心の不安は無知から生じるものです。本当は何も知らないのに、まるで
知っているかのごとく「聖霊様も、導きも、永遠の命もあります」と信じ込んで、
無知にも関らず「心の平安」を得たりするのは、知的良心の麻痺状態を
あらわしています。知らないときは知らないことを認めるのが
知的良心というものです。信仰は知的良心を麻痺させます。
聖書は、徹頭徹尾、人間の立場から読まねばなりません。どんなに
「神様の御胸は何か」と尋ねても、人間が人間であるかぎり、それは、
「神様の考えはこうであろう」と考える人間の考え、でしかないからです。
そのことに思い至らなければ、一人の人間の一つの解釈にすぎないものを、
「神の考えそのもの」だと思い込んでしまうでしょう。キリスト教信者が、
自らを神と非信仰者の仲介者の立場に置き、しばしば、非信仰者に対して
上から見下げるような態度で臨むのは、彼らがそのことに気がついていないからです。
人々が「聖書は真理だ」と信じるためには、彼らが聖書を研究しないこと
(自分の都合に悪いところには目をつむる)が必要です。キリスト教信者は、
聖書に関する書(信仰者に都合のよいことしか書いてない)は読みますが、
聖書そのものはあまり学びません。教祖信仰を支えているものが
教祖に対する無知であるのと同じように、聖書信仰を支えているものは、
聖書に対する無知であり、真実を知ろうとする探求心の欠如です。