清末 民国初
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日本でいえば幕末維新
中国史上で一番重要な時期を1つだけ挙げるなら、やっぱりココでしょ そうなれば日本の大陸進出は行われなかっただろうか。
あるいは加速したのだろうか。 清末はいつからで、民初はいつまでですか?
日清戦争後から、国民革命まで、かな? あるいは
北進事変から、第三革命まで? 五四運動は必須だな。 >>21
中華民国の歴史は、1928年6月9日を境に、「北京政府」時代と、「南京国民政府」時代に分けられる 550年の歳月をかけて、完成の極みに到達していた明清帝国の統治機構
それを壊したのは惜しい >22
それ、国民革命のことでしょ。終わりが国民革命直前ってことでいいんだね?
つーと、清末はいつから? 戊戌の政変は入れてほしい。 >>25
戊戌の政変は、もちろん清末に入る
太平天国の乱の大被害で、それまでの繁栄する清とは別の国になってしまったことを考えると、その辺りから「清末」としてもおかしくないように思う アヘン戦争は、清の体制を揺るがせるには至らなかったので、清末には入らない 「晩唐」に習って、「晩清」と言ってもいいかもしれない やはり、民国初といえるのは1910年代かなあ
1920年代は、論者によっては「中国近代史の黄金期」とも表するほど、経済や文化が発展した時代
もはや革命は終わった感あり ■建国したのは孫文ではなく袁世凱
中国(清国)では一九一一年十月、辛亥革命が勃発し、その結果一二年一月に南京で中華民国臨時政府が発足、その臨時大総統には孫文が担ぎ出された。
実は孫文は辛亥革命には関与していなかったが、革命家としての国際的に有名だったため、便宜上そうなった。
しかし孫文にはやる気はなく、同年三月には清国の最大実力者にして革命の最大の敵である袁世凱に政権を譲り、
袁世凱は一三年十月、北京で正式に中華民国の初代大総統に就任した。 中華民国が孫文ではなく、袁世凱によって樹立された史実があまり語られないのは、孫文を善玉、袁世凱を悪玉とする中国人の歴史捏造の影響のためだろう。
他方でその孫文は広東で一七年、二〇年、二三年、三度にわたり、一方的に中華民国を名乗る小政権を作って反乱を繰り返し、
またその間の一九年、国民党も結成し、北京政府の打倒を夢見たものの、各国から政府承認を受けることもなく、二五年に死去。
そこでその勢力を用いて蒋介石は血で血を洗う北伐の内戦の結果、二八年に南京で中華民国国民政府(国府)を樹立し、南北の統一を完成した。 30数年前に上海の本屋で買った歴史本(中国語は読めないが土産に買った)では
五四運動から「新章」になってて、中国人の歴史観ではここから「明治維新」なのかなとオモた。
軍閥抗争時代のまん真ん中をぶった切るのもなんだかなー、と思うけど、歴史観つーのは
ナショナリズムとか市民意識の目覚めとかがやはり転換点ではあるので、ここから
中国近代史は新しいフェーズに入るのかなと思う。国民革命も辛亥革命よりも五四運動の延長線上にあるし、中国共産党の立場からでも1910年代と20年代に「ミシン目」を入れたいところ。
上海で買った本は歴史初心者向けでイラストが多く 見てて楽しかった。(紙質は新聞紙級w)
というわけ、清末民初は「日清戦争〜五四運動前」かな? ・・・石原の言動については諸説あり、事件発生の26日から討伐方針を明確に
していたとする説と、28日に態度を明確にしたとする説がある・・・
https://special.sankei.com/f/society/article/20190511/0001.html
前者であり、最初から参謀次長の杉山元の指示で動いていたに決まってるわさ。 >>33
韓国の三一運動と同じで、「我が国の歴史は抗日独立運動から始まったニダ」という、政治的イデオロギーに基づく歴史観 ・・・「参謀本部の石原莞爾からも町尻(量基)武官を通じ討伐命令を出して
戴き度(た)いと云つて来た、一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく判らない、
満州事件の張本人であり乍(なが)らこの時の態度は正当なものであつた」
先の大戦後、昭和天皇が二・二六事件を振り返って側近らに語った言葉だ。・・・
https://special.sankei.com/f/society/article/20190512/0001.html
繰り返すが、軍隊で(クーデタならともかく)上司筋をすっとばして
自分で重要な新たな仕事をすることはありえない。
上司の杉山元の指示で動いてるのに決まってるの。 >>28
中国大陸や台湾じゃとっくにそう言っているよ。 >>38
そりゃそうだろうな
中国語で「晩」は「遅い」って意味 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています