唐宋変革期4
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まとめ
唐と宋で、何が変わった(と考えられている)か
1.門閥貴族の時代が終わり、科挙に合格すれば誰でも士大夫階級になれる時代になった。
2.貨幣経済が発達し、商売に成功すれば誰でも金持ちになれる時代になった。
3.加持祈祷に熱狂する密教ブームが終わり、合理的な新儒教の啓蒙思想が台頭した。
4.群雄割拠の武断支配が終わり、科挙官僚が全国に赴任する文官統治システムができた。
5.五代十国の分裂期に各地が独自の発展を遂げた。
↑ とりあえず、「宋の驚くべき近代性」としてよく挙げられるのは、おもに上の5つ 基礎知識
足軽は武士の最下級で身分兵
一時雇われの兵卒は雑兵、西欧でいう傭兵
小身の在地領主が徐々に城下詰めに成ったのわ秀吉時代、天正末期以降 中国・韓国の、技術や職人を軽視する伝統は、朱子学に由来する
宋では、まだ朱子学が浸透してなかったせいか、三大発明を始めとする大幅な技術進歩が起きた 元々職人や科学は軽視でしょ
科学者、技術者で高官に登ったの歴代でも少数だし 大草原を疾駆する遊牧民からすると、農耕や工芸をやってる連中は、下働きの奴隷階級に見えるんだな。
中国・韓国の支配階級は、遊牧民とその子孫なので仕方がない。 日本も有名な輪島の漆工とか経済的にはどんなに裕福でも水呑み百姓と同格とされ
田地を耕さないものには発言権がなかった
中国も基本は士農工商のお国柄なのでモンゴルとか遼とか例外を除けば
職工の地位は低い モンゴル人は職人を優遇してたんだな
てことは、職人軽視は農耕民の発想か? ギリシャ人もローマ人も職人軽視
中国もだけど軽視というか政治的な発言権が低いよね まあ、儒教思想の影響だわな。
豊臣秀吉の朝鮮戦役のあと、日本に来た朝鮮人の陶工は、帰国せよとの朝鮮宮廷の呼びかけに応じず、日本で作陶する道を選んだ。
職人蔑視の朝鮮より、日本のほうが遥かに制作環境が良いのだから、当たり前だった。 武家王朝は自前の職人集団が家の中に居無かったからな あと、幕藩体制で、藩が外貨獲得のため産業振興策を必死でやってた
なんといっても、これが大きい 「日本が朝鮮人の陶工を連れていって、磁器生産をやらせた」とは、よく言われるところだが、実際のところ、これは日本の国家事業ではなかった。
これは、鍋島藩の事業。 鍋島藩が磁器の生産に成功したと聞いて、各藩はその技術を狙っていたが、なかなかガードが固かった。
ついに、尾張藩の瀬戸が産業スパイを送り込むことに成功した。
しかし、それは19世紀初頭のこと。それまでは鍋島藩の独占事業だった。 朝鮮日報でも、「なぜ朝鮮の磁器は、有田焼のような世界的名声を得られなかったか?」
という記事で、朝鮮は職人蔑視の国なのに、肥前には李参平を祀る神社があると書かれた。
朝鮮王朝は財政悪化で官窯を維持できず廃止したのに、肥前の鍋島藩は、役人の数を大幅カットする財政改革に乗り出し、そのカネを産業振興に注ぎ込んだと指摘。
朝鮮日報は、非常に残念そうな論調だった。 国庫に入る税金の数倍もが租税の名目で徴収されてますがな それわ幕藩も似た様なもん
近代間近にも成って日本列島という肥沃な土地で餓死者大量に出す程の
外国人から異常と評された超重税を課してたんだから >>27
平野に関していえば、非常に肥沃だ。
平野が狭いというだけで。
しかし、狭いというのも大陸と比べての話であって、朝鮮半島には日本のように広大な沖積平野があるわけではない。 宋では、農民が作物を換金して銭納するのが普通に行われ、明では銀納に一本化された。
それを思うと、貨幣経済の浸透ぶりが凄い。 宋帝国が税率12%で歴朝最軽
元帝国が税率20%で最重、暴政と言われてるのに
四公六民で善政!
平然と五公五民とか言うとるしな 薩摩藩は、人口に占める武士の比率が、妙に高かったんだよな 抑々武士人口多過ぎだしな
満蒙族優遇の為に官員比率が突出して高かった清朝ですら
人口4億で旗人と官員合せて約200万人なのに
人口3000万人の徳川朝が武士人口200万人とか気が狂っとる
而も2千万人前後が農奴や奴婢とかいう階級格差開き過ぎ社会という >>35
それは格差というより、都市化の進展の度合いの違いだろ
シナには農村の土人が異常に多いというだけ シナは人口が多すぎて狭苦しいので、1人当りでの貧しさはどうにもならない >>36
徳川朝時代の日本人の3/4は農民だよ
その半分以上が農奴、東北九州だと9割農奴 シナでは、今でも市民と土人を戸籍で区別し、公然と身分差別をやっている
士農工商を廃止して150年たち、もはやそんな概念すら残っていない日本とは、そこが大きな違い >>38
「徳川朝」なんて変な用語、小学校6年生でも使わないぞ(笑) >>38
逆だよ。東北・九州ほど、兵農分離してない兼業武士が多かったため、士族の比率が異様に高い。
陸奥では、4人に1人くらいが士族。
薩摩では、広義には人口の4割が士族。
いつものことだが、日本史に関するお前の認識は、本当に狂ってるな。 >>41
小学校で国語の授業受け直した方が善いよ
>>38でちゃんと農民のxx以上が農奴、と阿呆でも読解出来る様に書いてる >>40
天皇家を否定するためにあえて
徳川王朝や足利王朝という言葉を使うんだよ >>42
だから、「農民の9割が農奴」という認識がおかしいと言ってんだよ。
むしろ、辺境の藩ほど、武士と兼業してる農民が多かった。 >>43
だとしたら、日本史がまったく理解できてない >>44
オマエが無知で認知障害なだけ
農業もやる武家わ武士
東北九州じゃ農民の9割が農奴、小作人、名子で名主、本百姓、小百姓は1割 >>41
東北地方に佐藤やら加藤やらの武士に由来する名字が多いのは、
もともと武士が多かったからだろうかな
またスレ違いのキチガイか うちは家老の私領の半農半兵だな
まあでも武家上がりは良くやったよ
倒幕勢力かつ後の軍隊官僚教師警察、軍の暴走への牽制 Episode 有能であったが敵も多かった王安石
王安石は一度目を通したことは終身忘れず、飛ぶような速さで筆を運びながらその文章は精妙を極めたという。
19歳の若さで即位した神宗はそのような王安石を信任し、王安石もそれに応えて改革を断行した。
しかし、自分の才能をたのみ、先輩・同輩の忠告をいれない態度はいたって不人気だった。
王安石は「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難された。
天変地異も畏れず、太祖以来の宋の法律を守ろうとせず、時の人の批判に耳をかさなかった、というのである。
<貝塚茂樹『中国の歴史』中 岩波新書 p.152> 王安石の改革を総称して「新法」といい、それを支持する一派を新法党と言った。以下に「王安石の新法」の主要な内容を挙げる。
青苗法 春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に2割または3割の利子を付けて返還させる貸付制度。農民の生産力を高めるとともに政府の財源確保をねらった。
均輸法 農民の生産する物資を都に運ぶ際、輸送費・中間費用がかさんで値が上がることを防ぐため、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ること。
物価の安定と流通を図ったものだが、旧来からの大商人は転売の中間利益を得られなくなるので反対した。 実際のところ、王安石の新法で、宋の貧困な農民は、どれくらい救済されたか? 新法運動はさまざまな政策を内包していたが、最も有名でかつ影響力の大きかったものは青苗法といわれるものである。これは貧農の救済のための政策で、国が低利で農民に貸し付けを行うものであった。
当時は地主や豪族が高利で農民に融資をし、その結果多くの農民がその返済のために困窮していた実態があったので、この政策には革新的な意義もあったのである。 旧法を擁護する者たちが反対の根拠として持ち出した理屈は、怠け者の農民を国が救済する必要はないというものだった。
彼らはどうせ金の返済をせずに逃散するだろう、すると金持ちが穴埋めをさせられる羽目になり、貧乏になるだろう、
そのうち国中が貧乏人だらけになるのは目に見えているから、新法はけしからんという言い分だった。 >>46
そもそも日本を含む東アジアに農奴なんていないが
農奴は土地を縛り付けた西欧に特有の法的身分だが東アジアには生産階級を土地に固定する法概念が存在しない
それを踏まえて現代では宋の佃戸とか日本の被官百姓のような隷農は「農奴」ではなく「農奴的立場」と言い換えるようになっている 農奴には、恋愛・結婚・妊娠・出産の自由無し
転居の自由無し
栽培作物を決める自由無し
栽培を失敗する自由無し
作物を自家消費する自由無し
自分の労働時間を決める自由、休息の自由無し
病気になる自由、死ぬる自由無し
墓を造り、墓に入る自由無し
:
: 農奴は領主様に死ねと命令されるまで死ぬことが許されない階級なので
5、600歳生きる者もザラでした >>57
まあどちらも農奴と違うんだけど
佃戸わ農奴と大分違うが幕藩体制下の小作、名子に成ると
農奴じゃ無いが強固な封建社会なのもあって農奴に当て嵌まる要素が多い >>57
少しわ日本史を学ぼうな
日本人は百姓すら土地に固定、逃散は犯罪
小作人は略々農奴と変わら無い存在で唐代迄の奴婢と同じ、佃戸とわ違うよ >>62
いや、それはまったくの誤解、というより歪曲だ。
むしろ、江戸時代には自立した本百姓が増えた。 青苗法
せいびょうほう
Qing-miao-fa; Ch`ing-miao-fa
中国,宋代の農民への低利資金貸付け法。王安石の新法の一つ。煕寧2 (1069) 年施行。これまで農民は植付け前に食糧や種籾に不足し,地主から6〜7割,ときには 10割の高利で,資金を借りていた。
青苗法は,農民をこの高利から解放するためのもので,常平倉から穀物または2割の低利で金銭を貸出した。
正月の貸出しは夏,5月の貸出しは秋の収穫期に,金銭もしくは穀物で返済させた。
新法中でも青苗法に対する地主側の反対は最も激しかった。 >>63
室町後期頃から開発の進んでた地域で本百姓が増えたけど
こちらわこちらで農家から弾かれた次男以下が都市で
産業化初期の英、独、蘭、瑞の労働者並に悲惨な町人に成ったしな 現行日本国は完全な中世だな
法を犯しても貴族は刑4等減じられる
唐帝国より未開野蛮な国、それがアベ朝日本国 >>66
貴族制度は70年前に廃止されましたが?
日本国憲法第14条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。 >>62
また性懲りもなくデタラメ書いてるな
「天聖令」にある「捕亡令」って一体どういう意味か分かりますか?
中国は戸籍で人口動態をキッチリ管理してのだから上は三公から下は佃戸まで移動の自由なんてないですよ
これは今でも変わらないですね
https://mainichi.jp/articles/20160320/ddm/003/070/134000c
> 都市(非農業)戸籍、農村(農業)戸籍を区別し、出生地からの移動を厳しく制限しています。戸籍地でなければ教育、医療保険(いりょうほけん)、年金などの公的(こうてき)サービスを原則として受けられない仕組みです。 http://www.hagongda.com/shushoku.html
>中国には、「都市戸籍」と「農村戸籍」という戸籍制度があり、
>農村戸籍を持つ者は都市へ引っ越しできません。
>農村戸籍だからと言って農業をしているとは限りませんが、農村戸籍は進学、
>就職、結婚へとつきまといます。中国は階級社会となっています。 共産主義は平等な筈なのに支共も北朝鮮も国民を生まれながらに差別する階級社会という矛盾 どうでもいいが、双方日本語でかいわしてくれないかなぁ >>66
医療先進国の日本では、
水銀を「不老不死」の丹薬として処方しない 唐宋の頃には、日本より中国が先進国だった
明の頃には日本が追い付き、清で追い越した 宋が中華文明の絶頂期であった
その後は、失われた千年の下り坂 >>76
確かに宋の文化大国ぶり、言論の豊かさは凄い。
畏敬に値する。 まー、太平天国の乱と阿片の蔓延で自滅した時期だわな 明代の日本何て町らしい町なんてほとんどなかった時代だぞ
君が住んでる県の城下町がいつ出来たか調べてみろよ
どこも遡って精々織豊政権時代が下限だ うちは兵庫県なんで、大輪田泊が起源と見れば少なくとも平安時代からあるわwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 織豊城郭以前は守護大名クラスの居城と雖も掘っ立て柱に茅葺だからな
16世紀半ばの京都ですら外観は農村と大差ない
http://www.yamada-kouji.com/nihonshi/japan_beau/rakuchu_rakugai/uesugi/syogatsu.html
日本人が宗教建築以外で恒常的な建物を造り始めたのはここ数百年のこと
それ以前は明とは比較にはならないし半島と比べても田舎だ >>85
お前は、数百年前の中国のレベルを、あまりにも高く見積もっている
中国の一般人など、20世紀になっても原始人のレベルだ 中国の内陸部には、いまでも地面に穴を掘って住居にしている人々がいる 『東洋旅行記』ポルデノーネのオドリコ (Odorico of Pordenone, 1286~1331)
このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほど
であり、またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆
よりも多い人出を見ることが出来た。〕
この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商
業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。
『中国キリスト教布教史』マッテーオ・リッチ (Matteo Ricci, 1552~1610)
この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての
近隣諸国を容易に支配下におくこともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自
国に満足して他国を欲しがるということがない。
この点はまさしくわたしたちの国々と非常に異なるところだ。
『チナ帝国誌』 ルヴァーロ・セメード (Alvaro Semmedo, 1585~1658)
つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるた
めに、この国ではさまざまな産物が収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさった
かのように思えるのである。 『日本巡察記』アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano1539年~1606年)
国土は、ある地方では彼等の主食である米を産し、また麦もとれるが、他の地方は不毛の山岳地帯となっている。
一般的に言って日本の不毛と貧困さは東洋全域で最もはなはだしい。
というのは、ポルトガル人が支那から彼等のもとに齎し、彼等が衣類として用いる絹のほかには、ほとんど商品ら
しいものは何もないからである。
牧畜も行なわれず、土地を利用するなんらの産業もなく、彼等の生活を保つ僅かの米があるのみである。
したがって一般には庶民も貴族もきわめて貧困である。 「日本の城 知られざる築城の歴史と構造」 香川元太郎
どちらが城として優れているかはともかくとして、朝鮮式山城が、かなりの費用と労働力を用いて入念に 造られていることは確かである。
石垣一つにしても、その石垣がいまだに残されてるのは、じつは驚異と言える。
戦国時代の城にも、時々石垣が使われているが、現在ではかなり崩れているのが普通だ。
安土城の石垣でさえ、現在でこそ整備や復元がなされているが、一九五五(昭和三十)年頃までは、原形を留めないくらい に崩壊してい
た。ところが、基肄城の石垣は、それより九00年も古いのに、水門部分などが残されていた。
倉庫群にしても、二九ページに見られるように礎石や瓦を用いたもので、これも中世の城のほとんどが掘っ立て柱、板葺や
草葺の建築だったことを思えば、驚くべき手間のかけようである。
「戦国山城を攻略する キャッスリング入門」 森本基嗣
いづれにしても、石垣は部分的にしか使用されず、土塁の土止めや虎口(郭の出入り口)の一部分に付設される程度の技術しかなく、天然の
断崖あるいは人 手を加えて急峻に仕上げた崖(切岸)の方がはるかに堅固であったようです。
また、防備面で尾根を切断する堀切や山の斜面を堅に区画する竪堀、建物も、礎石を用いた本格的 なものは稀で、大概は掘立柱を用いたもの
だったようです。
無論、天守ようなものは存在してなく、せいぜい物見櫓程度であったとのことです。 もともと日本の城には、大した建物はなく、木柵を巡らして掘立て小屋を造る程度であった。
それが今のような姿になったのは、織豊政権からで、明からの渡来人の影響が大きかったと言われる。
安土城の瓦を葺いたのも、一観という明人である。 >>91
そりゃそうだ
もともと中世の城は防衛拠点であって、統治・行政拠点ではなかったのだから(麓に政庁である館があるのが基本)
それが一体化していったのが戦国時代中期以降、小田原や石山あたりがはしりだな
で、織豊期に完全に一体化する ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています