ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
貨幣経済 → 物々交換
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配 西ローマ・西ゴート連合軍 VS フン族
と言われるが、この時期の西ローマ軍はゲルマン傭兵だらけだから
実質的にはゲルマン軍なのよね >>1
日本の田舎でも近い将来こうなりそう
インフラが老朽化しても財政難で維持できなくなりそうだし ならねーよバカキッズ
インフラが縮小するのとインフラ技術者がまったくいなくなるのとではわけがちがう >>838
フン族側もゲピド族と東ゴート族が主力だった
カタラウヌムではゴート族どうしが戦った ウァレリアヌス帝の頃からローマ軍はゲルマン系ローマ人が主力だが
プラエトリアニに至っては創設当初からゲルマン系主体 >>843
> プラエトリアニに至っては創設当初からゲルマン系主体
Numerus Batavorumと混同してないか 親衛隊はセウェルス帝による総入れ替えまで大半が本土イタリア系だったはずだよ
ゲルマン系なのは皇帝の戦地警護を担ったバタウィ護衛隊 ウァレリアヌス帝の頃にはローマ軍はイリュリア系ローマ人が主力なのでは?
ウァレリアヌス帝の息子ガッリエヌスはイリュリア人将軍らに帝位を奪われた
ウァレリアヌス帝親子はエトルリア出身の名門だけど息子の暗殺後からは
イリュリア人とかバルカンの騎兵出身者らが帝位をほぼ独占するようになった 代名詞を使わない特徴的な文体の人いるけどアスぺか?
健常者にも分り易いようレスになるように推敲してやるよ
ウァレリアヌス帝の頃にはローマ軍はイリュリア系ローマ人が主力なのでは?
その息子ガッリエヌスもエトルリア出身だけどイリュリア人将軍らに暗殺され帝位を奪われた後は
バルカンの騎兵出身者らが帝位をほぼ独占するようになった >>840
廃墟化した鉱山都市工業都市とか既にあるわけだけど
それとヨーロッパで起きたことは同じとは言えないような
ちゃんと教育を受けて文明の利便の維持できるとこに人が移動してるわけで ちゃんと教育を受けて文明の利便の維持できるとこ=東ローマ帝国領 シルクロードの終端にして交易貿易の中心地を持ち豊かなシリアエジプトアフリカを保有した東ローマでないと維持出来ないレベルの金食い虫なんだよなぁ その東ローマでさえイスラムやら十字軍やらで途中から維持しきれなくなってくる
これだから中世は… 全盛期ローマとイスラムとモンゴルで三國志とか見てみたい 野蛮でもガリア人やゲルマン人はローマが衰退しなきゃ手も足も出なかった
それまでは勝てないから逃げ回ってた ローマの奴隷も侵略者であるゲルマンの軍に加わったようだ アーサー王伝説の元ネタがイアジェゲス族の言い伝えってマジかいな アレはいろんな伝承が混じってるので元ネタなるモノは複数有る >>856
ブリタニアに駐留したサルマタイ将兵のブリタニアでの伝説ではなくて
ブリタニアの来る以前からサルマタイに代々伝わっていた伝説という事かな? >>373
ネストリウス派なんて中国やモンゴルにまで伝わってる 右はセムハムの平均顔だろうけど
たぶんそこそこ金持ち(ニートが長男でも大丈夫)な中産階級なんで左みたいな細面でも不思議ではない
色は右だろうけどw 右はイギリスの労働者階級とかに多いケルト顔みたい
右みたいな顔した俳優は洋画によく登場しているよね ガロ・ローマ人は政治的にフランク族化
フランク族は文化的にローマ化
そしてフランスになっていくのね イタリアはゴート戦争で廃墟に・・・
そして神聖ローマ軍によるローマ劫略の結果、ルネサンスは終焉 フン族以降、アヴァール、ブルガール、ハザールと遊牧国家が興隆している面を見れば一概には暗黒とは言えない。 ローマ帝国末期もこんな感じだったのだろうか
侵入してくる東西ゴート、スエヴィ、フランク、アングロ・サクソン、ヴァンダル・・・
そしてフン(ウンコじゃないよ) >>862
現実といっても想像だろ
もう少し人を惹きつける顔だったかもしれないだろ
麻原みたいに 中東のセムハム系だから実際はこんな感じだよな
いつの間にか西洋の絵画では金髪碧眼になってるけど 日本人が考えるアラブ人ってベドウィンだろうけど
シリアとかヨルダンあたりはぱっと見、ヨーロッパ系と見分けつかないよラニア女王とか
日本人が釣り目、出っ歯、頬骨が出てる並みの偏見だと思う ロシアとオスマンの正教イスラム教徒大交換会でやってきたロシア在住のムスリムの大量入植してなかったっけ?
あそこら辺はビザンツ支配時代にも特に詳しくないけど混血してそうなイメージがあるし、キリストの時代と今の時代の現地人は別物だと思う >>876
目は細い帆とが多いし、今から60年前は栄養状態の悪さから唇が薄く
出っ歯に見えたな
ただ頬骨は偏見ナシで韓国かと
いまでも半島の民は頬骨が出てる 当時は朝鮮も日本の一部だったので妥当な評価ニダ
ホルホルホル >>878
仏像は真逆だろ
自分たちに寄せてるわけじゃないからな フン族を破壊者というが、アッティラほど積極的に技術者を雇い学者を召し抱えた王は同時代には居なかったと思う。
ギリシャ人だろうがペルシャ人だろうが、ローマ人だろうが、民族宗教にはこだわらずに有能であれば取り立てたから、
アッティラ軍の攻城能力も格段に増強された。 クレオパトラはオリエント風のエキゾチックな美女として描かれるが
実際の彼女はギリシャ系なのよね 10年ぐらいまえにやってたNHKの番組で
ブリタニアに駐屯してたローマ兵が現地人と家族をつくるために軍団から
脱走することが相次いだらしく、
それを記す記録が写ってたけど、
現代英語で脱走兵を表すdeserterというのと一字ぐらいしか違わない
単語がまんま書いてあったので、西洋すごいと思った。 まあ現代でも文明崩壊が起きて
メーカーとかの技術者を全員あぼーんして、工場も発電所も全部アボーンすれば
生活レベルは一気に南北朝以前まで戻りそう
江戸には江戸なりにノウハウやテクノロジー、あと環境整備があったけど
今の世代はその知見を完全に失伝している
電気が禁止されたらどこまで戻るか見当もつかない・・・ >>3
素人の妄想
帝政ローマの船舶を使った交易わ2世紀後半から衰退して
地産地消が進み地方毎の纏まりと分裂が進んで行く、ガリア帝国とか キリスト教は単に世界化したローマに必要とされた
脱民族の宗教だっただけで
キリスト教の思想が文明を衰退させたとかはあり得ないね
このスレに「流通の崩壊」の話をしてる奴がいるけど
それが主点だろ。
まぁ「流通が崩壊しても平気なように」「大規模奴隷農業」ではなく「自立した市民の農民の小規模農業」なら大丈夫だっとか
土地改革の話にしたり、気候変動の話にもできるだろうけどな
俺はキリスト教はまさに文明保存の図書の保管庫の役割を果たしたと思ってるけどね。
>>1にもあるけど「神父以外」ということは「神父」や教会だけは必死に文書を守ってたわけだ。
イベリア半島でイスラムから大量の文書を手に入れた時も
翻訳作業でプラトンやアリストテレスを西欧社会に広めたのは教会だからね >>494
徳川コインこと大判小判見つけた位にはなるんじゃないの? ローマ時代は風呂が盛んだったからね
でも中世になるとキリスト教の影響で風呂文化が廃れて不潔になった >>889
ならなんで4世紀のそう豊かではないブリタニアの農村からですら遠く離れた南欧産の食器が見つかっているんですか?
オスティア港は2世紀が最盛期なんですけど
地産地消だったのは同時代の漢だろ
例えば春秋時代から中原では鉄製農具が普及していたのに対して集安の玄菟郡時代の県城あとからは後漢代に入ってもなお石器が見つかっている
なんで同じ国でも文明レベルがちぐはぐだったのかというと漢では国内交易すらほとんど行われていなかったから >>886
それはよく言及されるお話しだね
ファラオとしての仕事してる時は流石にエジプトの伝統的装束だったそうだけど、普段はギリシャ風の
服装してたみたいだしな >>892
実際の中世の風呂文化は隆盛と衰退の激しいアップダウンで、一概には言えないが
疫病のせいで衰退したりもしてるので多分認識が逆やで?
キリスト教が風呂文化を規制したのは即ち都市の風呂屋が売春の温床だったから
疫病の温床でもあった訳や >>881
ドクトルジバゴのオリジナル版でアラブ人俳優がロシア人医師を演じてるのだが
多分言われてみないと気付かないと思う 都市が発達して人数が多くなるまでは風呂屋が中世にもあったからな
人が集まり処理しきれなくなって衰退してしまったけど 白人つってもイタリアやスペインなどの南欧は色黒多い >>890
いや。キリスト教の思想がどうのこうのというよりは教会の問題だな
カトリックは教育にアリストテレス哲学を教会で公認とした。
そしてそれに質問することも、疑うことも、改善することも異端とした。
これは事実なので科学史としては停滞を招いたのは事実
これが変革するのはガリレオガリレイが新科学対話を著すまでかかってる
三民制だから神父と騎士と農民以外の職人は神の加護がないとされてるしな
だから職人は職人に口伝で伝えるために神学との差が大きい 中世ヨーロッパなんて僧侶以外文盲
勿論、王侯貴族もな
かの有名なカール大帝でさえ文盲だった
ローマ時代なら庶民ですら文字読めたのに・・・ >>899
そりゃあもとは白人に支配された地中海の土着民だから
白人の血がわずかに混ざっている程度の自称白人なのよねえ でも数カ国語も出来た。
現代日本人のほとんどは日本語しかできない。 >>901
中世でも、初期、中期、盛期、末期で全く違う
中期以降は商人と都市貴族が、盛期以降は中流以上の貴族は文章書けるようになっている
初期は酷いもんだが >>902
……お、おう?
西欧史勉強したことあるか? ロムルスの時代に庶民と貴族の差もなかろうし、多分全員文字もかけない
十二表法時代には少なくとも庶民か庶民に取り次ぐものに文字が読めた間接証拠では有る >>903
中国人や韓国人より明らかに外国語会話能力は劣るよなぁ・・・ >>893
集安は知らないが、ローマ時代のイギリスの農村で石器が使われてなかったわけではない
あと、帝政時代の西方の交易は、軍団駐屯地中心になされていたから、
ブリタニアで南欧の商品が登場するのはおかしくない
集安と比較するなら、マウレタニアとかガリシア地方じゃないとだめなんじゃ
>漢では国内交易すらほとんど行われていなかったから
古代中国で遠隔地交易が盛んだたのは春秋から前漢の頃で、
後漢時代はすでに衰退していたから、集安の遺物もこの趨勢の反映かも知れない
いづれにせよ、「漢では国内交易すらほとんど行われていなかったから」というのはデタラメ >>908
中国人も韓国人も一般人は母国語しか話せないよ 十二表法の時代って、いわゆる庶民=プレブスの認識で良かったっけ?
ともかく、あれは慣習法の成文化という象徴的な意味合いの方が強くて、
識字率の高低とはあんまり関係ない気もするけど… >>909
>ローマ時代のイギリスの農村で石器が使われてなかったわけではない
ソースは?
>あと、帝政時代の西方の交易は、軍団駐屯地中心になされていたから、
>ブリタニアで南欧の商品が登場するのはおかしくない
それ全然反論になってないけど
2世紀に交易が衰退したのなら、なんで辺境のブリタニアで見つかった陶器のほとんどが南欧制なんですか?
日常生活品を他の属州の交易に全面的に依存してるってことだよね >>911
一応アレは知識階級の横暴を防ぐための成文化なんで >>909
南仏に交易に影響を与えるレベルの大規模な軍団基地なんてないだろ
ローマを矮小化しようとしすぎて歴史を直視できてなさすぎ 中国史ファンって何でも中国が絶対的至高じゃないと気が済まないからすぐ他文化の矮小化に走る
古代の中国人に頼まれた訳でもないのに気持ち悪いんだよ 教会こそがローマ文化の保持者で、
カトリックかギリシア系正教に改宗することが
ヨーロッパ人化=ローマ化する唯一の手段 >>912
>ソースは?
現地の博物館で遺物を見たから
https://finds.org.uk/database/images/index/institution/BH/objecttype/MINIATURE+OBJECT
こういうやつ
しかし、今調べてみると、少なくとも石斧は奉納用で、実用ではなかったようだ
この点訂正する
>陶器のほとんどが南欧制
>日常生活品を他の属州の交易に全面的に依存してる
今一応ざっとブライアン・ウォード=パーキンズの『ローマ帝国の崩壊』を確認したが、
陶器のほとんどが南欧製とは書いている部分を見つけることができないのだが、
そういう記載のあるところを教えてくれないか?
彼はp145図5-3やp270の図2で、ブリテン島生産の製品がブリテン島内の交易を通じて
ブリテン島内で利用されている図がある
彼が書いていることは、帝国各地で分業がすすみモノカルチャーになった、
と書いているわけではなく、広域貿易もローカル貿易も両方あったが、
5世紀以降どちらも衰退した、という話だと思うのだが
あと勘違いしているようで申し訳ないが、俺は>>889ではない。横レスだとはっきり書かなかったのは申し訳ないが >>914
>南仏に交易に影響を与えるレベルの大規模な軍団基地
南仏にあるのはグローフザンクの陶器で、それが西方属州に広く見られる話
4世紀に軍団基地を中心とする広域経済に重心が移行したと考えられる
理由のひとつは、例えば4世紀の帝國西部の貨幣鋳造所が軍団駐屯地近辺に作られていること
など。 >>889の以下の文言は、
>帝政ローマの船舶を使った交易わ2世紀後半から衰退
恐らくこれがソースだと思われる
https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Roman_economy&oldid=599303265#/media/File:Mediterranean_shipwrecks.jpg >>918
4世紀だけ切り取って帝政ローマすべてを語るのは無理があるというかめちゃくちゃだろ >>920
>>893が4世紀の話をしているから、4世紀の西方経済についてレスしているのだが・・・ >>921
じゃあ帝政末期とかけよ
なんの言い訳にもならんわそんなん >>922
>じゃあ帝政末期とかけよ
恐らく、君みたいな早合点するタイプは、帝政末期と書いたところで、
>帝政末期だけ切り取って帝政ローマすべてを語るのは無理があるというかめちゃくちゃだろ
とレスしてくるのではないかな? >>893
>集安の玄菟郡時代の県城あとからは後漢代に入ってもなお石器が
いまさらだが、このソースを教えてくれないだろうか
手持ちの集安遺跡の資料を見たが、漢代の遺跡についての記載がまったくなく、
ネットをあさってみたがまったく見つからない。探し方が甘いのかも知れない
漢代の遺跡や遺物の書かれている資料があれば貴重なようなので知りたいと思う >>924
中央公論社から出ている「高句麗の歴史と遺跡 」に記載がある
集安の下古城子土城これは初期の高句麗城郭という主張するものもいるのだが
遺構が漢代に遡ること、土城であるということから考えて高句麗人が玄菟郡の県城を奪取したものとする説が有力
で、この漢代の移行からは当時の石制の武器が見つかっている >>926
ありがとう!大学図書館にあることがわかったから読んでみる(来期になってからの話だけど) ローマ時代のブリタニアで日常的にイベリアで作られたアンフォラがブリタニア時代のイングランド各地から
見つかっているという英語論文があったのだが今探してみたがすまんが見つからんかった
代わりに傍証となるサイトを張っておく
https://www.supeinnooriibuoiru.com/mei-ri-nooiru/romadi-guo-noshi-shi-wozhi-etasupeinnooributian
>「西ローマ帝国全土に最も多く存在していた、もしくは最も典型的だったアンフォラはバエティカのオイルが入ったものでした。ベルギー、ゲルマニア、スイスを含むガリア、全ブリタンニアでアンフォラが出土しています。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/012400030/?P=4
>イベリア半島にあった工場の大半は、アンダルシア地方の海岸から、ポルトガルのタホ川河口にかけて点在していた。
>これらの街から出荷されたガルム入りのアンフォラは、ローマ帝国全土で見つかっている。アンフォラが発見された場所をたどれば、
>ローマ帝国各地の消費者にガルムを届けていた、陸と海にかけて広がる広範なネットワークが見えてくる。
> 当然ながら、イタリアには大量のガルムが供給されており、ローマのテスタッチョの丘では数多くのアンフォラが見つかっている。
>テスタッチョの丘とは、食品用陶器の破片ばかりが30メートルを超える高さまで積み重なっている場所だ。
>ガルムはまた、陸路で西ヨーロッパを越え、遠くイングランド北部の山岳部にあるハドリアヌスの長城まで到達している。
>文明世界の最北端にあたるこの寒い土地でも、兵士や市民は地中海の日光に照らされて発酵した魚醤の風味を楽しむことができたわけだ。 >>929
わざわざありがとう。しかしモンテテスタッチョは、3世紀後半に衰退している
その記事にも250年間、と書いてあるよね
陶器のグローフザンクの衰退年限を詳細に書いている資料を見つけることができないでいるのだが、
パーキンズは、20年−120年と書いているね(p151)
またブリテン島のグローフザンクも1世紀がピークだとある
http://potsherd.net/atlas/Ware/SGTS
断定するわけではないので、誤解しないで欲しいが、パーキンズが掲載している3−4世紀のブリテン島生産の
陶器の図とあわせると、
・南欧のグローフザンクは確かにブリテン島で利用されていたが、2世紀後半には衰退した
・代わって3−4世紀にはブリテン島内部で生産された陶器が利用されるようになった
となり、4世紀には地産池消に移行した、という見方もできてしまう。
パーキンズは、5世紀に急激に衰退した、と書いているが、その直前のブリタニア
経済が地産池消か遠隔交易かについては確認した限りでは触れていないようだ 自己レス
>>930
はブリタニアのであり、帝政ローマ全てについて述べているわけではないので念のため >>910
ビッグバンや東方神起のような韓流アイドルたちのマルチリンガルっぷりはマジ凄いわ 五井直弘の「漢代の豪族社会と国家」によると漢代に入っても、半地下式の家つまり竪穴式住居の跡が見つかっている
しかも洛陽の郊外から
その、一方で豪農層は「台榭高楼」とよばれる楼閣建築の豪邸に暮らしていたとか
城壁の内と外、豪農と貧農とでは相当な格差があったらしい >>933
確かにその通りだが、五井直弘の「漢代の豪族社会と国家」の記載で若干補足させてもらうと、
半地下式の小農民の住宅は、前漢のものは木造だが、後漢のものは土台も壁も焼きレンガとなっている。
竪穴式住居というと縄文弥生時代のような住宅を想像してしまうが、少ないながらも
瓦も出土していている。
もうひとつ、台榭高楼の明器が多数出土しているのは現在のところほぼ河南省だけで、
他の地域の明器は半地下ではない普通の邸宅か二、三階建ての大型建築となっている。
遼陽の三道濠遺跡の小農邸宅は半地下ではなく、普通の邸宅となっている。
断定するものではないが、中原の方が貧富の差が激しく、高楼がある一方で小農の住居は貧相、
逆に、周辺地域の方は中央に比べると貧富の差は(あくまで比較の上で)小さく、高楼と呼べる
ほどのものがない代わりに小農の邸宅も、平均的にはましな造りだった可能性がある 日本なんて平安時代でも庶民は竪穴式住居よ
源氏物語に出てくるような優雅で風流な暮らしをしてたのは貴族だけよ
この辺は中世ヨーロッパとも似てるかな
ローマ帝国や江戸時代は庶民もそこそこ豊かだけど 明治時代は賞賛されるけど、庶民は重税に苦しんでたのよね
納税が江戸時代までの米納から金納に変わって不作だろうが一定額を払わないといけなくなったから >>935
>日本なんて平安時代でも庶民は竪穴式住居よ
俺も中学の授業で教わったが、本当なのだろうか
日本で瓦ぶきの屋根が農家で広まったのはいつごろなんだろ
瓦であれば立派だというわけではないと思うが。
白川郷など藁葺きでも堅牢だし。板葺き屋根に石が載せてあるのは貧相だと思うが レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。