キリスト教は何故、日本で広まらなかったのか 2
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>>1
日本国は愚かなチョン王が君臨してなかったから 飢饉で人肉を食べる機会が多ければ、もっと日本にキリスト教徒が増えていたと思う。 キリスト教はレイシズムとアパルトヘイトの精神的な支柱。
異教徒をジェノサイドするとき軍属区の牧師、神父たちが励ましと神の
祝福を与えつづける。
戦後になってもユダヤ人の改宗の祈りをずーっと続けていた。
教義を変更するのは戦後になってから。
偶像崇拝の仏教徒、多神教の神道、先住有色民族の3つ入ってる日本人は
ユダヤ人以下の神から祝福されるエスニッククレンジングのターゲット。
奴隷化してもいいし、国際法も守らなくてもいい、と考えていた。
原爆ホロコーストにおいても
エノラゲイにジョージ・ザベルカ神父が搭乗して
ホロコーストを励まし、祝福した。
先住民へのジェノサイドの時と同じ。
女性子供老人達を生きたまま丸焼きにする =(ホロコースト)
450年前にクリスチャンに出会ってすぐにキリスト教の本質を見抜いていた。
根本的な教義を変更するのは戦後になってから。
アメリカが黒人へのアパルトヘイトをやめるのが60年代になってから、
先住民の人権を認めるのは70年代に入ってから。
日本人の人種差別撤廃運動、太平洋戦争の功績。
アメリカがユダヤ人に対するのと異なり、
日本人女性子供老人に対する原爆大空襲ホロコースト
を美化し正当化するのはレイシストだから。
民族浄化はキリスト教信者の伝統文化。 >>466
戦国末期〜江戸初期もあわせた3回だろう 軌範意識の違いによる争いの種になるのなら、それは統治の邪魔でしかない
多分それを日本の統治者も理解してたんだろうな
すなわち「布教される側の弱体化」に繋がるわけだ
実際に当時のキリシタン大名が仏教徒を迫害した記録も残ってるし
重い年貢が直接の動機にもかかわらず、キリスト教を中心に結束した島原の乱など
反社会的な御旗となるものは排除したかったのだろう。 教科書にいきなり出てくる島原の乱も相当記述がおかしい。洗脳レベル。
本当は、浪人、農民、キリシタンの複合一揆だった。
その中で、同じ圧政に苦しんでる仲間である人間を
異教徒だからと言って、殺したりしたのはキリシタン。
嫌われて当たり前!要は、宗教洗脳されていて害悪でしかなかった。
キリシタン大名も、火薬の代わりに奴隷貿易に手を染めた。
キリスト教に汚染された奴は、日本国内で碌な事をしていない。 新井白石の話も出てるが
他にもルイス・フロイスが日本の農民に宣教した時の事を書いた手紙に
日本の農民は頭が良く自然科学方面の話には興味を示し理解が早いけど
キリスト教の宗教的な理念の話になると合理的でないと聞く耳を持たず
日本に派遣する宣教師はこのことを理解して、天文や自然科学の知識があって
かつ論理的な人物でないと難しいとある
日本人はもともと
全知全能のはずの神なのに、信じる者は救われる=信じない者は救わないと言う考え方に懐疑的だったってこと。 一神教の教義的に神以外を崇拝するのは悪いこと
だがイエス・キリストを崇拝したい
そこで捻くり出した屁理屈が三位一体 モーセの戒律が厳しすぎて守れない→キリスト(人物)を預言者とかじゃなく神にしてしまえ
→キリストの言葉をでっちあげて戒律に
だから神じゃないと教義を作れない 羊の飼主がメリーさんで、人造人間の怪物を作った人がフランケンシュタイン氏なのに、
羊の名前がメリーさんで、怪物の名前がフランケンシュタインだと、勘違いしている人多いだろ。
そういう勘違いと同類のものが三位一体だ。 >>478
キリスト教信者よりはマシだなといえる。 だいたいキリスト教徒の方が、先に九州の神社仏閣をぶっこわしてる。
さらにイエズス会に日本侵略計画の記録が残っている。
これで追放されない方がおかしい。 大学で初めてキリスト教に接して「素敵!改宗しちゃおうかしら!」と思った
無垢な自分の考えを打ち砕いた理由は、キリスト教学講師のアメリカ人老夫婦が
ニコニコしながら教義を説いていた最中に、他の教派のことを話す時に
「彼らは地獄に落ちる」「あんな教えを信じるものは救われない」と苦々しく語ったから。
その瞬間、憑き物が落ちるようにストンとキリスト教に対する憧れが消えて、単なる
キレイな賛美歌を歌える時間としか思えなくなったよ。
日本人には「あれもこれもみーんな神様。悪人すらちゃんとお祀りしないと祟るよテヘッ」
の方が性格的に向いてる。千と千尋の世界がスッと受け入れられる世界のほうが楽。 モーセの十戒において際立っているのは、「殺してはならぬ」という戒めが、
十戒においては六番目という極めて低いところに位置づけられていることです。
モーセの十戒においてもっと重要な戒めはむしろ、神への忠誠なのです。
第一の戒めも、第二、第三、第四の戒めも、すべて神への忠誠に関するものです。
これは、神が絶対君主だからです。
したがって、例えば神がモーセやヨシュアに殺人を命令する時、
神が命令した殺人は正義になります。神の意志が正義を決定するのであって、
わたしたち人間が正義だと思っていることなど神にとっては関係ないのです。
「ここに書いてある神を神とする宗教」の信者であれば、
神の命令に従って、殺人を忠実に行うことが信者の取るべき
正しい行動となります。
聖典である聖書の神自身が殺人や戦争を命令するのですから、
歴史における頻繁な宗教殺人や宗教戦争は、
聖書の教えに忠実であったがゆえになされたと考えられます。 ・強引で執拗な勧誘
・侵略ツールや思想統制として用いられてきた歴史
・世界中で異教徒の強制改宗を行い、魔女狩りや異端審問など
同じキリスト教徒相手でも異端と看做した相手には無慈悲な血の宗教
・現代でも日本のキリスト教団体が欧米や韓国の対日工作機関として機能してる実情
以上の事柄から神道と仏教と日本文化を信奉する一般的な日本人には、キリスト教のイメージが酷く悪い。
だいたい高校で世界史を履修していれば、カノッサの屈辱や十字軍等、増長しまくったキリスト教の悪行を嫌でも目にするはずだ。
「こんな宗教に誰が入るか!」と高校生たちは世界史を学びながら認識を新たにするだろう。
まだイスラム教の方が「ムハンマドが教祖で、後に後継者が大帝国を築いた」と素っ気なく記述されているのでマシな方だ。 神道は、そもそも地祇や祖霊が信仰対象で村ごとに祀る神様が違うのが当たり前。雑多な信仰の総称だから、お祭りの作法が違うのも当たりまえ。
お正月の三社詣りのようなのも、隣の村の人たちと仲良くするために両隣の村の神様にも挨拶をしておこう、というくらいの鷹揚さ。
アッラーもヤーベもデウスも、隣の村の神様が違うように、異国の神さんやお祭りの作法がもっと違う、くらいの感覚だからな。 問い合わせID:4696df7200f59535
ホスト:KD182251247002.au-net.ne.jp
名前: [Φ|(|´|Д|`|)|Φ] BBxed!! 世界@名無史さん
E-mail:
内容:
キリストと合わせるのが難しいのが日本の仏教というのは、神を忘れ去る事が用意であるのは人に沿う事が神から離れていった要因。
問題ありなんだよ。 マタイ10:14
あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に
耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、
足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、
この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。
マルコ16:16
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。
ヨハネ3:36
御子を信じる者は永遠のを持つが、御子に聞き従わない者は、
いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネ8:24
だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、
わたしは言ったのである。「わたしはある」ということを信じないならば、
あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。
第2テサロニケ1:7
それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に
聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から
退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。 キリスト教の気違い狂気のカルト宗教的危険性は、
自分自身の信じる宗教的な異常さを指摘すると、
殺戮や裁きの拷問や地獄をイメージしてその本性の悪魔性質をギラギラさせて、
神の名前を使って、敵を非難する蛮行だ。
これを平気で許可する宗教は野蛮な気違い狂気のカルト宗教である。
信じない者は殺しても殺されても然るべしと本気で信じて、
残虐性質を肯定してしまえる気違い狂気のカルト宗教である。 >>482
正しくは十戒はユダヤ人のみに適用される
「なんじの隣人を殺してはならない」というのは本来「同胞」と約されるべきで
自民族を殺してはならないが他民族にはその制約は及ばない まぁキリスト教宣教師やイスラム教徒が「この国の国民は善良でありキリスト教(もしくはイスラム教)が布教されれば必ずや良質なキリスト教徒(もしくはイスラム教徒)になるだろう」なんてコメントが残されている半面、
日本人側からは遠藤周作の沈黙みたいに「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」という見識が日本側にあるのも事実ではある。
が、実態とは関係のない話だな。
そもそも仏教や儒教、ヒンドゥーのようにスピリチュアルな要素に頼らない体系だった宗教が既にあった地域ではキリスト教はあまり普及しなかったし日本に限った話では。
あと戦国時代の日本人の布教実態だがキリスト教が広まっていたかどうかは眉つばだからね。
当時のイエズス会は信者の水増しが行われていてザビエルがインドの現状に幻滅するほどの有様になってる。
キリシタンが現世利益的な信仰形態になっていっていたことからも
正確な布教がされていたかどうかは…
あとインドでも偶像燃やしてたんで加筆した。 「今日の食事がいただけることを天のお父様に感謝します」みたいな
お祈りがあります。キリスト教ではよくある食事前のお祈りです。しかし、
この食事を作った人がいます。その材料は農家や漁師の人たちの努力によって得られ、
様々な流通関係者の手によって届けられます。また、その食事をするためのお金は
働き手が得たものです。つまり、私たちの日々の生活は様々な人の活動によって
支えられているわけです。神に感謝するよりも、人に感謝すべきではないでしょうか。
三浦綾子氏は「旧約聖書入門(光文社文庫)」の中で、空には無数の星があり、
それらが一つの法則にしたがって運行している(これも造物主のなせる技)、
それに比べたら月に行ったと言っても大きな顔は出来ない、と言うようなことを
書いています。しかし、人類を月に送ったのはもちろんのこと、
三浦氏が言及している宇宙の星々の運行(さらに銀河の構造)を解き明かしたのは
人間(科学者たち)です。神も聖書も何も教えてくれず、何の手助けもしてくれません。
このことを三浦氏はどう考えているのでしょうか。
何もしてくれない神や聖書を持ち出して、何かをなし得た人間を不当に低く評価する、
私には非常に傲慢なことのように思えます。 箱根山、駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、捨てた草鞋を拾う人あり >>493
仏教徒や婆羅門教徒のことを偶像崇拝だとバカにするけれど、キリスト教徒の方がよっぽど偶像崇拝的だよね。
たとえば、寺に助けを求めてきた凍えてる遭難者のために仏像を割いて撒きにして暖を取らせた僧の話は、美談の扱いで、僧を非難するような話ではない。
これは、仏教が礼拝に神像のようなものを用いても、神像そのものを崇拝しているわけではなく、あくまでも形式や道具に過ぎないからだ。
対して、幕府のやってた踏み絵。キリスト教徒はイコンを踏ませるだけで簡単に看破できる。
イコンそのものが信仰対象の偶像崇拝だから、足蹴にすることができない。異教徒の持つ形の似た贋物であろうものでも、踏むことができない。
仏教徒なら信心を保つことが重要で道具に過ぎない像を踏むなんてわけないはず。
聖骸布だの十字架にジーザスを張り付けにしたときの釘だのザビエル等々の高僧の遺骸の一部だの、有難がって祀ってるようなものが、なんで偶像崇拝
だと判らないんだろう? 十字架の形を互省大切にして拝んでることからして、偶像崇拝だろうに。 弾圧される前もたいして流行ってないぞ、天草事件は宗教戦争じゃないしな一揆に近いもの浪人との
重税をかけられた農民の不満が爆発した、とわいえ素直にそう言えば綺麗な
感じがしないからキリスト教の戦いみたいにしたアメリカのテロとの戦いと同じ、隠れキリシタンはキリスト教からも自分たちの名前だけ利用したカルト扱いだったし。 日本は識字率も高かったしね
何より一神教ってのがやっぱり合わないよ
台風や地震も多いし川の氾濫なんかもあった
自分はやっぱりキリストなんかよりも自分の祖先の方が守ってくれる気がするし自分の親が異教徒だったらその親の望む宗教で送ってやれないってのはやっぱりおかしいと思う。 ・戦国時代は、キリスト教徒によって日本人が奴隷として海外に輸出されたり、キリシタン大名に神社仏閣を破壊されていたから、こりゃやばいとなって禁じられた。
・江戸時代は、禁教。
・大日本帝国時代は、西洋文明を取り入れる中で上流階級はキリスト教になっていき普及も始まったが、結局国家神道に統制されたおかげで途絶えた。
・戦後は、新興宗教系、特に創価学会系が受け皿となることで、キリスト教化を防ぐことができた。
・現代は、オウム事件によって宗教自体への忌避が高まる事によって、団体に強制されない個人的な信仰へと原点回帰した。 >>498
主導者の天草ふらんしすことか耶蘇耶蘇してるし >>500
>大日本帝国時代は、・・・上流階級はキリスト教になっていき普及も始まったが
馬鹿も休み休み言え!
上から目線の宣教師ばかりよこして日本人の反発を買ってる。
派遣したアメリカの教会は日本人信徒が全然増えないと頭を抱えていたんだがな。 一向宗
真言宗立川流
日蓮宗不授布施派
等々が江戸幕府によって禁止されてるで。 幕府が一向宗禁じたなら京都駅の前にある本願寺はなんやねん
あれは幕府が滅びてから再建したんか? >>506
訊いてみりゃあいいじゃん。
本願寺は、徳川家康以前からある古い教派では例外的に対外積極策をとっていて布教熱心だから、電話でもしてみ。
寺や教派のの正式名称や歴史、一向宗との関係、等々、問い合わせに懇切丁寧に教えてくれるよ。 京阪電車の五条の駅で降りて東向きに歩いて行くと清水寺に至る前に浄土真宗のデカい寺の横かすめて通るだろ 十戒には「人間が造りあげた神像を崇拝してはならない」という
第一番目の掟があります。
自分の救いに都合のよいように心の中に造りあげた<神像>を崇拝することは、
神でないものを神として崇拝する罪です。
聖書を書いた人々は頻繁にこの罪を犯しています。
彼らは心の中に造りあげた神について<勝手な思い込み>で書いているからです。
神について色々と説明する宗教指導者は、神について自身の勝手な思い込みを
語ってますので偶像崇拝していることになります。 ユダヤ人自身がユダヤ教を「文字(ことば)の宗教」といってるがな
偶像崇拝は像を全くつくらなければ起こらない
キリスト教はかつて十字架を拝み、聖人を拝み
聖人の墓に触れて病気を治すなどと言っていた
そこまでいくとほぼ多神教時代の偶像崇拝だ
それもイコンなどから生まれているもの
聖書にかかれている「この地上天上いっさいのものの形を作ってはならない」
これを守ればほぼ偶像崇拝には行き着かない 同じくユダヤ教から派生して、偶像崇拝を禁じるとしてるイスラム教。
信徒の前でコーランの本を棄損すると、その本の所有者でもないのに、怒る怒る。
近代的な印刷技術で作られた安価な写本の1冊でも、な。
その教義を一字一句違えずに経本とせよ、詠みはマホメット当時の発音に従え、翻訳も禁ずる
というような、まさしく言葉の宗教の教義なのに、本の内容や誦ずるべき言葉ではなく、
形になった本の方に対して信心があるかのような振舞だ。
本の形の物に対して信心をはたらかせるっちゃあ、それはそれで偶像崇拝的だろ 懺悔すれば悔い改めればイエスが全部、罪をかぶってくれて、赦され、
天国で永遠の命なのです。
通常なら、罪の意識の直面に伴い、持ち合わせる筈の、悔悟や逡巡を経て、
成長するはずが、毎度毎度、イエスに神に、悔い改めさえすれば罪が赦され、
万事解決とする習慣・精神構造の中で生きてるので、永遠に、人間的成長の機会を
喪失するのです。
罪や過ちを神の名のもとに何でも正当化できるです。
キリスト教やイスラム教が世界に広まったのは、この「都合の良さ」が
あるからです。罪の赦しが、犯罪を正当化するのです。
だからイスラム国なんかでも、虐殺・誘拐・テロを神の名で正当化してます。
熱心なイスラム教やキリスト教の国が治安が悪く犯罪を止めない理由の根源は、
神による罪の赦しなのです。 >>522
仏教もどんな悪人でも阿弥陀如来にすがれば往生できるで >>523
私が念仏以外に何か別の極楽往生の方法を知っていて、またその方法が説かれている
秘密な経典を知っていながら、わざとそれを隠していて、その奥にあるものを
知りたいとここまで訪ねて来られたとすれば、大変な間違いであります。もし
そう思っていらっしゃるなら、奈良にある興福寺や、叡山にある延暦寺を
お訪ねなさるがよろしい。そこには、ちゃんと学問をなされた偉い学者さんが
どっさりいらっしゃいますから、その人たちにお会いになって、極楽往生の秘訣を
よくよくお聞きになるがよろしい。
私は、ただ念仏をすれば、阿弥陀様にたすけられて必ず極楽往生ができるという、
あの法然聖人の言葉を、馬鹿正直に信じている以外に、別の理由は
何もないのであります。念仏をすれば、本当に極楽浄土に生まれる種を
まくということになるのでしょうか。それとも、それは嘘偽りで、念仏すれば
かえって地獄に堕ちるという結果になるのでしょうか。残念ながらそういうことは
私はとんと知ってはいないのであります。たとえ法然聖人がおっしゃったことが
デタラメであり、私は法然聖人に騙されて念仏をしたために地獄に堕ちたとしても、
ちっとも後悔はいたしはしません。といいますのは、私が念仏以外の他の行を
一生懸命勤めて、その結果仏になることが出来るような身でありながら、
念仏をした為に地獄に堕ちるというならば、法然聖人に騙されたという後悔も
起こり得ましょう。しかし、私はそんな知恵も徳行もなく、念仏以外の
他の行によって仏になることなどはとっても期待できない身でありますから、
念仏の行によらなかったら、永遠に地獄にいるより仕方がない身なのであります。
だから皆さん、以上の私の言葉をとっくりお考えの上、念仏をなさるもよろしいし、
念仏を捨てなさるのもよろしい。全く皆様の自由勝手、皆様方がご自分で
お決めになることであります。
--- 親鸞『歎異抄』 バチカンは未だに中絶を禁止してる
そんなもの日本人が受け入れねえっての >>528
一揆を行う現場の人が考えたスローガンにすぎない。
「欲しがりません勝つまでは」が国家神道の教義でないのと同じ。 >>482
もちろん、神の殺人命令は直接来るのではなく、モーセやヨシュアのような
人間を通してやってきます。もっと正確に言えば、モーセやヨシュアは、彼らの
殺人計画を、「これは神の命令である!」、と権威づけて、彼らの追従者に
半ば強制したのです。
実は、ここに、信仰者のための、おそらく唯一の、救いの可能性があります。つまり、
神への信仰を棄てずして、自分の良心にしたがって、殺人命令を否定する方法です。
それは、神の意志と、神の代理者であるとみなされている人間の意志とは、必ずしも
同じとは限らない、という事実を認めることです。神の意志と教会の方針とが
必ずしも同じだとは限らないという事実を認めること(例・ルターの宗教改革)です。
聖書も創世記から黙示録に至るまですべて人間が書いたものです。聖書は神の言葉だ、と
書いたり言っている者たちもみんな人間です。現代の教会を運営している方々が、
たとえ立派な人々ではあったとしても、この人々の意志が完全に神の意志と
一致しているわけではないように、初期のキリスト教会やイスラエル国家を
運営した人々(聖書を書いた人々)の意志も、必ずしも完全に神の意志と
一致しているわけでもないと考えるのは当然と言えるでしょう。これは、実は、
神以外のものを神としない、という聖書の根本的な教えにもなるのです。
こうして、信仰者は、神への信仰を棄てることなく、もし、自分の良心に逆らう命令
(神の意志とは思えない命令)であれば、神の代理者として、自分の前に立ちはだかる人々の
命令を堂々と拒否することができるのです。そして、なによりも、神の前で、
頭をあげて自分の取った行動を釈明することができます。 カトリックには堅信があります。
15歳までにこれを受けると一人前のカトリック信者になります。
それまでは、一人前の信者としてみなされません。
昔は、キリスト教ではない者は人間ではない、という考えがあったので
児童・幼児に対する虐待も、それを引きずっているのかもしれません。 ラーメン屋の店長が、こっそりチンポをスープに浸けてるって知ると、どの店も信じられなくなるだろ?
それと同じなんだよ。 ゴールドラッシュ時代のカリフォルニア、日本が黒船とか戊辰戦争でてんやわんやしている時分ね、
清国人の移民というか半分奴隷みたいなもの、鉱山の採掘とか田畑の所有は禁止されていたけれど
サービス業は比較的自由だった。
洗濯屋と飲食業が多かったんだけれど、しばしばスープに尿をいれたとして、縛り首にされていた。 >>531
カトリック司祭は女犯戒あるから男の子で代用
日本の仏僧かて女犯戒あった時代には男の子で代用してたで カトリックは一番変わりました。
異教・異端は殺してあたりまえ。教会が率先して神の名のもとに処刑をおこなった。
異端狩り十字軍、帝国主義による侵略、植民地支配・・・・・
カトリックの総本山バチカンのローマ法王は
「神の名の下に、先住民に対したくさんの深刻な罪が犯された」
「アメリカ大陸征服の際、先住民に行われた犯罪行為について
謙虚に謝罪したい」と示している。・・・・・そして
「誠実な心で神を探し求め、また良心の命令を通して
認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって
実践しようと努めている人々は、救いに達することができる」
ローマ教皇のコメント
「諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、
まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、当教会が保持し、
提示するものとは多くの点で異なってはいるが、
『真理』のある光線を示すことがまれではない。」
・・・・・となりました。
カトリックが存続できるのは、科学に限らず思想も常識も時代にあわせて
変遷させて存在を維持しているから。
現代では、神の名のもとの処刑から真逆の「人間の尊厳」を言い出し
新しい時代の風潮に合わせて次々に変遷して延命をしている。
そのくせ児童の人間性抹殺になる性的虐待については加害者をクビにし
「被害者に寄り添う祈り」と言っている。
それでバチカンは生き残れる。 ラーメンのスープにチンポ浸けて販売しても許してくれる? >>535
ホモは禁止ちげーのかよ
ホモが多い町2つが神の怒り触れて天罰で絶滅したとか言うソドムとゴモラの教訓はどうしたよ ホモは少年期にホモにホモセクハラされて連鎖する
ショタはホモの継承点
わかっててそれを否定するバカは呪われろ 異性愛・恋愛を禁止しています。
マタイ5:28
女を見つづけてこれに情欲(エピスミア・愛)を抱く者はみな,
すでに心 の中でその[女]と姦淫を犯したのです。
世を愛することも世にあるものを愛すことも禁止しています。
ヨハネの手紙一 2 :15
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、
御父への愛はその人の内にありません。
そして去勢をススメています。
マタイ19:12
天の国の為に自ら去勢した人もいる。これを受け入れることが
出来る者は受け入れなさい。 >>542 十戒〜キリスト教で禁じている「姦淫」とは、婚外の対象との性行為。
結婚していれば罪には問われない。
イエスはそれを徹底させるため、心の中で恋愛感情・性衝動を抱くことも禁止した。
自分が結婚していない相手や、他人の結婚相手に対して
恋愛感情・性衝動を抱いてはいけないということだ。
決して結婚相手に対する愛を否定などしていない。
その「世」とは、キリスト教集団の外側にあるものを指す
すなわちイエスの磔を要望し黙認し実行した当時の周辺世界の体制、
ローマ帝国と、ユダヤ教徒自治集団のサンヘドリン体制だ
引用箇所の続きを読むといい
「16節 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、
父から出たものではなく、世から出たものである。17節 世と世の欲とは過ぎ去る。
しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇」とはギリシャやローマの異教世界の文化、経済体制、
それと妥協するサンヘドリン・ユダヤによる繁栄であり、父から出たものとはイエス教団と未来のキリスト王国のこと。
去勢は「できるならやれ」「それぐらいの覚悟をしろ」ということ。ラクダが針の穴を通れるなんてイエスもさすがに思っていないのに言う、いつもの極論 >>542
で、死海文書の発見でそれが覆った
禁欲宗教はエッセネ派との関係を決定づけてしまう 運命共同体である我々の中だけの規則です。
それを書いただけなのです。
他の諸部族にはそれぞれ信じられている神々があるけれど、
他の部族に何かを強要するわけではありません。 スープにチンポ浸けたラーメン屋の店長は、どうなるの? 「人の子」というキリストを表すことばはエッセネ派の聖典であるエノク書に頻繁に出てくる
つまり本来キリスト教とはエノク書の予言の成就としてあらわれた宗教だった キリスト教の起源は一つではない
「奇跡のラビ」説話、「とんちラビ」の系統の説話、それに
ゾロアスター教、アトン崇拝などオリエントの古代宗教いくつか、
それとは別にパンと魚とワインの地中海カルトがあったらしい パンとワインの聖餐はエッセネ派もそのままやってる
罪の浄化のための洗礼もそう 最初のキリスト教も、様々な教えをする教団がありました。
それが4世紀に正統派に1本化され、その教えに従わない教団は
異端とされ、悪いものとして排除されました。追放や死刑にされ、
ローマ帝により教えの文書を燃やすよう命令され残っていない。
正統を正統たらしめる権威---それは反対派を死罪にできる権威---が無くなってからは、
また最初の状態が出現した。人間の宗教心の特性はそういう多様性を持つものです。
人の神への理解は多様に花開くものです。 仏教の陰に隠されていたから意外に信徒は多いはずだ。宗教を改宗までつなぐには
歴史的時間がかかる。 初めまして。
難しい事は全然分かりませんが、私は12年前にカトリック教会で洗礼を受けた者です。
実は、何と12年かかって、キリスト教が大嫌いになりました。
教会での差別的仕打ち、イジメ、そしてクソ真面目に聖書の教えを守ろうと必死にがんばって、
ハッキリ言って人生酷い目に会いました。
神父からも「ストレス発散の対象」ばりに冷たくされ、シスターからは「離婚経験者」ということで、ゴミクズのように言われました。
何か「福祉的」な活動にやたら駆り出された挙げ句、「あんたはこれやっててね、私はミサに出てくるから」と、教会の建物の外でミサの間中雑用。
そんな事がしょっちゅうでした。
さらに、散々お世話した「代母さん」が、老人施設に入ってしまったので、お見舞に行こうと思って施設に念のため電話したら、
「教会関係の人だからって、別に来ていいわけじゃありませんけど?」
・・・他の信者さんは行ってるのに。
しかも、散々お世話したはずの自分が、「余計者」扱い。
馬鹿馬鹿しくて、ついにキレました。
キリスト教関係のもの(ロザリオ、絵、ミニチュアイコンなど)全て段ボールにしまって、今後一切キリスト教には関わりたくありません。
何か愚痴になってしまいました、ごめんなさい。
とにかく腹立つ。教えも、今となっては
「きれいごと言ってんじゃね〜よ、偽善者の集まり!!」
としか思えない。 テメーら全員クタバレと言ってあげなさい。神はあなたを優しく見ておられます。 自伝によると、M.ガンディーは少年時代はキリスト教が嫌いだったそうだ。一部抜粋する。
「私の父にはムスリム(イスラム教徒)やパールシー(拝火教徒)の友人がいて、よく父は彼らの宗教の話に耳を傾けていた。
しかし、私はキリスト教は嫌いだった。何故なら宣教師たちはヒンドゥーの悪口ばかり言っていたからだ。
キリスト教に改宗したヒンドゥーは西洋の服を着て、肉を食べるようになったので、キリスト教とは服を変えさせ、肉を食べさせる宗教なのだと思っていた。こうして私の幼年期のキリスト教嫌いが出来上がった」
もちろん成人した後はキリスト教のよい点を認めるように
なったのだから、さすがマハートマー(偉大なる魂)の尊称に相応しい。
一凡夫の私も子供時代、キリスト教に関しては不快な思い出がある。
小学三年生の頃、校門前で外国人のキリスト教宣教グループが
説教してるのを見かけたので、好奇心から近寄っていった。ちょうど下校時のためか、すでに大 勢の子供たちが集まっていた。外国人たちが掲げていたキリストの
磔刑や復活の絵は大きくて派手なので目を引いた。
彼らが何を説教したのかまるで記憶にない が、最後に言った文句だけは憶えている。
「みんなも地獄に落ちたくないでしょう?キリストを信じない人は地獄に落ちるからね」。
こう言った若い白人女の端正だが厳しい横顔は今でもはっきり思い出せる。
この人たちの言っている事はおかしい、間違っていると、強烈な嫌悪感を覚えたが、 悲しいことに
無知な子供ゆえ理を持って反論など出来るはずもない。とにかく不快でならなかったので、その場を離れるのが関の山だった。
「××を信じないと、地獄に落ちる」は宗教の脅し文句の常套手段なのだが、“マハートマー”の精神など皆無の私は未だにキリスト教の長所をほめる気にはなれない。 究極的にはキリスト教の思想の根本には「審判」の思想があります。
聖書は「救いかそれとも滅びか」と迫ります。
片方の道は「死」「永遠の滅び」「地獄」「悪」の道です。
それゆえ、聖書とは、それをまじめに読む者に「信じるか死か」と迫る
一つの「逆踏み絵」であるとも言えます。
かつて、キリシタンたちは「棄教か、さもなくば拷問と死」の選択を
迫られましたが、聖書を読む者も、「信じるか」さもなくば
「火と硫黄の池に投げ込まれる」(ヨハネの黙示録20:10)か、という
選択を迫られているからです。
心の底から納得しているわけでもないときにも、信じなければならない
--- そういうふうに自己を追い込む一つの強制的装置のようなものが
聖書の思想の構造にあります。 旧約聖書の創世記を要約すると↓
エデンの園でアダムが言った。
「神様、聞いてください。ここは美しい楽園です。でも、私は孤独で
しょうがなく、リンゴを食べてしまいそうです」
「分かった」神は答えた。「では、私はお前のために、女を作ろう」
「女って何ですか?」アダムは尋ねた。
「彼女は、穏やかで優しく受容的な性格の生き物だ。
お前の言いつけを守り、決して逆らわず、勤勉で、倹約家でもある。
しかも、彼女は魅力的で、美しい。
洗濯をしたり、料理をすることが出来る。それに
ベッドの中で、彼女はとても素敵なことをしてくれるだろう」
「なんだか面白そうだな」とアダムは言った。
「よしよし、では女の創造にとりかかるとしよう。
そのためにはお前の肋骨を12本、それに心臓と胆のう、それと
片方の目を材料として取り出さねばならぬ」
「えっ、それは困るなぁ。なんとか肋骨一本くらいに節約
できませんか?」
「う〜む、少し難しいがやってみよう。
そのかわり、出来の方は保証しかねるぞ」
こうして女ができた。 神と人類の間の断絶を生んだアダムの罪が重ければ重いほど、断絶が深ければ深いほど、
イエスの死の価値が上がります。
「悔い改めて神に立ち返れば、そこに神の導きと祝福がある」という旧約聖書、
「悔い改めよ、神の支配は近づいているのだから」というイエス自身の教え。
「アダムの罪は神と人類の間に、我らの教祖であるイエスの死を仲介にしなければ、
取り戻すことのできない決定的な断絶を生んだ、よって、我らの教祖を信ぜよ」という
教えがキリスト教。 そのアダムの罪とはなんだったか?
アウグスティヌスは性行為と言ってる
つまりアダムとイブが性行為という死に至る悪徳を生んだゆえに人間に悪徳が芽生えた
故にキリストの教えにしたがって、修道院に入り、性行為をたち、ただしく生きれば天国へ行ける
という
エッセネ派と同じ競技だったのが初期キリスト >>56
そのくだり、ほとんどそのまんますぎて長さ的にちっとも「要約」になってないだろう
長文なのは構わないけど、なんでお前の書く文章ってこうだらだらして中身がないの ガンジーはこれ(神=キリスト教徒自身(=ほぼ悪魔))を見抜いていたようです。
『西洋のキリスト教が実際に行っていることを考えるに、キリスト教ヨーロッパは、神の、あるいはキリスト教
の精神を代表していない、むしろサタンの精神を表している、というのは私の堅い信念である。
そしてサタンの成功が最大のものとなるのは、その口に神の名をのせて現れるときである』 (ガンジー)
ろくに修行もせず努力の
必要性を投げ捨てている愚者だけが
即・神と直通になれるなら、人間が神によって腐り切ってしまうのも
仕方がない… 自己の願望・自己愛が神の名で増長していくだけの、愚かで無効な信仰がキリスト教です。
「三位一体の神の御名において、売れる奴隷という奴隷をどんどん送り続けよう」(コロンブス) 自伝によると、M.ガンディーは少年時代はキリスト教が嫌いだったそうだ。一部抜粋する。
「私の父にはムスリム(イスラム教徒)やパールシー(拝火教徒)の友人がいて、よく父は彼らの宗教の話に耳を傾けていた。
しかし、私はキリスト教は嫌いだった。何故なら宣教師たちはヒンドゥーの悪口ばかり言っていたからだ。
キリスト教に改宗したヒンドゥーは西洋の服を着て、肉を食べるようになったので、キリスト教徒は服を変えさせ、肉を食べさせる宗教なのだと思っていた。
こうして私の幼年期のキリスト教嫌いが出来上がった」
もちろん成人した後はキリスト教のよい点を認めるように
なったのだから、さすがマハートマー(偉大なる魂)の尊称に相応しい。
一凡夫の私も子供時代、キリスト教に関しては不快な思い出がある。
小学三年生の頃、校門前で外国人のキリスト教宣教グループが
説教してるのを見かけたので、好奇心から近寄っていった。ちょうど下校時のためか、すでに大 勢の子供たちが集まっていた。
外国人たちが掲げていたキリストの
磔刑や復活の絵は大きくて派手なので目を引いた。
彼らが何を説教したのかまるで記憶にない が、最後に言った文句だけは憶えている。
「みんなも地獄に落ちたくないでしょう?キリストを信じない人は地獄に落ちるからね」。
こう言った若い白人女の端正だが厳しい横顔は今でもはっきり思い出せる。
この人たちの言っている事はおかしい、間違っていると、強烈な嫌悪感を覚えたが、 悲しいことに
無知な子供ゆえ理を持って反論など出来るはずもない。とにかく不快でならなかったので、その場を離れるのが関の山だった。
「××を信じないと、地獄に落ちる」は宗教の脅し文句の常套手段なのだが、“マハートマー”の精神など皆無の私は未だにキリスト教の長所をほめる気にはなれない。 キリスト教が世界各国の植民地支配の前段階で宣教されていったのには
理由がある。それはキリスト教会の教えが服従の構造を生み出してくれるからである。
キリスト教は神、キリストへの服従、愛、受容
(または寛容)、忍耐を教える。これら一つ一つは素晴らしい道徳であり、これらを守り生活すればより豊かな人生を歩めるだろう。しかし、これは個人レベルの話しである。
民族とか国家という大きな枠組みでキリスト教の
教えを受け入れてしまったならば、それは悲劇をもたらすことになる。
支配者にとって被支配者はなるべく自分たちに従順であることが望ましい。
その次に望ましいのは不満を持ちながらもそれを爆発させずに反抗しない被支配者である。
キリスト教の教えは被支配者に服従の構造を与えてくれる。
たとえ、自分たちの支配者が自分たちに不利益な行いをしようと、愛と受容と忍耐を教え込まれた被支配者たちは、支配者たちに抵抗することは無い。
それは、抵抗することは教会が教える愛の精神に反するからである。殴られたら殴り返すのではなく、ただ無抵抗に耐えるのが教会が教える愛と受容と忍耐である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています