唐宋変革期4
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まとめ
唐と宋で、何が変わった(と考えられている)か
1.門閥貴族の時代が終わり、科挙に合格すれば誰でも士大夫階級になれる時代になった。
2.貨幣経済が発達し、商売に成功すれば誰でも金持ちになれる時代になった。
3.加持祈祷に熱狂する密教ブームが終わり、合理的な新儒教の啓蒙思想が台頭した。
4.群雄割拠の武断支配が終わり、科挙官僚が全国に赴任する文官統治システムができた。
5.五代十国の分裂期に各地が独自の発展を遂げた。
↑ とりあえず、「宋の驚くべき近代性」としてよく挙げられるのは、おもに上の5つ 基礎知識
足軽は武士の最下級で身分兵
一時雇われの兵卒は雑兵、西欧でいう傭兵
小身の在地領主が徐々に城下詰めに成ったのわ秀吉時代、天正末期以降 中国・韓国の、技術や職人を軽視する伝統は、朱子学に由来する
宋では、まだ朱子学が浸透してなかったせいか、三大発明を始めとする大幅な技術進歩が起きた 元々職人や科学は軽視でしょ
科学者、技術者で高官に登ったの歴代でも少数だし 大草原を疾駆する遊牧民からすると、農耕や工芸をやってる連中は、下働きの奴隷階級に見えるんだな。
中国・韓国の支配階級は、遊牧民とその子孫なので仕方がない。 日本も有名な輪島の漆工とか経済的にはどんなに裕福でも水呑み百姓と同格とされ
田地を耕さないものには発言権がなかった
中国も基本は士農工商のお国柄なのでモンゴルとか遼とか例外を除けば
職工の地位は低い モンゴル人は職人を優遇してたんだな
てことは、職人軽視は農耕民の発想か? ギリシャ人もローマ人も職人軽視
中国もだけど軽視というか政治的な発言権が低いよね まあ、儒教思想の影響だわな。
豊臣秀吉の朝鮮戦役のあと、日本に来た朝鮮人の陶工は、帰国せよとの朝鮮宮廷の呼びかけに応じず、日本で作陶する道を選んだ。
職人蔑視の朝鮮より、日本のほうが遥かに制作環境が良いのだから、当たり前だった。 武家王朝は自前の職人集団が家の中に居無かったからな あと、幕藩体制で、藩が外貨獲得のため産業振興策を必死でやってた
なんといっても、これが大きい 「日本が朝鮮人の陶工を連れていって、磁器生産をやらせた」とは、よく言われるところだが、実際のところ、これは日本の国家事業ではなかった。
これは、鍋島藩の事業。 鍋島藩が磁器の生産に成功したと聞いて、各藩はその技術を狙っていたが、なかなかガードが固かった。
ついに、尾張藩の瀬戸が産業スパイを送り込むことに成功した。
しかし、それは19世紀初頭のこと。それまでは鍋島藩の独占事業だった。 朝鮮日報でも、「なぜ朝鮮の磁器は、有田焼のような世界的名声を得られなかったか?」
という記事で、朝鮮は職人蔑視の国なのに、肥前には李参平を祀る神社があると書かれた。
朝鮮王朝は財政悪化で官窯を維持できず廃止したのに、肥前の鍋島藩は、役人の数を大幅カットする財政改革に乗り出し、そのカネを産業振興に注ぎ込んだと指摘。
朝鮮日報は、非常に残念そうな論調だった。 国庫に入る税金の数倍もが租税の名目で徴収されてますがな それわ幕藩も似た様なもん
近代間近にも成って日本列島という肥沃な土地で餓死者大量に出す程の
外国人から異常と評された超重税を課してたんだから >>27
平野に関していえば、非常に肥沃だ。
平野が狭いというだけで。
しかし、狭いというのも大陸と比べての話であって、朝鮮半島には日本のように広大な沖積平野があるわけではない。 宋では、農民が作物を換金して銭納するのが普通に行われ、明では銀納に一本化された。
それを思うと、貨幣経済の浸透ぶりが凄い。 宋帝国が税率12%で歴朝最軽
元帝国が税率20%で最重、暴政と言われてるのに
四公六民で善政!
平然と五公五民とか言うとるしな 薩摩藩は、人口に占める武士の比率が、妙に高かったんだよな 抑々武士人口多過ぎだしな
満蒙族優遇の為に官員比率が突出して高かった清朝ですら
人口4億で旗人と官員合せて約200万人なのに
人口3000万人の徳川朝が武士人口200万人とか気が狂っとる
而も2千万人前後が農奴や奴婢とかいう階級格差開き過ぎ社会という >>35
それは格差というより、都市化の進展の度合いの違いだろ
シナには農村の土人が異常に多いというだけ シナは人口が多すぎて狭苦しいので、1人当りでの貧しさはどうにもならない >>36
徳川朝時代の日本人の3/4は農民だよ
その半分以上が農奴、東北九州だと9割農奴 シナでは、今でも市民と土人を戸籍で区別し、公然と身分差別をやっている
士農工商を廃止して150年たち、もはやそんな概念すら残っていない日本とは、そこが大きな違い >>38
「徳川朝」なんて変な用語、小学校6年生でも使わないぞ(笑) >>38
逆だよ。東北・九州ほど、兵農分離してない兼業武士が多かったため、士族の比率が異様に高い。
陸奥では、4人に1人くらいが士族。
薩摩では、広義には人口の4割が士族。
いつものことだが、日本史に関するお前の認識は、本当に狂ってるな。 >>41
小学校で国語の授業受け直した方が善いよ
>>38でちゃんと農民のxx以上が農奴、と阿呆でも読解出来る様に書いてる >>40
天皇家を否定するためにあえて
徳川王朝や足利王朝という言葉を使うんだよ >>42
だから、「農民の9割が農奴」という認識がおかしいと言ってんだよ。
むしろ、辺境の藩ほど、武士と兼業してる農民が多かった。 >>43
だとしたら、日本史がまったく理解できてない >>44
オマエが無知で認知障害なだけ
農業もやる武家わ武士
東北九州じゃ農民の9割が農奴、小作人、名子で名主、本百姓、小百姓は1割 >>41
東北地方に佐藤やら加藤やらの武士に由来する名字が多いのは、
もともと武士が多かったからだろうかな
またスレ違いのキチガイか うちは家老の私領の半農半兵だな
まあでも武家上がりは良くやったよ
倒幕勢力かつ後の軍隊官僚教師警察、軍の暴走への牽制 Episode 有能であったが敵も多かった王安石
王安石は一度目を通したことは終身忘れず、飛ぶような速さで筆を運びながらその文章は精妙を極めたという。
19歳の若さで即位した神宗はそのような王安石を信任し、王安石もそれに応えて改革を断行した。
しかし、自分の才能をたのみ、先輩・同輩の忠告をいれない態度はいたって不人気だった。
王安石は「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難された。
天変地異も畏れず、太祖以来の宋の法律を守ろうとせず、時の人の批判に耳をかさなかった、というのである。
<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書 p.152> 王安石の改革を総称して「新法」といい、それを支持する一派を新法党と言った。以下に「王安石の新法」の主要な内容を挙げる。
青苗法 春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に2割または3割の利子を付けて返還させる貸付制度。農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。
均輸法 農民の生産する物資を都に運ぶ際、輸送費・中間費用がかさんで値が上がることを防ぐため、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ること。
物価の安定と流通を図ったものだが、旧来からの大商人は転売の中間利益を得られなくなるので反対した。 実際のところ、王安石の新法で、宋の貧困な農民は、どれくらい救済されたか? 新法運動はさまざまな政策を内包していたが、最も有名でかつ影響力の大きかったものは青苗法といわれるものである。これは貧農の救済のための政策で、国が低利で農民に貸し付けを行うものであった。
当時は地主や豪族が高利で農民に融資をし、その結果多くの農民がその返済のために困窮していた実態があったので、この政策には革新的な意義もあったのである。 旧法を擁護する者たちが反対の根拠として持ち出した理屈は、怠け者の農民を国が救済する必要はないというものだった。
彼らはどうせ金の返済をせずに逃散するだろう、すると金持ちが穴埋めをさせられる羽目になり、貧乏になるだろう、
そのうち国中が貧乏人だらけになるのは目に見えているから、新法はけしからんという言い分だった。 >>46
そもそも日本を含む東アジアに農奴なんていないが
農奴は土地を縛り付けた西欧に特有の法的身分だが東アジアには生産階級を土地に固定する法概念が存在しない
それを踏まえて現代では宋の佃戸とか日本の被官百姓のような隷農は「農奴」ではなく「農奴的立場」と言い換えるようになっている 農奴には、恋愛・結婚・妊娠・出産の自由無し
転居の自由無し
栽培作物を決める自由無し
栽培を失敗する自由無し
作物を自家消費する自由無し
自分の労働時間を決める自由、休息の自由無し
病気になる自由、死ぬる自由無し
墓を造り、墓に入る自由無し
:
: 農奴は領主様に死ねと命令されるまで死ぬことが許されない階級なので
5、600歳生きる者もザラでした >>57
まあどちらも農奴と違うんだけど
佃戸わ農奴と大分違うが幕藩体制下の小作、名子に成ると
農奴じゃ無いが強固な封建社会なのもあって農奴に当て嵌まる要素が多い >>57
少しわ日本史を学ぼうな
日本人は百姓すら土地に固定、逃散は犯罪
小作人は略々農奴と変わら無い存在で唐代迄の奴婢と同じ、佃戸とわ違うよ >>62
いや、それはまったくの誤解、というより歪曲だ。
むしろ、江戸時代には自立した本百姓が増えた。 青苗法
せいびょうほう
Qing-miao-fa; Ch`ing-miao-fa
中国,宋代の農民への低利資金貸付け法。王安石の新法の一つ。煕寧2 (1069) 年施行。これまで農民は植付け前に食糧や種籾に不足し,地主から6〜7割,ときには 10割の高利で,資金を借りていた。
青苗法は,農民をこの高利から解放するためのもので,常平倉から穀物または2割の低利で金銭を貸出した。
正月の貸出しは夏,5月の貸出しは秋の収穫期に,金銭もしくは穀物で返済させた。
新法中でも青苗法に対する地主側の反対は最も激しかった。 >>63
室町後期頃から開発の進んでた地域で本百姓が増えたけど
こちらわこちらで農家から弾かれた次男以下が都市で
産業化初期の英、独、蘭、瑞の労働者並に悲惨な町人に成ったしな 現行日本国は完全な中世だな
法を犯しても貴族は刑4等減じられる
唐帝国より未開野蛮な国、それがアベ朝日本国 >>66
貴族制度は70年前に廃止されましたが?
日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 >>62
また性懲りもなくデタラメ書いてるな
「天聖令」にある「捕亡令」って一体どういう意味か分かりますか?
中国は戸籍で人口動態をキッチリ管理してのだから上は三公から下は佃戸まで移動の自由なんてないですよ
これは今でも変わらないですね
https://mainichi.jp/articles/20160320/ddm/003/070/134000c
> 都市(非農業)戸籍、農村(農業)戸籍を区別し、出生地からの移動を厳しく制限しています。戸籍地でなければ教育、医療保険(いりょうほけん)、年金などの公的(こうてき)サービスを原則として受けられない仕組みです。 http://www.hagongda.com/shushoku.html
>中国には、「都市戸籍」と「農村戸籍」という戸籍制度があり、
>農村戸籍を持つ者は都市へ引っ越しできません。
>農村戸籍だからと言って農業をしているとは限りませんが、農村戸籍は進学、
>就職、結婚へとつきまといます。中国は階級社会となっています。 共産主義は平等な筈なのに支共も北朝鮮も国民を生まれながらに差別する階級社会という矛盾 どうでもいいが、双方日本語でかいわしてくれないかなぁ >>66
医療先進国の日本では、
水銀を「不老不死」の丹薬として処方しない 唐宋の頃には、日本より中国が先進国だった
明の頃には日本が追い付き、清で追い越した 宋が中華文明の絶頂期であった
その後は、失われた千年の下り坂 >>76
確かに宋の文化大国ぶり、言論の豊かさは凄い。
畏敬に値する。 まー、太平天国の乱と阿片の蔓延で自滅した時期だわな 明代の日本何て町らしい町なんてほとんどなかった時代だぞ
君が住んでる県の城下町がいつ出来たか調べてみろよ
どこも遡って精々織豊政権時代が下限だ うちは兵庫県なんで、大輪田泊が起源と見れば少なくとも平安時代からあるわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 織豊城郭以前は守護大名クラスの居城と雖も掘っ立て柱に茅葺だからな
16世紀半ばの京都ですら外観は農村と大差ない
http://www.yamada-kouji.com/nihonshi/japan_beau/rakuchu_rakugai/uesugi/syogatsu.html
日本人が宗教建築以外で恒常的な建物を造り始めたのはここ数百年のこと
それ以前は明とは比較にはならないし半島と比べても田舎だ >>85
お前は、数百年前の中国のレベルを、あまりにも高く見積もっている
中国の一般人など、20世紀になっても原始人のレベルだ 中国の内陸部には、いまでも地面に穴を掘って住居にしている人々がいる 『東洋旅行記』ポルデノーネのオドリコ (Odorico of Pordenone, 1286~1331)
このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほど
であり、またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆
よりも多い人出を見ることが出来た。〕
この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商
業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。
『中国キリスト教布教史』マッテーオ・リッチ (Matteo Ricci, 1552~1610)
この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての
近隣諸国を容易に支配下におくこともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自
国に満足して他国を欲しがるということがない。
この点はまさしくわたしたちの国々と非常に異なるところだ。
『チナ帝国誌』 ルヴァーロ・セメード (Alvaro Semmedo, 1585~1658)
つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるた
めに、この国ではさまざまな産物が収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさった
かのように思えるのである。 『日本巡察記』アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano1539年~1606年)
国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
一般的に言って日本の不毛と貧困さは東洋全域で最もはなはだしい。
というのは、ポルトガル人が支那から彼等のもとに齎し、彼等が衣類として用いる絹のほかには、ほとんど商品ら
しいものは何もないからである。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。
したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。 「日本の城 知られざる築城の歴史と構造」 香川元太郎
どちらが城として優れているかはともかくとして、朝鮮式山城が、かなりの費用と労働力を用いて入念に 造られていることは確かである。
石垣一つにしても、その石垣がいまだに残されてるのは、じつは驚異と言える。
戦国時代の城にも、時々石垣が使われているが、現在ではかなり崩れているのが普通だ。
安土城の石垣でさえ、現在でこそ整備や復元がなされているが、一九五五(昭和三十)年頃までは、原形を留めないくらい に崩壊してい
た。ところが、基肄城の石垣は、それより九00年も古いのに、水門部分などが残されていた。
倉庫群にしても、二九ページに見られるように礎石や瓦を用いたもので、これも中世の城のほとんどが掘っ立て柱、板葺や
草葺の建築だったことを思えば、驚くべき手間のかけようである。
「戦国山城を攻略する キャッスリング入門」 森本基嗣
いづれにしても、石垣は部分的にしか使用されず、土塁の土止めや虎口(郭の出入り口)の一部分に付設される程度の技術しかなく、天然の
断崖あるいは人 手を加えて急峻に仕上げた崖(切岸)の方がはるかに堅固であったようです。
また、防備面で尾根を切断する堀切や山の斜面を堅に区画する竪堀、建物も、礎石を用いた本格的 なものは稀で、大概は掘立柱を用いたもの
だったようです。
無論、天守ようなものは存在してなく、せいぜい物見櫓程度であったとのことです。 もともと日本の城には、大した建物はなく、木柵を巡らして掘立て小屋を造る程度であった。
それが今のような姿になったのは、織豊政権からで、明からの渡来人の影響が大きかったと言われる。
安土城の瓦を葺いたのも、一観という明人である。 >>91
そりゃそうだ
もともと中世の城は防衛拠点であって、統治・行政拠点ではなかったのだから(麓に政庁である館があるのが基本)
それが一体化していったのが戦国時代中期以降、小田原や石山あたりがはしりだな
で、織豊期に完全に一体化する 館も檜皮か板葺きの掘立て造りで鎌倉時代と大差ないけどね
町割りして城下町を本格的に整備したのは岐阜城が最古か
12世紀の博多には宋人が住み着いていたそうなので
もしかしたら大陸的な都市が作られていたかもしれない 変なのが湧いてるが、まあ、政治的につくられた計画的首都以外の自然発生的な都市について
世界的に見て、日本が異常に遅れていたのは事実。
室町後半になって、ようやく西日本の最先進地で、村に毛が生えたような「町場」ができる。
関東などについては、結局徳川氏が入ってくる1590年まで、鎌倉の残骸以外では、小田原以外何もなかった。
でもそんな段階で、いきなり妙に民主的な自治組織が組まれるというのも、謎というか正直笑ってしまうような話。 今でも、伊勢神宮は20年ごとに建て直しているくらいだ。
日本と大陸では、建物に対する考え方が異なる。
欧州人の感覚でなら、幕末期の日本でもたいした建築物はない。 明の時代には、すでに中国は文明としての長期的な衰退期に入っていた >>93
寺内町、境内都市わ中世中頃から在ったし
京都や奈良以外でも西国の山口や博多の方が岐阜なんかより全然早い >>94
基本的に西日本の平野部は狭く、東日本は剰りに未開だったからな
それに元々緩傾斜地でやる物だった稲作と都市の相性も良く無いし 江戸時代になるまで、江戸は漁村だった。
京都だって、室町時代の絵に出てくる京都の街並みと、
江戸時代の絵に出てくるそれとが違いすぎるので、
「これは誇張されてるのか、それとも、京都は本当に江戸時代に入ってから急発展したのか?」
ということが、ときどき話題になる。
たぶん、後者が事実。 アルプス以北の欧州と、日本の急発展が、16世紀頃からユーラシアの東西両端で始まった 一方、中国と中近東は、明清帝国とオスマン帝国による600年の、
良く言えば成熟、悪く言えば停滞の時代に入っていた 関東でも品川とか浅草とか古河とかあったんだけどな
中世日本史か郷土史でも読まないと知らないだろうけど
ちなみに江戸は小さな城下町であって漁村ではない
北条氏政の隠居所とかもあったり、そこそこ開発されていた
徳川の江戸入府以前でもな
幕府は利根川の付け替え等たしかに革新的かつ大々的な土木を行ったけど、盛りすぎな部分も多い 明は行政制度が歴朝最糞だけど経済活動や技術は発展してる
清に成って技術の発展が止まる、というか一部は退行してたり
西欧と日本は単純に技術不足で開発途上だった開発為難い土地が
漸く潜在力に見合った発展を遂げ始めただけでしょ 品川が在って古河も在ったけど
西国にわ幾つも有った集積地や都市が
だだっ広い関東に1つと2つだけってのが東西の差を物語ってるとも言える >>103
浅草寺は、聖徳太子の時代くらいからあるな 李存勗って芝居好きで役者もやってたって書かれてるけど、何処でやってたんだ?
廷臣に無理やり見せてたの? >>103
あの網野善彦にしたって、きちんと一次資料や現場の考古学にあたっている学者は、
品川や浅草や江戸前島を、「都市」とは絶対に呼ばないんだよなぁw
都市「的」な場所だというが、まともな学者はそれ以上のことは絶対に言わない。
門外漢の小和田哲男ぐらいになると、いいかげんなことを吹き始めるけどなww
江戸前島といえば鈴木理生だが、鈴木もまた江戸前島を都市だとは言わない。慎重に避けている。
実際、都市らしい遺跡が出てこないのだ。
日本橋から銀座にかけて、意識が高くなったここ20年でも数十箇所で再開発が行われているが、
江戸期や縄文弥生の遺跡が出ることはあっても、戦国期の都市遺跡が出ることは全くない。
おそらく、ちょっとした広場に、筵をかけた露店のような仮設店舗が、少々並んでいただけだろう。
その露店群の香具師連中に睨みを効かせて、治安維持をしていたのが、
今の日本橋室町に住んでいた弾左衛門家だと考えれば合点がいく。
彼らは、静岡からやってくる徳川御一行にゴマをすっておいたのに、
徳川氏が江戸前島を違法占拠して本物の城下町を作ってしまい、従前の仕事がなくなってしまった。 ハッキリと日本史は都市不在の歴史と位置ずけて
城市を中心に発展してきた中国史と比較したほうが建設的なのに
日本史学者は「境内都市」だとか「都市的な場」だとか便利ワード
を作って強引に都市空間を設定しようとするから困る
そんなに農村が嫌いかね 知識が偏ってて、論における定義とか読まずに自分定義当てはめる人間だとだけ理解できた >>94
原始社会わ基本民主的で同時に階級社会でしょ
>>111
現代で都市と言われて思い浮かべる経済活動がベースに在る都市と
城郭系というか団結した集団が先に在る都市国家や政治都市が一般的に区別されて無いよね
境内都市とか寺内町わ中間的だけど 都市の定義って何?
人がいっぱい住んでると都市じゃないん? >>114
ヨーロッパだと都市特許状が持っていて農村とは違う権利を有しているとか
中国だと城壁があって行政府がおかれているとかわかりやすい区分があるけど
中世日本はそういうのないからな
鎌倉や室町時代の「町人」を連想して見てって言っても無理でしょ >>116
でも政治でみると、戦国以降の日本のほうが、都市の定義はまだ明確なんだよな。
これは自検断という考え方があったためだろう。
昔から指摘されてることだけど、中国は伝統的には統治において(首都以外の)都市と農村の違いがない。 自検断は農村にも都市にも有ったからその点は大差無い
違いわ都市民は碌に統治出来て無くて殆ど税金掛かって無えって事
中国はまあ建前として、皇帝より下の臣民は皆平等だし >>116
抑々中世日本に都市わ略々存在して無いからな
極々一握りしか都市が存在せず絶対的大多数が農民と奴隷と暴力団だった >>116
室町時代には有徳人っていう交易商人兼問屋みたいな連中が日本各地にいて、商業流通を司った
彼らは領主から特権が認められ、関所として機能したり、物流拠点として機能したりして、中世的な
都市機能を果たしていた
まあ、スレ違いだが、またトンデモ流している人がいるので一応 都市とわ全く違う唯の大商人、倉庫屋
というか有徳人や問丸や土倉が都市とか完全に意味不明 堺は?というか
京都延暦寺興福寺金剛峯寺熊野神社安濃津博多なんかの少数の都市にわ地方から物運んで来る様な大資本の交易商人が居た
あと、坊津とか兵庫とか堺とか辺りでも都市じゃ無いし一乗谷山口が都市化するのも大分遅くて中世後期 >>92
武家の館なんてのわ日本の豪邸に毛が生えた程度の広さで
建物わ漢代以前の中国の庶民宅並みにショボい作り
時期的に早いのわ山口や駿府や一乗谷、石山本願寺わ山科が焼き討ちされてから >>120
でその「有徳人」は排他的な特権領域である「都市」を形成したの?
「都市的な場」と「都市」の区別がついてないんじゃね 寺内町や境内都市わ略々都市と同じ、完全に都市かと問われると微妙だけど どこまでが都市なのかは本当に難しい。
炭坑の飯場や軍隊の基地、あるいは空母などにも都市機能らしきものはある。 都市国家みたいな特定集団が先に来る構造は都市じゃ無いでしょ
大規模で恒常的な軍隊+補給基地+商人迄行くと都市かもしれんけど >>129
それは一般的な考え方ではないね
都市の成立は、都市国家の成立から始まるってのが、一般的な世界史的見方だから
具体的には、ウル、バビロンなどのメソポタミア都市国家群のことね
>>126
その辺、まさに定義によるんじゃねーかね
例えば欧州の一部の宮廷都市は、特権はなく王家の直轄支配下にあったが、それは都市なのか、とかそういう議論になる 欧州の都市論読んでると結構面白いんだよな
アルプス以北と以南で成立過程がかなり違ったり、王家との関係性で、都市の性格が違ったり
特にアルプス以北の都市領主の城市に隣接して、商人が住み着いて都市の二元化は進むんだけど、
これが一元化することはなかなかなかったり、みたいな話もあって
中国も唐代くらいまでは都市国家の連合体みたいな性格があったわけだけど、欧州とは性格が随分違うよね >>130
ウルその他のシュメール諸邦は宗族と土着神で結び付いた都市国家が
都市国家群として封建体制を確立して行く過程で一部が都市に成った
発展の結果、都市に成ったのであって都市国家時点で都市を形成した訳じゃ無い >>131
都市国家の連合体的な構造は秦漢の統一を以て終わる >>130
ヨーロッパには固定的な「宮廷」とかないぞ
東アジアだと天子の居城である「都城」とか「畿内」が設定されてるのが普通だけど
中世ヨーロッパには厳密に言うと首都という概念がない
国王もあくまで筆頭封建領主に過ぎず有力な封建領主や都市の間をグルグル回って政務を行っていた
所謂「移動宮廷」ってやつ
中国だと殷周時代に遡ってもそういう政体はなかったと思う >>134
ここ、東アジアのスレだから詳しくするのもアレだけど
宮廷都市ってのは、王都ってことではなく領主の政庁が置かれた都市って意味だよ、歴史用語
一時期までのケルン、ミュンヘン、プラハ、その辺の都市
王宮とは限らない
対するのは、アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックと言った自由都市 所謂自由都市の大半は秦統一以前の郷村と何も変わら無い非都市だし
王庭都市も初期わ政治城廓だった所もある 北宋の都市って今で言うところのゲーテッドコミュニティみたいな感じで都市部の住人は繁栄を謳歌しててもそれ以外の住人は無茶苦茶悲惨な生活してたのかも どちらかと云うと今の中国と違って農村の方が都市より締め付け緩め
農村は農村で士大夫が好き勝手やってたけど >>135
自由都市の意味わかってるか?
皇帝に対して軍役や貢納を行う代わりに自由(自治)権を得た都市のことだぞ
https://www.y-history.net/appendix/wh0603_1-067.html
>神聖ローマ皇帝に直属し、その直轄領となることで勅許状を得て自治を認めてもらうところが出てきた。
>そのような都市を帝国都市といい、自治都市の一般的な形態となっていった。帝国都市は自由都市とも言われ、
>一定の条件を満たす市民には自由が与えられ、ドイツのことわざで「都市の空気は自由にする」と言われた。 アウグスブルグ、ブレーメン、ハンブルク、リューベックにも皇帝の政庁はあるぞ
神聖ローマ皇帝には固定した治所がなくて自由都市の教会か市庁舎を間借りして政務を執っていたからな
中国だと遼も「捺鉢」と呼ばれる皇帝の治所が各地にあって固定されてないという点で西欧とよく似てる 同じ系統の北魏も始めの頃わ皇帝の居場所季節で変わってたっけ >>140
そう成るのわ異端派が西方分教と宗教闘争やった時
ハプスブルク朝スペイン帝国へ反乱起こすのに際して
皇弟のドイツ王を担ぎ上げる為にオーストリア大公の広範な支配権を認めてから 中国の歴史で云うと周、秦、前漢の頃迄やってた巡幸だから
大体1500年位遅れてる 友達から教えてもらったパソコン一台でお金持ちになれるやり方
興味がある人はどうぞ
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
S1W 言われてみれば確かに・・・
日本人は「宋の時代より後の中国人」を尊敬しないらしい=中国メディア
http://news.searchina.net/id/1668992
→朱熹は南宋、王陽明は明だよな 朱熹や王陽明を尊敬してると言ってる日本人に出会ったことがない >>146
朱熹はともかく、王陽明にはフォロワーが多い
「宰相の師」こと安岡正篤がその代表格 >>137
それは中国史に一貫して続く社会構造で、宋だけが特別なんてことはない >>134
「神聖ローマ帝国の首都」とか、教科書にも出てこないもんなあ
トルコのセルジューク帝国にもそれは言える トルコ帝国は、皇帝がテント張って絨毯しいたら、そこが首都 倭国も、京都に落ち着くまでは、かなりコロコロ首都が移動してた >>152
都がコロコロ変わっても政治はずっと難波宮でやってたらしい >>146 >>148
陽明学もわかりにくいが、朱子学もわかりにくい。
学者はともかく一般人はちゃんと理解できたんだろうか。 朱子学は
「格物 致知 誠意 正心 修身 斉家 治国 平天下」
この八条目に要約できるし 亡国の南宋で、夷狄の侵攻に悲憤慷慨する中華の士大夫たちが遺した、朱子学の経典。
それが、江戸時代の日本の武士に大きな影響を及ぼし、欧米以外で唯一、近代ナショナリズムが形成される土壌となった。 がちがちの朱子学であっても日本ではわりと自由に拡大解釈、
教義の取捨選択などがやれたけど、中国・韓国では官製以外の
解釈は許されなかった。 清では考証学が盛んになり、朱子よりも漢の鄭玄がヒーローになっていった 日本では、平安時代の貴族の世から、鎌倉時代の武士の世となり、見た目からしても大きな変化が感じられる。
でも中国では、唐の貴族と、宋の士大夫では、社会的なポジションが異なるだけで、外見にそう大きな違いはない。
そもそも、唐の貴族というのも、日本でそう呼ばれるだけ。
中国では、「士族」と言っている。 その後、宋が滅んでモンゴル帝国になり、中国の文化は一変した >>158
国学ってぜんぜん自由じゃないじゃん。
廃仏思想むき出し(これも朱子学のパクリ)だし、水戸学に至っては天武を弑逆犯扱いとか朱子学の悪いとこを直輸入。 唐と宋の変化は確かに大きかったが、中国大陸の文明が最も変質したのは、やはり、モンゴル帝国の時代だろう そもそも唐が元朝のプロトタイプだから。
イスラム教やキリスト教を受け入れたのも唐が最初。ペルシャ文化が本格的に入ってきたのもサーサーン朝が潰れて亡命者が唐を頼ってきたから。 唐の先祖は遊牧民かもしれないが、農耕社会の支配者になったら遊牧生活はやめてる。 高宗あたりまでは鮮卑の気風が残ってて武則天あたりから漢族化してきた印象 唐朝の始祖は父方は漢族系の隴西李氏で母方は匈奴系の独孤氏
日本で言うと母系が百済系の桓武みたいなもん 長安は、ラクダを引いた隊商の世界
中央アジアや西アジアとダイレクトにつながっていた 隋の煬帝は、江南に行幸したまま帰ってこず、事実上の遷都といわれた
そのスキを突いて、唐の李淵に長安を乗っ取られてしまった 唐宋変革は、直接には五代十国の乱世に起きた社会変動なわけだが、ほとんどの変化は、唐の後期に始まっていた
日本の戦国時代の乱世が、室町幕府の頃から既に始まっていたように、唐の後期は、既に事実上の乱世が始まっていた 唐の後半は、藩鎮が結託して反乱したことにより、皇帝が長安から脱出する事件が何度も起きた
中興の祖・憲宗のときは盛り返し、一時的に藩鎮を抑え込むこに成功したが、40代に入ると仏教・道教に耽溺する昏君と化し、宦官に暗殺された
その後も、敬宗は宦官に暗殺され、別の宦官によって擁立された文宗も結局は宦官に幽閉され、若くして惨めな晩年を迎えた
武宗にいたっては完全に宦官の傀儡だった 唐の第12代皇帝・徳宗
父代宗が即位すると大元帥に任じられ、安史の乱の終息に務めた。
764年(広徳2年)皇太子となり、779年(大暦14年)代宗の崩御にともない即位した。
即位後は唐の財政再建に尽力し、楊炎の進言に従って両税法を施行し税制面の改革に着手した。
節度使を抑制するために兵力削減や世襲禁止などの抜本的な改革を行なおうとしたが節度使の反発を招き、河朔三鎮・河南二鎮反乱により長安を追われてしまった。
このため784年に『罪己詔』を発して、節度使に対する不介入を約束した上で混乱を収束した。 反乱鎮圧後に、国民が乱に巻きこまれたのは自身の間違いのためだとして謝った。 唐の中興の祖・第14代憲宗
805年に即位し、藩鎮の勢力削減に取り組んだ。
817年(元和12年)には淮西節度使を討伐した。
儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。
軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
強大な藩鎮勢力を抑え込んで地方を統制することに成功したため、「唐の足利義満」とも呼ばれる (ただし、そう呼んでいる人を、自分以外に見たことはない)。
しかし、晩年には丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官の王守澄や陳弘志らによって43歳で暗殺された。 第17代 文宗
826年に敬宗が宦官・劉克明によって殺害されると、劉克明と対立する宦官の王守澄派により、文帝が皇帝に擁立された。
朝政の実権は王守澄らが掌握し、文宗は皇帝としての実権をほとんど持たず、傀儡に近い存在であった。
親政を計画し、831年に宰相の宋申錫と共に宦官の討滅を謀ったが失敗する。
そして835年に再び李訓らと共に宦官討滅を謀った。この時は朝政実権を掌握していた王守澄を自殺に追い込んだが、
その後の宦官に対する大量粛清の計画が事前に露見し、李訓らは殺害され、文宗も捕らえられて幽閉されることとなった(甘露の変)。
文宗は既に実子の荘恪太子永と蒋王宗倹を相次いで失っていたために、亡兄の敬宗の末子である陳王の李成美を皇太子としていた。
しかし甘露の変が発生すると、宦官の仇士良らにより李成美は殺害され、文宗の異母弟である潁王李瀍が立太子された。
840年、幽閉されていた文宗は32歳で崩御した。
晩年に「周の赧王・漢の献帝は強臣に制せられたに過ぎないが、朕は家奴(宦官)に制されている」と嘆いたと伝えられている。 五代十国だけが乱世なのではない
安史の乱のあとの唐の後期には、すでに皇帝権力が弱体化して、乱世が始まっていた
唐宋変革とは、この大乱世に起きた社会変動 894年、菅原道真は遣唐使を廃止した
「白紙に戻す遣唐使」という語呂合わせでも有名な、「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ
でも、ここで注意すべきなのは、当時の唐は黄巣の乱で荒れており、各地で外国人虐殺事件が起きる、いまでいえばイラク・シリアのような危険地帯と化していたこと
約十年後の907年には唐が滅亡するのだから、菅原道真の遣唐使廃止は、「日本はもう中国から学ぶことがなくなりました」ではなく、
「唐が滅亡したので、遣唐使もなくなりました」と位置づけるべきところだろう 唐の憲宗とポジションが似てるのが醍醐・朱雀天皇かな。
彼らの死後、 唐では皇帝が傀儡となり宦官や藩朕が跋扈する世となり、
日本では律令制が終焉、藤原氏の政権掌握・武士の台頭へと向かう。
やがて、唐王朝と貴族社会の崩壊、 鎌倉幕府の登場と相成る。
中国の方がスクラップアンドビルドの度合いが強烈でハードランディング、
日本は穏便にソフトランディングした感じがする。(致傷寿永の内乱は可愛いもんだw)
日本人はなんつーか、大変革を嫌い、微調整をこまめに行う方が好きだ。(明治維新だけが唯一の例外)
天皇制が永く続いた理由にもつながるが、唐宋変革をみて少しオモタ。 >>183
それは言える
唐末には、高貴な身分の貴族たちが、簀巻きにして黄河に投げ込まれ、貴族社会が荒っぽく終焉した
それに比べて藤原北家は、幕末まで京都で連綿と続いてた 高貴な家柄の貴族たちに代わって、中国社会を主導するようになったのは、四書五経を丸暗記した受験秀才たちであった
唐の貴族社会から、明の学歴社会へ
宋・元はその過渡期であった 江戸時代の武家の子弟も、藩校とか湯島とかで、四書五経を一生懸命にお勉強してた
でも、科挙はなかった
出来が悪くて落第したところで、平民に落とされるわけではないし、
平民でも、科挙に合格すれば老中や家老になれる・・・なんてことは、まったくない世の中
学歴ではなく、家柄でほぼすべてが決まる社会だった いまでは、日本でもフランスでも、難関試験を突破した平民出身の秀才が高級官僚になるのは、当たり前と思われている
でも、これは決して当たり前ではなく、長い歴史の中では、割とつい最近のことなのを忘れてはいけない
何百年も前からこんな制度だったのは、世界でも中国だけ
その頃、日本やフランスでは、家柄でほぼすべてが決まってた >>182
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期とされている出来事だ
遣唐使が廃止されたのは安禄山の乱による唐の治安悪化によるもの
当時の日本とかようやく文明国としての体裁を取り始めたばかりでまだまだ未熟
江戸時代半ばに蘭学が伝わるまで学問は漢学一辺倒だったし
で不思議に思うのは中国から伝わったのは机上の学問ばかりで技術的なものはあまり伝わってないこと
例えば羅針盤とか火薬とか西の果てのヨーロッパよりも伝来がおくれている始末 日本が中国から先進文明を吸収し終えるのは早く見積もっても鎌倉中期。禅宗・茶・絵画などが多く入ってきた。
>「日本はもう中国から学ぶものはなくなりました」という画期
そら、律令制とか政治制度・法律限定の話だな。
生糸や砂糖などは日本では高品質なものは作れず18世紀末まで中国製に頼り切っていたし。 >>188
火薬のような新兵器というものは、それを使う敵と対戦して、初めて威力が分かるものだ。
日本人には、モンゴルが攻めてくるまで分からなかった。
それと、日本には天然硝石の資源が無いことが、火薬国産化の大きな壁となった。
もっとも、中国の火薬兵器は、西洋銃のような精巧なものではなく、城壁を破壊することや、爆音で馬を驚かせるのが有効な利用法で、大陸での戦争には有効だが、日本ではそこまでの需要がなかった。
さらに、中国にとって日本はやはり潜在的な脅威であり、ハイテク兵器を渡したい相手ではなかった。
高麗には、倭寇対策のために鉄砲を供与した。 日本には、火薬が伝わるのは非常に遅かったが、紙は西洋よりもずっと早く伝来し、卑弥呼の時代にはもうあったという説もある
天然硝石がないおかげで火薬を国産化するまで何百年もかかったが、その代わり、紙の原料となる植物には恵まれた
この点で不利だったのは朝鮮で、紙の不足が文芸の発展を大きく阻害することとなった >>189
絹織物・陶磁器・茶は、世界に冠たる中国の三大特産品であり、こればっかりは日本に限らず、どこもかなわないのだから仕方ない >>188
日本列島の国が曲り形にも文明国家と成ったのわ徳川王朝以降で
平安時代なんて皇族や藤原族が地方土着の豪族を騙し討ち皆殺しにして共同体を破壊
異常な超重税や頻繁な臨時増税を課して国中に餓死者が満ち溢れた地獄だよ
堪え兼ねた平民の仏教寺院亡命が相次いで成立したのが荘園制だし >>193
んなわけねえだろ、ヴァカか(笑)
古代の世界で、日本のような米と魚がふんだんに取れる気候温暖の地が貧しいわけがない
近現代のハイテク社会じゃあるまいし、技術力の問題じゃねえわ 幾ら恵まれた土地でも超重税を課されて根刮ぎ支配階級に収奪されれば
飢えて死ぬしか無いからな
しかも徴税以外に略奪するし、滞納したら一家全員殺すか奴隷にする連中だし 日本が支那に追い付いたのは田沼時代とみる。 追い越したのは幕末あたり? 何気に清朝って中華文化的にも国力的には最盛期なので、アヘン戦争前後までは追いついていないのではなかろうかね
そもそも、欧州だって清朝最盛期の時代に追い抜いていたかというと微妙 >>197
そりゃ、中国とインドの国家規模がデカいのは当たり前だ
普通の大国の10倍以上の人口があるのに、国力を比べても意味がない >>195
それは、北方民族に支配された、惨めなシナ土人のこと >>198
だから、文化的にもと書いておる
経済的にも、文化的にも強力な国家、地域をどう評価するかって話でもある
ただ、清朝はその人口(というより急激な人口増加)が足枷になって急激に没落するのは皮肉なところでもある 日本と欧米の進化が急加速したのは、18世紀の後半から19世紀だろう
17世紀の世界はなんといっても、オスマン帝国・サファーヴィー朝・ムガール帝国が鼎立するイスラム文明の黄金期
もちろん、清の国力も桁違い
アメリカ・ロシア・日本・ドイツはまだデビュー前の状況 17世紀だと、日本は江戸幕府の鎖国、ドイツは三十年戦争、ロシアは動乱時代を経てポーランド・リトアニアに占領されたりとか、むしろズルズル後退してた衰退途上国
全盛期のイスラム3帝国と清朝は、あまりにも輝かしい存在だった
18世紀の後半から19世紀にかけて大逆転が起きる 田沼時代は初期近代。だが定信のバカが時計の針を逆回りさせた。
ここから日欧の差が広がるが、清は停滞したので幕末あたりで日本はシナには追い越した。 >>203
田沼意次も松平定信も、どちらも徳川吉宗の紀州系幕府の流れを汲んでいる。
つまり、徳川吉宗政権の持っていた異なる側面をそれぞれ代表する政治家だったんじゃないかな。
田沼意次も農政ではいろいろとやらかしてしまっているんで、
実のところ両極端の二人が対立してつぶしあうんじゃなくて、
補いあって助け合う体制が築けていたのなら、日本の歴史もかなり違ってきたんじゃないかと思えてならない。 田沼は人脈的には紀州閥だが、思想・政策的には徳川宗春の系列 唐の後半から五代十国にかけての大乱世を収束しようと、宋の趙匡胤は大改革を実施した
これが、日本でいえば、戦国時代を終わらせた徳川家康の歴史的役割に似ている
これを、「中世が終わって近世が始まった」と言いたくなるのもよくわかる 「権力が分散している」というのが中世社会の大きな特徴のひとつだとすれば、
皇帝権力が弱くて不安定で、国家が地方分権的な、
唐はこの特徴によく当てはまっている
藩鎮の反乱で滅亡寸前になったり、外戚に皇位を簒奪されたり、宦官に皇帝が殺されたり・・・といった、ヘタレなエピソードに事欠かない 「中国史上最弱の統一王朝」といえば、北宋を指すのが通常だが、実際には不安定な唐に比べて、北宋の国家体制はかなり強化されている
見た目の領土の広さはともかく、実態としては、唐こそ「史上最弱王朝」と呼ぶにふさわしい 晩唐以降って考えるなら、唐の権力基盤が弱体であり、中央の統制力が効かない状況であったのは事実かもしれぬ 要するに、宋より前の中国の王朝は、大唐帝国にしたところで国家の軍事を担う
武装集団の一元化が出来てないんだよ。
唐朝の場合には北族系の諸軍閥を束ねただけで、その中には華北に移住してきた
遊牧民の末裔だけじゃなくて、実際に草原地帯で遊牧生活を送っている遊牧諸部族の
軍隊も、唐朝の国家の軍事力の中枢に参画していたりする。
宋朝ではそういう国家の軍事の一元化に成功はしたけど、その状態で軍の精強さの
維持に失敗した、という感じかな。それを、火薬兵器の大規模採用によって
補ってなんとか国境線を維持していた。 >>206
柴栄 −信長 趙匡胤 −秀吉 趙匡義 −家康 という見立てはよくあるね。
>>208
皇帝権力が強化された北宋は江戸幕府に似ている。綱吉以降は特に。
宋は対外的には弱かったが、江戸幕府も対外戦争やったら弱かったもしれない。
攻めてくる国が無かったから「文弱」がばれなかっただけだろう。
中国文明の最盛期は宋代だよね。 昭和後期の日本と同じ。武力はパーだが文明のピーク時だった。 >>211
趙匡義は、たまたま見た中国の時代劇で、兄の趙匡胤をコッソリと毒殺して帝位についた陰険な悪役だったので、そのイメージが強い
でも、宋の国家体制を築いたのは、やはり趙匡義 >>210
ちなみに、北族系の軍事力の一元化が出来ていない、という唐朝の本質的な弱点が露呈したのが安史の乱。
あの当時、唐朝の勃興と突厥遊牧帝国の崩壊があったばかりで、
北族系軍事集団には次のような選択肢が目の前にぶら下がっていたらしい。
・唐朝の軍に参画してさらに唐朝の政権中枢への参画を目指す
・滅亡した突厥の「お家再興」を目指す
・新興のウイグル遊牧帝国への参画を目指す
・吐蕃帝国への参画を目指す
・新政権を樹立してその中核勢力への参画を目指す >>213
北族は、唐を「タクバツ」と呼んでいた
いくら中華皇帝として中原を制覇したといっても、彼らにとっては、やっぱり「タクバツ」 「唐は軍閥連合政権」というのは、その通りだろう
統一王朝としてまとまるのは強力な皇帝がいるときだけで、皇帝の力が弱いと、たちまち結束がゆるんで動乱に突入する
唐がなんとか治まっていたのは太宗の「貞観の治」と、玄宗の「開元の治」のとき、あとは中興の祖・憲宗のときくらいだろう
あとは外戚に簒奪されたり、藩鎮の反乱で崩壊状態になったり、宦官に皇帝が幽閉されたり暗殺されたりの繰り返し どうも、前後の歴史を見ていくと、「唐の中華統一」というのは決して安定相では
なかったように思える。
前時代の「安定相」というのは、
・漠北の柔然
・南モンゴリアと華北の北魏(拓跋鮮卑)
・江南の六朝
の鼎立状態で、これが壊れて権力体の再編に向けた流動的なフェイズの一瞬の見かけの安定相が
・漠北の突厥
・南モンゴリア・華北・江南の隋唐帝国
という対峙状況。
これが
・遊牧ウイグル帝国
・唐朝
・吐蕃
の不安定な鼎立、天下三分状況を経て、結局
・契丹遼帝国
・宋朝
の対峙状況でやっと安定してくるんじゃなかろうか。 モンゴル高原を含めた東アジア世界ということでは、遼と北宋、北元と明も南北朝時代 >>218
確かに似てると思うがな
唐 618年 室町幕府 1336年
宋 960年 江戸幕府 1603年
だいたい、600年から700年遅れで後を追っている 中華世界の邑制社会が秦漢帝国の皇帝のもと統合されたのが紀元前3世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の天皇のもと統合されたのが8世紀
だいたい1000年ぐらいの周回遅れ
統合の契機になったヤマト政権の連合体形成の3世紀を採用すると
だいたい500年ぐらいの周回遅れ
中華世界の邑制社会の残滓である郷里社会が解体したのを後漢初とすると1世紀
日本の初期農耕共同体であるクニが律令国家の統合の中で解体したのが10世紀
だいたい900年ぐらいの周回遅れ
まぁ、少しずつ周回遅れのレベル差は縮小していっていると言えるのかな。 室町幕府も、実力将軍・足利義満のときは「日本国王」の名にふさわしい偉容で全国を統治していたが、並の将軍のときは、とても統一国家などと言えるような状態ではなかった
唐も同じで、実力皇帝が君臨しているときだけ軍閥連合政権が機能した
皇帝といっても、「覇者」とか「盟主」に近い存在だった 科挙官僚に政権を担わせることで北族系軍閥から奪権して皇帝専制を目指したのが、
女帝武則天と玄宗皇帝。
結局、権力を奪われまいとした北族軍閥の蜂起で最終的に安史の乱を招いて唐朝は衰退した。 >>196
例えば工業化の指標となる鉄生産量を見ると1870年のリヒトホーヘンの報告だと山西省だけでも生産量年間16万トン
一方1879年の日本の鉄生産量は全国合わせても1万4000トンでとてもじゃないが比較にならない
教科書の記述だけ見ると近代化に成功した日本があっさり清を打ち破ったかに見えるが
当時の日本の工業能力は清の一地方にすら負けるレベルで日露戦争と同じぐらいの奇跡と言っていいんだが >>223
江戸期の「一揆」とされたものは組合活動の団交みたいなもので、武装蜂起による反乱なんかじゃないぞ。 >>224
日本では、コークスを用いた近代製鉄が始まっていた
量はともかく、質ではシナ製など比べものにならない
量が足りない分は輸入で補っていたから問題ない 中国は、いまも粗悪な鉄鋼を異常に大量生産し、余った鋼材で砂漠に誰も住まない巨大都市を建設している
それでも余って仕方なく、さすがの共産党も困っている >>224
むかし、北西九州で地域史の調査をやっていたんだが、あれでずいぶん近代史の見方が変わった。
明治日本の「開港場」って、英国が香港・上海・シンガポールの東洋経営の要衝を運営するバックヤードとして機能してるんだわ。
つまり、これらの要衝の運営に必要な蒸気機関で動く軍艦や商船への良質な水と石炭の補給地、静養地として明治日本が機能してる。
日清・日露戦争ってのは、そういう英国と明治日本のパートナーシップが背景になっていると考えないとどうしても説明がつかんのよ。 白村江の戦いのときも、英米と同盟して唐と戦えていればなあ >>229
その時代のアングロサクソン人なんて、ほぼ「蛮族」だわな。 >>222
結局、五胡十六国時代の延長戦みたいなもんだな
北朝同士の内乱だ 武則天だな、科挙官僚の抜擢を始めたのは
廃藩置県みたいなものだ
まだ時代が早すぎた
この大改革が成功するには、趙匡胤・趙匡義まで待たねばならなかった >>216
地球に生命が誕生した理由(環境条件)のひとつに、太陽、木星、土星と丁度いい呪力バランスを維持できた、
ことがあるらしい。太陽系内のいい位置に巨大惑星が2つあることで地球は現在のハピタルゾーンに位置し続けることが出来た。
木星・土星が無ければ遠心力で地球はびろーんとさらに遠い位置にぶっとんでたらしい。
契丹・北宋・西夏は実は非常にグッドな重力バランスを相互に及ぼして「11世紀の平和」を実現したのではないか。
これが唐代とは比較にならぬ経済と文化の発展をもたらしたのではないか?
貴君のレスを読んでふと感じた。 (北宋≒地球説) >>233
この「11世紀の平和」の動的平衡維持のために北宋が膨大な数の火薬兵器(主として火炎放射器的なもの)を
契丹や西夏との国境に配備。そのための黒色火薬製造のために日本から日宋貿易で膨大な量の硫黄を輸入。
それが日本列島に商業経済を勃興させ、日本列島を中世社会へと駆動していくことになるんだな。 >>233
太陽をアメリカ、地球を日本、木星・土星を中国・ロシアとすれば、現代の状況に当てはまる
中国・ロシアの脅威があるから、日本とアメリカの関係は安定して強固な同盟が続いている >>235
90年代の米国は日本バッシングに走り、中露重視の外交を取った。基本的にそれはオバマ時代まで続く。
現在 中露がアメリカの主敵になったことで日本は「米国の敵」から外れた。
そして日本にとって中国は米国と並ぶ市場、ロシアは中東リスク回避用のエネルギー供給国となった。
そして中国牽制のためにインド、と新しい木星も手に入れた。
>>234
当時の日本の対中輸出品の1位だか2位だかが、硫黄だよね。ほんでもって宋銭輸入と。
自動車売ってドル稼いで・・・・って、「パクス・アメリカーナ」下の現代日本じゃんかそれ。
うーむわかった。 (宋≒米国説。 もうええ、てか?)
ついでに233訂正
呪力バランス(怖いなコレ) →重力バランス ハピタルゾーン →ハピタブルゾーン
日本がハピタブルゾーンの恩恵を受けた最大の理由は太陽(中華帝国)との距離だったよね。
近すぎず遠すぎず、「周辺文明」として高い文化と成長を維持できた。
朝鮮や越南は太陽に近すぎて、現在に至るまで尚、(後略) >>236
当時の宋の史料に、日本との貿易で真に国益になる輸入品は硫黄と木材だけだって書いてある。
ところが、日本の史学研究では硫黄の宋朝での用途がよくわからなくて、どうせ薬用に
取るに足らない量が輸入されていたんだろうぐらいに解釈されていて、
日本が大量の陶磁器や宋銭を輸入できるだけの価値ある品物といったら奥州の黄金に違いない、
と信じ込まれてきた。Wikipedia日本語版の「北宋」の対日関係の章も、
その仮説がまかり通っていた時代の参考文献をベースに書かれている。
日本の輸出していた硫黄が宋朝の国防の枢要を占める重要な軍需品で、
実はかなり膨大な量を宋朝が必要としていて、それを日本がほぼ独占的に
供給していたことを明らかにしたのは実に21世紀になってからの山内晋次の
研究を俟たねばならなかった。
日本の中世以降の文明的な発展は、中華王朝の軍事力が及びにくい適度な遠さと、
同時に中華王朝が喉から手が出るほど欲しい天然資源(中世の硫黄・近世の銀)の
大産地であったことに依るところが大きい。 >>225
大量の餓死者が出て起きた武装蜂起も結構ある、そういう場合幕府軍に結構な人数を虐殺されてる
>>221
足利幕府は義満の最盛期でも安史の乱後の唐帝国の水準
以降2代義持義教の盛期でも晩唐に近い概況だよ >>226
コークス製鉄法とか中国では宋代にすでにあった技術だぞ
室町時代の日本では日本刀が重要な輸出品目だったのだがこれにしても
製鉄技術の未熟さから原料を中国や琉球から輸入した福建鉄や暹羅鉄に頼ってた >>238
安史の乱の悲惨さは、日本の戦乱とは比べものにならない。
日本人には人肉を食べる習慣がないから、こうはならないんだよ
↓
>9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。
農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。
安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるようなでっかい石臼を運ぶ部隊です。
反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には死体がたくさん転がっている。
そこに石臼部隊がゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。 死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。
もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために反乱をつづけているような状態になっているのです。
華北の荒廃とはこういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。 これがあるから、中国では乱世になると、人口が激減する。
それによって、社会の大変動が引き起こされる。
漢が滅亡したときの人口激減はとくに有名で、「人間が入れ替わった」とされる所以。 >>240
それ日本史の日常だよ
平安後期〜室町時代までずっとそんな感じ、当然人肉も飢餓の度に食ってる
日本史に無知過ぎる >>242
いや、人肉食は中国人に特有の食文化だ
科挙、纏足、宦官と並んで、 追い詰められた飢餓状態の人間が、やむを得ず人肉に手を出すことは、どこの国でもあっただろう
だが、平常時に食事として人肉食を行い、塩漬けや蒸し焼きなどの人肉調理法が発達していたのは、他国に例をみない中国特有の食文化だ >>238
真の内乱に至った島原の乱を除くと、基本的に団体交渉レベルだよ。
例外的に抗議行動の規模が膨れ上がりすぎて幕府側が過剰な弾圧行動に出た大原騒動で、
武力鎮圧による死者が数十名、刑死(獄死を含む)者が数十名、というレベル。
これで、江戸時代の中でも特筆すべき例外的な事件で、責任者の代官の大原紹正が
八丈島に島流しにあい、幕府側の役人で死罪になった者もいる。
また、この例外的な大原騒動であっても、農民は示威行為のみで代官所襲撃などの
武装反乱には至ってない。
ちなみに、アメリカ合衆国では19世紀に労働争議に対して経営者が機関銃をぶっ放す
という武力弾圧に及ぶ行為が普通に行われていた。それと比べても、江戸時代の
「百姓一揆」の方がよほど穏やかに事態が推移している。 >>239
日本のたたら製鉄は、低温還元による海綿状鋼を生み出す製鉄で、
良質な鋼は生産できるが、大量生産や鋼以外の軟鉄や鋳鉄といった
多様な鉄を生み出すのには適していない。
江戸時代でも軟鉄が十分国産化されておらず、火縄銃のバレルの内張に
使う軟鉄はタイから輸入したものを使っていたほど。 「安史の乱の石臼部隊」っていったいどこから話が出てきたのか。
ネット上には話があふれているが、安史の乱を研究したまともな歴史書や
歴史学論文ではこのエピソードを見かけたことがない。
おおもとの出典をご存知の方はおられる? 安史の乱による唐朝崩壊から、五代十国に至る200年の大乱世
「中国史上、最も大きな変革期」とされる激動 しかし、安史の乱が起きる以前の唐朝も、決して安定していたわけではない
そもそも、玄宗が皇帝専制を目指して無理な軍閥潰しをやるから反乱が起きるわけで、漢の武帝や、清の康熙帝みたいになろうとして失敗した例と見ることも可能だ
それ以前も、外戚の武氏に王朝を簒奪されたり不安定で、治まっていたのは「貞観の治」「開元の治」といわれた数十年間くらいのもの 漢が滅亡して400年の乱世
隋唐による短期間の不安定な統一を経て、安史の乱からまた200年の乱世
権力が一元化せず、地方分権で中央の統制力が弱いのが「中世」の特徴だとすると、漢が滅亡してからの中国史は「中世」の特徴を存分に備えている そもそも、なんで西洋史で「中世」というかといえば、それは「古代ローマ帝国」と「近代ヨーロッパ列強」という、2つの輝かしい栄光の時代に挟まれた、長い停滞の暗黒時代というのがその主旨
中国についても、古代の「大漢帝国」と、三大発明を生んだ「宋」以後を2つの輝かしい栄光の時代とするなら、
その間のグダグタな期間を「暗黒の中世」と見なすことは十分に可能であろう 「古代」というのを定住農耕地帯に限って論ずるなら、それは都市国家的な共同体で
構成された社会、ということになるんだと思う。「古代帝国」というのも都市国家的な共同体を
有機的に結び付けたもので、文明史的な古代の栄光、というのは、都市国家に蓄積された
知恵の集積の開花なんだろう。
しかし、古代帝国というものは伝統的な都市国家に依存した社会システムで運営されながら、
都市国家的な結合を消費し、解体に向かわせてしまう。それは古代帝国の自滅に他ならないんだが、
都市国家の解体後の世界には、ごちゃごちゃに人や土地に対する権益の錯綜したあまたの
「身分団体=社団」が叢生していた。このそれぞれに武装し自治機能を備えた社団の錯綜こそが、
「中世」の本質なんだと思う。 これからは、隋唐を「中世タクバツ帝国」と呼ぶことにしてはどうだろう? もちろん冗談なので、本気でツッコミを入れないように >>254
隋唐を「鮮卑タクバツ帝国」といえばわかりやすい >>256
それはいい
なんとも、そのものズバリなネーミング >>258
オスマントルコやセルジュークトルコと区別するため「東亜トルコ帝国」 そうだなあ
「中世トルコ帝国」といったら、セルジューク朝を連想するしかないだろう
首都はない
スルタンがどこかでテントを張って絨毯を強いたら、そこが帝都になる
大スルタンの他にも、全国各地に小スルタンが何人もいる
これこそ、中世の遊牧帝国の見本
唐も、名目上は中華王朝だが、実態としては遊牧集団のタクバツ連合 >>259
唐を「鮮卑タクバツ帝国」と呼ぶなら、宋も「突厥サダ帝国」になるはずだ >>246
天保天明の300万人が餓死した大飢饉時代に
各地で民衆反乱が頻発して一揆毎に多いと数百人から千数百人殺されてるのが現実 マジメな話、モンゴル人は遼を「キタイ」(契丹)と呼んでいたが、それがモンゴル語で中国を指すようになり、ロシア語でも中国をキタイと呼ぶようになった。
「秦」がシナになり、「高麗」がコリアになったようなものだ。
つまり中国を、西欧人は「秦」と呼び、ロシア人は「契丹」と呼んでいる。 ユーラシアの歴史って騎馬民族と農耕民族による対立と融合を繰り返しだよね
ギリシャvsスキタイ
ローマvsフン
漢vs五胡
そして騎馬民族が農耕民族に変わったのが
スキタイ→ゲルマンスラブ
鮮卑→唐
突厥→宋 >>264
史上類例のない単一民族国家に生れた日本人ならではの勘違いだな
もしかして清は皇帝から民衆まで満州人の国とか思ってる? >>263
モンゴル王朝では女真族も契丹も漢人と言われてたよね
>>265
清は諸民族の牢獄だよ
今の中共も諸民族の牢獄だけどね 単一民族日本にとっては多民族が共生している世界中のほとんどの国家が「牢獄」に見えるだろうな
逆に多くの多民族国家にとって一つの人種一つの民族しか存在の許されない日本こそが「牢獄」に見えるだろう >>268
多民族国家が「牢獄」になるのは、ひとつの民族が他の民族を支配しているからだろ
中国は牢獄だが、アメリカはそうではない 唐を「タクバツ」と呼んでいたのは、北方や西域の諸民族だ
漢人にとっては「大唐」、倭人にとっては「カラ」 中国史なら「唐」で良いが、もっと広くユーラシア史に位置づけるなら「タクバツ帝国」と呼ぶのが妥当ではないか
「元」と「モンゴル帝国」の関係と同じだ >>270
補足すると、正確には、ユーラシアのトルコ系諸民族が、タクバツが訛った「タブガチ」と呼んでいたことが明らかになっている
長安帝国にとっては最も交流の深い同時代の隣人は、唐を「タブガチ」と認識していた 千数百年の時をすぎ、数千キロの距離を隔てた日本で、「唐は鮮卑系王朝だ」、「いや、漢人系王朝だ」と論争するのは、人それぞれの自由というものだろう
しかし、同時代の近隣諸国にとっては、唐は「タクバツ帝国」だった
この事実を忘れてはならない ちょっとまともな流れかと思ったら、絵に描いたような牽強付会で笑ってしまった 唐は、パルティアやセルジューク朝のような遊牧集団による軍閥連合政権 唐代は江南の水稲や華北の小麦などの生産が増加し、広大な土地を持ち荘園を経営する門閥貴族が繁栄していた。
・安史の乱後、それまで辺境の警備をしていた節度使が内地にも多く配属され、軍事権のみならず行政権・財政権も与えられて藩鎮と呼ばれる強力な地方勢力を形成していた。
・農民は藩鎮勢力の激しい取り立てにあい、生活は極めて苦しく土地を売って逃亡する人が増え、その多くが小作人となって荘園に入り込んだ。
また、藩鎮勢力は荘園での掠奪・強盗を繰り返して門閥貴族の経済的基盤を奪った(門閥貴族の没落)。 ・門閥貴族に代わって現れた大土地所有者は、藩鎮やその部下たち及び彼らに依存する商工業者たちであった。
→これらの新興地主層は形勢戸と言われ、私有地を小作人の佃戸や自小作農に耕作させ地代をとっていた。
・形勢戸はその子弟が科挙に合格して官僚になれば官戸と称され、徭役の免除などの特権が与えられた。このような地主は教養を身につけた読書人らとともに新たな支配階級である士大夫階級を形成した。 都の貴族が広大な荘園を所有して優雅な生活をする一方で、地方では武人の藩鎮勢力が伸長し、貴族の荘園を荒らし始めた
平安後期の日本のような状況が、その数世紀前の唐で起きていた
結局は、武力を持ってる奴にはかなわないし、現地にいる奴にはかなわない それまで地方の政治支配力は、経済的余力を持ち暴力装置(戦力)を扶養できた貴族がほぼ独占していた。
ところが唐代になるとそれまで兵力の主体だった中原の遊牧性の高い部族達も農耕化して、常備軍としての機能性に大きな限界が露呈してくる。
8世紀初頭に唐王朝が 河西節度使の設置を皮切りに地方支配(警備)として節度使を国家の常備軍として重用するようになるにしたがい、
地方の暴力装置としての相対価値が低くなった門閥貴族はその勢力が落ちてゆくことになる
節度使は、お抱えの兵士は平時は農耕しながら訓練に励むことによって、国から給与を得ていた。 関東で「この辺り一帯は昔、藤原氏の荘園だった」などと言われると、
「大昔に、京都からこんなに離れたところまで、よくやり取りできたな」と感心する
都の貴族にとって、荘園で年貢を取り立てて持ってくるのは、できて当たり前のことではない
応仁の乱のときは、治安が悪化したおかげで、北陸の荘園から年貢を運べなくなった都の貴族が困り、
越前守護代の朝倉孝景を頼った結果、朝倉氏が「最初の戦国大名」となって台頭した >>280
初期荘園だと、国衙が管理している「公田」の中に摂関家とか大寺社への「特別税」農地が
モザイク状に散在していただけで、荘園の実務機関もないので、国司の責任で公田と一緒に
徴税して「荘園領主」に納入していた。
11世紀になってようやく「国衙領」と「荘園」が別個の権利主体になって、荘園にも実務機関が
発生。国衙領と境界紛争で軍事衝突を繰り返すようになったため、国衙領、荘園双方の小単位ごとに
実務機関の長として武士が任命されるようになり、国衙領から朝廷へ、荘園から荘園領主への
納税実務も現場の武士が担当するようになる。
これが、単なる地方治安の公認担当者に過ぎなかった武士が「在地領主」として発展する背景となった。 日本史の教科書だと、「奈良時代の日本は、唐をモデルに律令制を導入し、農民に口分田を配給しました。
でも、だんだん貴族の荘園が広がり、この制度は崩壊しました。その後、地方では武士が台頭しました」
ってな流れになるわけだけど、唐ではどうだったか?
「貴族の荘園が広がり、均田制が崩壊していった」ってのは同じだけど、地方で武人の藩鎮が台頭したのも、それと同じ時期の話
日本では、貴族の世が終わって武士の世になったが、中国では、都の貴族も、地方の藩鎮もともに排除されて皇帝専制になった >>282
日本史の教科書で律令制の記述で大きく抜けていることがある。
それは、実際の律令制の実現にあたって、弥生〜古墳時代以来の
首長制の在地共同体の協力を必要としていた事。 もっとも、日本史だと、この「唐の均田制に習って農民に口分田を配給しましたが、貴族の荘園が広がって、この制度は崩壊しました」の話が、
最重要事項として小学校6年生の歴史の教科書から繰り返し刷り込まれるわけだが、中国史だと、そこまで強調されるエピソードではないように思う
高校の世界史では、「均田制の崩壊」という土地制度の問題より、「それまでの租庸調制に代わって両税法が導入されました」という、税制面がやたら強調されていた
これは気のせいか? >>283
それは、小中学生には難しすぎるな
高校生になら話しても良さそうだが しかし、それは事実だろう
中国の均田制は、漢末からの長い戦乱で人口が激減し、荒れ果てた華北の農業を再生すべく、征服者の鮮卑族・北魏が強引に土地を割り振ったわけだが、日本だとそんなわけにはいかない
そもそも、均田制を導入する必然性が日本では乏しかったように思う >>284>>286
北魏とか唐が行った「均田制」ってのは、正に戦乱で荒廃した農地への農民の再配分だったわけだけど、
日本の場合には中国で均田制の前提になった戦乱での後輩って現象そのものが起きてないんだよね。
だから、古墳時代から継続している首長制の在地共同体を再編した組織(評>郡:コホリ)に指示を出して、
地域社会の現実を均田制の計帳・戸籍の建前に読み替えさせている、というのが実情。
租庸調制も、地方首長の服属儀礼としての「ミツキ」を読み替えている側面が大きい。
日本での「均田制の崩壊」というのも、実のところこの郡に再編された首長制の在地共同体が崩壊して、
富豪の輩>名主の名田に再編された、という部分が在地社会の実情に沿っている。 抑々日本じゃ均田制全く施行されて無いからな
今のジミン党カスミガセキと同じく看板だけ
んで藤原族の土着首長大殺戮と百姓搾取収奪で
仏教寺院が最大勢力に なんか、あちこちのスレで、「江戸時代百姓一揆大虐殺説」と「律令制時代地方首長大虐殺説」
などというキチガイじみた説をまき散らしているやつがウルサイな。 皇家や摂関家の落下傘国司の暴政ってローマの属州総督や植民地支配より酷いからな
モンゴルの被征服部族並みの扱い そもそもな、日本の律令制国家の「軍団制」の軍隊って刀とか弓矢とか、武装が兵士の自弁なんだよ。
貨幣経済も商業も発達していない世界で武装のほとんどが自弁で成り立つ軍隊っていうのは、
古代ギリシアのポリス社会の市民兵と相似形、つまり成員皆兵の共同体自衛軍の集合体に過ぎないんだ。
だからこそ、この首長制共同体が解体してしまったときに軍団制が維持できなくなったわけでな。
つまり、全国に「古墳群」の数だけあまた存在した首長制共同体の首長たちを皆殺しにしようとしても、
それを実現するだけの「中央軍事力」が皇族や藤原氏の手元にないんだよ。 そもそも古墳時代の日本に「市民」にあたる階級はないし
当初は兵役は壮丁の3人の内1人だったのが4人に1人になったり或いは東国人のみになったり
それでも大半は兵役に就けるほどの武装は用意できないので結局は裕福な郡司層の子弟から選抜する健児制に移行してる
飛鳥時代の丁未の乱を見てもこの時代に入っても皇族や豪族の子弟同士が自ら弓剣をとりやぁやぁ我こそはと戦ってる始末で
また精々稲城と呼ばれるバリケードを気づくだけで城郭都市も存在しなかった
大陸のように徴兵した万単位の農民たちをぶつけ合い負けた側の都市は老若男女と問わず首をはねられるという
スケールのデカい戦いは古代日本には存在しない 但し初代日本国は重い重税と過酷な労役と収奪で十万百万単位の餓死者を出してる まあ、日本の歴史は「奈良時代に、日本は中国から先進的な制度や文化を取り入れました。
もう中国から学ぶものがなくなったので、菅原道真は遣唐使を廃止して、
平安時代からは国風文化になりました」というストーリーを、一種の建国神話として、
ことのほか大事にしているからな
「均田制の導入」は、「碁盤の目のような平城京」と並んで、それを象徴するシンボルのようなもの
本当に地方の豪族から土地を奪って国有化し、それを農民に均等に分配したのなら、それこそ社会主義革命だ
とても現実に実行できることではない 今から見ても連綿と続く粉飾大好きな上級日本人の族民性が現われてるよね
技術より何より先ず支配制度を模倣して
それも外観はきっちり真似するけど中身をちょこちょこ弄り回して骨抜きに為
多くが実施も為れ不に有名無実化しているという 均田制の崩壊は、日本史より隋唐史において重大なテーマ >>295
>>本当に地方の豪族から土地を奪って国有化し、それを農民に均等に分配したのなら、それこそ社会主義革命
そうなんだよ。当時の「日本国」の中央政府直属の軍事力にそんな力はない。
明治の「廃藩置県」だって、旧大名に皇室の藩屏たる華族の地位を保障した上で実現している。
従来の「在地首長」を一方的に消滅させて均田制を実現したわけではない。
そもそも地方の土地にしたところで「在地首長」の私有地だったわけではなく、
実際には共同体側からの規制を強く受けた首長制共同体の共有地といった方が現実に即しているし、
そうした在地共同体の共有地を国家のおおやけの土地に読み替えただけ。 かつて、「中国史の時代区分」論争が盛んだった頃には、「魏晋南北朝から隋唐・五代までが中世」とする派が、唐の貴族の荘園を、中世ヨーロッパの農奴制の荘園と結びつけて論じていた
この説の論者にとっては、「唐末五代における荘園制度の崩壊」が、中世の終わりを意味する重大な出来事 >>295
>平安時代からは国風文化になりました」というストーリーを、一種の建国神話として、
>ことのほか大事にしているからな
どこの教科書にそんなことが書いてあるの?あたらしい歴史教科書か?
菅原道真が遣唐使を廃止したのは財政難が理由
つまり朝廷から中国の先進的な文化を取り入れるだけの力がなくなったためだし
山川出版の「詳説日本史研究」だとそれらを踏まえたうえで「国風文化とは中国の文化を否定したり、それとは断絶したところで
生れたものではなく、あくまで中国文化を吸収・消化する中で形成されていった文化とすることができる。」(103ページ)
と釘をしている >>301
1970年代、1980年代の小学校〜中学校の社会科の教科書はだいたいそういう論調だったのよ。 >>301
いや、菅原道真が遣唐使を廃止したのは、黄巣の乱で唐が崩壊して、治安が悪化したのが最大の原因
現代のイラクやシリアみたいに、外国人虐殺事件が全国各地で起きている危険な状況だった 誰も留学為たがら無く成ったのと
唐船が月に何隻も来る様に成った、から 東アジアの律令制諸国家がドミノ倒しのごとく
崩壊しつつあることを道真は察知してたんだよ。
実はもう少しで日本も王朝転覆の危機だったのではないか?
なのに醍醐天皇と藤原時平が律令制回復にこだわった。
道真は失脚したものの、道真を慕う一番弟子の藤原忠平が実権を握って、
律令制からの実質的脱却、田地の民営化推進、
地方武士団の活用等によって体制を転換し、
危機を乗り越えた
894年菅原道真による遣唐使廃止
902年南詔滅亡
907年唐滅亡
926年渤海滅亡
935年新羅滅亡
939年平将門新皇を称す
940年藤原純友、太宰府を攻撃 律令制=社会主義とするのは乱暴かもしれない。
時代も社会構造も異なる。
でも共産主義諸国家がドミノ倒しのごとく崩壊していった様子を想起しちゃう。 >>306
訂正。
藤原純友が大宰府を攻撃したのは939年12月だった。
藤原純友は藤原北家の出で、時平や忠平の親族、
平将門は忠平の家人だったことがあり、
忠平への恩義を持ってた模様。
なので陰謀論の成立する余地あり。 当時、中華の周縁圏で日本、新羅、渤海と「唐型の律令制の建前による周回遅れの古代帝国」が成立していた。
「古代帝国」というのは、秦漢帝国やローマ帝国のような古代的な地域共同体を集積して成立した
広域国家体制で、それが中華周縁では数百年遅れで日本、新羅、渤海で成立していた。
ところが、「古代帝国」は前漢やローマ帝国がそうであったように、その存立基盤として
中華だと邑、地中海世界だと都市国家のような古代的な共同体を必須とするにもかかわらず、
その帝国としての統合によってそういう古代的な共同体を解体してしまう性格を内包している。
日本でも律令国家の内部で9世紀から10世紀にかけて、「クニ」という古代的な共同体が
急速に解体していった。大陸の新羅や渤海ではさらに悪いことに、唐という中華帝国と
北方の草原地帯の遊牧社会が連動して再編過程に突入して流動性を増し、その再編による
軍事的な圧力が直接降りかかってきた。そのため、新羅や渤海は国家体制の中央権力そのものが
解体し、渤海などは新興の契丹による軍事征服までこうむってしまうが、
日本は大陸の軍事的圧力から海で隔離されていたために、9〜10世紀の激動期を
自律的再編で乗り切ることができた。 10世紀は東アジアの激動だな
ベトナムにとっても、初の独立政権ができたのは10世紀
日本だけは、平安朝が崩壊せずに続いた >>310
平安時代といっても10世紀以前と以後では全く別の社会。
貴族の装束でも10世紀以前の小野小町や在原業平の時代には奈良時代とほとんど変わらない格好だったが、
10世紀以後の紫式部や清少納言、藤原道長の時代には「源氏物語絵巻」的な世界に入っていく。
地方社会も10世紀以前にはぎりぎり古墳時代以来の地方首長層が郡司として在地社会を統治しているけど、
10世紀になると彼らが没落して新興の「富豪の輩」、後の「名主」層が動産資本を蓄積して地域社会を名田に再編、
11世紀以降になるとその名田の上位統治機関として国衙領と荘園が成立してそこの現地管理人として武士が地域社会を
統治する時代がやってくる。 確かにな
聖徳太子から在原業平あたりまでは、服装が隋唐の貴族そのものだ
これは、日本に限らず東アジアに共通で、現代でいえば世界中のビジネスマンが英国風のスーツ姿になったようなものであり、それ以外のスタイルはまず考えられなかっただろう
でも、源氏物語の絵巻では、日本独特の服装になっている
一方、中国の側は、唐から宋に代わっても服装にたいした違いはないから、ここで日中の違いが生じた 唐は女性の服装が開放的で、胸の谷間が見えていた
唐を舞台にした中国の時代劇では、「武媚娘伝奇」が「露出度が高すぎる」という理由で当局の検閲に引っ掛かった
しかし、ガチガチの儒教社会だった明では、女性の服装は堅苦しくなる
宋はその過渡期 古代国家から中世社会という変化について、日本はソフトランディングに成功し、
中国はハードランディングを選択した。
唐宋変革とはそゆことか? >>314
古代(都市国家的な地域共同体から成る社会)から中世(武力と生産資本を蓄積した在地有力者の割拠する社会)への
移行だが、中国では北方草原地帯と定住農耕地帯をひっくるめた再編過程になったという側面ではハードランディングだったかもしれない。
でも、日本でも10世紀以降16世紀末の天下統一まで地域社会における武力紛争が絶えることがなかったことをみると、
必ずしもソフトランディングだったとは言えないんじゃなかろうか。 中国が明から清に交代しても、朝鮮王国は続いた
でも、明代と清代とで、朝鮮史は明らかに前期と後期に分けられる
清の苛烈な侵攻で国土は荒れ果て、中国本土以上のハードランディングとなった
日本の平安時代も、唐滅亡を境に、前期と後期に分けるべきであろう
ただし、渤海や高麗と違って、遼から攻め込まれるとか、そういうことはなかった 平安時代の日本が分裂せずにすんだのは、関東が未開拓だったせいもあるだろう
鎌倉幕府ができて、やっと東もそれなりの実力を備えるようになった
一時は天皇を凌ぐ権力を持った藤原氏も、天皇家に取って代わって新たな王朝を開こうとはせず、旧来の体制の中で生きることを選択した 三百年の歴史を持つ唐朝の皇統には、凄まじい権威の重みがあったことだろう
日本の天皇と同じで、簡単に終わらせられるものではない
主全忠も思いきったことをしたものだ 日本史における10世紀の断絶には内発的要因と外発的要因が絡み合っている。
内発的要因は、律令制国家の統一体制の中で旧来の在地社会の首長制共同体が
解体していったこと。
外発的要因は中国大陸との貿易物産が大量に入ってきて日本列島が本格的に商業経済を
受け入れ始めること。
後者は考古学の発掘で古代民家と中世民家の識別に使われるほどで、
10世紀以降の中世民家遺構からは古代民家に見られなかった「生活雑器」レベルの
廉価な輸入磁器がゴロゴロ出土する。これは、この時代から日本が中国で大量に必要とされる
資源を輸出できるようになった事による。
北宋時代の中国の文書にある様に、日宋貿易で真に宋側の利益になる輸入産物は
「硫黄と木材」だった。木材は森林資源の枯渇した中国大陸での木造建築建造に
日本の豊かな森林資源が重宝されたことによる。また、硫黄は沙陀(五代・宋)と
契丹の国境線上の防衛兵器として黒色火薬による火炎放射器的な焼夷兵器が
大量配備されたことによる。 日本に例えれば、天皇家が廃絶され、源平藤橘の公家がいっせいに簀巻きにして大阪南港に投げ込まれたような状況
唐末は、フランス革命をも凌ぐ強烈なハードランディング >>319
日本で磁器を国産化できたのは17世紀のことだから、それまで何百年も輸入し続けていたんだな
磁器だけでなく、木綿もそんな感じだったが 時代進行的に>>320だと始皇帝の天下統一
唐末五代わ武家華族の上級氏族、現代だとアベ麻生その他全てのジミン党大物と大多数の高級幹部官僚が一斉に処刑される感じ >>315
いやいや、ちょっとこちらが言葉足らずだったかな。平安後期→鎌倉は古代→中世、
唐→宋は中世→近世なので誤解を招いたが、
秦〜唐を「古代」とみ、宋元を「中世」と見立てる視点もある。
で、前のレスに菅原道真と藤原忠平の話が出てたが、忠平が律令制社会を上手く転換させたという見方が面白かったので、リツィートしてみた。
近頃の皇室特集番組の多さにも辟易している俺がいるのだが、
唐宋変革のようなパラダイムシフトに伴う旧支配階級の壮絶な滅亡を京都権門は
上手くやりすごしたのが、11世紀後半〜13世紀初頭とみた。
天皇家を始めとする権門(上級国民w)は滅亡を免れた、と。 >>323
>>311の前半部分は正しく、天皇家公家の一部は存続したけど
天皇家の傍系や家職の無い公家の多くは実質的に滅亡した
>>311の後半は誤って居て名主層の成立は早い地域でも以っと遥かに後代で室町時代も中葉以降
あと国衙領や地頭領は統治されたワケじゃ無く暴力団がみかじめ料を巻き上げる縄張り以上の意味を持って無い
東国がそれなりに成ったのわ戦国時代も佳境に入ってから、自前でやれる様に成るのわ江戸時代以降
摂関家や北条家や足利家だと未だ天皇朝廷と切り離されてもやれる様な行政能力を持って無かった >>324
国家の統治者だけ見ていると古代が鎌倉幕府成立まで続いているように見えるんだけど、
在地社会のシステムは10世紀に完全に「中世」に突入している。
「武士」の成立も10世紀だし、地方の武力紛争も10世紀から16世紀末まで続いている。
古代集落はだいたい10世紀に断絶して、国衙領と荘園の従農者集落が新たに11世紀に形成されて、
14世紀末ぐらいまで存続する。
国家の統治者にしても、王朝国家の宮廷貴族として生き残れたのは藤原氏と源氏くらいで、
古代以来の在地社会に権力基盤を持っていた紀氏、大伴氏(伴氏)は貴族から転落して
かろうじて貴族(五位以上)に上がれない下級実務官人でしか生き残れていない。
菅原道真と藤原忠平の権力闘争は、ひとつには古代から中世への社会システムの激変期に
改革実務を担当した貴族官人内の権力闘争であり、宇多天皇の代弁者であった菅原道真を宇多帝の
譲位後に新帝の醍醐天皇と組んだ藤原忠平が醍醐帝の意を受けて排除して宇多上皇の政治介入を
排除した、という側面。もうひとつは藤原氏が準皇族である源氏以外の氏族を貴族層から排除して
中〜下級の実務官人に封じ込めた、という側面が指摘できる。
だから、在地社会のなし崩し的なパラダイムシフトを平安京の指導者層がかろうじて乗り切った
統治パラダイムシフトの時代として、10〜11世紀というのは実は特筆すべき時代なんだ。
ところが、統治パラダイムシフトと並行して文書記録の収集保存体制がガラッと変わってしまった、
つまり、律令官吏群によって定期的に公文書を正史に編纂する体制が「日本三代実録」を最後に
終焉を迎え、貴族の日記をみなが参照して政治に資する体制が確立するまでの間の「同時代史料」が
ほんのわずかしか残っていないらしい。つまり、このパラダイムシフトの時代を実証史学の対象とする
のは、非常にやりにくい、歴史家も研究対象に選びたがらない時代らしいんだな。 >>324
また「わ」さんのファンタジー史論か。
「名主」階級はちゃんと平安時代から存続しているし、この名主の統治する名田が国衙領と後期荘園の構成単位になっている。
国衙領や後期荘園は、名主層が農業経営の契約を結ぶ権利主体としてちゃんと機能していた。
室町後期に台頭してくる「名主」が依然と異質とすると、それは惣などの一揆的結合のリーダーとしての側面が出てくるに過ぎない。 >>325
醍醐天皇と組んだのは藤原時平ね。
忠平は宇田上皇派なんで兄の時平から冷遇されてた。 >>327
そうだ、そっちだった。
ちょっと政治史が不得手な馬脚が出てしまった。 ここは中国史スレなんだから、「藤原氏」でいいよ(笑) で、やっぱり平安初期から中期にかけて進行して10世紀に完了した
古代在地首長階層とその権力基盤の古代的共同体「クニ」の解体と
それを侵食して成長した「富豪の輩」>「名主」層の成長、「名田」の確立
という現象は、中国史で見ると、前漢から後漢にかけて進行した
古代の邑制社会の残滓たる郷里社会の解体と
それを侵食して成長した「豪族」>「貴族」層の成長
という現象と歴史の位相としては一致するんじゃないかと思うんだ。 さらに、中国史では古代共同体を蚕食して成長した豪族が貴族に成長して
国政をも担う存在に成長していくわけなんだけど、
日本史では名主層の上に彼らを統制支配する軍事警察力として武士が成長していき、
やがて彼らが武家政権を打ち立てていく、というのが大きな違いかな。
ただ、上層名主層は常に武士階級への上昇の隙を窺っていて、
鎌倉幕府の立ち上げに頼朝のもとに集った「武士」にもそうとうその階層が入り込んでいたみたいだし、
鎌倉時代の間に発展した貨幣経済をベースに荘園公領制秩序を蚕食した「悪党」という
武装勢力も、そういう上層名主層が深くかかわっていたみたいだね。 >>326
早い時代の名主と遅い時代の名主わ名称が同じでも異質な存在
前者わ豪族、在地領主、開発領主で支配層
後者わ百姓層でムラの有力者、村役人 >>333
「わ」さんよ。
さっきは中世初期には名主層はいなかったと主張してなかったかい?
それから、中世初期の名主と末期の近世色が強くなってくる時代の名主は階層としては連続性もあるんだよ。
中世初期には農業労働者は名田において名主の支配下で働く下僕に過ぎなかったが、
貨幣経済の浸透とともに細々と蓄財をして実力を蓄えた農業労働者が一揆的結合で権利主張を通すようになると、
旧来の名主層も彼らの利益代表としてふるまうように意識転換しなければ生き残れなかった。 「わ」は名主を脳内で「なぬし」と転換し、だらだら書いてしまったのだろう。
で、その後に「なぬし」ではなく「みょうしゅ」だと誤りに気付いたので「わ」? >>335
そうならそうと、素直にそう書けば、こちらとしても一定の敬意をもって遇するのにな。 323だけど、ちょい誰にレスつけていいのかわからんけど、えいっ! >>332
だから(突然やなw)、 そういう「武士階級」の滅亡が唐末なわけだよね。だけど日本の場合わ(伝染ってどーする)
これが19世紀中葉まで上級国民として存続した。 この緩やかさを「ソフトランディング」と表現した。
日本の場合、武士階級の出現と発展は旧支配階級の排除ではなく温存・生き残 りに
最大の貢献をした、 最大の功労者だった、と僕はかねがね思っている。
それが無ければ、京都権門はどこかの時点で滅んでいたんだろうと思う。
天皇制が今日まで続いたのは、日本が日本版「唐宋変革」を回避・ダメージコントロール出来たからだと思う。
と、平成最後の日に相応しいレスをしてみる。 >>337
>>332でちょっと述べたんだが、中国では新興豪族階層がそのまま国家権力に食い込み始めて貴族化していくんだよね。
ところが、日本では新興名主層と中央の権門の間に「武士」という「中間階層」が挟まることで、
社会変動がドラスティックになるのを緩和している。
この「武士」には中央の権門からの出世競争脱落者と新興名主からの上昇組の両方が参加していて、
正に権門と名主の階層的断絶を緩和する役割を果たしている。
こういう風に、中国では在地の新興勢力が直接中央権力に吸い寄せられて中央の権力闘争のプレイヤー化していくんだけど、
日本では中央での権力闘争の脱落者の地方下向と地方での新興勢力が融合して中間層形成が行われるというのが
歴史の中で繰り返されている。
身分的にも、武士の上層部、棟梁クラスは受領に任命されるような中央貴族の末席に属していて、
より高い身分の貴族とも姻戚関係でつながっているのと同時に、一般の地方武士は六位ぐらいまでにしか
丞相できない下級官人(武官)身分で、棟梁クラスの武士と在地の名主クラスの両方と姻戚関係をもっている。
正に、武士というのは日本の社会史の中で層の厚い中間層として機能した、
というところが重要なんじゃないかと思う。 中国と日本の「古代から中世への移行」をさらに比較すると、
日中で古代社会特有の在地共同体の解体パターンが少し違う。
日本では9〜10世紀になし崩し的に在地の首長制共同体が解体しているんだけど、
中国では漢代の豪族の成長による郷里制社会の解体に大きく先立って、
戦国期に邑制共同体の上に君臨していた伝統首長層の「お家取り潰し」、
つまり「廃藩置県」ならぬ「廃国置県」が起きている。
これって、ちょっと近現代の日本にちょっと似ているところがあって、
明治維新に伴って「廃藩置県」によってまず最初に近世的在地政体から君主層が取り除かれ、
その後でじわじわと時間をかけて企業資本による在地共同体の解体が進んでいる。 >>334
連続性わ無いよ
前者わ大部分が朝廷の貴種出身で支配階級、後者わ在地の中で勃興した層
それに中世中期までのムラ上部階級は不安定でコロコロ変わってる >>340
そもそも古代集落が崩壊してから中世後期に近世的な村が萌芽してくるまでの
日本の中世社会ってのは、共同体組織をもった村不在の社会なんだが。
それに、古代社会崩壊の時期に台頭してきた「富豪の輩」という社会階層には、
中央からの下向者と在地社会からの台頭者の両方が混在しているぞ。
そういうのは、平将門の乱の関係者に出てくる坂東の在地有力者の人名から
歴然とわかる。 村不在=名主不在という事
平安末期鎌倉時代に在地上がりで御家人に成った連中は完全な武家で後世の名主と違う身分 >>342
>>332でも述べたけど、基本的に御家人になった地頭クラスの武士は名主のさらに上の支配者だよ。
国衙領の郡司、郷司、保司や荘園の下司に任命されているクラス。
彼らの支配領域である郡・郷・保・荘園の中がさらに名田に細分されていて、そこを名主が支配している。
ただ、戦乱のドサクサで武士階級への上昇を狙った武士とはとても言い難い上位名主層も
頼朝の挙兵には相当規模参入していたみたいだが。
さらに、村という共同体が存在しなくても、名主の存在の必要条件は村の存在じゃなくて名田の存在だから。 だから名主の名称が同じだけで
室町中期以降の庄屋名主層とわ異なる存在
地頭は支配階級でも上の方、御家人は以っと末端まで在った
それ以前に北条家の支配なんてスッカスカのスカだし ご歓談中失礼します
高麗専門の専スレが立ちましたので宣伝に参りました
各地域お詳しい方々とも是非ワールドワイドにお話し出来たらと思っております
ご興味あられましたらお立ち寄りくださいませ
高麗時代史専用スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1556797827/ 近著『世界史とつなげて学ぶ中国全史』を著した東洋史家の岡本隆司氏が、国際政治体制と中国の経済・社会の発展との関係について、歴史家の視点から明らかにする。
世界第2位のGDPを誇る経済大国になった中国。ですが、これは何も初めてのことではありません。
歴史を振り返ると、中国は長きにわたって経済大国でした。それがはじまったのが、およそ10世紀前後、王朝でいいますと宋の時代になります。 学界の用語では「唐宋変革」といいます。唐王朝は遣唐使や唐招提寺などで、日本人にもお馴染み、最も有名な中国の王朝でしょう。
その唐から宋にいたる過程で、中国は未曾有の社会変革と経済発展を経験しました。
まずは石炭・コークスの使用が広まって、かつてない大火力を利用できるようになりました。いわばエネルギー革命です。
これにより、大量の金属を安価に使えるようになって、農具・武具・貨幣が豊富になりました。
その結果、農業技術・土木技術が発達し、水稲栽培も広まって、たくさんの人口が養えるようになります。
6000万だった人口が1億にまで増えました。生産力が向上すると、やがて商業流通もさかんになり、商業都市も発達しました。総じて経済が飛躍的に成長したのです。 時代は、乱世でした。唐の政権が崩壊したのち、それに代替できる新たな政体が、なかなか確立できなかったのです。
社会経済は確かに、長足の発展を遂げました。しかし政治外交では、混乱が続きました。各地の割拠勢力がせめぎあったのに加え、
北方を支配する遊牧国家の契丹が、強盛を誇っていたからです。
10世紀の末、黄河流域から南方各地の勢力を併せて、中国の主要部を統合したのが、宋王朝です。
変革した社会に応じた安定政権が、ようやく登場した観があります。実際、この宋は南北あわせて、300年の長命を保つ王朝になるのです。 しかし、宋にとっても、契丹は最大の軍事的な脅威でした。「唐宋変革」の経済発展によって、経済力は圧倒的に上回っていましたが、軍事力ではかなわなかったのです。
対抗措置として各地方に軍事を委ねる手もありましたが、そうすると政治的には以前の割拠状態にもどって、バラバラになる懸念がぬぐえません。
そこで中央政府が軍事力を集約して、シビリアンコントロールを徹底しました。ですが、その状態を維持するには、軍事力そのものを抑え込んでおく必要がありました。
そのため、宋は有力な騎馬軍を持てなかったといわれています。実戦では契丹の騎馬軍に押される一方、攻めこまれて負けたり、逆に攻めこんで負けたりもしました。
こうした状況から、宋は漢・唐などと違い、歴史上、最も小さくて情けない時代だったと評価されることがしばしばです。しかしそれは一面的な見方ではないでしょうか。 やはり当時の感覚をもって、大所高所から事態をみる必要があります。そうした視点からは、宋代はむしろ最も豊かで、平和な時代だったと思います。
なぜなら、決定的な軍事攻撃を受けないように、隣国と共存を図る工夫を施していたからです。端的にいえば、豊富な経済力を使って、契丹を籠絡したのです。これを「澶淵の盟(せんえんのめい)」といいます。
隋の時代に、江南から黄河流域にかけては、物流の幹線として大運河が造られていました。ただし運河と川とでは、かなり高低差があるので、合流する前に船は運んできた積荷をいったん降ろして、積み直す必要があります。
その物資の集散の拠点となったのが、運河と黄河の交叉点にある開封という都市で、唐が亡んだ後の「五代」から宋の時代にかけて、首都になっていました。
唐の首都だった洛陽や長安は、山奥の盆地にありましたが、首都は官僚など純消費者を最も多く抱えていますから、「五代」も宋も効率や経済を優先したわけです。
それに軍事面でも、徴兵制で屈強の兵士を集めるなら、山奥のほうが有利だったかもしれません。しかしお金で兵士を募集雇用するなら、経済都市のほうが便利です。
その開封の北側にあるのが、澶州と呼ばれる都市でした。「澶淵」とは、澶州の古風な言い方です。
もしここを外敵に攻めこまれて黄河を渡られたら、開封はたちまち陥落します。そんな要衝だったのです。
実際、契丹は澶州を陥れて、開封を攻略したことがありました。その際は支配に失敗して、北方に撤退しましたが、あらためて攻めてこない保証はありません。宋代にも実際に、侵攻してきました。
そこで宋政府は、契丹と講和する道を選びます。契丹が南下してきた際、天子の真宗皇帝をこの地まで担ぎ出し、
危険性を認識してもらったうえで、最終的に決断を仰いだのです。それが「澶淵の盟」です。時に1004年のことでした。 この講和で取り決めたのは、まず対等の交際をするということ。宋が兄、契丹が弟という関係です。宋は軍事的に劣勢ですが、メンツを保つことにこだわりました。
そもそも皇帝は天子であり、天子は漢語的にみれば、天下に1人しかいないはずですが、契丹皇帝と宋皇帝が共存することになりました。
もっとも、儒教や漢語の知識水準の高い宋の人々にとって、これは屈辱的な話です。
また、宋から契丹に対して、毎年絹などが贈られることになりました。これを「歳幣」といいます。両者の間には格段の経済格差があるため、これはある種の経済援助のようなものと考えることもできます。
しかし、攻められないための貢ぎ物と捉えることもできるため、やはり宋の側では屈辱的と感じる人が多かったようです。
とはいえ、これによって契丹がいつ攻めてくるかわからない、という状態は回避されました。契丹としても、軍事力を使わずに宋から物資を得られるので、文句はありません。
つまり、遊牧国家の軍事的なバックアップを得たうえで、経済発展を続ける体制を築いたわけです。軍事・政治と経済文化の分業・共存を確立したともいえるでしょう。 この講和で取り決めたのは、まず対等の交際をするということ。宋が兄、契丹が弟という関係です。宋は軍事的に劣勢ですが、メンツを保つことにこだわりました。
そもそも皇帝は天子であり、天子は漢語的にみれば、天下に1人しかいないはずですが、契丹皇帝と宋皇帝が共存することになりました。
もっとも、儒教や漢語の知識水準の高い宋の人々にとって、これは屈辱的な話です。
また、宋から契丹に対して、毎年絹などが贈られることになりました。これを「歳幣」といいます。
両者の間には格段の経済格差があるため、これはある種の経済援助のようなものと考えることもできます。
しかし、攻められないための貢ぎ物と捉えることもできるため、やはり宋の側では屈辱的と感じる人が多かったようです。
とはいえ、これによって契丹がいつ攻めてくるかわからない、という状態は回避されました。契丹としても、軍事力を使わずに宋から物資を得られるので、文句はありません。
つまり、遊牧国家の軍事的なバックアップを得たうえで、経済発展を続ける体制を築いたわけです。軍事・政治と経済文化の分業・共存を確立したともいえるでしょう。 当時、宋の周辺にあった国は契丹だけではありません。そこで宋は契丹のみならず、北西部に位置する遊牧国家の西夏などとも、似たような関係を築きました。
これが奏功して、宋の体制は政治的にも経済的にも安定しました。これを学界では「澶淵体制」と呼ぶこともあります。一種の多国共存体制といえます。
概して中国というと、いわゆる中華思想で、自分以外の対等な存在を認めないようなイメージがあります。
しかし主観的な記録や史料の記述はともかく、客観的に見て、そういうイメージがそのまま現実だった時代は、むしろ特殊でまれでした。
多くの時代は複数の国・勢力が併存して、共存を図っていたのです。
・・・英語圏の研究者は、こういう状況を「China Among Equals(対等者の中の中国)」と称しています。
・・・宋代はいわゆる「澶淵体制」のもと、経済大国になって繁栄を享受し、文化を発展させました。その様相は国際関係の平和のもとで、経済成長を続ける現代中国と似ています。 シルクロードの諸民族は、唐を「タクバツ」と呼んでいた
後世から見ると「中華」だが、同時代の人々にとっては「タクバツ」だった 唐がインドやペルシャから受けた文化影響は、日本が唐から受けた文化影響に匹敵するほど大きかった 明・清の時代(1368〜1911年)の500年あまりの時期は、中国の封建社会が没落していった時期である。
この時代の封建政権は、政治的には非常に専制的な形を取り、意識形態に関しては仏教と道教を融合した儒家道学(理学や心学を含む)を尊重し、外交に関しては鎖国の政策を取った。
鎖国・愚民の政策をとる強権政治の下では、国内に新しい階級が起こることもなく、国外から異文化を導入することも難しかった。 だから、この閉鎖的な社会体制には停滞と腐敗の趨勢が現れた。
明代の市民社会はにぎやかで、ある程度の商品経済の発達やいわゆる資本主義の芽生えが見られたが、階級による搾取や圧迫はかなり酷で、人民は屈辱や困苦の中であがくばかりだった。 明代の皇帝・大臣・豪商・豪族は大変ぜいたくな生活を送り、淫らに婦女を弄び、退廃的な者が非常に多かった。
明の憲宗朱見深は万貴妃を寵愛し、房中術を習い、大臣・道士・僧侶たちが競って房中の秘方を献上すると、よく信任した。
明の武宗朱厚照は特に荒れすさみ、宦官の劉瑾に俳優や音楽・女色を集めさせ、宮中での遊戯には度がなかった。
彼は西方の異民族の僧に房中術を習い、のちには淫薬を服用し、一日に十数人の婦女と遊んだ。明の世宗は道教を信奉し、道教の方術を性交の技法の助けとして用いた。
当時の社会的に淫らな気風は、房中術の研究や発展を促進しただけでなく、道教の外丹術や内丹術にも影響を及ぼした。 明代の社会には厖大な市民階級が形成され、商品経済も発達した。豪商や官僚地主は百万の資金を集め、妻妾奴僕は群れをなし、派手な生活を送った。
皇帝が官僚地主の典型だった。このような社会現実は人々の価値観を変化させ、人々は現実の利益を追い求めることに励んだ。
これは宗教文化の観念にも反映した。経典・書籍・教義・理論を研究し、真面目に苦行に励むような気風は一変した。
儒生は八股文によって科挙に合格し官位や禄にありつくことに熱中し、僧侶は簡単な三界輪廻・因果応報などの善行を勧める説教によって布施を乞い、道士は占卜推命・療病禳災・黄白丹薬などの方技術数によって生計を立てるだけだった。
人々が利益に群がった明代の社会的な気風と商品経済の価値観によって、伝統文化の構造はねじ曲がり、人々は高尚な情操を失い、極端に享楽や肉体的な刺激を追求するようになった。 明帝国は暗黒の王朝だったんですか?
黄文雄の著書によると、明帝国(教科書によっては明王朝、明朝)は、
中国人の残虐性、卑怯、不正、汚職などが最も表現された王朝だと、
紹介されてました。本当でしょうか?
名前は「明」だから、公正で民主的な国民に
支持された帝国だと私は思ってました。
皆さん誰か知ってますか? 明はよくも悪くも現在の中国のメンタリティーの基本となった王朝です。
それまでは貴族が経済や文化などすべてを担い科挙で官僚になった階層が地主として支配体制をとっていました。
それが元などモンゴルの支配を経て社会が変わりさらに明は官僚地主層を利用しつつもきつく統制したのです。
皇帝独裁というもので科挙から及第して高官となった大臣よりも皇帝の側近が政治を動かしていくのが明の政治の大きな特徴でした。
このため能力がある皇帝なら善政なのですが出来が悪いと側近の操る暗君が出てしまうなど明暗分かれたのです。
しかも明の賢帝の治世は短く歴代は無能な皇帝が多かったのです。
官僚の給与も安く抑えられ職権を利用して取り立てる不正が常態化するなどしたのです。
明があまりにも残虐というのは一面的だと思います。
商業は民間で発達し科挙や政治に失望した知識層は文化を担う経済力を身につけた民間に文化を伝播しました。
三国志演義や水滸伝、京劇などの演劇は明の時代になって定着したものです。
官僚が最高の知識人であった古代の王朝と在野で生きる文化人の明では質が違うのだと思います。 様々な面で明帝国は今の日本のベースだからな汚くも悪くも 「唐は日本にあり、明は韓国にあり、中華民国は台湾にあり」 宋はベトナムにあり。
だそうだ。
唐朝在日本、明朝在韓国、宋朝在越南。 >>365
アオザイ姿を見ると、清の服装みたいだけどな。
ベトナム人が頭にかぶってる傘も、清の役人みたい。
どっちかっていったら、「清はベトナムにあり」なんじゃないの? これで、満州国が併合されずに独立が続いていたら、「清は満州にあり」と言われたのは間違いない。
それを思うと、かえすがえすも中共併合が残念。 負けた日本が一番悪い
日本人は帰国すればいいけど満州国に協力した現地人は漢奸として処分されたからな 満洲旗人の正装と言ったらドラゴンボールのゴハンやキョンシーみたいな格好だけどな
それ以前の明代の服装は文武百官から庶民に至るまで団子型のマゲに簪さして網巾というNARUTOのニンジャのバンダナみたいな奴をつけるのが一般的
韓国歴史ドラマに出てくる李朝時代の人々も大体似たような服装してる >>369
李朝は明朝に「衣冠制度をパクらせて下さい」と申し出て、最初に了承された国だから似てて当然。
それ以前は宋朝系の服装だった。後にベトナムや琉球も追随した。
(本来の冊封体制は朝貢を求める体制であって、必ずしも服装まで真似ることは求めてない。) 君は現代日本人が縄文人みたいな格好してるのがお好み? >>370
清朝の世になっても、朝鮮は明朝の様式を守り続けた 『世界史B』(東京書籍)で、宋代の社会について次のような記述が見られます。
「石炭の使用も普及し、鉄・陶磁器・絹織物・紙などの生産が向上して…」(133頁)
中国では漢代から石炭の存在は知られていたようですが、
山林の木材が豊富にあったため、石炭を燃料に用いる必要がありませんでした。
しかし、山林資源が尽きてなくなってしまったため、唐末頃から石炭を燃料として
利用するようになりました。
唐末の逸話には、「煉炭」、つまりコークスの記述が見られます。
コークスは無煙で火力が強いものですが、
逸話では接客のためにコークスで飯を炊いたことが書かれます。 宋代に入り、南宋初期に書かれた史料に次の記述が見られます。
「昔は?都(開封)の数百万家、尽く石炭に仰ぎ、一家として薪を燃やす者なし」
この記述から、北宋の首都開封では石炭が人々の主要な燃料となり、
消費量が相当であったと推測されます。
開封が最大の石炭消費地ではありましたが、華北地方のいたるところで
石炭が使用されていたことが別の史料からうかがえます。
「北方に石炭多く、南方に木炭多し。而して蜀に又た竹炭あり」
(南宋の陸游『老学庵筆記』巻一) 石炭の普及により、中華料理の火力は大きく変わった。
それだけではない。
石炭による火力革命は、製鉄が容易になり鉄器が広く普及するなど大きな変化の一つだった。
鉄製の農具は生産力を向上させ、鉄の武具は宋軍の攻城戦の粘り強さやモンゴル軍の征西にも影響を与えたようだ。 唐と宋の文明には、大きな段差がある。
石炭と鉄による産業革命が、西欧に先立つこと数百年にして起きた。
中華料理も宋磁も、石炭の火力なくして、あり得ない。 四千年間、世界文化の先頭に立っていた西アジアは、その文化の先進性の故に、西アジアの自然を収奪し過ぎた結果、
地力の消耗を来たして、少なくも十世紀頃になるとその文化・社会に一種の行き詰まり現象が現れてきたと思われる。
地力の消耗の中で特に著しいのは森林資源の枯渇である。(・・・)燃料の不足は生産活動を拘束する。殊に金属の生産を阻害すること甚だしい。
西アジアにおける金属加工品、精製品の名声は、どうも西アジアに金属地金が豊富であったためでなく、少量の輸入地金を最大限に加工費をとって再輸出せんとする努力の表れと見られる。
古い歴史によって支えられた高度の技術を持ちながら、西アジアの産業はともすれば、次第に土地から浮きあがろうとする不安を蔽うことが出来なくなった。
(宮崎市定 『宋代における石炭と鉄』) 西アジアを停滞に陥れた燃料問題が、中国に於いては巧みな解決を遂げ、いわば燃料革命とも称すべき文化の発展が見られたという事実である。
唐末から宋にかけて石炭の利用が普及し、これに伴って万般の生産が刺激され、夥しい物量の算出が可能となり、その物量を土台としたのが宋代の新文化であったのである。
宋代文化の高度性は、単に精神的なものでなく、豊富なる物量を背景にして始めて可能であったと言える。
・・・石炭は、製鉄に利用されたのみならず、また製陶にも用いられた。
そのことは『宋会要』食貨巻五十五、窯務の条に・・・とあり、在京の陶磁製造所では、その燃料に薪と石炭を併用したのであった。
華北における製陶の中心はいうまでもなく磁州であり、磁州焼が普及した結果、「瓷器」に代って「磁器」という言葉が用いられるようになったほどである。
さて磁州は鉄鉱と共に石炭を産するので、製鉄の要地でもあるが・・・特に在京窯務は宮中用の上製品を製作しなければならなかったので、石炭を避けて薪に頼ることにしたかったのであろう。
しかし磁州のような大衆器物には石炭が盛んに使用されたと思われる。 石炭の普及と、それによる鉄の大量生産。
まさしく、千年前の産業革命だった。
でも、困った副作用も起きた。
ヤジリに動物の骨を使ってた、野蛮で原始的な北方の狩猟・牧畜民族が、大量の鉄製の武器を手に南下してきたのだ。
モンゴル帝国が世界制覇したのも、この産業革命なしには考えられない。
数百年後のイギリス帝国と同じだ。 シリアとかイラクは抑々利用可能な土地狭いよな
イタリアの諸都市国家が没落したのも同じ理由 >>381
メソポタミアやシリアは、文明が発達した頃には一肥沃な平地が広がっていたわけなんだけど
あと、イタリア都市国家の利用可能面積狭いってなんの冗談だ
アマルフィとかジェノヴァ固有の状況を全体と勘違いしてないかね? ミラノもサヴォイアもジェノアもスペイン帝国やフランス王国やドイチュより狭い >>383
フランスはともかく
中世から乾燥地帯で高度な灌漑設備がなければ後背地を取れないスペインや、森林地帯が多く領地が細分化されて
より細かく分裂していたドイツと比較して、イタリア諸国家の都市後背地は決して狭くないわけだが
特にミラノ、ヴェネツィア、ボローニャ、ナポリ、ローマは広い上にきわめて豊か スペイン帝国は全土で農業や牧畜の行われていた広大な領域国家
ドイチュは分裂して無い統一国家
イタリア諸都市国家わ所詮都市国家 >>385
ドイツが分裂してないってどこの異世界だよ…… >>384
>特にミラノ、ヴェネツィア、ボローニャ、ナポリ、ローマは広い上にきわめて豊か
ここ笑わせるための冗談か?
ジェノヴァ、ピサ、ヴェネチアが黒海貿易に拘ったのは何故か分かるか?
増えすぎた人口を養うための穀物を自前でどうにかできなくなったからだろうが >>388
だから、ジェノヴァとピサはあげてないだろ
ジェノヴァ、ピサ、アマルフィは後背地ほとんどない
ヴェネツィアは例外、海外交易に乗り出した頃は本土に領域ほとんど持っていなかったが、気がついたら領域国家になっていた(よって後背地広大、それもポー川流域で豊か) ヴェネツィアについて追記すると、17世紀中頃にクレタを失い、海外交易の力を失ってもイタリア内の強国として
生き残ったのは、本土における後背地での農業に主幹産業を切り替えたからでもある
ジェノヴァとの運命を分けたのも、本拠地における後背地の有無という地勢的要素もある(勿論政治的要因も大きいが) イタリアの半島部はたしかに狭苦しい山岳地帯だが、北イタリアのポー川流域は広大な平野で、欧州で最も肥沃な最良の地 中国でもアラビアでも、古代には豊富だった森林資源が、中世には枯渇した。
そこで、宋では石炭へのエネルギー革命が起きたわけだが、アラビアは衰退が始まった
それは分かるんだが、しかし、そこで「石油資源の活用」ってわけにはいかなかったのかねえ? >>392
石油って精製が必要だし、近代以前だと運搬・保管の問題もあるし、採掘も石炭ほど簡単ではないからね
照明用としては使われてたみたいだよ? >>389-390
西欧の市場から締め出されたからなヴェネツィアもミラノも
強大な強制力を振り翳すスペイン帝国フランス王国ハプスブルク朝ドイチュエゲレスに政治的な介入を受けて >>395
時代も大きく違うから単純な比較はできんけど、世界経済における存在感で言うならば宋の方が圧倒的だろうな
他が相対的に未熟または没落してたので 単に稲作と麦作の生産力の違いを表してるだけの数字
中国とかタイやベトナムとヨーロッパを比べても似たような結果になる BS11 で今日から放送
中国時代劇「隋唐演義 〜集いし46人の英雄と滅びゆく帝国〜」
【9月3日〜】
毎週月〜木曜日 よる7時00分〜7時55分
https://www.bs11.jp/drama/zuitouengi/ これ、見始めたのだが、歴史よりはアクションばかりが目立つ。
あほらし。
もう見るのやめた。 去年チャンネル銀河でやってたの見たわ、中盤ちょいちょい見逃したけど 宋代のことは詳しくないんだけど、宋代の皇帝の権力は強かったと言う割に始皇帝や洪武帝のような専制君主はいないよね?
イメージとしては、皇帝以外は比較的相互の抑制均衡が利いていて、
皇帝も普段は下から上がってきた政策を承認することが多くて、
「君臨すれどもたまに統治するだけ」みたいなイメージがあるんだけど、
ちょっと好意的に見すぎかな?詳しい人教えてください。 隋唐演義はファンタジー時代劇だ
「歴史」を期待してはいけない >>396
どうかなあ
宋のGDPが大きかったのは分かるが、同時期にイスラム帝国がある
人口が多いだけに経済規模は宋が上回っていただろうが、世界経済における存在感がそれだけで決まるものではない。
国際貿易や国際金融ではアラビア商人の存在感があまりにも大きい >>409
当時アッバース朝が大幅に衰えて地方に分断されつつあった時代で、その頃のイスラム帝国が宋に対抗できる経済影響力を備えていたかと言われると、明確にノーだな >>410
宋とインドの貿易でさえ、アラビア商人が担っていた >>412
個としてのイスラム商人の活躍は、イスラム国家の影響力を意味しないし、そもそもアラビア商人より、イラン(ペルシア)やインド 周辺のイスラム商人の方が勢力持ってたりもしたんだが
宋=インドシナ=インド の交易は、担っていた民族の多様性(インターナショナルと言い換えてもいい)が特徴 >>412
意味不明
インド東岸までが主な中国商人の商圏でジャンクの世界,インド西岸までが主なアラブ商人の商圏でダウの世界 漢民族が無理なく統治できる領土は宋が限度
中共も戦線縮小しろよ 宋はそれまでの王朝よりもベトナムや西域を失って縮小したように見えるが
実際の漢民族の居住域はそれまでの王朝よりも拡大してはいたんだろうな >>417
広東省が「中国」らしくなってきたのは、この頃 宋が失った領土の中で最も重要なのは、やはり北京
北京なしで統一王朝といえるのか? >>419
北京なんて街は宋代にはないけどね
燕の故地は確かに漢土の一部だけど、不可欠かというと微妙な疑問符 タラレバだけど、後周世宗が急逝しなかったら、燕雲十六州は取り戻せたのだろうか。 >>409-414
アラビア経済圏も大きいが意外なことにインドの経済が大きい。
英国の経済学者マディソンの推計によると、西暦1000年のGDPは
1990年時点のドル換算(単位100万ドル)でみて下記のようになる。
インド 33,750
中国 26,550
西アジア 12,415
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_regions_by_past_GDP_(PPP)#1%E2%80%932008_(Maddison) ちと亀レスだが、マルコポーロの東方見聞録でも南宋の都の風呂屋で
「燃える石」を焚いて湯を沸かす記述があったな
しかしモンゴル、あるいは遥か昔の匈奴の鉄器生産が、石炭によるものとは驚き
あんな草原地帯でどうやって燃料を調達したのか、と思ってた
あるいは鉄の精錬用に木を伐り過ぎて森林が失われたとか 山西省の炭田は、地表に露出してるからな
古代人でも、黒い石が燃えるのには気がついただろうよ 確かに黄土高原は石炭の大産地だった。
石炭の使用が広まり中華料理が火力を駆使した炒め調理が中心になったのは明代以降か >>427
レパートリー全体の比率でどうかという面はあるけど、
コークス火力を調理に応用するようになったのは宋代からというね
あと、南宋期に、南北の食文化が混淆したという事情もあるそうな >>26
イギリスやフランスもなかなかキツいだろ
アイルランドのじゃがいも飢饉は19世紀だし 中公新書
「唐―東ユーラシアの大帝国」
森部豊 著
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2023/03/102742.html
六一八年、李淵(高祖)が隋末の争乱の中から、唐を建国。太宗、
高宗の時代に突厥・高句麗を破り、最盛期を築く。武則天、玄宗の
治世は国際色豊かな文化を生み、大帝国の偉容をほこった。安史の
乱以降は宦官支配や政争により混乱し、遊牧勢力と流賊の反乱に圧
され、九〇七年に滅亡した。本書では、歴代皇帝の事績を軸に、対
外戦争、経済、社会制度、宮廷内の権謀術数を活写。東ユーラシア
帝国二九〇年の興亡を巨細に描く。
初版刊行日 2023/3/22
判型新書判 ページ数400ページ
定価1210円(10%税込) >>420
北京大名府(魏州)
東京開封府(開封)
西京河南府(洛陽)
南京応天府(商丘) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています