自分がルイ16世だったらどのように革命を防ぐ?
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>368
流れや趨勢「だけ」調べても意味がない
どういう人物が何をしたか、それを当時の社会がどう受容し、結果がどうだったか
それぞれに「何故」がある、しかし、「何故」は常に現代的価値観という枷がかかっていることも同時に理解しなければならない
正直おかしなことしか君は言ってない >どういう人物が何をしたか、それを当時の社会がどう受容し、結果がどうだったか
ほじくり返されているのは結果も影響も出ていない「秘話」ばっかりじゃないか >>368
それは「史学史」という別の学問だね。
>>371
そういう細かい発見や新解釈の地道な積み重ねを経て、初めて革命的な新しい歴史解釈が現れるんだよ。
君が言ってるのは、歴史学のそういう地味で日常的な営為はいらないから、打ち上げ花火のような派手な結果だけもってこい、と要求するのに等しい。
材料工学の地味な研究とかやめて、さっさと核融合炉を持ってこい、と言ってるようなもの。 関係がある話だと思うけどな
ルイ16世のステロタイプなイメージと実像のギャップを考える上でも >>372
細かい事実を積み重ねた結果の概論であり定説があるのに
後から同じ事実のほんのカケラをまたぞろ引っ張り出して
全体をひっくり返す新発見だ!とやらかすトンチンカンな半可通があとを絶たないんだよ
主に何かのイデオロギーのバイアスがかかっている人に多い この流れはロベスピエールの評価をめぐるものからじゃなかったっけ >>375
むしろ、細かい積み重ねに基づかないイメージを覆すような物証が出て来る方が多い 双方の論理はわかったので、論拠となる実例を挙げていただけると討議の一助となるのですが。 じゃあ試みにひとつ実例のようなものを
日本史の分野になるけど、昔の歴史家は「政所政治論」といって、
摂関政治全盛の時代には政治の中心は朝廷や太政官から摂関家の政所へ
移って、政所下文や御教書で行政が運営されるようになった、と考えていた。
でも実際に残された史料に当たってみると、摂関家政所下文なんて量的にも
少ないし、質的にも摂関家の私領の処分に関するものばかりで、摂関政治の
全盛期といえども太政官が発給した文書が行政を動かしていたことが明らかになった。
なんでこんな歴史観が一世を風靡したかといえば、おそらく明治初期の歴史家たちが
一次史料よりも鏡物のような二次史料を中心として研究していたこと、物語のような
フィクションからも影響を受けていて、これらフィクションが史実を相当改ざんしたものである
ことへの理解がまだ広がっていなかったこと、などがあるだろう。
一つ一つの一次史料の発掘や紹介はつまらないことのようであっても、それが支配的な
学説を覆すに至ることもあるし、いま支配的な学説も細かい検証や反論に耐えるかどうか、
常にテストし続けなければならない、という実例だね。 でも遅かれ早かれ実権は下へ武家へと移譲されただろ
それが下克上だ
流れはそうなんだからほじくったって大して面白くもないよね >>382
大雑把過ぎて反論する気も起きない
摂関政治期(平安時代中期)から鎌倉幕府の成立、そこから武家の比較的優越(承久の乱後)まで、150〜200年はあるのだが、その200年がどうでもいいと宣うらしい
フランス革命の200年前とか、ちょうどアンリ4世が即位した年な訳でな そもそも天皇の権力が何度も何度も貴族に奪われてはさらに下位の貴族、
挙句は武官に移っていた流れの一環じゃん
ぎゃあぎゃあ騒ぐほど大した違いか?言えば言うほどヲタ臭さしか感じられねえわ
流れと結果を見ようとしないからだよ クイズに答える高校の授業の感覚で
歴史を暗記モノだと思っていれば
384のように奇天烈なしかし凡庸な言辞を発することになるわな ……流れと結果どころか、原因となる史実すらまともに見てない人に言われてもねえ
ちなみに、その流れとやらに現実の事象を当てはめていく典型的な歴史観がありまして、唯物史観と言います
ロマン派もその傾向強かったなあ >>390
パリに関してはやってた。
パリで窮民が食糧暴動起こしたらヤバイことになるのはわかってたからな。 そういや日本みたいに十万人規模の餓死というのは
フランス王国では聞かないな。 パンが駄目でもお菓子があるからな
セーフティネットや パルマンティエが家畜のえさだったジャガイモ普及に尽力したからな。 >>395
そうともいえないな。
たとえば小麦1キンタルあたりの価格は、地方では1786年の10.87フランから
バスチーユ襲撃の1789年には32.06フランまで急騰してる。同時期にパリでは
およそ20フランから28.4フランにとどまってるのは、>>391で書いたような、
パリへの小麦の流入を確保する法的政策的枠組みが機能してたからだろうな。
それでも20年以上ぶりの高値だったから革命になってしまった。
この時代の貧民はエンゲル係数が非常に高かったから、食料価格はちょっと上がった
だけでも政治的に不穏な情勢になる。 >>391の食料統制だけど、具体的には
1.パリから半径40kmゾーンからは麦の持ち出し禁止。このゾーンで生産された
麦はすべてパリの消費に当てられ、取り扱いを許された4ヵ所の市場でのみ
取引できる。
2.ゾーン外からの麦の流入を確保するための特権商人がいるが、彼らはゾーン内での
麦購入禁止。すべてゾーン外から搬入しなければならない。大商人はポーランドや
北アフリカなどからも買い付けを行って麦の流入を確保した。
3.パン屋やその数なども規制を受けていて、パリ警視総監が管理していた。
パリ警視庁の七つの部局のひとつ、パリ補給室はパリへの食糧供給確保に
責任を負っていた。
規制の中でも重要なのは、パン市場で売れ残ったパンの持ち帰りが禁止だったこと。
売り切らなければ廃棄するしかないので、値下げ圧力になった。
ただ、こういう規制はパリから遠く離れると緩くなるので、十分な資本を持った大商人は
地方都市に小麦倉庫を所有して、そこから売り惜しみや投機を行っていた。 へーそうだったのか
だけど小麦の価格が3倍になるというのはひとつの要因ではあったろうけど
革命の主因でもないように思う。他にフランス特有の理由があったはず。
江戸時代の日本など、米価が急騰するごとに革命を起こしていたら
4・5回は上様をギロチンにかけてなけりゃならない勘定。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Rice-rate.png 帰農令を出し、新規の農地開発に投資し、パリに流入した市民を動員(パリから追い出す)する。 売り惜しみをする商人などを悪徳商人に仕立てて、ある程度は打ちこわしを容認する。 地方の貴族領主を交代でパリに勤務させ、街道筋に金をばら撒くよう仕向ける。 神聖ローマ皇帝に政権を返上して同時に負債も押し付ける。 >>404
フランス全国で選挙すれば、余裕で国王が再選されちまうよ。
たぶんヴァレンヌ事件の後でもな。 フランス革命って、割とパリとその他の一部地域だけが突出して先鋭化してただけって部分あるからねえ
三部会開く前に、ヴェルサイユよりさらにパリから離れてればワンチャン? そこでは微妙にアントワネットさんが足かせになってた気がするね いわゆるフランス革命って、人口の大多数である農民の意見を
ほったらかしで過激化していく感じが。
普通の農家なら王制支持派が多いんだが、いかんせん文盲率が
相対的に高くてね・・・ インテリの供給源の一つである中小貴族が食えなくなって
革命支持に回ったことがまずかったとかなんとか リヨンに逃げ込み忠良なる軍とともにパリへ進撃すればよかったとして、それはいつの時点だろ?
ヴァレンヌ事件の頃では、警戒が厳しくてたどり着けなかったろうし。 あんまり早く逃げ出すと諸侯からチキンって言われちゃうからなあ
ギリギリまで粘りつつ脱出にも成功しなきゃいけないってチキンレースをやって負けちゃった感じだと思うわ
民衆が大貴族の権威を粉砕した後で、民衆そこまで狂気的な警備をやってない時がワンチャン
そんな瞬間あったのかは知らないけど 三部会開く前なら建前もいくらでもあるけど
三部会開いた後だと、なかなかにチャンスがないな フェルセンの回想によるとルイ16世本人は、バスチーユ襲撃の日7月14日に決断すべきだった、と言っていたそうだ。
例によって「だって弟(アルトワ伯)もブログリー陸軍卿も行くなって言うし・・・ どうすりゃ良かったのさ?」って感じだけど。
そのアルトワ伯も2日後には妻と愛人と告解師まで連れてトンズラ。三部会軍事介入のためにパリ近郊に集結させていた15個歩兵連隊、7個騎兵連隊、2個砲兵大隊の大軍には16日付で解散命令が出てるので、この時に軍事介入オプションも断念したんだろうな。 歴史を知っているものの立場からすれば、内戦上等で戦えば
あの時点で鎮圧できたのかもしれん。 >>420
バスチーユ襲撃の時点ではもう難しいかも。
集結軍の指揮官ブザンヴァルが、バスチーユ救援部隊を派遣できないか部隊長達に検討させたら「既にパリの革命的雰囲気が部隊に感染して兵士が反抗的になってるので、そんな命令は反乱を誘発する」として反対されたそうだ。
以外かもしれないけど、ほとんどの革命はプロフェッショナルな軍隊の動向が決定的要因になるんだよな。国民衛兵みたいな非常勤のアマチュア軍隊では、正規軍に抵抗は難しい。もし正規軍の士気が十分高ければ、の話だが。 フランス王国が出資者のフランス軍であっても構成員は一般人だからな
一般人の不満は兵士も同感だと思っているだろう >>421
天安門事件がこれだったな
あの時は、軍が局外中立を堅持することで民主化が一気に進むんじゃないかと期待したんだがなあ 正規軍の給料の遅配があったと何かで読んだ気が。
そうでもなければそんな簡単に正規軍が革命側に寝返らない気が。 >>424
もともと兵隊の給料はめっちゃ安かったしな。飢餓線上の人口に応じて、収穫期には高く、端境期には安くなるレベルの給料。
パリ近郊駐屯軍の部隊は安い給料補うためにパリ市内で内職してたそうだから、サンキュロットの政治的雰囲気には容易に感染したろうな。 その時点であんまり国王陛下がお金を出してくれているから我々は生活できているって意識も無いだろうしなあ てことは先んじて兵士の給与を上げておけば革命は予防できたのかな
しかし当時の財政状態でそれは不可能だったかも…財源がない >>427
とにかくフランス政府には金がない
革命の発端はそこにある
そこ踏まえて、みんな「詰んでる」って言ってるんだよね バスティーユの後、国王が融和政策を採ったのも仕方なし、って
感じか。 >>427
貴族から無理矢理税金を取ることで、その反動による襲撃でも受けて、
被害者面して国民の同情でも受けとくべきだったか。 どのようにプロレスするかが重要
ちと古いが「過激な仕掛人」新間と「千両役者」猪木の両輪が必要不可欠
ベストは1982年の秋から翌春で、実際に世の中がグレー色で振り回された
タイガーと維新フィーバーの善悪を超えた次世代の準主役同士の抗争
加えて主役の伝統的な勧善懲悪
複数層に跨がる抗争劇で注意を分散させるってなシナリオ そもそもこの頃のフランス国家財政には国家単位の統一会計もなければ会計年度もなく、入ってくる収入をなんとなく支出や国債償還に垂れ流すだけだったそうで、ネッケルが公式な会計報告を作成して初めて「あれ?これもう破産してね?」と気付いたレベルだそうだからなあ。
それまでも「なんだかお金が足りないなあ」「借金の支払いが多いなあ」とは感じてても、国王含め誰も、国家の累積債務総額すら知らなかったとか。 自分の財布にいくらあるかも知らないであれこれやってたってすげえなあ
どんぶり勘定より酷い この時期のフランス財政破綻の根本的な原因はなんだったの?それがあったのにどうしてナポレオンは欧州大陸を征服できたんだろ? >>436
ナポレオン政権最大の業績の一つだから詳しく調べてみると面白いよ
近代的な中央銀行の設立、徴税請負人の廃止と中央集権化、貴族財産の没収等々
当時としてはきわめて高度な財政システムを構築した
ナポレオン民法典と並ぶ大きな業績 革命が始まってからナポレオンが台頭するまで10年もあるのに
それまで徴税請負人が廃止されなかったり中央集権化が行われなかったり
貴族財産が没収されなかったと考えている>>437はアタマがおかしい。
まあ、ナポレオン信者はおおむねそのレベルの人間が多いが・・・ 革命起こして国民公会が政権握った時点でこれまでの徴税請負人システムの契約を更新する必要が生まれる
さらに国王殺して完全に民衆派が政府になった時点で更に更新タイミングが訪れて
大体そのどっちかで変わってるんじゃねえの
徴税請負人システム自体が民衆からのウケが悪かったわけだし 専制を続けるかぎりいづれ革命は起こる
革命を避けるならさっさと立憲君主制に移行することやな >>439
別にナポレオン個人どうこうとか言ってないんだが……
ナポレオン「政権」の残したフランスに対する最大の遺産って話なんだよ、財政改革と民法典
それまでグチャグチャだった財政問題を整理して、中央銀行制度作ったのはナポレオン時代なの
革命政府はアッシニャ債やらなんやらで大混乱してたの、革命政府時は
ようやく国内が安定して、制度整えることができたのがナポレオン時代って話
ナポレオンが民法やら財政再建やらに個人として識見があったとか、そういう話ではない いきなり頭おかしいとか言いだす奴に
まともにレスしても仕方ないよ 第三身分に対する融和とか、中途半端な事をしてはいけない。
そこまで事情が分かっているならば。
とりあえず、貴族の暗殺を恐れるなら、王が単身、第三身分の中に、
少数の精鋭近衛だけを連れて、乗りこんで行けば良い。
王宮内部の腐敗を徹底的に糾弾。
反発した貴族は、別の王を擁立しようとするだろうが、
第三身分の支持を受けながら、国民の前で強烈アジテート。
同時に、ロベスピエールらとの、国民の支持争いの中でも勝たなければならない。
王室・貴族を巻き込んだ内戦に。
最終的には、国王自らがナポレオン化。
絶対王政から、国民によって選ばれた「近代的な独裁者(皇帝)へ」
ストレートに移行できるか?
>>410
バブーフじゃないけど、
いっそ、国王が主導で、「農村から都市を包囲せよ。」 やる?
というか、こうなるともはや文革だな。 フランス国王陛下が時代に180年先駆けて毛沢東主義を採用するわけでつね
自由を手にしたフランス人民の目前にはセーヌ川をゆったりと泳ぎわたるルイ16世の姿が! 国王が畑を耕す様子を見せて絵を書いてばらまくとか。
実際王太子時代の絵にそんなのがあって笑った。
それをお見合い用の絵としてウィーンに送っているから
おかしいんじゃないかと思ったことがある。 >>444
ルイ16世の頃のブルボン朝だと、対抗王を立てるような力のある貴族は生き残ってないんじゃないかな
だから、方向性としては「暗殺」になってしまって、こっちは地味に成功率高い 王としては、不意の暗殺で後手を引くのではなく、自ら積極的に望む方向に誘導して、制御するべきだろうな。
スクレ・ドゥ・ロワを解散させずに温存して、叛心貴族の監視や暴走を誘発させる感じで、
それでも相手が賢明で静観してきたら、苦肉の計じゃないが、理解のある味方の貴族に苦肉役を引き受けて貰う感じとか。
その場合に擁立する者を弟のプロヴァンス伯にしておくと、政敵もついでに排除できるが、
さすがにこれは非道すぎるだろうから、傍系から選ぶことにするか。 >>446
>それをお見合い用の絵としてウィーンに送っているから
>おかしいんじゃないかと思ったことがある。
アントワネットもベルサイユ宮殿内に農村風の場所を作らせて
農民の真似事をする事があったそうだから
当時の貴族一般にそういう趣味があったんじゃないだろうか。田舎趣味的な。 ああなんかバター作ってたらしいな…
18世紀末は乳母じゃなくて自分で授乳するのが流行ったらしいし
色々な点で懐古主義な時代だったんかもな >>446
それって、ベルばらに書いてあったような気がする 女帝としては娘の嫁ぐ相手は凡庸な方が都合いいと思ったのでは? >>453
最初はかなりルイを低く見ていたので、嫁ぐ前にマリー・アントワネットに対して
書いた手紙では、「王太子殿下については何も申しません」とある。
しかし、ルイが即位してからテレジアがメルシーに書いた手紙では、王妃を通じて操ろうと
思っていたが、意外に操れない、と言う内容のものがある。 マリアテレジアがあと10年長生きしてたらどうだろう? >>454
それはルイ16世が思いの外賢明だったというより王妃がアレだったからでは?
マリー・アントワネットのドイツ語は文法がメチャクチャだったという書き込みを見た事がある(ホーフブルグ宮殿では何語で会話してたんだ?)。 >>456
王妃がオーストリアの利益を代表しようとするのに対し、
国王が正論で突っぱねたことがある。王太子時代も
正論で拒否したり、とか。 >>455
革命に遭遇する訳だが、もしかしたら軟着陸させられたかも。 >>456
話せたけど読み書きがだめというか苦手だったとかじゃない?
フランスに来てからはドイツ語を忘れたみたいだけど テレジアが存命でも、革命に対して軍を送るのが早くなるかどうかの違いしかなさそう 三部会が開催された時点で有用な助言をするとかなら?
まぁ馬鹿娘が聞き入れるかどうかは別問題だが。 マリー・アントワネットてドイツ人なのにドイツ語がメチャクチャだったのか 結婚前なのにフランス語は文法も綴りも無茶苦茶、話す方も正規の
フランス語からすると崩れていたものだった、と読んだことがある。
話す方は特訓で何とかなったとか。
自分の名前もフランス語ならアントワネット、なのに男名前の
アントワーヌ、と署名していたとか。 ドイツ語もフランス語も駄目じゃ文字通り話にならんな。
本を一冊読み通せなかったという有名な逸話があるけど、ひょっとして読み書きが満足に出来なかったせいなのか? 当人のために弁護すると、フランスに来てからはさすがに文意の通る
まともなフランス語を書けるようになったし、最後の遺言状な見事な
内容なので一読の価値あり。 先手を打って、もっと王妃の慈善活動を宣伝すべきだったな。
散々叩かれた「王妃の浪費」だが、蓋をあけてみると
その支出の中には貧民や病院に贈られた総額30万フランが含まれいた。
イメージ戦略は大事だという後世への教訓。 >>467
その通り。今「ルイ十六世」と言う、ルイ十六世の再評価本を読み出しているけど、
マスコミ対策をやっていれば、王室に対する反感があれほど酷い状況に
ならなかったんじゃないかと思うことがある。
あの夫婦は結構慈善活動をしているのだけれど、国王自身が宣伝と言う事を
避けていて、自分の業績賞賛を止めさせたりしている。個人と組織としての
美徳を混同してしまったんだな。だから歴史と共に忘れ去られた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています