明清帝国
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日本では、明も清も人気がない
2つ合わせれば、それなりに話のネタもあるか? 大学で東洋史を学んでいるものだ
個人的には明オタクなんだが、指導教官が面倒見切れないので研究は清朝史です 張士誠
泰州白駒場(現在の江蘇省塩城市大豊区)の人。郷里で官塩の舟運の傍ら、私塩の密売にも携わっていた。
財を軽んじて人を施すのを好んだので、衆人の心を得ていたが役人、土豪とは利害が対立していた。
至正13年(1353年)に土豪から侮辱を受けたため張士義、張士徳、張士信ら3人の弟を含めた18人を率いて報復のために挙兵、
塩丁ら多数がこれを加わり、たちまち泰州を落として参政の趙lを殺害し、更に興化、高郵など江北の要地を占領する。
翌至正14年(1354年)には誠王と称し、国号を大周、元号を天祐と定めた。 張士誠の反乱を元朝は極めて深刻に受け止めた。
なぜなら、反乱が起こった淮東は、全国最大の塩の生産地であり、
かつ江南の物資を京師に輸送する大動脈である大運河が通っている地域であったからである。
塩の専売を最大の財源とし、経済面で江南の豊かな物資に依存している元朝にとってはまさに死活問題であった。
そのため、右丞相のトクト(脱脱)を司令官とする大規模な討伐軍がただちに発せられた。 張士誠ね、後漢末にタイシジ持ってたリュウヨウのイメージだわ、もっと有能か >>7
まあ、経済力がありすぎたせいか、晩年は奢侈におぼれたとされてるが、江南の覇者になるくらいだから、タダ者ではない 「天下の三分の二は魏」といわれ、国力の差が明らかだった三國志とは異なり、
張士誠・朱元璋・陳友諒の三大勢力は、どれも甲乙つけがたい強大な勢力 朱元璋は、国力が劣る上に、他の2勢力に挟まれる不利な位置にあった。
ただし、劉伯温や李善長をはじめとする、人材がすごかった。
陳友諒は、張士誠に「朱元璋を挟撃しよう」と同盟を持ちかけたが、張士誠は乗らなかった。
陳友諒に対する警戒心が、朱元璋への敵意を上回ったのであろう。 陳友諒は、それくらい強大な勢力だった
朱元璋が勝利したのは歴史の奇跡 「大明帝国朱元璋」はイイゾ
荒削りなところが多いが、朱元璋の人間的な所とカリスマ的な所が上手く演出されている
適当に描いているからこそ、朱元璋飛躍の必然性というか神がかり的な能力の高さを感じさせる 明の時代の李時珍による『本草綱目』人部には、人肉をはじめ人間由来の漢方薬が記されている。
特に宮廷を中心として、女人の血から作った薬(仙丹)が強壮剤としてもてはやされた。
不妊で悩む世宗の代には、宮女に投薬してまで出血を強要したため、多くが衰弱死したという。
民間では、同時代の『南村輟耕録』に、戦場での人肉食の実例と調理法が多岐に渡って紹介されている。
この食事方式を採用した隊では戦果が食事に直結するため、大いに士気が高揚したという。 人口、GDPが急拡大した時代。
貿易黒字が続き、世界中の銀が集まった時代。
最後に阿片でボロボロにされた時代。 人口爆発っていったら、20世紀のアフリカあたりを連想するけど、中国では16世紀から始まってるんだよなあ 豊臣秀吉がヌルハチみたいになれなかったのは何故だろう?
国力、兵力は上だと思うんだが。 >>17
地続きの清でさえ、朝鮮に5回も攻め込んで、やっと半島を制圧することができた。
たったの2回で断念したのが、日本の失敗原因。 なるほど。
短期決戦で強くても完全制服には至らない。
数代に渡る長期戦を要するということか。 仮に明軍を圧倒し、そのまま明を倒し、
秀吉が寧波あたりに遷都できたとしたら、
征服民族が中華化してしまう法則が働いて、
日本語を話せない日本人に変化してたに違いない。 日本が漢化するのかって凄い興味深いよな
時代は変わるけど南明日本乞師で薩摩藩とかが本格的に介入したらどうなったんだろうとワクワク モンゴル帝国でさえ高麗には何度も攻めこんでいるよね
降伏するのは早いんだがその後撤退すると手のひらをすぐ返すの繰り返し
移動手段の乏しい時代に半島を征服するのはなかなか難しい
だから民族が同化されずに残ったんだろう 仮に唐入りが成功していたとしても
日本本土とは離れているから全体の漢化はなかったのでは?
その代わり寧波に拠点を移した豊臣本家は漢化したかもね
そして数世代のうちに日本本土は分家か有力諸侯により寧波の支配から抜け出すのではと思う
大軍が行き来するのは難しいから 古くから漢文化を受容してきた素養があるのだから、
漢化しようと思えばアッサリしちゃう気がする。
教養人はみんな漢文を読み書き出来てたし。
漢化する覚悟なく、
日本式を押し通したら
大陸制覇は抵抗が大き過ぎて不可。
ただチョンマゲぐらいなら強制できるかも。 大陸に渡る支配者層の漢化は早いだろうね
しかし三国国割構想では日本と大陸には別の天皇と関白を置くつもりだったらしいし
日本本土は漢化しないのでは?
距離の問題もあるし日本自体が当時は相対的に人口が多い国だから
少なくとも庶民まで日本語を忘れて漢化することは考えにくい 日本人を見習って、土足で部屋に上がらないとかじゃね? 満洲語、満洲文字が権威を持っていたように、
尾張弁、漢字かな混じり文が権威を持っただろう。 >>34
むしり日本では漢文こそが教養人の証だったから大陸の日本人はせっせと漢文を取り入れただろう >>36
送り仮名や返り点が中国で普及するのだね。 >>34
シナ人の連歌師が出現して、連歌会が催されただろう 文化や風習はともかく、
制度を日本化するだろう。
太閤検地の実施。
石高制に基づく封地割当。
封建領主は屋敷を城にして、
町を囲む城壁はなくした城下町。 加藤清正は豆満江を超えて
オランカイと闘った。
清正の報告では、
オランカイは朝鮮の倍の広さがあって、
全体の統治者がおらず、
伊賀者甲賀者のように砦を構え、
一揆国みたいらしい。
オランカイは
統一前の女真族の一派かもしれない。
清正の見立てでは、
オランカイを通って明国入りするのは無理。
女真族はかなり手強いという認識。 >>22
秀吉時代は失敗したけれど、
南明勢力からの日本乞師に答え応じていたら、
大義名分が出来た分、有利になるから、
結構いけたかもね。 >>43
「師」は軍隊のこと。あとは読んで字のごとく。 バチカンにまで送ってたらしいね
十字軍でも期待したのかな 満州八旗が強かったのはほんの初期だけというイメージがある。
むしろ漢人武将たちの活躍で、
あれよあれよと大征服出来ちゃった感じ。 三藩の乱だって緑営をぶつけて八旗は後方で片付け待ってたらしいからな
果たして満州人が絶対的に強いのか怪しいと思う
なんか、モンゴル帝国の圧倒的な強さというイメージで異民族王朝を語ってる節がある希ガス >>40
太閤検地みたいなことは、明の太祖がさをざんやったからなあ >>29
そりゃ、進行するだろ
日本より遥かに文化伝統の少ない満州の狩猟民ですら、どれだけ中国の文化を変えたか? ただし、日本人は農耕民族
服装や食事とかは、洋の東西を問わず、狩猟民の機能的な服装や、肉食文化の影響力が大きい >>47
人口の違いは大きい。
どうやって少人数で絶対多数を服従させたかは興味深い。 >>48
貨幣経済が発達し、
明代には銀本位経済がフルに回っていた中で、
さすがに石高制はないね。
秀吉だって銀山を主要な財源にしていて、
朝鮮出兵時にも朝鮮の銀山確保を重視したりしていることから、
十分に銀の力の重要性を理解していた。
明清内で流通する銀は南米産以外は日本産。
戦国日本で鉄砲を大量生産できたのは、
銀生産拡大での購買力に依るところが大きい。 明清が世界中の銀を自国に引き寄せていった商品の販売力は凄い。
当時の国際経済での競争力はナンバー1.
日本の当時の輸出品は、銀、硫黄、そしてあまり知られてないが奴隷。
銀が枯渇してくると、高値で売るものがないので鎖国で制限するしかない。 >>52
明清は、郷紳、つまり地主階級が全盛だった時代 >>53
銀はともかく、硫黄なんかで外貨を稼げたのは良い時代 田沼意次は、干し鮑やフカヒレなどの俵物の輸出を図っている。
金銀の流出を抑えるために。
そのおかげで中華料理の高級食材の定番になった。 昆布の道
蝦夷地松前藩⇒富山藩⇒薩摩藩⇒琉球⇒清
富山と沖縄料理で昆布が多く使われる。
薬の道
清⇒琉球⇒薩摩藩⇒富山藩⇒全国に薬売り >>55
石油の脱硫装置がなかった時代だもね。
火薬の原料として欠かせないものだが、
さすがの明も硫黄の調達先が仮想敵国の日本だけでは不安だったため、
東南アジアや西アジアなどの入手先の多方面化を図っている。 >>54
一条鞭法や地丁銀制は銀納。
銀が大量流通していないと成り立たない制度。
その銀の生産元の大半がメキシコなどの南米と、一部が日本。
銀生産地の新大陸は西欧諸国の植民地。
西欧諸国が銀の需要が大きい明清に銀を供給。
西欧諸国は明清の物産を大量入手。
商業が発展して西欧の力が急速に伸びる。
織豊時代日本の文化の輝きも銀の力。
なのに石高制は米本位の物納。 石高制は明が銀本位制に移行したことによって
輸入した銅銭に頼っていた貫高制が維持できなくなったからだろ
明を征服するなら銀本位制に移行するわ 宋の頃は、日本が莫大な銅の輸入国だった。
明では、日本が銀の輸出国に転じた。
この違いは大きい。 日本は、明代になっても、宋の古銭を輸入していた。
「宋銭が東アジアの基軸通貨だから」というのはもちろんだが、「銅の輸入」という側面も見逃せない。 農民出身の朱元璋は、農本制に移行しようとしていたが・・・。 >>64
荒廃した国土復興と食料確保が優先なので、
朱元璋の政策は間違ってない。
ただ商業軽視、朝貢外交に固執は儒教の悪影響だと思う。
周辺諸国が貿易自由化を求めて反発するのは必定。
北虜南倭、秀吉の出兵、ヌルハチの挙兵、後年のアヘン戦争も含む。 衛所制というのは殆ど上手くいかなかったと見て良い? >>62
輸入してたのは宋の銅銭であって銅そのものは輸出国だぞ日本は
原料輸出の強みは技術力が要らないということ
貿易で利潤を得ようとするらなら相手国の製品より性能なり価格なりで優位を示さないといけないが
さすがに当時の中国相手に技術力で勝負するのは分が悪い
その分銀や銅硫黄といった資源はそのものに価値があるのでいつの時代でも安定的に商品として機能してくれる >>68
資源を輸出して、製品を輸入するというのは、現代の日本とは逆のノリだな
やはり、江戸時代だろうな、日本が変わったのは しかし、現代では資源輸出国といったら「発展途上国」という位置づけだが、大昔にそのイメージを適用すべきなのかどうか。
昔は、鉱山を開発するのだって、大変な技術だ。
ましてや、中南米の鉱山を開発して中国に輸出していた南欧諸国は、現代の資源メジャーがやってることと変わらない。 >>70
先日のNHKヒストリアで、徳川家康がスペインから
金や銀を含む鉱石から水銀を利用して金や銀を取り出す製錬法(アマルガム法)
を技術導入しようと交渉した話しをやっていました。 日本の場合は開発途上国の悲しさがあった。
日本が輸出していた粗銅には金銀が含まれており、
当時の日本にはそれを分離する技術がなかった。
明の商人たちは日本から安値で粗銅を買い取り、
金銀を分離して大きな利益を得ていた。
戦国時代に朝鮮から灰吹法、
南蛮から南蛮吹きなどの技術が伝来して、
ようやく日本でシルバー、ゴールドラッシュを迎える。 >>72
灰吹法が極めて非効率だから、スペインから技術導入したんだが? 江戸時代初期の日本が、欧米からの技術導入で金銀の生産を大幅に進歩させたというのは、見落としがちなポイントだ。
江戸時代における欧米の影響というのは、もっと認識されてよい。 「江戸時代の日本」といえば、「鎖国」。
「明清時代の中国」といえば、「海禁政策」。
でも、実際のところ、当時の朝廷は、どれほど海洋貿易を統制できてたんだろか?
最近は、日本史の教科書も書き換えられている。
「長崎の出島で、オランダ人とだけ貿易してました」
という話は、すっかり過去のものになった。 >>73
その非効率の灰吹法すらなかったから、
みすみす利益を明の商人たちに奪われていた。
開発途上国の悲哀だ。 >>75
長崎の出入りする船だが、
オランダ船より中国船の方が数が多い。
そのオランダ船だが、
オランダ東インド会社が支配していた東南アジアの香辛料や砂糖以外は、
中国物産が多く、ヨーロッパ由来の物品は量としては少ない。
オランダ東インド会社はまずはアジア域内交易で儲けを追求し、
その儲けでアジア物産を買い付けて欧州に持っていく。
つまり長崎オランダ船の交易の大半は中国物産の取引だった。 >>75
少なくとも日本船を仕立てて渡海して、
海外に日本人町を形成するようなことはなくなった。
海外物産への興味がなくなったわけではなく、
需要は大きく、
いわゆる「鎖国令」発布以前よりも
貿易量が多くなっているデータはあるそうだ。 中国も、明ともなれば、「ラクダに乗った隊商がシルクロードをはるばると越えていきました」なんて世界では、とっくになくなって久しい。
現代と同じように、沿海部に主要都市が集中している。
海洋貿易は、中国にとっても生命線だった。 釜山には倭館があって、
元禄時代にも数百人の日本人が常駐。
福建省には琉球人町があって、
冊封交易が続いてた。
他の日本人町は消滅。
こういう拠点間海外ネットワークを維持できなかったことは、
欧州との差を広げてしまうことに繋がる。 >>79
隊商交易はなくなってはいない。
量的には増加しているはず。
オイラート、タタールの攻勢は隊商交易が活発だったことを示す。
19世紀になっても中央アジアの陸上交易は盛んだった。
ロシアとの交易も始まるし。
アンドレ-グンダー・フランクの「リオリエント」では
従来、海上貿易に目を奪われがちだったのを批判して、
陸上交易の重要性は失われてなかったと主張してたことの受け売りだけど。 最終的に清に滅ぼされたジュンガルも勢力拡大の背景に陸上交易の利があったと思う。
ジュンガルは清との戦争でロシア製の大砲を使ったり、
ロシアからの技術導入で工業化を進めようとしたりしているので、
ロシアの支援があったかもしれない。
ロシアも清と対立したくないから、表立って支援しないと思うが。
タタールのくびきの記憶も残っているし。 >>67
軍役は辛いからねぇ。
八達嶺や慕田峪の長城を行ってきたけれど、
よくまぁ、あんな山の尾根に城壁作ったよなぁと感心する。
いやぁ長城まではロープウェーとかケーブルとかの乗り物だったんだけれど、
長城自体の上り下りがキツクて、息が上がって苦しいことおびただしい。 19世紀の北京に駱駝がいたのか、ビックリした
もしかしてもっと前から中国に駱駝は来てたの? 北京中心から70キロほどで砂漠地帯に入るよ。
昔はどこまで砂漠があったかは知らないけれど。 じゃあ中国の歴史上で駱駝騎兵部隊とかいた可能性があるのか
…砂漠以外でのメリットが無いから無理か 中華ドラマでは駱駝部隊は見たことないな。
モンゴル系騎兵部隊は普通に馬だし。
戦闘用というより、荷役では使われたかもね。
なぜか杭州の宋城という宋時代を模した
テーマパークがあって、
そこで駱駝に乗せてもらったことがある。
なんで宋で駱駝なのかはよくわからない。 中国人のことだから駱駝料理もありそうだな…と思ってググってみたら駱駝の瘤が中華料理の珍味として紹介されてた
中国パネェ 広州に行ったときに、
古くから回教徒(イスラム)が多く住む区域があって、
中華式モスクがあった。
仏教寺院みたいな、ちょっとデザインを変えてあるような建物。
回族料理の飲食店があって、
羊肉が店頭にぶら下がっていて、
ちょっと食べてみたかったなぁ。 >>92
アラブの寄付があるのかもね。
新疆ウィグルのカシュガルあたりだと、
また変わるんだろうな。
イスラム建築の煉瓦造り青色ドームがあったりして。
住民の顔立ちも黄色人種でないし。
広州の回族は女たちがベールしている以外は他の中国人と見分けがつかない。
寺院は古い屋根瓦の木造だったし。
広州が昔からムスリム商人を受け入れてきた証だと思う。 >>93
唐の場合はイラン系ソグド人文化の影響が強い。
安史の乱以降はトルコ系ウィグル人の影響が強くなるのかなぁ。 ウィグルはムスリムだけど、
モンゴル系はどういうわけか知らないが、
チベット仏教になっている。
ジュンガルもチベット仏教国。
清朝はダライ・ラマを手懐けることで、
モンゴルをも掌握する。
中華皇帝+大ハーン+チベット仏教の守護者ということで君臨できた。
ムスリム寺院への寄進も怠ることはできず、
大帝国の運営は多方面に気を遣う。 その点大明帝国って凄いよなぁ
中華皇帝の名称だけで中国統治しちゃうんだもん 明ってチベットもモンゴルも満洲も支配してないじゃん ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています