昭和25年7月11日深夜、国鉄・小倉駅から南へ4キロメートルにある米軍・城野(じょうの)
補給基地から完全武装した黒人米兵が4〜5人ずつに分かれて基地の金網を
乗り越えて200〜250人が集団脱走した。
この黒人米兵は前日の10日、岐阜から移送されてきたばかりで近日中に
朝鮮戦争(前月の6月25日に北朝鮮軍が38度線を越境し韓国側に進撃した)の
最前線に送られることになっていたため黒人米兵は極度の緊張と不安、恐怖の中にあった。

折りしも、小倉市では「祇園祭り(7月12日〜13日)」の準備で街の中心から祇園太鼓の
《ドンドコドンドコ》という太鼓の音が基地にまで聞こえてきた。
このリズムが黒人米兵達に刺激を与えたのだろうか?
基地から脱走し逮捕されれば軍法会議で極刑もあることを知りつつ集団脱走を敢行した。

−小倉市民は恐怖のどん底に−
集団脱走した黒人米兵は太鼓の音がする街中とは反対の方向へ逃走した。
完全武装した黒人米兵は土足で民家になだれ込み略奪、傷害、夫・子供の前で
婦女暴行の限りをつくした。
一方、米軍基地では集団脱走が発覚するとMP(米軍警察)が現場に急行し翌12日の
夕方までに全員を逮捕し基地へ連行した。
この黒人米兵は14日に朝鮮の前線に移送され、その殆どが戦死したという。

これだけの大事件でありながら警察への届は僅かに70件で、新聞などのマスコミも
記事としては大きく扱わなかった。当時のGHQが報道管制をしたことは想像がつく。