唐宋変革期4
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室町幕府も、実力将軍・足利義満のときは「日本国王」の名にふさわしい偉容で全国を統治していたが、並の将軍のときは、とても統一国家などと言えるような状態ではなかった
唐も同じで、実力皇帝が君臨しているときだけ軍閥連合政権が機能した
皇帝といっても、「覇者」とか「盟主」に近い存在だった 科挙官僚に政権を担わせることで北族系軍閥から奪権して皇帝専制を目指したのが、
女帝武則天と玄宗皇帝。
結局、権力を奪われまいとした北族軍閥の蜂起で最終的に安史の乱を招いて唐朝は衰退した。 >>196
例えば工業化の指標となる鉄生産量を見ると1870年のリヒトホーヘンの報告だと山西省だけでも生産量年間16万トン
一方1879年の日本の鉄生産量は全国合わせても1万4000トンでとてもじゃないが比較にならない
教科書の記述だけ見ると近代化に成功した日本があっさり清を打ち破ったかに見えるが
当時の日本の工業能力は清の一地方にすら負けるレベルで日露戦争と同じぐらいの奇跡と言っていいんだが >>223
江戸期の「一揆」とされたものは組合活動の団交みたいなもので、武装蜂起による反乱なんかじゃないぞ。 >>224
日本では、コークスを用いた近代製鉄が始まっていた
量はともかく、質ではシナ製など比べものにならない
量が足りない分は輸入で補っていたから問題ない 中国は、いまも粗悪な鉄鋼を異常に大量生産し、余った鋼材で砂漠に誰も住まない巨大都市を建設している
それでも余って仕方なく、さすがの共産党も困っている >>224
むかし、北西九州で地域史の調査をやっていたんだが、あれでずいぶん近代史の見方が変わった。
明治日本の「開港場」って、英国が香港・上海・シンガポールの東洋経営の要衝を運営するバックヤードとして機能してるんだわ。
つまり、これらの要衝の運営に必要な蒸気機関で動く軍艦や商船への良質な水と石炭の補給地、静養地として明治日本が機能してる。
日清・日露戦争ってのは、そういう英国と明治日本のパートナーシップが背景になっていると考えないとどうしても説明がつかんのよ。 白村江の戦いのときも、英米と同盟して唐と戦えていればなあ >>229
その時代のアングロサクソン人なんて、ほぼ「蛮族」だわな。 >>222
結局、五胡十六国時代の延長戦みたいなもんだな
北朝同士の内乱だ 武則天だな、科挙官僚の抜擢を始めたのは
廃藩置県みたいなものだ
まだ時代が早すぎた
この大改革が成功するには、趙匡胤・趙匡義まで待たねばならなかった >>216
地球に生命が誕生した理由(環境条件)のひとつに、太陽、木星、土星と丁度いい呪力バランスを維持できた、
ことがあるらしい。太陽系内のいい位置に巨大惑星が2つあることで地球は現在のハピタルゾーンに位置し続けることが出来た。
木星・土星が無ければ遠心力で地球はびろーんとさらに遠い位置にぶっとんでたらしい。
契丹・北宋・西夏は実は非常にグッドな重力バランスを相互に及ぼして「11世紀の平和」を実現したのではないか。
これが唐代とは比較にならぬ経済と文化の発展をもたらしたのではないか?
貴君のレスを読んでふと感じた。 (北宋≒地球説) >>233
この「11世紀の平和」の動的平衡維持のために北宋が膨大な数の火薬兵器(主として火炎放射器的なもの)を
契丹や西夏との国境に配備。そのための黒色火薬製造のために日本から日宋貿易で膨大な量の硫黄を輸入。
それが日本列島に商業経済を勃興させ、日本列島を中世社会へと駆動していくことになるんだな。 >>233
太陽をアメリカ、地球を日本、木星・土星を中国・ロシアとすれば、現代の状況に当てはまる
中国・ロシアの脅威があるから、日本とアメリカの関係は安定して強固な同盟が続いている >>235
90年代の米国は日本バッシングに走り、中露重視の外交を取った。基本的にそれはオバマ時代まで続く。
現在 中露がアメリカの主敵になったことで日本は「米国の敵」から外れた。
そして日本にとって中国は米国と並ぶ市場、ロシアは中東リスク回避用のエネルギー供給国となった。
そして中国牽制のためにインド、と新しい木星も手に入れた。
>>234
当時の日本の対中輸出品の1位だか2位だかが、硫黄だよね。ほんでもって宋銭輸入と。
自動車売ってドル稼いで・・・・って、「パクス・アメリカーナ」下の現代日本じゃんかそれ。
うーむわかった。 (宋≒米国説。 もうええ、てか?)
ついでに233訂正
呪力バランス(怖いなコレ) →重力バランス ハピタルゾーン →ハピタブルゾーン
日本がハピタブルゾーンの恩恵を受けた最大の理由は太陽(中華帝国)との距離だったよね。
近すぎず遠すぎず、「周辺文明」として高い文化と成長を維持できた。
朝鮮や越南は太陽に近すぎて、現在に至るまで尚、(後略) >>236
当時の宋の史料に、日本との貿易で真に国益になる輸入品は硫黄と木材だけだって書いてある。
ところが、日本の史学研究では硫黄の宋朝での用途がよくわからなくて、どうせ薬用に
取るに足らない量が輸入されていたんだろうぐらいに解釈されていて、
日本が大量の陶磁器や宋銭を輸入できるだけの価値ある品物といったら奥州の黄金に違いない、
と信じ込まれてきた。Wikipedia日本語版の「北宋」の対日関係の章も、
その仮説がまかり通っていた時代の参考文献をベースに書かれている。
日本の輸出していた硫黄が宋朝の国防の枢要を占める重要な軍需品で、
実はかなり膨大な量を宋朝が必要としていて、それを日本がほぼ独占的に
供給していたことを明らかにしたのは実に21世紀になってからの山内晋次の
研究を俟たねばならなかった。
日本の中世以降の文明的な発展は、中華王朝の軍事力が及びにくい適度な遠さと、
同時に中華王朝が喉から手が出るほど欲しい天然資源(中世の硫黄・近世の銀)の
大産地であったことに依るところが大きい。 >>225
大量の餓死者が出て起きた武装蜂起も結構ある、そういう場合幕府軍に結構な人数を虐殺されてる
>>221
足利幕府は義満の最盛期でも安史の乱後の唐帝国の水準
以降2代義持義教の盛期でも晩唐に近い概況だよ >>226
コークス製鉄法とか中国では宋代にすでにあった技術だぞ
室町時代の日本では日本刀が重要な輸出品目だったのだがこれにしても
製鉄技術の未熟さから原料を中国や琉球から輸入した福建鉄や暹羅鉄に頼ってた >>238
安史の乱の悲惨さは、日本の戦乱とは比べものにならない。
日本人には人肉を食べる習慣がないから、こうはならないんだよ
↓
>9年間の戦乱で華北は完全に荒廃してしまいました。安史の乱の兵士たちには遊牧民出身の者も多かったようで、農民に対する理解や配慮はない。
農地は滅茶苦茶になる。農民は畑を棄てて逃げ散る。食糧生産も満足におこなわれない。腹がへっては戦ができません。
安禄山の反乱軍には石臼部隊というのがあった。直径数メートルもあるようなでっかい石臼を運ぶ部隊です。
反乱軍とウイグル軍が合戦するでしょ。どちらが勝っても負けても戦闘後の戦場には死体がたくさん転がっている。
そこに石臼部隊がゴロゴロと巨大石臼を運んで登場します。生き残った兵士たちは敵のも味方のも死体を運んできて、どんどん石臼に放り込んでゴーリゴーリ臼をひく。 死体がミンチになってじわじわでてくる。これを団子にして食べた。気持ち悪くて御免なさい。
もう、何のために戦争しているのかわからない。人肉という食糧を確保するために反乱をつづけているような状態になっているのです。
華北の荒廃とはこういうことです。農民が農作業なんかしていたら、捕まって食べられてしまいます。地獄そのもの。 これがあるから、中国では乱世になると、人口が激減する。
それによって、社会の大変動が引き起こされる。
漢が滅亡したときの人口激減はとくに有名で、「人間が入れ替わった」とされる所以。 >>240
それ日本史の日常だよ
平安後期〜室町時代までずっとそんな感じ、当然人肉も飢餓の度に食ってる
日本史に無知過ぎる >>242
いや、人肉食は中国人に特有の食文化だ
科挙、纏足、宦官と並んで、 追い詰められた飢餓状態の人間が、やむを得ず人肉に手を出すことは、どこの国でもあっただろう
だが、平常時に食事として人肉食を行い、塩漬けや蒸し焼きなどの人肉調理法が発達していたのは、他国に例をみない中国特有の食文化だ >>238
真の内乱に至った島原の乱を除くと、基本的に団体交渉レベルだよ。
例外的に抗議行動の規模が膨れ上がりすぎて幕府側が過剰な弾圧行動に出た大原騒動で、
武力鎮圧による死者が数十名、刑死(獄死を含む)者が数十名、というレベル。
これで、江戸時代の中でも特筆すべき例外的な事件で、責任者の代官の大原紹正が
八丈島に島流しにあい、幕府側の役人で死罪になった者もいる。
また、この例外的な大原騒動であっても、農民は示威行為のみで代官所襲撃などの
武装反乱には至ってない。
ちなみに、アメリカ合衆国では19世紀に労働争議に対して経営者が機関銃をぶっ放す
という武力弾圧に及ぶ行為が普通に行われていた。それと比べても、江戸時代の
「百姓一揆」の方がよほど穏やかに事態が推移している。 >>239
日本のたたら製鉄は、低温還元による海綿状鋼を生み出す製鉄で、
良質な鋼は生産できるが、大量生産や鋼以外の軟鉄や鋳鉄といった
多様な鉄を生み出すのには適していない。
江戸時代でも軟鉄が十分国産化されておらず、火縄銃のバレルの内張に
使う軟鉄はタイから輸入したものを使っていたほど。 「安史の乱の石臼部隊」っていったいどこから話が出てきたのか。
ネット上には話があふれているが、安史の乱を研究したまともな歴史書や
歴史学論文ではこのエピソードを見かけたことがない。
おおもとの出典をご存知の方はおられる? 安史の乱による唐朝崩壊から、五代十国に至る200年の大乱世
「中国史上、最も大きな変革期」とされる激動 しかし、安史の乱が起きる以前の唐朝も、決して安定していたわけではない
そもそも、玄宗が皇帝専制を目指して無理な軍閥潰しをやるから反乱が起きるわけで、漢の武帝や、清の康熙帝みたいになろうとして失敗した例と見ることも可能だ
それ以前も、外戚の武氏に王朝を簒奪されたり不安定で、治まっていたのは「貞観の治」「開元の治」といわれた数十年間くらいのもの 漢が滅亡して400年の乱世
隋唐による短期間の不安定な統一を経て、安史の乱からまた200年の乱世
権力が一元化せず、地方分権で中央の統制力が弱いのが「中世」の特徴だとすると、漢が滅亡してからの中国史は「中世」の特徴を存分に備えている そもそも、なんで西洋史で「中世」というかといえば、それは「古代ローマ帝国」と「近代ヨーロッパ列強」という、2つの輝かしい栄光の時代に挟まれた、長い停滞の暗黒時代というのがその主旨
中国についても、古代の「大漢帝国」と、三大発明を生んだ「宋」以後を2つの輝かしい栄光の時代とするなら、
その間のグダグタな期間を「暗黒の中世」と見なすことは十分に可能であろう 「古代」というのを定住農耕地帯に限って論ずるなら、それは都市国家的な共同体で
構成された社会、ということになるんだと思う。「古代帝国」というのも都市国家的な共同体を
有機的に結び付けたもので、文明史的な古代の栄光、というのは、都市国家に蓄積された
知恵の集積の開花なんだろう。
しかし、古代帝国というものは伝統的な都市国家に依存した社会システムで運営されながら、
都市国家的な結合を消費し、解体に向かわせてしまう。それは古代帝国の自滅に他ならないんだが、
都市国家の解体後の世界には、ごちゃごちゃに人や土地に対する権益の錯綜したあまたの
「身分団体=社団」が叢生していた。このそれぞれに武装し自治機能を備えた社団の錯綜こそが、
「中世」の本質なんだと思う。 これからは、隋唐を「中世タクバツ帝国」と呼ぶことにしてはどうだろう? もちろん冗談なので、本気でツッコミを入れないように >>254
隋唐を「鮮卑タクバツ帝国」といえばわかりやすい >>256
それはいい
なんとも、そのものズバリなネーミング >>258
オスマントルコやセルジュークトルコと区別するため「東亜トルコ帝国」 そうだなあ
「中世トルコ帝国」といったら、セルジューク朝を連想するしかないだろう
首都はない
スルタンがどこかでテントを張って絨毯を強いたら、そこが帝都になる
大スルタンの他にも、全国各地に小スルタンが何人もいる
これこそ、中世の遊牧帝国の見本
唐も、名目上は中華王朝だが、実態としては遊牧集団のタクバツ連合 >>259
唐を「鮮卑タクバツ帝国」と呼ぶなら、宋も「突厥サダ帝国」になるはずだ >>246
天保天明の300万人が餓死した大飢饉時代に
各地で民衆反乱が頻発して一揆毎に多いと数百人から千数百人殺されてるのが現実 マジメな話、モンゴル人は遼を「キタイ」(契丹)と呼んでいたが、それがモンゴル語で中国を指すようになり、ロシア語でも中国をキタイと呼ぶようになった。
「秦」がシナになり、「高麗」がコリアになったようなものだ。
つまり中国を、西欧人は「秦」と呼び、ロシア人は「契丹」と呼んでいる。 ユーラシアの歴史って騎馬民族と農耕民族による対立と融合を繰り返しだよね
ギリシャvsスキタイ
ローマvsフン
漢vs五胡
そして騎馬民族が農耕民族に変わったのが
スキタイ→ゲルマンスラブ
鮮卑→唐
突厥→宋 >>264
史上類例のない単一民族国家に生れた日本人ならではの勘違いだな
もしかして清は皇帝から民衆まで満州人の国とか思ってる? >>263
モンゴル王朝では女真族も契丹も漢人と言われてたよね
>>265
清は諸民族の牢獄だよ
今の中共も諸民族の牢獄だけどね 単一民族日本にとっては多民族が共生している世界中のほとんどの国家が「牢獄」に見えるだろうな
逆に多くの多民族国家にとって一つの人種一つの民族しか存在の許されない日本こそが「牢獄」に見えるだろう >>268
多民族国家が「牢獄」になるのは、ひとつの民族が他の民族を支配しているからだろ
中国は牢獄だが、アメリカはそうではない 唐を「タクバツ」と呼んでいたのは、北方や西域の諸民族だ
漢人にとっては「大唐」、倭人にとっては「カラ」 中国史なら「唐」で良いが、もっと広くユーラシア史に位置づけるなら「タクバツ帝国」と呼ぶのが妥当ではないか
「元」と「モンゴル帝国」の関係と同じだ >>270
補足すると、正確には、ユーラシアのトルコ系諸民族が、タクバツが訛った「タブガチ」と呼んでいたことが明らかになっている
長安帝国にとっては最も交流の深い同時代の隣人は、唐を「タブガチ」と認識していた 千数百年の時をすぎ、数千キロの距離を隔てた日本で、「唐は鮮卑系王朝だ」、「いや、漢人系王朝だ」と論争するのは、人それぞれの自由というものだろう
しかし、同時代の近隣諸国にとっては、唐は「タクバツ帝国」だった
この事実を忘れてはならない ちょっとまともな流れかと思ったら、絵に描いたような牽強付会で笑ってしまった 唐は、パルティアやセルジューク朝のような遊牧集団による軍閥連合政権 唐代は江南の水稲や華北の小麦などの生産が増加し、広大な土地を持ち荘園を経営する門閥貴族が繁栄していた。
・安史の乱後、それまで辺境の警備をしていた節度使が内地にも多く配属され、軍事権のみならず行政権・財政権も与えられて藩鎮と呼ばれる強力な地方勢力を形成していた。
・農民は藩鎮勢力の激しい取り立てにあい、生活は極めて苦しく土地を売って逃亡する人が増え、その多くが小作人となって荘園に入り込んだ。
また、藩鎮勢力は荘園での掠奪・強盗を繰り返して門閥貴族の経済的基盤を奪った(門閥貴族の没落)。 ・門閥貴族に代わって現れた大土地所有者は、藩鎮やその部下たち及び彼らに依存する商工業者たちであった。
→これらの新興地主層は形勢戸と言われ、私有地を小作人の佃戸や自小作農に耕作させ地代をとっていた。
・形勢戸はその子弟が科挙に合格して官僚になれば官戸と称され、徭役の免除などの特権が与えられた。このような地主は教養を身につけた読書人らとともに新たな支配階級である士大夫階級を形成した。 都の貴族が広大な荘園を所有して優雅な生活をする一方で、地方では武人の藩鎮勢力が伸長し、貴族の荘園を荒らし始めた
平安後期の日本のような状況が、その数世紀前の唐で起きていた
結局は、武力を持ってる奴にはかなわないし、現地にいる奴にはかなわない それまで地方の政治支配力は、経済的余力を持ち暴力装置(戦力)を扶養できた貴族がほぼ独占していた。
ところが唐代になるとそれまで兵力の主体だった中原の遊牧性の高い部族達も農耕化して、常備軍としての機能性に大きな限界が露呈してくる。
8世紀初頭に唐王朝が 河西節度使の設置を皮切りに地方支配(警備)として節度使を国家の常備軍として重用するようになるにしたがい、
地方の暴力装置としての相対価値が低くなった門閥貴族はその勢力が落ちてゆくことになる
節度使は、お抱えの兵士は平時は農耕しながら訓練に励むことによって、国から給与を得ていた。 関東で「この辺り一帯は昔、藤原氏の荘園だった」などと言われると、
「大昔に、京都からこんなに離れたところまで、よくやり取りできたな」と感心する
都の貴族にとって、荘園で年貢を取り立てて持ってくるのは、できて当たり前のことではない
応仁の乱のときは、治安が悪化したおかげで、北陸の荘園から年貢を運べなくなった都の貴族が困り、
越前守護代の朝倉孝景を頼った結果、朝倉氏が「最初の戦国大名」となって台頭した >>280
初期荘園だと、国衙が管理している「公田」の中に摂関家とか大寺社への「特別税」農地が
モザイク状に散在していただけで、荘園の実務機関もないので、国司の責任で公田と一緒に
徴税して「荘園領主」に納入していた。
11世紀になってようやく「国衙領」と「荘園」が別個の権利主体になって、荘園にも実務機関が
発生。国衙領と境界紛争で軍事衝突を繰り返すようになったため、国衙領、荘園双方の小単位ごとに
実務機関の長として武士が任命されるようになり、国衙領から朝廷へ、荘園から荘園領主への
納税実務も現場の武士が担当するようになる。
これが、単なる地方治安の公認担当者に過ぎなかった武士が「在地領主」として発展する背景となった。 日本史の教科書だと、「奈良時代の日本は、唐をモデルに律令制を導入し、農民に口分田を配給しました。
でも、だんだん貴族の荘園が広がり、この制度は崩壊しました。その後、地方では武士が台頭しました」
ってな流れになるわけだけど、唐ではどうだったか?
「貴族の荘園が広がり、均田制が崩壊していった」ってのは同じだけど、地方で武人の藩鎮が台頭したのも、それと同じ時期の話
日本では、貴族の世が終わって武士の世になったが、中国では、都の貴族も、地方の藩鎮もともに排除されて皇帝専制になった >>282
日本史の教科書で律令制の記述で大きく抜けていることがある。
それは、実際の律令制の実現にあたって、弥生〜古墳時代以来の
首長制の在地共同体の協力を必要としていた事。 もっとも、日本史だと、この「唐の均田制に習って農民に口分田を配給しましたが、貴族の荘園が広がって、この制度は崩壊しました」の話が、
最重要事項として小学校6年生の歴史の教科書から繰り返し刷り込まれるわけだが、中国史だと、そこまで強調されるエピソードではないように思う
高校の世界史では、「均田制の崩壊」という土地制度の問題より、「それまでの租庸調制に代わって両税法が導入されました」という、税制面がやたら強調されていた
これは気のせいか? >>283
それは、小中学生には難しすぎるな
高校生になら話しても良さそうだが しかし、それは事実だろう
中国の均田制は、漢末からの長い戦乱で人口が激減し、荒れ果てた華北の農業を再生すべく、征服者の鮮卑族・北魏が強引に土地を割り振ったわけだが、日本だとそんなわけにはいかない
そもそも、均田制を導入する必然性が日本では乏しかったように思う >>284>>286
北魏とか唐が行った「均田制」ってのは、正に戦乱で荒廃した農地への農民の再配分だったわけだけど、
日本の場合には中国で均田制の前提になった戦乱での後輩って現象そのものが起きてないんだよね。
だから、古墳時代から継続している首長制の在地共同体を再編した組織(評>郡:コホリ)に指示を出して、
地域社会の現実を均田制の計帳・戸籍の建前に読み替えさせている、というのが実情。
租庸調制も、地方首長の服属儀礼としての「ミツキ」を読み替えている側面が大きい。
日本での「均田制の崩壊」というのも、実のところこの郡に再編された首長制の在地共同体が崩壊して、
富豪の輩>名主の名田に再編された、という部分が在地社会の実情に沿っている。 抑々日本じゃ均田制全く施行されて無いからな
今のジミン党カスミガセキと同じく看板だけ
んで藤原族の土着首長大殺戮と百姓搾取収奪で
仏教寺院が最大勢力に なんか、あちこちのスレで、「江戸時代百姓一揆大虐殺説」と「律令制時代地方首長大虐殺説」
などというキチガイじみた説をまき散らしているやつがウルサイな。 皇家や摂関家の落下傘国司の暴政ってローマの属州総督や植民地支配より酷いからな
モンゴルの被征服部族並みの扱い そもそもな、日本の律令制国家の「軍団制」の軍隊って刀とか弓矢とか、武装が兵士の自弁なんだよ。
貨幣経済も商業も発達していない世界で武装のほとんどが自弁で成り立つ軍隊っていうのは、
古代ギリシアのポリス社会の市民兵と相似形、つまり成員皆兵の共同体自衛軍の集合体に過ぎないんだ。
だからこそ、この首長制共同体が解体してしまったときに軍団制が維持できなくなったわけでな。
つまり、全国に「古墳群」の数だけあまた存在した首長制共同体の首長たちを皆殺しにしようとしても、
それを実現するだけの「中央軍事力」が皇族や藤原氏の手元にないんだよ。 そもそも古墳時代の日本に「市民」にあたる階級はないし
当初は兵役は壮丁の3人の内1人だったのが4人に1人になったり或いは東国人のみになったり
それでも大半は兵役に就けるほどの武装は用意できないので結局は裕福な郡司層の子弟から選抜する健児制に移行してる
飛鳥時代の丁未の乱を見てもこの時代に入っても皇族や豪族の子弟同士が自ら弓剣をとりやぁやぁ我こそはと戦ってる始末で
また精々稲城と呼ばれるバリケードを気づくだけで城郭都市も存在しなかった
大陸のように徴兵した万単位の農民たちをぶつけ合い負けた側の都市は老若男女と問わず首をはねられるという
スケールのデカい戦いは古代日本には存在しない 但し初代日本国は重い重税と過酷な労役と収奪で十万百万単位の餓死者を出してる まあ、日本の歴史は「奈良時代に、日本は中国から先進的な制度や文化を取り入れました。
もう中国から学ぶものがなくなったので、菅原道真は遣唐使を廃止して、
平安時代からは国風文化になりました」というストーリーを、一種の建国神話として、
ことのほか大事にしているからな
「均田制の導入」は、「碁盤の目のような平城京」と並んで、それを象徴するシンボルのようなもの
本当に地方の豪族から土地を奪って国有化し、それを農民に均等に分配したのなら、それこそ社会主義革命だ
とても現実に実行できることではない 今から見ても連綿と続く粉飾大好きな上級日本人の族民性が現われてるよね
技術より何より先ず支配制度を模倣して
それも外観はきっちり真似するけど中身をちょこちょこ弄り回して骨抜きに為
多くが実施も為れ不に有名無実化しているという 均田制の崩壊は、日本史より隋唐史において重大なテーマ >>295
>>本当に地方の豪族から土地を奪って国有化し、それを農民に均等に分配したのなら、それこそ社会主義革命
そうなんだよ。当時の「日本国」の中央政府直属の軍事力にそんな力はない。
明治の「廃藩置県」だって、旧大名に皇室の藩屏たる華族の地位を保障した上で実現している。
従来の「在地首長」を一方的に消滅させて均田制を実現したわけではない。
そもそも地方の土地にしたところで「在地首長」の私有地だったわけではなく、
実際には共同体側からの規制を強く受けた首長制共同体の共有地といった方が現実に即しているし、
そうした在地共同体の共有地を国家のおおやけの土地に読み替えただけ。 かつて、「中国史の時代区分」論争が盛んだった頃には、「魏晋南北朝から隋唐・五代までが中世」とする派が、唐の貴族の荘園を、中世ヨーロッパの農奴制の荘園と結びつけて論じていた
この説の論者にとっては、「唐末五代における荘園制度の崩壊」が、中世の終わりを意味する重大な出来事 >>295
>平安時代からは国風文化になりました」というストーリーを、一種の建国神話として、
>ことのほか大事にしているからな
どこの教科書にそんなことが書いてあるの?あたらしい歴史教科書か?
菅原道真が遣唐使を廃止したのは財政難が理由
つまり朝廷から中国の先進的な文化を取り入れるだけの力がなくなったためだし
山川出版の「詳説日本史研究」だとそれらを踏まえたうえで「国風文化とは中国の文化を否定したり、それとは断絶したところで
生れたものではなく、あくまで中国文化を吸収・消化する中で形成されていった文化とすることができる。」(103ページ)
と釘をしている >>301
1970年代、1980年代の小学校〜中学校の社会科の教科書はだいたいそういう論調だったのよ。 >>301
いや、菅原道真が遣唐使を廃止したのは、黄巣の乱で唐が崩壊して、治安が悪化したのが最大の原因
現代のイラクやシリアみたいに、外国人虐殺事件が全国各地で起きている危険な状況だった 誰も留学為たがら無く成ったのと
唐船が月に何隻も来る様に成った、から 東アジアの律令制諸国家がドミノ倒しのごとく
崩壊しつつあることを道真は察知してたんだよ。
実はもう少しで日本も王朝転覆の危機だったのではないか?
なのに醍醐天皇と藤原時平が律令制回復にこだわった。
道真は失脚したものの、道真を慕う一番弟子の藤原忠平が実権を握って、
律令制からの実質的脱却、田地の民営化推進、
地方武士団の活用等によって体制を転換し、
危機を乗り越えた
894年菅原道真による遣唐使廃止
902年南詔滅亡
907年唐滅亡
926年渤海滅亡
935年新羅滅亡
939年平将門新皇を称す
940年藤原純友、太宰府を攻撃 律令制=社会主義とするのは乱暴かもしれない。
時代も社会構造も異なる。
でも共産主義諸国家がドミノ倒しのごとく崩壊していった様子を想起しちゃう。 >>306
訂正。
藤原純友が大宰府を攻撃したのは939年12月だった。
藤原純友は藤原北家の出で、時平や忠平の親族、
平将門は忠平の家人だったことがあり、
忠平への恩義を持ってた模様。
なので陰謀論の成立する余地あり。 当時、中華の周縁圏で日本、新羅、渤海と「唐型の律令制の建前による周回遅れの古代帝国」が成立していた。
「古代帝国」というのは、秦漢帝国やローマ帝国のような古代的な地域共同体を集積して成立した
広域国家体制で、それが中華周縁では数百年遅れで日本、新羅、渤海で成立していた。
ところが、「古代帝国」は前漢やローマ帝国がそうであったように、その存立基盤として
中華だと邑、地中海世界だと都市国家のような古代的な共同体を必須とするにもかかわらず、
その帝国としての統合によってそういう古代的な共同体を解体してしまう性格を内包している。
日本でも律令国家の内部で9世紀から10世紀にかけて、「クニ」という古代的な共同体が
急速に解体していった。大陸の新羅や渤海ではさらに悪いことに、唐という中華帝国と
北方の草原地帯の遊牧社会が連動して再編過程に突入して流動性を増し、その再編による
軍事的な圧力が直接降りかかってきた。そのため、新羅や渤海は国家体制の中央権力そのものが
解体し、渤海などは新興の契丹による軍事征服までこうむってしまうが、
日本は大陸の軍事的圧力から海で隔離されていたために、9〜10世紀の激動期を
自律的再編で乗り切ることができた。 10世紀は東アジアの激動だな
ベトナムにとっても、初の独立政権ができたのは10世紀
日本だけは、平安朝が崩壊せずに続いた >>310
平安時代といっても10世紀以前と以後では全く別の社会。
貴族の装束でも10世紀以前の小野小町や在原業平の時代には奈良時代とほとんど変わらない格好だったが、
10世紀以後の紫式部や清少納言、藤原道長の時代には「源氏物語絵巻」的な世界に入っていく。
地方社会も10世紀以前にはぎりぎり古墳時代以来の地方首長層が郡司として在地社会を統治しているけど、
10世紀になると彼らが没落して新興の「富豪の輩」、後の「名主」層が動産資本を蓄積して地域社会を名田に再編、
11世紀以降になるとその名田の上位統治機関として国衙領と荘園が成立してそこの現地管理人として武士が地域社会を
統治する時代がやってくる。 確かにな
聖徳太子から在原業平あたりまでは、服装が隋唐の貴族そのものだ
これは、日本に限らず東アジアに共通で、現代でいえば世界中のビジネスマンが英国風のスーツ姿になったようなものであり、それ以外のスタイルはまず考えられなかっただろう
でも、源氏物語の絵巻では、日本独特の服装になっている
一方、中国の側は、唐から宋に代わっても服装にたいした違いはないから、ここで日中の違いが生じた 唐は女性の服装が開放的で、胸の谷間が見えていた
唐を舞台にした中国の時代劇では、「武媚娘伝奇」が「露出度が高すぎる」という理由で当局の検閲に引っ掛かった
しかし、ガチガチの儒教社会だった明では、女性の服装は堅苦しくなる
宋はその過渡期 古代国家から中世社会という変化について、日本はソフトランディングに成功し、
中国はハードランディングを選択した。
唐宋変革とはそゆことか? >>314
古代(都市国家的な地域共同体から成る社会)から中世(武力と生産資本を蓄積した在地有力者の割拠する社会)への
移行だが、中国では北方草原地帯と定住農耕地帯をひっくるめた再編過程になったという側面ではハードランディングだったかもしれない。
でも、日本でも10世紀以降16世紀末の天下統一まで地域社会における武力紛争が絶えることがなかったことをみると、
必ずしもソフトランディングだったとは言えないんじゃなかろうか。 中国が明から清に交代しても、朝鮮王国は続いた
でも、明代と清代とで、朝鮮史は明らかに前期と後期に分けられる
清の苛烈な侵攻で国土は荒れ果て、中国本土以上のハードランディングとなった
日本の平安時代も、唐滅亡を境に、前期と後期に分けるべきであろう
ただし、渤海や高麗と違って、遼から攻め込まれるとか、そういうことはなかった 平安時代の日本が分裂せずにすんだのは、関東が未開拓だったせいもあるだろう
鎌倉幕府ができて、やっと東もそれなりの実力を備えるようになった
一時は天皇を凌ぐ権力を持った藤原氏も、天皇家に取って代わって新たな王朝を開こうとはせず、旧来の体制の中で生きることを選択した 三百年の歴史を持つ唐朝の皇統には、凄まじい権威の重みがあったことだろう
日本の天皇と同じで、簡単に終わらせられるものではない
主全忠も思いきったことをしたものだ 日本史における10世紀の断絶には内発的要因と外発的要因が絡み合っている。
内発的要因は、律令制国家の統一体制の中で旧来の在地社会の首長制共同体が
解体していったこと。
外発的要因は中国大陸との貿易物産が大量に入ってきて日本列島が本格的に商業経済を
受け入れ始めること。
後者は考古学の発掘で古代民家と中世民家の識別に使われるほどで、
10世紀以降の中世民家遺構からは古代民家に見られなかった「生活雑器」レベルの
廉価な輸入磁器がゴロゴロ出土する。これは、この時代から日本が中国で大量に必要とされる
資源を輸出できるようになった事による。
北宋時代の中国の文書にある様に、日宋貿易で真に宋側の利益になる輸入産物は
「硫黄と木材」だった。木材は森林資源の枯渇した中国大陸での木造建築建造に
日本の豊かな森林資源が重宝されたことによる。また、硫黄は沙陀(五代・宋)と
契丹の国境線上の防衛兵器として黒色火薬による火炎放射器的な焼夷兵器が
大量配備されたことによる。 日本に例えれば、天皇家が廃絶され、源平藤橘の公家がいっせいに簀巻きにして大阪南港に投げ込まれたような状況
唐末は、フランス革命をも凌ぐ強烈なハードランディング ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています