男性はほぼ代替だが常染色体はAが主のまま
C以降侵入者混血→現在のスペボル人
DBの状態を保存→バスク人
こんな感じかね 確かにビーカー人の復元図を見るとバスクって感じがするな 南アのアフリカーナはご先祖様がオランダ人・ドイツ人・フランス人な人
だけでなくポルトガル人な人もいたりする。
18C前半、船の難破でケープの沖合に漂着したイギリス東インド会社の
ポルトガル人船乗りフェレイラさんがそのままケープ植民地に定住したのが
きっかけだとか。 スペイン・ポルトガルが近代化に遅れをとったのは、
やはり宗教の影響が強すぎたからなのかな
イタリア・ルネサンスの影響もさほど強かったとはいえないようだし 16Cのスペインやオスマントルコは超大国ではあっても先進国ではなかった
冷戦期のソ連みたいなもんか トルデシラス条約で、勝手に全世界をスペインとポルトガルで分け合った池沼の国 他人の家の庭に無断で入って、庭の木を倒し、
住民を殺害して火を付けてはならない
アマゾンでは、この当たり前が500年間守られ
なかった この当たり前の事を守らせる事が
ブラジルでは命掛けなんだな スペイン人やポルトガル人の中には自国の後進を
かつてイベリア半島を支配してたイスラムのせいに
する輩も多かったりする?
あの頃はイスラム側のほうが先進だったのに… レコンキスタの過程でキリスト教徒側が狂信的となり,
275さんが挙げてるような状況になったのであれば
ある意味そうなのかもしれんけど 中南米で虐殺略奪やりまくったスペイン
祟りがくるだろう スペインでの植民地支配は収奪一辺倒なイメージがあったが
英蘭仏など他国でも多かれ少なかれやってたんじゃないの? スペインは本国人がガッツリ収奪だけど
英仏とかは植民地人が先住民を駆逐してるイメージ スペインは植民地だけでなく本国においてすら情け容赦ない
搾取・収奪をおこなってたりして
>>284
イギリスから派生した米豪では特にそうだったよな イギリスは第二次世界大戦後、植民地の維持が無理そうだとみると、
あっさり植民地から撤退したが、
ポルトガルはいつまでも植民地の維持にこだわっていたな
ギニアビサウ独立戦争とか、モザンビーク独立戦争とか 撤退してもやってけるイギリス,
撤退したらやってけないポルトガル。
そのポルトガルもカーネーション革命後に植民地を放棄しちゃうが 中南アフリカにおけるスペイン植民地は以前ポルトガル領だった
赤道ギニアだけだがトルデシリャス条約のせいか 2017年ポルトガル最大の大富豪アモリンが没した
アモリンは世界最大のコルク製造企業社の株式の50%を保有していた資産は推定48億米ドル
1870年ポートワインの瓶詰めの栓用のコルクを製造にはじまりコルク製造を母体にワイン製造、観光業に進出
2005年には(旧ポルトガル植民地)アンゴラにBIC銀行(Banco BIC)などを設立している。
2008年にはアンゴラ第4位の銀行になった
ほかに通信、エネルギー企業の株式を取得 幕末〜維新直後の日本を訪れたスペイン人・ポルトガル人で
日記に当時の状況を書いてた人とかおる? 日本が幕末〜維新の頃、スペインではカルリスタ戦争真っ只中か 米西戦争まではスペインはフィリピンやグアムを領有してたはずなのに幕末や明治初期の日本には縁がないね
江戸初期に追い払われた悪夢が残ってたせいか? >>292
スペインは中国にもあまり関心を持ってなかったような
列強の地位からすべり落ちて久しかったからだろうか もう少し時代が下るとポルトガル人のヴェンセスラウ・モラエスが出てくるね フランシスコ ザビエルはバスク人
クロマニョン人の子孫かも ポルトガル国民にとって、植民地帝国の維持は、
貧しい小国意識を慰撫する精神的支えだった サラザールが晩年昏睡状態となった後は子分どもの間で
熾烈な後継者争いとかおこなわれてたんかね ナポレオンから逃げたポルトガル国王がブラジルでブラジル帝国皇帝を自称
ナポレオンはローマ教皇から戴冠されたから皇帝でいいが、
ポルトガル国王は皇帝名乗る資格ないだろうに アメリカ合衆国の王政版
ブラジルの合衆王国だからじゃないか? メキシコがスペインから独立した時、ブルボン家から皇帝を迎えてメキシコ帝国になろうとした
しかしブルボン家に拒まれ、現地の下っ端を皇帝にして第一次メキシコ帝国誕生
下っ端皇帝が追放されメキシコ共和国になったあと、ナポレオン3世がオーストラリア帝国のハプスブルク家皇子を送りこんで第二次メキシコ帝国誕生
しかし送りこまれた皇子は中途半端で支持得られず処刑されて終了 >>298
ポルトガル王がポルトガルに帰ったあとに残った息子が皇帝になったのであってポルトガル王じゃない
むしろ王を名乗る資格がない
ポルトガルに父王がいるのに王を名乗ったらそれこそ反乱者
ナポレオンが「フランス人の」皇帝になったように「ブラジルの」皇帝になっただけ
ナポレオン以降ローマと切り離された皇帝号に大した価値はない >>298
教皇からナポレオンは戴冠されてない
教皇そっちのけでナポレオンは自分で戴冠したんだが スペインではデフォで「黄色い救急車」なのな
国がもともとキチガイって事か ポルトガル人は黒人との混血が多い。
大航海時代からそう。本国の話な。 >>306
ヒターノの血を引いてる人も結構多かったりして レコンキスタ初期の時点でキリスト教側勢力が根絶されアラブ化・イスラム化された
イベリア半島・・・
フランスは対イスラムの最前線に立たされたかもしれんけど、そのイベリア半島が
16世紀にオスマントルコの軍門に下ったとしたら神聖ローマ帝国と同盟結んでたのか
三者三つ巴の状態となってたのか オスマントルコがイベリア半島全土を制圧してたらフランスに侵攻して
南フランスの一部も影響下に置いてそう スペインもイタリアも北部、南部で独立したほうがいい。
ナポリだのアンダルシアだの基地外土人すぎる イスラーム時代には西欧最先端の地だったのになアンダルシア >>308
本拠にほど近いウィーンですら攻略できなかったオスマン帝国がイベリア半島攻略なんて不可能 最近世界史Bじゃ学べなかった知識を補ってるけど、スペインとポルトガルって
もろイスラムに侵略されてたんだな この地域って典型的白人(ゲルマン人)と
ラテン系と中東人の混合ってこと?スペインのサッカー選手ってゲルマンって印象
あまり受けない >314
アラブ、ベルベルの血は皆無ではないけど、
中世のイベリア半島のイスラム教徒は、
ざっくり言って今のスペイン人と民族的には同じ。
>308
根絶はされてない。イスラム治下でもキリスト教徒は相当数いて、
独自の文化(モサラべ文化)を作り出してる。
それに北の一角にはキリスト教徒の政治圏が残り、
これがレコンキスタのもとになった。 東西オスマン帝国に分裂
西オスマンはオスマンベルベルと呼ばれるが
西オスマンが崩壊、東オスマンのみになる キリスト教が根絶されてたらレコンキスタなんてできるわけねーわな >>314
むしろイベリア半島はイスラム王朝時代に大きく発展していて、文化も非常に多様だった
後ウマイヤ朝時代のコルドバはユーラシア屈指の学術都市でもあった
WIKIPEDIAで「後ウマイヤ朝」や「コルドバ」を検索してごらん
グラナダにある有名なアルハンブラ宮殿も、イベリア半島最後のイスラム王朝だったナスル朝時代の宮殿だよ トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国が負けていたら
どの辺までがイスラム化してたんでしょうか?
そうなるとビザンティン帝国は東西から挟まれる形になるので
史実よりずっと早く滅亡したんですかね? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています