ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ16
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ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ
文明が終わるということ
識字率そこそこ → 神父以外文盲
上下水道完備 → 糞尿垂れ流し
食器と食事道具 → テーブルのくぼみに盛り付けて鷲掴み
街道は安全 → 野盗・山賊だらけ
貨幣経済 → 物々交換
地中海貿易 → サラセン海賊跋扈
巨大建造物 → アーチすら作れなくなった
各地の特産物からなる豊かな食生活 → 雑穀雑穀雑穀、ちょっと小麦
地中海の覇者 → フン族、アヴァール、マジャール、ヴァイキング、イスラム、モンゴル、オスマンにボコボコ
人類史上最も幸福な時代 → 重税、蛮族の侵入、疫病、餓死、王侯貴族による圧政、教会による支配
前スレ
ローマ帝国滅亡から暗黒の中世へ15
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1618617448/ ゲルマンは野蛮というがそれはローマ人と比較しての話
金属加工などの技術はかなり高度だった
それだけローマ文明が凄かったということになる
ゲルマンを野蛮というのなら同時期の倭人はモンキー >>325
ルックスがいいって何だ
みんながみんなガリア人をかっこいい美しいとは思わないだろ ガリア人と今のフランス人はだいぶ違うだろうしな
遺伝子が同じでも柔らかいもん食べりゃ顎も小さくなる ちなみに、ゲルマン人のことを古代ローマ人は「蛮族」とは扱っていない
古代ローマ人から「蛮族」とされていたのは、主に東方から来る人々だった ガリー人もゲルマニー人も蛮族じゃないのか?
蛮族でないならどう扱われていたのだ 西ローマ領域だと時代によって変化してる
共和制時代はエジプト・ギリシャ以外全部蛮族
ガリア平定後は元老院にガリア人増えてきてあまり呼ばれなくなった
ゲルマン人も傭兵や領国内に多く見られるようになって薄まった
西ローマ崩壊後の東ローマは一貫して西欧全部蛮族扱い >>337
> 西ローマ崩壊後の東ローマは一貫して西欧全部蛮族扱い
いわゆる西ローマ崩壊後も、東ローマは西ローマを蛮族扱いなんてしてないぞ
フランク人ですら蛮族にされたのはピピンが教皇と対立して以降のこと フランク人が長らく蛮族と呼ばれなかったのはカトリックだったからだね
イタリアのアリウス派なんかは東側と険悪な時期には蛮族よばわりされてたりするよ フランク人が蛮族でなかったなんて初めて聞いたな
ガリア人に類するものとして扱われていたのか? 修道院運営シム『Monastery Builder』発表、日本語対応。パン焼きにワイン造りに病院運営、坊主の仕事はラクじゃない
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20211030-180810/
本作は日本語表示に対応する
対応してくれのはありがたいが何人買うんだってくらいマニアックじゃね >>340
数世紀に亘りローマ人として活動していたのも大きい フランク族とゴート族はローマの傭兵してたから準ローマ人みたいな感じ? 蛮族とされてなかったのはブルグント族も同じだが法則とかあんのかね >>344
「フランク人」と「ゴート人」は優秀な兵士を意味する一般名詞的にも使われてたんで、ローマ人を指しても平気でフランク人やゴート人と呼んでたりする
同一人物が宮廷詩人としてはローマ人の○○なのにバガウダエと戦ってる間はフランク人の○○になってたりする >>345
どこの地域も蛮族と言うのは詳しく知らない下品な集団を指す
下品な言動だったとされる事も深く知って行くうちに高尚とは認めないにしろ一定の理解を示す
つまり友好関係や協力関係等で交流があれば見方も変わる >>344
フランク人やゴート人の中にもローマ人はいるし、ローマ人の中にも普通にフランク人やらゴート人やらヴァンダル人やらスキタイ人がいる
それらは相反する属性じゃないので当然のように両方の属性を持ってる人たちがいる
というか、歴史に名前が残ってるレベルのフランク人やゴート人はだいたいローマ人だと思っていい まあ、数多の部族をローマ法の下に寄せ集めたのが「ローマ人」って概念だしねぇ ローマ人てのは一種の階級
中華風の礼法を学べば誰でもなれた同時代の華人と似たようなもん ローマが東方を支配下においたあたりでローマ人の意味も変化してる感じがあるね
カッシウスディオあたりがわかりやすい >>347
>末期ローマ終わってんなぁ
むしろ末期ローマの特に西側は不寛容な方
東側ならローマ人とされてる人たちまで西側では「純粋なローマ人」なる幻想によって排斥されていった
そうして門戸を閉ざして偏狭になった西側は、ゲルマン人らをガンガン取り込んで成長していく東側に完全に後れを取ることになった 今移民受け入れて治安悪化やその他諸々で苦しんでる西欧諸国みると排外主義は仕方ないと思う >>1
何と地中海が危険な地域でヨーロッパ人が
イスラム教徒に拉致されて奴隷にされた時代は
中世千年で終わらず、近代になっても19世紀前半まで続いたのだ 故にヨーロッパ人は北アフリカの海賊を平定した米英仏を奴隷貿易を廃止し、
ローマ滅亡以降危険になった地中海を平和にした
大善政と崇めずにはいられなかっただろう!
北アフリカの植民地化は他の地域と違って
ヨーロッパ人にかなり肯定的な評価があったはずだ >>360
今北アフリカから来てるのは難民だ
その中で仮にイスラム過激派のテロリストが
いたって、19世紀初頭の地中海よりはましだ
北アフリカの海賊が平定されるまでは
掠奪と通常貿易は並行して行われ、
貿易は今より遥かに命懸けだっただろう イタリア人のドイツ人のイメージって、
かなり良くない部分はあるだろうね
ローマ帝国末期に国土を荒らしただけではない
もっと後代にもドイツ皇帝の軍隊がローマに
掠奪に来たし、第二次大戦末期にはイタリア
にとって沖縄どころか九州に相当するシチリアを
連合軍に占領されて降伏しても、逆に裏切り者
として攻め込み、連合軍との地上戦を強要した
だからイタリア人がドイツ人を大嫌いになっても
不思議じゃない 中世にはイタリア人もドイツ人を拉致して
イスラム教徒に売り飛ばす事をしてたから
大戦中に同盟関係はあっても
お互いイメージは最悪かもな 日本人で例えたらケチで合理主義的なドイツ人は大阪人で独特の時間感覚を持っているイタリア人は沖縄人だからな
気質的に合うわけがないんだよな インドや旧ユーゴスラビア程ひどくは無いが
イタリアも北部中部南部と文化が結構違うんだよね
北部はフランスやドイツの影響強い文化 >>365
日本の近畿地方はオーストリアっぽいでしょ
六波羅平氏政権や室町足利幕府はハプスブルク朝みたいなお公家さん風お武家さん天下
或いはウィーンを京都に見立てるなら、バイエルン(いつも独立独歩)のミュンヘンが大阪って感じで
典型的なドイツ流の質実剛健派はむしろ東日本かな
鎌倉幕府や江戸徳川幕府がベルリンのホーエンツォレルン朝みたいな >>362
ダンテは分裂抗争を繰り返すイタリア諸国の未来を憂慮して、神聖ローマ皇帝による
イタリア統一を夢見たんだけどな
彼はその考えを『帝政論』にまとめている
もっともそのためにダンテは祖国から裏切り者として1315年に重罪を宣告される
ことになった
ちなみに『神曲』に出てくる鷲のシンボルは神聖ローマ皇帝の徴 イタリア、というかローマでは、5世紀末に皇帝を追放して以降は何世紀もSPQR中心のローマ支配が長引いた
9世紀になってローマ皇帝が復活し、10世紀末にローマ皇帝がパラティーノの丘に戻って来てみると、最初は皇帝を受け入れていたローマ人も、次第に皇帝のいる生活を「窮屈だ」と感じるようになり、ついには再び皇帝をローマから追い出してしまった よくドイツとイタリアが対照的だといわれるけど、ドイツとイギリスも別の意味で
対照的だな
ドイツ観念論に対してイギリス経験論、長い間分裂していたドイツに対して
ノルマン・コンクェストのおかげで早い時期に中央集権が進んだイングランド イギリスは経験論でドイツは観念論、フランスは合理論(フランス以外にもいるけど)
イタリアとスペインは何かないのだろうか
あとロシアとかも >>370
ノルマン人自身はフランス王からノルマンジーに住む事を許されたバイキングで、その内公国を
立ててノルウェー語を忘れてフランス語を話す
分権の象徴みたいな人達だったのだから皮肉な
もんだ ヨーロッパがフランク人を中心にした地域に
なるように見え出したら、またまたデーン人やら
ノルマン人やらが暴れ出して平和にならない
フランス王がノルマンジーにバイキングが住む事を許可→フランス系ノルマン人がイギリスを
乗っ取る→フランスがイギリスに国土の大半を
占領されるウェーハハハハハハハハハ!!! ドイツとイタリアは対照的だけど、どちらも統一が遅れたという点では共通しているな >>362
言ってもイタリア人ってランゴバルド人やらゴート人の末裔が大半だろ >>377
> 言ってもイタリア人ってランゴバルド人やらゴート人の末裔が大半だろ
東ゴート王国時代ですらイタリアでゴート人の割合はローマ人の3%未満
DNA分析でも西ヨーロッパや南ヨーロッパにはゲルマン系とされるDNAの痕跡が殆ど残ってない
それどころかゲルマン民族を自称してたドイツ人ですら北部海岸沿いの一部地域を除くと
ほとんどの地域ではゲルマン系とされるDNAが見つからないのが実際のところ ゲルマン人自体単一民族で統一国家を持ってなく様々に混血や移住もしてたし
ドイツ人とまとめられても言語と帰属意識の繋がりだけで構成されてるような物だから
DNA持ち出すのはちょっと違うかな スラヴの血を色濃くひくプロイセンがドイツ統一の中心になったという皮肉 1960年代までの民族移動仮説は「北方でゲルマン人が人口爆発して、溢れたゲルマン人がイタリアへ侵入した」だったけど
60年代以降の民族移動仮説は「南部の人口が減って北方の人口が増えてるのは、重税や6世紀のゴート戦争から逃れたローマ人が大量に北部に移住したから」ってもの
言われてみればそりゃそうだとしか >>380
> ゴート戦争の後のイタリア人ってどうなったの?
別にどうもなってない >>381
> ゲルマン人自体単一民族で統一国家を持ってなく様々に混血や移住もしてたし
> ドイツ人とまとめられても言語と帰属意識の繋がりだけで構成されてるような物
だからこそイタリア人をランゴバルド人やらゴート人の末裔とするのはちょっと違うね いわゆる「ゴート人」とかの言葉も歴史の中で何度かリサイクルされてるだけで別の時代や別の地域の「ゴート人」とは直接的に関係ない人たちだから、ひとまとめにして議論するのは難しいね ゴート戦争とユスティニアヌスの疫病でイタリアはさらに荒廃、さらにロンバルディ族やノルマン人、アラブ人が侵入
この時点で古代からの流れを汲むローマ人ってのは離散したか薄く馴染んだようなイメージだな
ヴェネツィア人が最も民族的な意味でローマ人の後継か? ローマとかにもずっと古代ローマ人の後継が残ってるよ >ゴート戦争とユスティニアヌスの疫病でイタリアはさらに荒廃、さらにロンバルディ族やノルマン人、アラブ人が侵入
>この時点で古代からの流れを汲むローマ人ってのは離散したか薄く馴染んだようなイメージだな
民族的な意味でならランゴバルドやノルマン人やアラブ人はローマ人に殆ど影響与えてない
それこそイタリアじゃ古代からの流れを汲むローマ人の方が圧倒的に多すぎて、外からやってきた部外者は圧倒的多数を誇るローマ人に消化吸収されてしまう なぜ多数いるはずのローマの末裔はランゴバルドなどの少数の蛮族に支配されたのか
それほど軟弱な文民と化したから戦うことを忘れてしまったのか? コンスタンティヌス大帝のせいやな
軍事力を皇帝(自分自身)に集中させるためローマ市民を武装解除させて軍人を傭兵ばかりにしてしまった やはり戦犯コンスタンティン...
功績も多いが衰退のきっかけもかなり作ってるな カラカラ帝がローマ市民権をバラ撒いたせいでローマ市民の政治に対する当事者意識がなくなった
だからもともとはパンとサーカスが悪い ランゴバルドが少数って言っても、イタリアに招き入れたのは東ローマだからねぇ
東ローマが番犬にしようとして招き入れたランゴバルドが躾に失敗して野生化しただけ 金持ち喧嘩せずだからじゃね
どの時代でも支配者層はローマ人のままだったし >>391
それいったら漢族と満州族の人口比なんてヤバいぞ
10対1どころじゃないし
太平天国の乱で南京占領の時は旗人がめちゃめちゃ殺されたけど
人口で押しまくれば普通そうなる 何匹羊が居ようとそれを率いる狼がいなければ無駄というわけだな 国家の終わりって大抵民の質も下がってるよな
4世紀以降のローマ
カルタゴ、アテネ、スパルタ、コリント、ペルシア...
こういう斜陽の時代に卓越した指導者が現れないと必ず滅亡するんだよな
少数民族に征服される国はそれだけどうしようもない状態にある アケメネス朝は斜陽気味だったとはいえ
それでもマケドニアとは比べ物にならないほどの大国だったよ
アレクサンドロス大王が化け物過ぎるだけ アレクが対峙したペルシアは反乱勃発しまくりで最悪な状態だったと聞く
だからこそアレクもやれると思ったんだろうな 3世紀のローマもあそこで滅んでいてもおかしくない状態だったからむしろ4世紀以降もよく存続できたなってレベルなんだよな
アウレリアヌス帝がいなければガリア帝国もパルミラも放置されたか更に領域拡大してきてローマを圧迫していたか... むしろアウグストゥスによる帝政移行から東西分裂まで400年あの領域を維持出来たことが上出来
ビザンツにいたっては内紛ばかりでギリシャ・ローマの遺産を食い潰しただけだが、それで1000年命脈を保ったのは奇跡 まあ「国家の終わり」自体が後から歴史家が勝手に区切ったもの(歴史的事実ではない)なんで、そう見える部分を選んで区切ってるってのはある 西ローマの終わりが古代ローマの終わり
ヴァイキング時代の終わりが中世暗黒時代の終わり
東ローマの終わりが中世の終わり
わかりやすい区切りだな >国家の終わりって大抵民の質も下がってるよな
民の質が上がったから革命とかで既存の支配者が打倒されるケースも多いけどね 為政者に対して声を上げて批判したり追放したりすることを「市民の質が高い」と評価する西欧的思想もあるし
為政者の暴政に対して黙って従う奴隷根性を「臣民の質が高い」と評価する東洋的思想もある >>403
>アウレリアヌス帝がいなければガリア帝国もパルミラも放置されたか更に領域拡大してきてローマを圧迫していたか...
最終的にガリア帝国が勝利してたら、単にガリア帝国側が正統なローマ帝国だったって今に伝わってるだけだと思う
「最終的な勝利者が正統」はローマの伝統だし >>410
ガリア帝国ってかなり不安定だしあれがローマを制圧できるとは思えん...テトリクスもなんかやる気ないしな
だがこいつらもガリア帝国なんぞ名乗ってはいたがやってることは帝位を僭称する軍人皇帝どもと変わらんのだよな >>408
古代ギリシアや近代世界で見られるパターンだな
貴族か民衆の力が強いと起こる >だがこいつらもガリア帝国なんぞ名乗ってはいたがやってることは帝位を僭称する軍人皇帝どもと変わらんのだよな
ガリア帝国って「名乗って」たの? そんな自称があったとは初耳だが 名乗ってはいない
そこそこ勢力が存続したから歴史記述の便宜上そこだけ取り出して解説できるように別名が与えられてるだけ
西ローマ帝国・東ローマ帝国・ビザンツ帝国・○○王国なんかと同じく歴史記述上の名称 ガリア帝国だけを指す名前自体がないが、近いのは
SQPR
RES PUBLICA ROMANA
IMPERIVM ROMANVM
どれでもどうぞ >>415
同時代にガリア皇帝の他にもたくさん皇帝いたけど、誰も独自の帝国名なんて名乗ってないんですよ そりゃまあ当の本人たちにすりゃ自分たちこそが正統なわけで
まさか後世に自分が僭称者とか別勢力よばわりされるとは思ってもいないだろうからねぇ 結局それよね
それの最たるもんが神聖ローマvsビザンツ >>420
ゴート戦争後のヒスパニアとギリシアの関係も実はそれ
皇帝ユスティニアスがアリウス派弾圧のためにローマに軍を送り込んだとき、ヒスパニアのローマ人はローマに攻め込んできたユスティニアスの方を「ローマの敵」と判定して皇帝として扱うのを止め、最終的にコンスタンティノープルの金貨を使うのを止めて自前の金貨を発行するようになった 神聖ローマ帝国も
西ローマ皇帝→フランク・ローマ皇帝からの流れを汲んでるから
あながちパチモンとも言い切れないんだよな >>407
百年戦争が終結して、ビザンツ帝国が滅亡した1453年が一般的に中世の終わりとされてる
分かりやすいしね
前者で貴族騎士が没落し英仏の絶対君主制への道が開かれたし、
後者でオスマン帝国の支配を嫌ったギリシャ人学者が逃亡し、西欧にギリシャ・ローマの知識が大量にもたらされてイタリア・ルネサンスに繋がる
あとオスマン領を通ると重い通行税を課されるから、それを経由しないルートの開拓として大航海時代が始まった ユスティニアヌスがローマを征服してフランク王らに西ローマ帝国を委ねて以降、ヒスパニアでは「ローマ人」とはヒスパノ=ローマ人とゴート人だけを意味する語になり、フランク人とギリシャ人は「ローマ人の敵」とされた
一方でフランク人とギリシャ人の側では自分たちこそが「ローマ人」であるとの認識から、彼らに従わないヒスパノ=ローマ人とゴート人とを「ローマ人の敵」とした
結局のところローマ帝国のどの地域においても、自分たちこそが生き残った最後の正統なローマ人であり、その敵対者が反ローマや僭称者と見なされていた >>422
パチモンどころか、ローマ(SPQR)が正統と認めてたのはカール大帝の方だし
だからカールが800年に堂々と「ローマ皇帝」を名乗ったのに対し、
それに対抗して812年にローマを名乗りだしたビザンツの方は「ローマ人の皇帝」としか名乗らなかった 名称は正当性と言うより地域文化の差だろうな
ローマ皇帝(ローマが認めた正統な皇帝)とローマ人の皇帝(その他の皇帝)は3〜5世に皇帝が乱立したときに使われた区別だが、ローマ皇帝を名乗れるのは地理的にも西皇帝に限られていた(だからコンスタンティウス2世も統一後はイタリアに拠を移した)
つまり東側ではそもそも過去にローマ皇帝を名乗った者がいないので、東側では最初からローマ皇帝を名乗ろうという意欲がなかったと思われる あと厳密にはローマ皇帝じゃなくローマの皇帝な
ローマの皇帝とローマ人の皇帝 フランク・ローマもローマと仲悪いときはローマ人の皇帝を名乗ってるけど? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています