ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
貨幣経済 → 物々交換
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配 浪費すりゃ良いってもんでもない
尾張の徳川宗春の例もある >>181
東ローマは何でコンスタンティノープルみたいな所に首都を置いたのだろう
スラブ系などの蛮族の南下が頻発してきたら、あの辺では危険な気がする
ダマスカスやアレキサンドリアに置く案はなかったのか?
それで結果的にはアラブによって早く滅亡しても、シリア・エジプトの方がトラキアより豊かそうで魅力的
トラキアの北には蛮族しかない エジプトの隣はレバント、レバントの隣はメソポタミアだ
皮肉にも今イスラム国というおっかない奴が一番暴れ回っていた地域に限って押さえたいような土地だなあ >>185
地中海貿易の主導権はイスラムに奪われたし
古代ローマの遺産もゲルマンと教会によりズタズタ 古代の日本が中国に学んだように、
中世のヨーロッパはローマに学んだ なぜ中世ヨーロッパは厳格なキリスト教を受け入れたのでしょう?
そこにはもちろん、合理的な理由があったのです。
最大の理由は中世の貧しさです。
禁欲のキリスト教は貧しい中世の荘園世界にジャストフィットしました。
それ以前…古代ギリシアやローマの時代は豊かでした。
なぜなら地中海を支配していたからです。
温暖な気候の中、各地域はそれぞれの特産品の生産に特化し、海上貿易が盛んに行われていました。
人々はその経済力で食と性の享楽にふけりました。
しかし、ゲルマン民族の大移動で西ローマ帝国は崩壊。経済秩序が破壊されます。
またイスラム勢力に地中海の制海権を奪われ、貿易も不可能になりました。
ヨーロッパは深い森の中で、小さな村(荘園)単位での自給自足体制を強いられます。
中世とは都市も海も失ってしまった時代。
人々はアルプス以北の寒冷な森に入って行きました。
地力もなく、流通もなく、深い深い森の中にある小さな村での自給自足。
その貧しさに耐えるため、中世は神への強い信仰を必要としたのです。 >>187
>ダマスカスやアレキサンドリアに置く案はなかったのか?
アンティオキアも忘れないで ダマスカス、アンティオキア、エルサレムだとササン朝の攻撃に晒されて危険
アレクサンドリアは帝国の中心であるバルカンやアナトリアから遠い
よってコンスタンティノープルが最適 >>191
結果的により早くイスラム勢力に征服される事になっても
当時の海からの攻撃を考えた時、アンティオキアの方がまだましな気はする
コンスタンティノープルって日本で言えば対馬の厳原を首都にするような
明は蒙古・女真に近い北京を首都にするし、
アラブの海賊が地中海で暴れるようになっても教皇庁は基本的にローマに置かれ続けた
日本人は首都が盆地の時代が長いし感性の違いを感じる 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、
宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。
古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、
コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、
またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、
10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万〜40万人を擁する大都会となった。
当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、
コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。
ちなみに2世紀のローマは100万人以上な。
西洋において再びこの人口に匹敵する都市が現れるのは19世紀になって から。 ローマ文明を担った民族が壊滅し、新たな流入民に入れ替わった、とでも考えない限り、
あの社会レベルの後退ぶりは説明がつかない。 >>195
日本が今鎖国したら同様な崩壊が起きそう でも、今だってインテリや技術者を皆殺しにしたら同様の後退が発生しないか?
ましてや現代の一般人は
「刃物の作り方、砂鉄を溶かして鉄を取り出して鍛えて…」
「米の作り方、田んぼを耕して水を引いて代掻きして苗を植えて、草取りして害虫とって、刈って脱穀して籾摺りして精白して…」
なんてことすらできないんだから、その後退レベルは想像を絶するものがある >でも、今だってインテリや技術者を皆殺しにしたら同様の後退が発生しないか?
ポル・ポトとかリアルでそれやったからな・・・ カンボジアの場合はまだ周囲の国から技術者を呼び込んで復興できるが、
古代ローマの周辺他国にインテリはいないからなぁ
技術を残していたのは東ローマにイスラム圏だけか ローマ文明を担っていた民族は宗教的には寛容だったササン朝などに逃亡したのではないか? >>197
そういや、もし現代文明が完全に滅びたとしたら
人類が今の文明レベルに再び達するのは不可能らしいな
未熟な技術でも掘れる地下資源はあらかた掘りつくしてしまったから
新たに産業を興すだけのエネルギー資源が確保できないとか >>197
江戸時代も江戸時代でそれなりに高度なノウハウやテクノロジーがあったからな
今でも農家や職人はいるけど、失われてしまったものも多い
文明崩壊して技術が全部アボーンして電気も使用不可になったら
平安時代や鎌倉時代あたりまで生活水準が落ちるんじゃない? そりゃ牛馬が存在しないってのは実際大きいだろう
肉用牛や競走馬を転用できる地域でも、農耕用具がね リサイクル出来る鉄くずがそこらに転がっているから、むしろ有利だと思うけど。 >>95
>どういうふうに文明が退化していったのかも気になる
>西ローマが滅亡した瞬間にいきなり技術や知的レベルが落ちたってわけじゃないとは思う
たとえば建築技術でも50年くらい誰も使用しなければ継承する者がいなくなり断絶する
考古学の発掘から西ローマ帝国滅亡後から数十年後あたりには生活水準がかなり衰退していたことが証明されている >>178
まさに論より証拠だな
やはり中世は暗黒 >>187
元々ローマの東での支配拠点はアンティオキアだった
ビザンチウムが重要になるきっかけは
ゴート族が海峡を通ってエーゲ海に侵入した事だな
ゴート族以前のスキタイやサルマタイとか遊牧民は
船を使って海賊行為をする習慣がなかった
まずビザンチウムに先んじて同じく海峡に接する
ニコメディアにディオクレティアヌスが遷都した 水道橋やパンテオンなんかを作る技術者集団がいても、混乱でバラバラになったり
パトロンがいなくなれば腕を振るう機会もなくなるなぁ。
仕方なく農業か牧畜なんかで糊口をしのいでいる間に、技術も失われてしまう ゲルマン人「ウホッ?学問?建築?芸術?そんなもんどうでもいいから飯寄越せ!」
教会「神さえ信じていればいいのです。余計な本は燃やしますね。あと邪教の者は処刑です」
こいつらじゃ雇い主にならないからな 一応教会がローマ文化を守った
ゲルマン人、スラブ人、マジャル人はカトリックや正教に改宗したが、
それはヨーロッパ人化=ローマ化擦るといこと 教会もラテン語は覚えていたが、ヘブライ語・ギリシア語を忘れてしまったので、
説教をラテン語で行う始末。 農家以外は食うにも困るような状態になりそう
ローマ滅亡後のガリア、イスパニア、ブリタニアもこんな感じだったのかね 旧西ローマ帝国領は惨憺たる有様だったが
イタリア半島だけは東ゴート王国になってもローマ的生活は続いていたのだろうか?
結局はゴート戦争で滅茶苦茶になるけど 日本に併合される直前の朝鮮半島の写真を見て見ろよ
マジで弥生時代レベルだぞ 弥生時代でも、南大門前がウンコだらけで、寄生虫だらけで
人々は染色技術がなくて白かそれがきいばんだような服と黒い帽子しか身に付けてない
みたいなのしか着てないとか、そういう世界ではなかったはず トーティラに破壊された上に、東ローマによる重税というダブルパンチ >>214
インフラが止まったら東京だけで一千万人以上が飢餓に晒されるわけで何が起きるか…
震災の時でもパニックや暴動&略奪騒ぎを起こさなかった日本人でも限度があるだろうね >>214
イスパニアは西ゴート王国と後ウマイヤ朝によって古代文明が維持されていた
後ウマイヤ朝末期の内乱でイスパニアは一挙に中世になった 現代社会でも不景気になればムダを削る
文明や芸術なんてーのは衣食足りて成立するもの
当たり前過ぎるが、衣食が足りねーから苦しみの余りの神頼み イスラム金貨のおかげで慢性的なインフレだったしな。 血みどろの宗教戦争って中世に入るの?
それによって暗黒かどうかかわるな 十字軍は普通に中世
ユグノー戦争や三十年戦争までいくともはや近代 中世〜近代くらいの宗教戦争が中世に入らないなら中世って暗黒じゃなくね?
光ってわけでもないけど
中世の終わりの解釈は様々あるけどやっぱオスマンによるコンスタンティノープル陥落・ビザンツ滅亡だと思う
そっからだろ欧州が荒れるどころか世界中に迷惑かけるの >>217
そもそも弥生時代に南大門をつくる技術はないし
染色技術もないし日本の子どもが寄生虫から解放されたのはほんと昭和50年代のことだぞ
右寄りの人って若い子が多いか日本人が昔から毎日風呂入ってったと思い込んでるけど
昔は風呂沸かすのも家族総出でマキたかないといけないから滅多に入れるもんじゃなかった >>200
単一民族単一人種な日本人には理解できない話だろうけど
ローマ人というのは日本でいう所の士分や町人といった法的身分であってそういう民族がいたわけではない
ゲルマン系のローマ人もいればローマ市民の両親から生まれた奴隷もいた 村とかはそうだったっぽいけど
江戸・大阪・名古屋とかの大都市は銭湯あったんでしょ?
しかも混浴 銭湯は労務者や売春婦から性病を貰わないようにと倦厭して使わない人が多かった 銭湯で、湯船に入るようになったのは江戸中期。それまでは蒸風呂が一般的。 >>213
こんな状態で自活できるのは
自給自足が可能な農家とサバイバル能力に長けたホームレスくらいじゃね? セウェルス朝の復権を名目に僅か14歳のヘリオガバルスが皇帝に凱旋即位した。
しかし凱旋からローマ人に戦慄が走った。なんと即位するときも女王のようなコスチュームを着て現れたのである。
そして私生活だけではなく公務中でも女性の衣裳を着て公務をこなし重要な式典でも女装の正装で登場した。
これには首都のローマ人を戦慄させたという。さらに彼は口調も女言葉だった。
当時ローマで女装や同性愛はギリシアの軟弱趣味と捉えられ印象が悪かった。
しかしヘリオバルスの痴態はとまらず公共浴場では女風呂に入り、痴態の参考にする為に女性を観察し、
波止場で皇帝親衛隊に巨根の美少年を裸体のまま拉致させ宮殿内に強制連行しては凌辱の限りをつくし、
ヘリオガバルスの「性の相手」で燃え尽きた美少年たちはエラガバルス神の生贄の儀式にてペニスを切りおとされ殺されてしまった。
この犠牲者は数千に上るという。 またヘリオガバルスは町の娼館で女に客を取らせ自身の宮殿で商売をさせた。
この事はかの有名なカリグラも同じことを提案したが実行まではいたらなかったとされる。また自らも「男娼」として男性客の相手をした。
貴族社会であった古代ローマで上の階級の者が奉仕する立場に立つということは許されることではなかった。
この他、後述するが、寵愛する美少年にわざと浮気現場を見せつけては、殴られるのを嬉しがっていた。何この男の娘皇帝マジ淫乱。
宗教面でも従来の慣習や制度を全て無視してエル・ガバル(エラガバルス)を「最上神」「太陽神」とするなど極端な政策を行った。 都内にいる外国人、何十万人の内かなりの割合の人が暴乱を起こすはず
住居侵入で食糧となるものを奪いつくしたりとかが考えられるね
警官を襲って拳銃を奪ったりとかもありそうだ 昔は水道もないから、いちいち井戸から水を汲んで水桶を両手に持って風呂場まで往復して、湯舟に水を溜めないといけない。敷地内の井戸でも大変なのに、水利の悪い場所では村に一つしか井戸が無い場合もある。
壮大な時間と体力の浪費だ
ガスも灯油もないから、燃料は薪。
しかも昔の風呂釜は熱効率が悪いから、沸くまで数時間かかる場合すらあった。
その間の貴重な燃料の浪費たるや…
これでは毎日風呂に入れるわけないわな。 >>237
匈奴スレにいるほら吹きおじさんとよく似た文体だけど
同じ人かな?相当話盛ってるな >>74
しめ縄などは東南アジアにある。
社殿を建てる概念は仏教の影響
建物自体は単に当時日本で作れた様式 >>85
アレは地方豪族に力を見せるためのもの
>>86
舗装はそれなりだったぞ。目的が豪族への威嚇なので実用目的でないのでメンテは適当だ罠 >>237
これはヘリオガバルス個人がたまたま性倒錯者だったのではなく
おそらく彼の父も祖父もそして先祖代々の伝統だったのだろうな
エメサ王のままならば全く問題なかったのだろうけど
彼は不幸にもローマ皇帝に選ばれてしまったわけだ >>244
237自体も盛り気味だがそもそも殺した皇帝の悪口だから多分盛ってるぞ >>243
まぁ石舗装ではないが基礎工事はそれなりにやってるぞ ローマン・コンクリート
ギリシャ火
汝窯の青磁
曜変天目茶碗
古刀(慶長年間以前に製作された日本刀)
満漢全席
復元されないかなー 北魏孝文帝的漢化
北魏的第三代為<<北魏孝武帝>>,他即位時只有五歲,由具有漢族血統的<<馮太后>>主政。
<<北魏孝文帝>>受到馮太后的影響,非常喜歡漢人文化,為了融合胡人、漢人文化,以便以後統一中國,進行了許多重大的改革:
第一、遷都洛陽:
北魏原本的首都在平城,北魏孝文帝認為平城缺糧、人口稀少、離南方太遠,
想要向南進攻實在遠,而洛陽經濟富厚,又有運河可以四通八達,
理應遷都,但北魏孝文帝卻遭到群臣極大的反對,於是他只好以南征為藉口,
率領軍隊、文武官員南下,到洛陽就停止,隔年正式定都洛陽,也展開了一連串的漢化運動。
第二、各項漢化:
禁胡服─北魏孝文帝自己以倡導衣冠禮樂的「哲王」自居,他本人也換上漢族帝王服
飾,也規定下面文武百官都穿上漢服。
斷北語─凡官員三十歲以下者都須斷絕說<<鮮卑>>話,大家來學漢語,如果還是說鮮
卑話的官員就免職。
通婚姻─鼓勵漢、胡之間通婚,自己也娶漢族女子為後,希望消除胡漢之間的距離。
改姓氏─凡帝室及功臣文武百官皆改為漢姓,如拓跋改為元。
推廣文教─設各種學校,國子學、太學、四門小學,並徵求許多貴重散落的書籍來充
實國家的圖書館,藉此提倡文教風氣。
孝文帝的漢化規模很大,推行的速度、角度都很廣很大,反對阻力是無法避免的,
漢化的結果雖然提高了鮮卑人的文化水準、胡漢界限消弭,但也有缺點,如不願漢化的鮮卑人使國家有分裂的情況,
而且許多漢化的鮮卑人也感染了文弱奢侈的風氣,造成對整個國家不良的影響,因此北魏孝文帝漢化政策的推行有好也有壞。
撰寫者:青年國中邱婉慧老師
建置者:桃源國小徐順得老師 >>101
でもガリアやダキア等の他の蛮族は吸収できたのに
ゲルマンだけ消化不良に終わったのが腑に落ちないわ よく暗黒の中世と言われるけど
あれはあくまで西ヨーロッパにおいてであって
ビザンツ帝国ではギリシャ・ローマ時代のクオリティで
学問・建築・美術が維持されていたのだろうか? 少なくとも美術の分野は衰退したな
イコノクラスム前後でイコンの質落ちすぎ >>252
西と違って壊滅はしてないが
東だって全盛期と比べて色々と劣化してる ヘラクレイオスのあとからニケフォロス1世が始まる迄くらいだな、暗黒時代
ユスティニアヌス1世に起因する混沌という見方にまで拡張することもできる そしてロマノス一世くらいの時から技術の面でも西欧に抜かれていった >>251
中原に入った胡族でもモンゴルだけは漢化されなかったな 暗黒時代といえば東ローマにも歴史がほとんど記録されてない暗黒時代があるんだな
ユスティニアヌスの大帝国が瓦解してイスラムが勃興してエジプト、シリアあたりを奪われて
コンスタンティノポリスまで圧迫されるようになって
そのあと二百年ほど東ローマの内情がどうなってるか史料が無くて全く不明 中原に入った胡族は圧倒的大多数の漢族に文化的にも血統的にも呑み込まれて
同化されるのが常だが、モンゴルだけは漢化されなかったな 中国史マニアってなんで無理矢理中国史の話に持っていこうとするんだろうな >>251
ガリア人やダキア人は防御集落に定住していたけど
古代ゲルマン人は城壁で囲まれた場所に住む習慣がなかった
ゲルマニアではローマ軍が得意とする城攻めが出来なかった
古代ゲルマン人は城塞に籠城したりせずに森林や沼沢など
自然の地形を活かしてローマ軍を撃退した
ゲルマンのゴート族は森林がまばらな黒海北岸に移住したけど
故郷と同じように城壁のない無防備な集落で暮らしていた
無防備だったのでフン族の襲撃でゴート族は逃げ出した
スラブ人は丘の上や沼沢地に囲まれた集落に住んでいたので
フン族が来ても逃げ出さなかった >>251
アウグストゥスはゲルマニアが欲しかったのではなく
イタリアを守る天然の堀としてエルベ河が欲しかった
ドナウ河が上流では川幅が狭くなってしまうので
イタリア北方で最も川幅の広い河川がエルベ河なので
エルベ河を防衛線にしようとした
ドーバー海峡の向こう側のブリタニア
ドナウ河の向こう側のダキア
ユーフラテス河の向こう側のアルメニア
これらの領有を避ける事でアウグストゥスは防衛線の短縮を目指していた
防衛線の短縮化の為にエルベ河を防衛線にする為にゲルマニア西部を領有しようとした
そしてライン戦線とドナウ戦線を エルベ・ドナウ戦線として統合しようとした ローマ帝国がチート過ぎただけで周辺地域と同レベルに戻っただけじゃない? 欧州が蛮族襲撃から復興し出した時点ではまだイタリアが圧倒的に先進地域であった
ゴート族と無関係のフランスの建築様式をゴシック様式と呼んだ辺りからイタリア人の衰退への焦りを感じる ゴート人ってワードは当時から蔑視的なニュアンスがこもってたのかなヴァンダル人みたいに 文明の崩壊では通常、文化や技術の喪失だけでなく、新たな文化や技術が勃興するのが普通なのに、
(古代のミケーネやヒッタイトの崩壊では鉄器文化の拡散が見られたし、中国の五胡十六国時代には、
古代漢文化が消失した一方で、仏教文化が勃興した。)
古代ローマの崩壊に関しては全面的な後退ばかりで何故か新たな文化や技術の創出がほぼ見られないという特質がある。 古代ローマの崩壊後に鐙が普及し始めて
誰もが重装槍騎兵になれるようなった
古代ローマ時代にはカタフラクトは
イラン系諸民族やアルメニア人とかトラキア人と
イリュリア人など騎馬民族の特技だった
鐙無しで両腕で槍を構えて突撃するのは農民には難しいので
ローマ帝国はバルカンをゴート族に荒らされると
たちまち軍事力が弱体化して防衛力を失っていった
鐙のおかげで西欧人やアナトリアのテマ農民が
騎士やカタフラクトになれるようになった
鐙が普及しなければバルカンがスラブ化した時点で
東ローマは滅亡していたはず 西欧に鐙を伝えたのはゴート族かアヴァール族かアラブ人のいずれかとされるけど
アヴァール族が西に出現した頃に東ローマとササン朝も鐙を軍に採用しているので
アヴァール族が中国の鐙を西方に伝えた可能性が大きい
東ローマとササン朝によりアラブ兵も鐙を使用するようになり
パルミラのカタフラクトはイラン人傭兵だったけど鐙のおかげで
アラブ人自身が騎兵になる事が容易になったので
鐙の無い時代のイラン人の軍事的優位が崩れ
やがてアラブ人はイスラムの大帝国を建設する事となる ササン朝とアクスムのイエメンの支配権をめぐる抗争で
575年にマアリブ・ダムの維持が断念されイエメンの農業が衰退して
農民がベドウィン化して後にイスラム軍の大きな戦力となったけど
おそらく鐙の普及で農民のベドウィン化が促進されたと思われる それからアラブが荒ぶり始めるわけですね わかります >>268
フランス革命は流血もあったが、自由・平等・博愛など実りもあった
ロシア革命は専制を倒したら更なる専制になったという誰得状態の壮大なギャグ >>274
こと、ロシア国内に関しては
帝政期よりも遥かにマシになったんだよ、農奴がいなくなっただけでもな 所謂民主的要素が広まったのを実りとかいうがそれは今の価値観を絶対視する価値観に洗脳されてるな どっちに転んでも暴力による専制以外に治めようのない土地がユーラシア
そのユーラシアの統治者が務まるのはロシア以外居ない
まがいなりにもユーラシアを統治し続けてたロシアの人類史上の功績は認めるべきだと思う >>276
いや、ロシアの農奴に関しては、民主主義だの社会主義だのと言った思想性は関係なく
生活が良くなった、それも飛躍的に
それだけ帝政ロシアの農奴の生活水準が酷かった 農奴がいなくなったのホロドモールで飢えて死に絶えたからでは? コルホーズにおける農民の生活も楽なものではなかったがな >>274
マルクス「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」 白丁さんたちの服が染められないは技術がないのとは違う問題でしょが 欧州の古代から中世への移行はキリスト教の拡散と引き換えに
ローマ時代の文化的な蓄積をほぼ喪失した、って感じ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています