キリスト教は何故、日本で広まらなかったのか 2
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イスラム革命はイランからペルシャ的なものを否定し、貶める、という側面もあり、
共産革命がその国の伝統を否定し、貶めることに近い。 中東はイスラエル史しかやってないからあれなんだが、ホメイニ師が出てこないで白色革命が続行されてた方がイランは良かったんじゃないか
政教一致政策でまた中世に逆戻り Re: 不思議だよね、
> 離婚と同時に20年通ってた教会に行かなくなった。
> DVあったんだけど、牧師からは「妻は夫を支えて・・・」って言われ続けたもんで
> 自分が壊れる寸前までビクビクしながら10年以上暮らしたよ。
> 通っている間は、教会から離れたら地獄に行くみたいに思ってた。
> 私にはすんごい高いハードルの宗教だった。
私も、教会から離れたら神の罰を受けるかもしれないとビクビクしていました。
教会側としては、そういう風に教えたつもりはないと言うでしょうけど、
どうもキリスト教には人の心を縛り付ける魔力のようなものがあるように思えます。 縛り上げた自分の心の鬱屈を晴らすために、異教の地で宣教して報復感情を満たす代替行為が盛んになる。
異教の地を混沌に陥れ征服することで勝利者の達成感を得る。これが一神教が拡大できた秘訣といえる。
窒息を逃れるためにもがいて泳ぎ続ける感覚。こういった強迫観念は勢力拡大に必要不可欠。 モンゴルって多神教だけど、一神教をフルボッコしまくったが、あれは異例か? 軍事的に強い多神教民族というのはモンゴルあたりまでかな
そのちょっと前のヴァイキングも多神教、もう少し前のヴァンダル人、
キリスト教化したあとのローマをも苦しめたゲルマン人もまだ多神教
あと、ブリテンを制圧中のアングロサクソンはまだ異教からキリスト教に移行する途中で、
ケルト系住人のほうが先にキリスト教化して文字文明が進んでいたが
(ドルイドがいたのはカエサルの時代だから500年前の話)
軍事的には弱かった
ここ500年ほどはアメリカインディアンが一時的に頑張ったぐらいだが、
それでも新大陸の先住民はみなキリスト教勢力に押され、
土着の宗教は失われたか風俗習慣の一部に残る程度
ブードゥー教のような異教はあとから創造されたもの
という時代の違いがあるね アメリカって白人崇拝の覇権主義なの?
西部開拓時代だってそこまで行ってなかったよ Re: 不思議だよね、
> 離婚と同時に20年通ってた教会に行かなくなった。
> DVあったんだけど、牧師からは「妻は夫を支えて・・・」って言われ続けたもんで
> 自分が壊れる寸前までビクビクしながら10年以上暮らしたよ。
> 通っている間は、教会から離れたら地獄に行くみたいに思ってた。
> 私にはすんごい高いハードルの宗教だった。
私も、教会から離れたら神の罰を受けるかもしれないとビクビクしていました。
教会側としては、そういう風に教えたつもりはないと言うでしょうけど、
どうもキリスト教には人の心を縛り付ける魔力のようなものがあるように思えます。 織田信長の部下たちが比叡山焼き討ちを行った時も同じような恐れの感情を持っただろうね。 >>792
残念ながら叡山焼き討ちなんてあんまり珍しくないのだよ 歴史的によくあることでも、本人らにとっては初めてのことだよ。 キリスト教の思想の根本には「審判」の思想があります。
聖書は「救いかそれとも滅びか」と迫ります。
片方の道は「死」「永遠の滅び」「地獄」「悪」の道です。
それゆえ、聖書とは、それを真面目に読む者に「信じるか死か」と迫る
一つの「逆踏み絵」であるとも言えます。
かつて、キリシタンたちは「棄教か、さもなくば拷問と死」の選択を迫られましたが、
聖書を読む者も、「信じるか」さもなくば「火と硫黄の池に投げ込まれる」
(ヨハネの黙示録20:10)か、という選択を迫られているからです。
心の底から納得しているわけでもないときにも、信じなければならない
--- そういうふうに自己を追い込む一つの強制的装置のようなものが
聖書の思想の構造にあります。 「最後の審判」の概念はもともとゾロアスター教からユダヤ教が取り入れたのがキリスト教に派生したんじゃないか? >>797
その思想自体も色々発展してるよね
「キリストを信じなければ地獄」であれば
キリストの教えが伝わる前の日本人とかどうなんだ?みたいな話になる
それに対する反論で「キリスト教知らない地域は地獄に落ちない」みたいな意見も出てきて
それに対してドストエフスキーは「棄教者は死の間際にはそれを放棄してるのだから地獄にも落ちない」みたいなことを書いていた そういやカトリックは本来キリスト教が禁じてる偶像崇拝やりまくってるけどあれどういう理論なの?
伝統派って謳っておきながら思いっきり聖書に背いてる気がするんだが もうキリスト教では無いからな
豚肉も食うし、チンコの皮も切らないし カトリックの説く十戒では偶像崇拝禁止が削除されている >>801
神以外を連想するものは駄目だがそれを見て神を連想するものは許されるというこじつけ理論
出エジプト記ではシナイ山ふもとで金の雄牛を崇拝したモーセの兄弟アロンを含めたイスラエルの民を罰したが、その後十戒を封印した契約の箱の上に二体の天使像を作れと言ってる
つまり聖母や天使のような三位一体で語られてるものはオッケーというのがカトリックの認識 本当はヨーロッパで布教活動をする中で、当時のヨーロッパは土着神やアニミズムの風習があって偶像崇拝が普通だったから目に見えない神の信仰は簡単に受け入れられなかった
だから簡単に布教できるように十字架や聖母の偶像を使って布教したのがそもそものきっかけ。アイルランドやスペインみたいな熱心なカトリック国は聖人信仰が今でもすごい なんかカトリックの話しばっかりしてるな
偶像崇拝なら正教のほうがもっと酷いのに 慰安婦像や徴用工像がそうであるように遺恨は偶像になりうる >>807
レオン三世が聖像禁止令を出してる
その後もイコン崇拝の風潮が酷くなるたびに禁止令が出てるし
イスラムからも正教のイコンは常に非難されてた 正教のイコンは教会が公認したデザインのものしか認められずカトリックみたいに勝手にいろんなイメージで作る事は許されない >>809
日に五回、カーバの黒い石に向かってお祈りしなさい。できれば一生に一度はカーバに詣でて間近で拝みなさい
って、イスラム教も大概に偶像崇拝なのにな カネのかかる偶像崇拝とカネのかからない偶像崇拝の違いでしかないでしょ。 >>812
仏教も、道教も、婆羅門教も、エジプトやギリシャ・ローマやスラブやノルドのペイがニズムも、神像・神画にはそれぞれにお約束事があって、
一目で何の神様か判るようにデザインされてるよ。
で、大抵は、宗教美術品はその土地その時代の最高レベルの芸術性・技術で作られる。
なのに正教会のイコンって見劣りするよねえ。小学生に描かせた似顔絵レベル 写実的ならいいってもんじゃないんだよ。
縄文時代の土偶と同じで意図的な簡略化を重視する宗教もある。 チベットやモンゴルの仏画とか、古代エジプトの神像・壁画とか、おもくそ簡略化してるのに、芸術性高いじゃん。 イコンが芸術的に見劣りする?
何言ってんの?
似顔絵レベルってなんか勘違いしてんじゃないの? ただ似顔絵レベルでなくて、小学生の描く似顔絵レベル >>813
あれは「対多神教戦勝記念碑」なんだよ。 え?カアバ神殿の黒石は多神教時代からあったでしょ。黒石のまわりに偶像360体が置かれていた。 カーバ神殿とソロモン神殿はサイズが全く同じらしいね 口では隣人愛とかもっともらしい綺麗ごとを言うくせに
やってることが奴隷商売とか汚いことをやらかすので、邪教と断じたんだろう。 >>825
隣人愛って同じキリスト教徒だけが対象じゃなかったっけか
ローマ信徒の手紙でもパウロは異邦人にはかなり優しかったが異教徒には辛辣にあたってたような >隣人愛って同じキリスト教徒だけが対象じゃなかったっけか
布教の際には「キリスト教徒だけが人間であり、異教徒のお前らは奴隷」などと公言はいていなかったようだ。 カトリックは十字架そのものに祈らせ、願い事させたり
聖人の墓に触れたらなんか起きるみたいな
そもそも考え方が偶像崇拝
同じように文字書かれた御本尊に祈る創価も偶像崇拝でしかない
石だったらOKとか枝だったらOKとかないから >>822
黒い石は、マホメットが、天使ギブリールから預言者の持ち物として、授けられた記念品だろ。
アダムもノアもアブラハムも貰ってた。
カーバが多神教時代から神殿だったというけれど、それ、別段、珍しくないし。
イスラム教は他宗教の信仰を挫く目的で、宗教施設を乗っ取ったり破壊したりは、あちこちでやってる。
キリスト教の総本山を乗っ取ってモスクとして使ってるイスタンブールのハギアソフィア聖堂とか、な。
信徒がみんなして改宗したからってことではなくて、征服者のイスラム教徒がキリスト教の信仰を挫くために
そういうことをやった。
アテナイのパルテノン神殿もオスマン帝国時代にはモスクにされてたし、カイロのモハメドアリのモスクは
ピラミッドの外壁の白い石の化粧石を剥がして造ったし、エルサレムの岩のドームもユダヤ教の聖地を
壊して建てられてる。 キリスト教は昔からイスラム教には強いよね。自力で追い返せたくらいだし。
その変わり仏教には弱い。その仏教は、イスラム教に弱い。
いま、動物愛護とか叫ばれてるけどカトリックは動物愛護の宗教じゃないから。
いまだに、動物に魂はあるのか動物は天国にいくのか議論してる宗教だから。
プロテスタントの方は知らん。 >>831
まあ全ての国に当てはまるわけじゃないが大体的を得てると思うよ
120年前に書かれた書物だけど、流石先人は偉大だよ >>832
「プロテスタントの方は」なんていう言い方したら
まるでキリスト教がカトリックとプロテスタントの二つに二分されてるみたいやん
正教はどうした? わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
(白取春彦「勉学術」) >>829
どう屁理屈をつけても、あれは明らかに多神教の「御神体」由来だろうにw
神道の御神体と同じ。「石神」だな。
石神への崇拝要素を、敢えてほんの少しだけ残すことで、
メッカにおける信者の取り込みと教義の安定化を図ったんだろうね。 ハッジはイスラエル、ユダヤ教にも見られた
離散ユダヤや軽い改宗者が何万人もエルサレムへ巡礼した
お金もうかるしセム系の思想だろう サヒーフ・ムスリム 巡礼の書 黒石への口づけに関して
http://www.muslim.or.jp/hadith/vol2-353.html
サーリムは彼の父からきいて伝えている
ウマル・ビン・ハッターブはカアバの黒石に口づけしたあと、次のようにいった。
「アッラーに誓って、私はお前が、ただの石にすぎないことを知っている。
もしもアッラーのみ使いが、お前に口づけなさるのをみなかったら、私は決してお前に口づけはしないだろう」
ハールーンは「これと同内容のハディースをザイドもその父アスラムからきいて伝えている」と述べている。
イブン・ウマルは伝えている
ウマルは黒石にキスしながらこういった。
「私はお前にキスするが、勿論、お前が単なる石塊にすぎないことを知っている。
ただ、私は、アッラーのみ使いがキスなさったのをみたことがあるため、このようにお前にキスするのである」 キリスト教を世界宗教にしたてあげた主要な国々
ローマ帝国・スペイン・ポルトガル・イギリス・フランス・アメリカ
これらの帝国主義の世界戦略(植民地)合理化のために都合の良い
イデオロギーを提供したのがキリスト教です。
普遍的価値観+他人を助ける善人意識=帝国主義のイデオロギー
という公式が世界史においては成立します。
自分の価値観を普遍的なものと思い、かつ、世界にそれを広めなければ
世界は良くならない、というような種類の考え方なのです。
あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。
(マタイの福音書 28:19)
これは、「行って、世界の人々を私の追従者にせよ」、という命令なのです。
他人の考え方や生き方を変えてやろうとする、それが、布教・宣教・伝道なのです。
他人の考え方や生き方を変えてやろうなどという傲慢な態度を捨てることが、
キリスト教を捨てるということの本当の意味です。 >>837
幕末の日本人もやたら伊勢神宮や熊野大社に詣でたがって幕府も大名も領民の巡礼を止められない
雇主も丁稚や女中の休暇願を断れないで全国から大挙して伊勢・南紀へなだれ込んでいた。
セム系だね 仕立て上げたもんじゃないから違うかな
イスラエルは第三神殿を作ろうとしてる
第三神殿は世界からユダヤ人、ユダヤ教シンパを大量に集めるようになるだろう
エルサレム巡礼は再開される 黄色人種じゃん。
黄禍論とか、ユダヤ人やらトルコ人やらアラビア人やらインド人やら支那人やらチョヅいてて困るわーってのだし。 >>844
アラブ人がモンゴロイドって、どんな世界に生きてるんだおまえ >>845
モンゴロイドとは言ってないよ?
骨相と肌の色とは別じゃん >>846
アラブ人の肌の色そもそも黄色じゃない
そしてインド人(特に北インド)はアーリア人(コーカソイド)
ペルシア(イラン)人も、当然ながらアーリア人
何か勘違いしてるんじゃねーの 聖書のセムの広がり、国、民族みても
モンゴロイドが含まれるわけがない それ言ったら、日本人や支那人やモンゴロイドの本場モンゴルの人も、肌の色は黄色ではないけれど? 心の不安は無知から生じるものです。本当は何も知らないのに、まるで
知っているかのごとく「聖霊様も、導きも、永遠の命もあります」と信じ込んで、
無知にも関らず「心の平安」を得たりするのは、知的良心の麻痺状態を
あらわしています。知らないときは知らないことを認めるのが
知的良心というものです。信仰は知的良心を麻痺させます。
聖書は、徹頭徹尾、人間の立場から読まねばなりません。どんなに
「神様の御胸は何か」と尋ねても、人間が人間であるかぎり、それは、
「神様の考えはこうであろう」と考える人間の考え、でしかないからです。
そのことに思い至らなければ、一人の人間の一つの解釈にすぎないものを、
「神の考えそのもの」だと思い込んでしまうでしょう。キリスト教信者が、
自らを神と非信仰者の仲介者の立場に置き、しばしば、非信仰者に対して
上から見下げるような態度で臨むのは、彼らがそのことに気がついていないからです。
人々が「聖書は真理だ」と信じるためには、彼らが聖書を研究しないこと
(自分の都合に悪いところには目をつむる)が必要です。キリスト教信者は、
聖書に関する書(信仰者に都合のよいことしか書いてない)は読みますが、
聖書そのものはあまり学びません。教祖信仰を支えているものが
教祖に対する無知であるのと同じように、聖書信仰を支えているものは、
聖書に対する無知であり、真実を知ろうとする探求心の欠如です。 >>852
ok。
「私はお前にキスするが、勿論、お前が単なる石塊にすぎないことを知っている。」まで読んだ。問題ない。 「エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上っていくと、町から小さな子供たちが出て来て彼を嘲り、「禿げ頭、上って行け。禿げ頭、上って行け」と言った。(2:23)」
「エリシャは振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。(2:24)」
感動すら覚えるわ のぼっていけってのは天にめされろの意味で死ねってことらしいな 古代イスラエルは砂嵐と常食がカシュルートでパサパサの羊肉やから育毛には最悪な環境やからな、そらハゲるやろうな |
| 彡⌒ミ
\ (´・ω・`)また髪の話してる
(| |)::::
(γ /:::::::
し \:::
\ 宣教師たちは自身を「隣人愛と博愛の人々」と日本人に印象付けをしたかったようだが、
うまくいかなかったようだ。 日本の歴史や文化を理解しようとしないでキリスト教を押し付けてきた無能宣教師達が悪い
先祖崇拝自然崇拝が当たり前の中でただ唯一神のみ信じろというのは無謀に近い
未開の島国や小国なら力づくの布教でもなんとかなったが如何せん日本に来るのが遅すぎた イエス・キリストは復活したのではなくて、仮死状態から生き返ったにのに過ぎないだろ。 近年は動物愛護とかいわれてるけど。動物愛護って、キリスト教の反するんだよな。 欧米で動物愛護を唱えている人たちは
ヒッピー運動の流れでヒンドゥー教にハマった人たちだろう 全ては神の被造物で動物も自然も神が人間に与えたものだからね
犬猫なんて可愛がったり飼ったりなんかしたらそらもう火炙りよ 日本にキリスト教が広がらなかったのは浄土教のせい。
事実上の一神教である浄土宗や真宗のような浄土教が日本で一番教勢が強い。
韓国などは浄土教はない。
キリスト教に引かれる層は浄土教が吸収した。 世界各地のキリスト教を受容した地域・民族の、受容した時期の開明度を比べてみろよ。
土人そのものの野蛮時代か、精々古代レベルだぞ。
中世型封建制にまで達していて国・地域ぐるみでキリスト教を受け入れたところは無い。
南蛮人が来た時代、日本は既に歴史が進みすぎていて、キリスト教を受け入れるほど未熟でなくなっていた。 >>868
浄土系よりは日蓮宗のほうが一神教っぽいぞ >>861
暗黒の中世の退廃した教会制度で聖職者達が無教養化したのがデカイわな
古代の使徒達はクリスマスだのヨーロッパ各国の土着宗教を上手く組み込んで同化させていったのに1000年後の使徒達はそれが出来なかった >>870
多神教は本来ハレとケみたいなタブーが多く複雑な儀礼を伴う。
一神教は単純明快。単純明快なほうが安心して信仰できる。その需要は多かったはず。
念仏が事実上一神教というのは指摘があって久しい。 >>873
それはごもっともだが浄土宗という所詮仏教の一派がキリスト教の防波堤になったとはとてもじゃないが考えられない 浄土教とキリスト教の共通点は、
「宗教的な罪の観念」を煽った上で、「至高的存在がその罪から救ってくれるから信じろ」
という内容の救済宗教ということだよ。
戦国末期の日本人信者の大半は、この感覚で入信したと思われる。
中世日本人の宗教観念とはとても適合的だった。
一神教的というのとは微妙に違う。
救ってくれる存在が何柱もあると布教上不都合なので、一神教的になるけどね。
一神教でも、イスラム教にはこのような意味での救済宗教性は乏しい。 イスラム教は
ひたすら神を畏れ崇め祈れば
もしかしたら審判で天国へ行けるかもしれないっていうもの
それって救いじゃないの? イスラム教は地上の楽園を建設する方に関心があって神様はぶっちゃけ二の次。
信仰の要素はスーフィーの修行や聖者崇敬で補っていたけど、これも内面的な救済という方向ではない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています