ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ 文明が終わるということ 識字率そこそこ → 神父以外文盲 上下水道完備 → 糞尿垂れ流し 食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み 街道は安全 → 野盗・山賊だらけ 貨幣経済 → 物々交換 地中海貿易 → サラセン海賊跋扈 巨大建造物 → アーチすら作れなくなった 各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦 地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ 人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配 現在でも貴族は残ってる けども逆差別を受けてると以前テレビでやってたぞ >>723 逆差別もあろうけど、パリやらにほぼハイクラス専用の店とかも結構あったりして、何や彼やと影響力あるよね ちなみに王政復古時にウジャウジャ帰国もしてるなフランス貴族 >>715 とかいう坊主の釣りに騙されて 中東の野晒し死体に成り果てぬ ロシア革命の生き残りもちらほら 「赤い伯爵」アレクセイ・トルストイみたいな人もいたし、多少はね? >>2 キリスト教が入って文明が後退して貧しくなったんだから、因果が逆だろ。 イスラム圏の隆盛で、イスラム圏に保持されていた天測や冶金技術の再導入が為され、法王庁の権威失墜。 ルネッサンスと宗教改革が始まり、新旧両派の血を血で洗う抗争〈三十年戦争〉の結果、両社ともくたくたに疲弊し、 もはや宗教の時代ではなくなるとようやく気付いて近代に向けて再開した進歩が急加速、 >>120 ブリソン人・ゲール人・アングロ人各派諸部族入り乱れての抗争時代 >>710 モンゴルの匈奴航空は、英語ではフンヌエアーだぜ・・ ゲルマン人はなかなかローマ化しなかったけど キリスト教はすんなり受け入れたな サラセンやバイキングが跋扈する時代はローマ一強時代に比べて地中海貿易が衰退したかというと、そうではなさそうだ この時代からイタリアは多強時代に突入して都市国家が発展してルネサンスにつながっている モンゴル侵攻とペスト大流行が13世紀で、この時代にベネチアとジェノバは地中海の覇権を巡って衝突をした 基本的には良くも悪くも世界貿易は拡大し続けているのだろう でもイスラム海賊がヒャッハーしてるからローマ時代のほうがいいな ポンペイウスみたいに海賊一掃してくれないと安心できない 地中海をイスラムに抑えられたのでカール大帝はゲルマニアに活路を求めた サグセン戦争によりドイツが建国するとそれに影響されてポーランドや ロシアも建国して東欧が定住化文明化していった 蛮族らが定住化したのでモンゴルが攻めてきても民族大移動は起きなかった かつてプトレマイオス朝によってエジプトが地中海の穀倉化すると 黒海北岸のボスポロス王国は穀物輸出競争に敗れたので ギリシャ人による黒海北岸の農業開拓は停滞してしまった >>738 「ヨーロッパ」の領域が800年ぶりに東へ拡大したのはイスラムのお陰か >>740 地中海から締め出されたのでヨーロッパで拡大せざるえなくなった ギリシャ人の場合はアレクサンドロス大王がオリエントを征服したので ヨーロッパへ移住する必要がなくなった アレクサンドロス大王の征服がなければおそらくアナトリアではなく ウクライナがギリシャ化したかもしれない >>738 フランク王国はフランスの原型なので シャルルマーニュと呼ぶべきだろう >ヨーロッパへ移住する必要がなくなった めっちゃ移住しとるが エジプトや北アフリカへの移住何て紀元7世紀頃にはすでに始まってるからな つうかポスポラス王国も知らんのか 当時の黒海や地中海沿岸でギリシャ人がいないとこなんてないからな >>742 それを考えると、ギリシアはオリエントの一地方、 ローマはヨーロッパの原点という風にいえふな 地中海沿岸はギリシャ人にとって最適だったけど 黒海北岸はギリシャ人にとって寒過ぎたようで 温暖なシリアやエジプトへ大量移民が可能になると 黒海北岸へ入植者は減少するのでポスポラス王国は 過疎化衰退してしまう事になった さらにポスポラス王国からもより温暖な地へ移住する ギリシャ人もかなりいた事だろう >>722 >>726 帝政ロシアの身分制度だと、軍の将校と、管理職以上の役人は基本的に全員貴族だから、 貴族を全員処刑・追放したら、行政機構が崩壊する。そもそもレーニンが貴族だし。 (貴族しか軍や役所で出世できないのではなく、平民でも出世すれば貴族に任ぜられる) フランスも、多くの貴族が処刑されたのは、ジャコバン派が実権を握っていた一時期だけだし、 その時期だって、建前としては反革命とかの罪状で有罪になっていて、 貴族であることを理由に処刑されたわけではなく、革命期にずっとフランスにいたのに生き延びた貴族もたくさんいる。 100人余りの歩兵が魚の鱗のような陣形や盾を持った陣形を組み、土で築いた城の外に木の城を築いていた。 『漢書・陳湯伝』 これひょっとしてパルティアとの戦いに負けたローマ軍の敗残兵かな? >>1 水道橋やパンテオンなんかを作る技術者集団がいても、混乱でバラバラになったり パトロンがいなくなれば腕を振るう機会もなくなるなぁ。 仕方なく農業か牧畜なんかで糊口をしのいでいる間に、技術も失われてしまう ゲルマン人「ウホッ?学問?建築?芸術?そんなもんどうでもいいから飯寄越せ!」 教会「神さえ信じていればいいのです。余計な本は燃やしますね。あと邪教の者は処刑です」 こいつらじゃ雇い主にならないからな たとえば建築技術でも50年くらい誰も使用しなければ継承する者がいなくなり断絶する 考古学の発掘から西ローマ帝国滅亡後から数十年後あたりには生活水準がかなり衰退していたことが証明されている ローマ建築は耐久性に優れ過ぎていたのでメンテナンスフリーで 技術の継承が途絶えてしまったのかも? ササン朝ペルシャのメソポタミアとイランの建築は 日干し煉瓦なのでこまめに煉瓦を交換しないとすぐに風雨で傷んでしまう >>715 十字軍w確かに楽しいけど 第1回十字軍の前に行われた民衆十字軍なんて 五胡もビックリの虐殺狼藉ヒャッハーな挙句 エレサレムに程遠いトルコ辺りで正規軍と戦闘になって一瞬でほぼ全滅 赤眉賊や黄巾賊もビックリの烏合の衆w シリアあたりからペルシア、中央アジア、華北に至る日干煉瓦建築地帯は 古い建築がなかなか残らない それに比べてローマやエジプトの石造建築は半永久的に残る シリア アレッポ ダマスカス パルミラ ペルシア ペルセポリス エスファハーン 中央アジア ブハラ サマルカンド コーカンド ヒヴァ テュルキスタン >>742 ポカイア人の南フランスやドーリス人のシチリアへの入植も知らないんですかヤダー オリエント地方の入植もアレクサンドロス以前から始まっていてペルシャ軍も歩兵の主力部隊はギリシャ人なんですけどね >>749 レパント地方へのミケーネ人の入植は紀元前13世紀 アナトリアにミレトスが建設されたのは紀元前11世紀 エジプトにナウクラティスが建設されたのは紀元前7世紀 一方クリミア半島への移住が始まったのは紀元前5世紀からで植民地としての開拓はもっとも後発なんだけどね そんな高校世界史教科書でも書いてある事は お前以外の人もみんな知っているよ馬鹿が クーロス像 紀元前7世紀 https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/15/87/45/src_15874503.jpg?1281578589 メンカウラー像 紀元前26世紀 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/8/88/Menkaura.JPG ギリシャ人はもともとトゥキディデスが言うように元々は略奪を主とする海賊に過ぎなかった それが各地に入植するにつれ、特にエジプト人から建築、芸術、学問を学び文明人となっていった もしアレクサンドロス以前に東方への植民がなければ、ガリアやゲルマンとそう変わらない野蛮人の群れに過ぎず ミレトス学派やイオニア学派も存在しなかったであろう >>759 知ってたら>>749 みたいな間抜けなことはかけないわな インドへの植民もアケメネス朝時代には始まっており アレクサンドロス大王もインド遠征の際に当地のギリシャ人移民にあっている >>760 けど瞬時に師匠であるエジプトを越えてるんだよな 例えば日本が中国を越えるのにどれほど長い時間がかかったか考えると驚異的 >>761 要するに規模の違いだな 10万人が移住する事と100万人が移住する事に 違いがないという事ならばあなた言う通りだ NHKの「古代ギリシャ白い文明の真実」はよかった 古代ギリシャは貧しく、多くの若者が各地へ傭兵として離散していく事となった その結果、帰還した傭兵によって世界中の技術がギリシャへともたらされた >>761 お前が何人かはわからないけど 日本人は喧嘩腰の相手とは議論はしない お前はお前の同胞と議論しなさい ゲロノイは本当にギリシャ人だったのだろうか? ギリシャ人だったとすればギリシャ本土からの移民なのか? ではなくてゲロノイの地こそギリシャ語派の発祥の地で ギリシャ本土へ移住した者と残留した者に分裂したのか? チンチンが本体というのは言い得て妙よな〜 同じ型のY遺伝子をユーラシアに広めたのは事実なんだし 虐殺レイプやりたい放題 その辺一般のモンゴル人はあんま知らないのでは たぶんモンゴルの大河ドラマみたいなので美化されてるんだと ちんちんもどーかと思うがコロコロコミックじゃなあ >>770 金!暴力!セックス!をここまで地で行った男もいないだろう >>771 アレクサンドロス大王のマケドニア軍も アケメネス朝を占領した時は略奪・暴行しまくりよ チンギス・ハンに比べたら董卓も石虎もまだ可愛いもんよ >>770 まだ、こんな頭の悪いガセ信じてる奴いるのか 本人の墓も見つかってないどうしてそんなことがわかるんだ >>771 そんなんどこの戦争でもそうだし 戦国大名も奴隷狩りやレイプは当たり前にやっていたが日本人にとって「英雄」なのは間違いないだろう 信じられますか?これが20世紀の軍隊です 山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記 「二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出して機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分突き刺す。 ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」 朝香進一「初年兵日記」 1938年8月29日 南京攻略戦では、住民が反抗的態度に出たと言うので、「十里四方の住民全部を殺せ」という軍命令が出された。兵隊たちは村落を包囲し、手当り次第、住民を銃剣で突き殺した。 婦女子は特にむごい殺し方をした、と彼等は酔がまわるほどに手ぶり、身ぶりで、その状況を実演して見せるのである。その残酷さは目をおおわせるものがあった。 梶村止『観測小隊長の日記 大陸を戦う』 11月29日 晴(待機) 思ふに国民党の徹底抗日の教育充実し、ここ江南地区がもっとも抗日思想激しき処と聞く。この附近不審の土民は射殺すべしとの内命すらありゐたり。 猪瀬直樹監修「目撃者が語る日中戦争」P60〜P62 「上陸すると、手当たりしだいにぶっ殺す。銃剣で刺すなんて生やさしいものではなく、棍棒でやるんだな。男も女も、バリッとなぐられ、ブワッと血を噴き出して死ぬんだよ」 みんな殺せという命令が、抗州湾上陸の直後に出された。河野さんは、たしかに命令伝達書を見た。そこには、つぎのようなことが書かれていた。 ―共産主義の暴虐を許さず、共匪の跳梁を粉砕するため、農夫、工夫はもとより、女子どもにいたるまで、全員殺戮すべし。 『歩兵第四十三聯隊 U 支那事変編』よりM・S(原文実名)陸軍伍長の手記 徴発といえばなかなか言葉は良いが、人様の品物をだまって持って行くという仕儀だ。内地なれば完全な泥棒行為だ。だが戦場ではこれが自然の習わしになっているらしい。 習わしになっているかも知らないが、誰に教えられるともなしに僕等はその行為を自然にやっている。最も自然に・・・・。 「前田吉彦少尉日誌」 一二月十六日 朝に比べて帰りは街上また大変な人出で無統制に徴発を許した為かそれとも勝手にやっているのかその辺の窓や扉を勝手にやぶって食糧や衣服、 こんなものを両手に抱えている兵隊が多かった。 日本軍に捕らえられた捕虜の死亡率 オーストラリア 35.8% カナダ 28.2% イギリス 24.8% ニュージーランド 30.5% アメリカ 38.8% オランダ 22.7% インドネシア 76.6% ナチスドイツの連合軍兵士捕虜 捕虜数 235,473人 死亡数 9,348人 死亡率 4% 中国歴代皇帝で粛清をやらなかったのは趙匡胤、光武帝、チンギスハン この3人しかいないという現実 >>780 チンギスハンが中国の皇帝だったとは初耳 >>781 法天啓運聖武皇帝という立派な漢風の廟号をもつ皇帝ですが何か >>783 漢風の廟号をもつ朝鮮王は全て中国の皇帝ニダ バカ?朝鮮人で漢族の文武百官から帝号を送られた奴なんていないじゃん >>783 チンギスハンがいつ中国を統治したんだよ? チンギスハーンを中国人として扱うのは、 今の中共政権がウイグル、チベット、内モンゴル、満洲を中国の一部にして支配するのに都合がいいからである 元朝は中国→元朝を作ったクビライハーンは中国人→クビライハーンの祖父のチンギスハーンも中国人と無理矢理に解釈する >>780 始皇帝もしなかったと聞いたけど違うん? チンギス・ハーンは中国以外でも大量虐殺をしたから評判が悪い 人口が多い中国だけなら目立たなかった 例えば19世紀の太平天国の乱で3千万人も死者が出たらしいけど 幕末の日本で3千万人も死んだら全滅だ >>2 キリスト教ってローマ帝国時代に広まってんじゃん 皇帝が国教に指定するといわなきゃいけなくなるくらいに広まって影響力つよくなってんじゃん >人口が多い中国だけなら目立たなかった 中国北部の人口が、「5千万人から9百万人に減った」と言われてるんだから、多少は目立っただろ それって三国時代の人口が900万ないのと同じ理屈で 動乱期はみんな豪族の私有民になって戸籍から抜けるので把握人口がそれだけになるって話 大体そんなに減ったのなら中国の郡県や都市のほとんどがなくなったはずだが 現実は一県も減っていない あくまで戸籍上の話だからな ちなみにローマ帝国崩壊後は教会が戸籍の管理とかやってたらしい この村には何人いるとかね まぁ、その土地の支配者層だからね…セナトール貴族からの。 >>3 >しかしこうした各都市間が互いに依存するシステムは一度交通が遮断されると一挙に石器時代まで戻ってしまうことすらありえる 中国も漢王朝の滅亡後は三国時代や五胡十六国時代など分裂状態になったけど ヨーロッパにおける暗黒の中世ほどの大崩壊には至らなかったのはなんでだろう? >>801 漢と唐の滅亡期も文明の大崩壊期じゃないの?人口が激減したようになっている >>803 実際に人口減少以上に人口が今どれだけいるか把握出来なくなるというのが文明の崩壊ではないかと 漢は唐として復活したし、その後の宋や明も相変わらず大帝国。 ローマ帝国は滅亡後、西はゲルマン諸王国が乱立して旧領がブツ切りになって、 東はビザンツ帝国がどんどん縮小して、二度と大帝国として復活しなかったし (ユスティニアヌスの時ですらローマ帝国の領土には及ばなかったし カール大帝の時も西ローマ帝国の全領土にも及ばなかった)、 文化・生活水準がようやくローマレベルに戻るのが1000年以上のちのルネサンス。 中国は乱世になっても知識階層は残ったが 中世ヨーロッパは僧侶以外文盲なのよね 西ローマ皇帝の末裔っておらんの? ロムルス・アウグストゥルスとその子供たちは生かされたようだが 子孫はどうなったのかな?ゴート戦争に巻き込まれて殺されてなきゃいいけど・・・ ロムルス アウグストゥルスの血筋を引く子孫が今もいる >>805 ドイツやロシアが建国して農業が盛んになったから ヨーロッパの人口は中世の方が古代よりも多い 旧ローマ領外では文化・生活水準は古代よりも向上した >>810 それ、中世農業革命後の話だから ローマ滅亡から400年以上経ってる ならばその後の宋や明も相変わらず大帝国とか 1000年以上のちのルネサンスとか書くな >>812 お前さん無茶苦茶言ってるの理解する気もないだろう 欧州中世ってくくりはめちゃめちゃ長くて、5世紀後半から15世紀中頃まで、おおよそ1000年あるわけ 中世農業革命は11世紀頃の話で、ローマの滅亡とは繋がりがほとんどない代物なの(一般的な西ローマ帝国滅亡の解釈からは600年も離れてて、それまでローマ時代の人口に全く届いていない) 東アジアの大帝国に関しては、地勢的な面も大きいから評価は避ける(評価は分かれるが、「銃・病原菌・鉄」の論考は読んでおくべき)けども ローマ滅亡後の方が人口増えたとか、因果関係がなさすぎて失笑しかない >>812 あと、自分に批判的なレスする人間が全部同一人物だと思うなと 別人だ >>813 オレも別人で横から失礼するけど、 てことはつまり、中世の方が(西ローマ帝国滅亡とは関係無いけど)古代よりも人口が多かった、てのは合ってるのね? >>817 中世農業革命後の、ドイツ、フランスにおいては正しい 12世紀後の話だけどな イタリアにおいては正しくない >>818 イタリアも同時期には全盛期ローマ時代よりちょっと多めくらいに人口戻しとるやろ スペインは後ウマイヤ朝時代にはローマ時代よりも人口が多かったかも ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる