日本の古代史 Part38
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前スレ
日本の古代史 Part37
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1509015813/ >>903
ツングースの習慣が半島に伝わったんだろう
多分半島人が持ち前の差別精神で「女真族は小便で顔を洗う民族だ!」みたいなことをいいまくって
そんで女真族に支配されて、小便で顔を表されるようになたと >>900
宇佐族(月の女神=月読命を信仰する故にウサギ族と自称していたのが宇佐(兎狭)族に変化した)の渡来。
次にインドからシベリア経由でドラビタ族=出雲族が渡来。
彼らは青銅器や製鉄技術を有していた。
陸稲栽培、蕎麦(シベリアのバイカル湖周辺に自生していたモノ)ほか等を持ち込んだ。
信仰はシバ。サラバスティ。ガネーシャ。龍蛇神。
これが日本初の人格神、家族神として体系化されてシバ神は民族を誘い導いた英雄のクナト王と習合してクナト大神(後にイザナギ、大山祇ほかにバブルする)。
サラバスティに太陽の女神ほかも習合して后/女神の幸媛命/佐毘女神(およそ我が国の女神はこの女神さまのバブル(イザナミ。太陽の女神/天照大神。
ガネーシャは象が畏怖され神格化した象の頭の神さま。
ドラビタ語で突き出たモノ/大きな鼻(いずれも男性性器の比喩)の意味のサルタ彦大神に。
龍蛇神の原形は、川鰐が神格化されて川の神に、森のコブラ(が畏怖され)神格化されて森の神になり、
それらが混合して体系化した神格。
神話等で、大蛇(オロチ)やワニと表現されていたらそれは出雲、出雲族の比喩/暗喩です。
次に、中国大陸から徐福が前後併せて五千人を引き連れて渡来しました。
いわゆる、弥生時代とは徐福ら秦国人らが渡来してもたらし、無理やり幕開けさせたらしい。
彼らは一説にイスラエル/ユダヤの遺民の子孫たち。
信仰は徐福が道教の方士だったことから当然ら道教です。
最初の渡来で引率し山陰地方/出雲王国に至った二千人らが初期の大和王朝(海(天)ムラクモ大王(徐福の孫))を開きます。
海部/尾張氏の流れ→秦族。
二度目には三千人を率いて渡来し、佐賀の吉野ヶ里に定住して帰化しました。
秦国人が築き上げた国だ!との自負から「筑秦国」を号したのが筑紫国(物部王国)に変化しました。
彼らは後に物部族と言われます。 >906
女真に小便洗顔の習慣はないが、朝鮮を
支配したときに小便洗顔を強制したんだ
ろうね >皇室は縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 なお奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統と並んで日本でもっとも多く
子孫を残した系統にあたります。
藤原氏は、弥生系(O-CTS10145)藤原氏と
皇別藤原氏といるらしいです。 藤原氏については後世の摂関政治の影響で混乱中です。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループD1a2(D-M55)は、日本列島で観察される。
日本人の約32%[4]~39%[5]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。
アイヌの80%以上[6]もこれに属する。
ハプログループD1a2は、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[7]。
東アジアの他地域ではD1a2の姉妹型D1a1がチベット人の最大49%、ヤオ族の30%観察され、
もう一つの姉妹型D1a3はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)で
サンプル数は少ないものの100%[8][9]を占める。 >>910 の意は下記の事情により。
皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が
養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った
5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て
摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、
執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、
15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、
男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に 入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通
━徳大寺公純━住友友純) O-M176のサブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の
男性に多いO-K27のY-DNAの最も近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)
年前に誕生したと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
O1b2a1a 1 (CTS713)(旧47z) - 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度にみられる。
朝鮮民族、満州族で低頻度。
O1b2a1a 1a (CTS1875) - 日本列島
O1b2a1a 1a1 (CTS10682) - 日本列島
O1b2a1a 1b (Z24598) - 日本列島
O1b2a1a 1c (CTS203) - 日本列島
O1b2a1a 2 (F2868) - 日本列島
O1b2a1a 2a (L682) - 朝鮮半島に高頻度に見られる。[10] 日本人、満州族、
ウデゲ族、ナナイ族[要出典]などにもみられる。
O1b2a1a 2a1 (CTS723) - 朝鮮半島
O1b2a1a 2a1a (CTS7620) - 日本列島、ナナイ族
O1b2a1a 2a1b (A12446) O1b2a1a 2a1b1 (PH40)
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2a1a 3 (CTS10687) - 最大頻度地域は韓国の江原道(カンウォンド)で4%みられ、
主に北方民族から発見される。 満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、
シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンの
バダフシャーンと南部のバロチ族でも発見される。
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる。 ハプログループD1a2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
「M55」[2]の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、
現在日本人の3割ないし4割[3]がこのハプログループに属している。
かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、
2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことにより、ハプログループD1bと改訂され、
さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂された。
日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a系統は、
海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。
中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、
日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。
彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、
主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、
陸稲を栽培していたと考えられる。
縄文人の古代DNA[編集]
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から
出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2b1(D-CTS220)であった[19][20]。
これにより「ハプログループD1a2系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
遺伝子から続々解明される縄文人の起源−高精度縄文人ゲノムの取得に成功
− 国立科学博物館 平成31年5月13日
https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf 日本人のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[77]
で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[78]で到達したとする説がある。
D1a2系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
日本人全体で見ると
D1a2系統が約35%、(縄文系)
O1b2系統が約30%、(弥生系)
O2系統が約20%、(華夏系)の順となっている。
ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである[79]。
ハプログループD1a2は、日本列島に固有に見られるタイプで、
アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[80]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で
高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、
ハプログループD1a2は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。 O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる事から長江文明の担い手と思われる。
M176------>O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z) =日本列島
M176------>O1b2a1a2a (L682=xO-47z) =韓国朝鮮・満州地域・沿海州
日本人→「O-47z=25%」 「xO-47z=8%」くらいです。
朝鮮民族・満州→「O-47z=4%」 「xO-47z=33%」くらいです。
ハプログループO-M176(O1b2)は
日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34〜4%で見られる。
ただし、北方に移動した朝鮮半島や満州地域に多いO1b2a2と
東方に移動した日本人に多いO1b2a1とでは、5000年以上の開きがあるため注意が必要。
弥生時代から現代までの朝鮮半島と日本列島との人的交流の痕跡は、
日本人→「xO-47z=8%」である。
日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、
おおよそ8000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで
多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に
血筋がわかれているということになる。 チベット系遊牧民 ヤッハッー!
騎馬民族制服論キタワー 星占い未満
弥生文化のどこに当時の中国大陸の衣食住に関する生活文化があると言うのか?
無学無勉の底辺高卒のパッパラパー用サギ材料 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 銅鐸祭祀の源流
先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
(考古用語辞典) 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、
苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
雲南紡織貯貝器 「銅鐸紋様」
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。
それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 >>920
縄文土器なんてどこにも書いてねえだろがカス
印文陶と書いてあるだろがカス
>>921
羽飾りなんか世界中にあるだろがカス
縄文人はアメリカンインディアンなw
>>922-924
で、日本のどこから貯貝器や饒や磁器の鐸が出土したの?
そんな低級なダマシ材料に引っかかってくれるおまえみたいな中卒おらんだろw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >皇室は.縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 なお.奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統と並んで日本でもっとも多く
子孫を残した系統にあたります。
藤原氏は、弥生系(O-CTS10145)藤原氏と
皇別藤原氏といるらしいです。 藤原氏については後世の摂関政治の影響で混乱中です。
皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が
養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った
5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て
摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、
執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、
15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、
男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に 入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通
━徳大寺公純━住友友純) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループD1a2(D-M55)は、日本列島で観察される。
日本人の約32%[4]~39%[5]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。
アイヌの80%以上[6]もこれに属する。
ハプログループD1a2は、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[7]。
東アジアの他地域ではD1a2の姉妹型D1a1がチベット人の最大49%、ヤオ族の30%観察され、
もう一つの姉妹型D1a3はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)で
サンプル数は少ないものの100%[8][9]を占める。 >>908
https://ja.wikipedia.org/wiki/しゅくしん
>中国の周代の文献の中にしばしば見られ、後代の?婁・勿吉・靺鞨・女真(満州族)と同系の民族と考えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/粛慎_(日本)
明らかにツングースだな O-M176の.サブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の
男性に多いO-K27のY-DNAの最も近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)
年前に誕生したと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
O1b2a1a 1 (CTS713)(旧47z) - 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度にみられる。
朝鮮民族、満州族で低頻度。
O1b2a1a 1a (CTS1875) - 日本列島
O1b2a1a 1a1 (CTS10682) - 日本列島
O1b2a1a 1b (Z24598) - 日本列島
O1b2a1a 1c (CTS203) - 日本列島
O1b2a1a 2 (F2868) - 日本列島
O1b2a1a 2a (L682) - 朝鮮半島に高頻度に見られる。[10] 日本人、満州族、
ウデゲ族、ナナイ族[要出典]などにもみられる。
O1b2a1a 2a1 (CTS723) - 朝鮮半島
O1b2a1a 2a1a (CTS7620) - 日本列島、ナナイ族
O1b2a1a 2a1b (A12446) O1b2a1a 2a1b1 (PH40)
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2a1a 3 (CTS10687) - 最大頻度地域は韓国の江原道(カンウォンド)で4%みられ、
主に北方民族から発見される。 満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、
シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンの
バダフシャーンと南部のバロチ族でも発見される。
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる。 ハプログループ.D1a2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
「M55」[2]の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、
現在日本人の3割ないし4割[3]がこのハプログループに属している。
かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、
2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことにより、ハプログループD1bと改訂され、
さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂された。
日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a系統は、
海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。
中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、
日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。
彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、
主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、
陸稲を栽培していたと考えられる。
縄文人の古代DNA[編集]
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から
出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2b1(D-CTS220)であった[19][20]。
これにより「ハプログループD1a2系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。
遺伝子から続々解明される縄文人の起源−高精度縄文人ゲノムの取得に成功
− 国立科学博物館 平成31年5月13日
https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf 日本人.のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[77]
で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[78]で到達したとする説がある。
D1a2系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
日本人全体で見ると
D1a2系統が約35%、(縄文系)
O1b2系統が約30%、(弥生系)
O2系統が約20%、(華夏系)の順となっている。
ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである[79]。
ハプログループD1a2は、日本列島に固有に見られるタイプで、
アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[80]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で
高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、
ハプログループD1a2は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。 O1b2.(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる事から長江文明の担い手と思われる。
M176------>O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z) =日本列島
M176------>O1b2a1a2a (L682=xO-47z) =韓国朝鮮・満州地域・沿海州
日本人→「O-47z=25%」 「xO-47z=8%」くらいです。
朝鮮民族・満州→「O-47z=4%」 「xO-47z=33%」くらいです。
ハプログループO-M176(O1b2)は
日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34〜4%で見られる。
ただし、北方に移動した朝鮮半島や満州地域に多いO1b2a2と
東方に移動した日本人に多いO1b2a1とでは、5000年以上の開きがあるため注意が必要。
弥生時代から現代までの朝鮮半島と日本列島との人的交流の痕跡は、
日本人→「xO-47z=8%」である。
日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、
おおよそ8000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで
多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に
血筋がわかれているということになる。 銅鐸祭祀の源流
先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
(考古用語辞典) 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、
苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
雲南紡織貯貝器 「銅鐸紋様」
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。
それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 >>935
だから縄文土器なんてどこにも書いてねえだろがカス!
印文陶だと書いてあるだろがボケ!
それに羽飾りなんか世界中にあるだろがカス
縄文人はアメリカンインディアンなw
>>936-938
だから日本のどこから貯貝器や饒や磁器の鐸が出土したの?
そんな子どもダマシに引っかかってくれるおまえみたいな中卒いるの?w >>939
日本語が理解出来ないのなら、このスレに来ない方が良いぞ。 >>940
東南アジア華南のブタチックホッテントットのおまえがな O1b2a1a1は日本で6000年前に誕生している 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>943
日本人特有の変異種[O1b2a1a1]snp(CTS713)(旧47z)が
列島内で発生したのはBC6000年頃だから
これ弥生時代の始まり3000年以前すでに列島内でD系縄文人と一緒に
O系弥生人と云われた人達が暮らしていたと言う事になる。
それで納得した事がある、中国沿岸部でよく出土する
鉄とともに古代(殷・商)中国から日本海に伝わってきた
楽器がある土笛・陶損がそれで穴の数と位置がソックリ。
綾羅木郷遺跡-下関市立考古博物館
http://www.fuwaiin.com/jyoumon-iseki/yamaguti/8.ayaragigou-iseki-saisi/saisi.html 土笛・陶損は土器だぞ
土笛を伝えといて、何で三足や耳の付いた中国系日常生活土器を伝えんのだという話だろがカス
つまり日本の土笛は中国から伝わったものではない
土笛は日本海側から出土するから、おそらく対岸の沿海州から伝わったものだろう 遼河文明期は北方人種のが優勢だった
農耕が発達してからは華南からきた漢民族が圧倒した
華南からの第一波がO1b2で北方民族にのまれ、言語も変えた
それがウラジオストクあたりまで居住範囲を広げた
当時そのあたりまで縄文人のD人種がいて、それとも混じった?
それが渡来したのか
とにかく
ロシアと協力して遺跡ほらせろ 華南から遼寧にやって来といて何で遼寧に鼎がないんだよカス
華南は鼎のメッカだぞボケ
遼西には鬲は見られるが鼎はない
遼東は鬲が伝わった痕跡はあるが全く根付かなかった
そんなサッパリ当たらねえ星占い未満のゴミカス指標、いつまでほざいてるんだ頭カラッポの中卒 O1b2の北上は10000年以上前から始まっ
てるからな ●浙南石棚墓群(浙江省温州地市瑞安)(日本では支石墓)
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が
多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。
これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、
石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する
支石墓のルーツかとも考えられる。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、
これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、
テーブル式と呼ばれる。
一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、
数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、 碁盤式と呼ばれている。
韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と
分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。
浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。
日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に
出現している。 唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、
縄文時代晩期末(弥生時代前期)〜弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。 ●周代の土とん墓
墓制(墓づくり様式)において、大陸と共通するのは横穴式古墳や支石墓のほかにも、
円墳、方墳など、 土を盛った高塚式古墳のルーツも
中国の江南にあったことが明らかになりつつある。
2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、
土を盛った墓である土とん墓群の大規模な発掘を行なった。 (とんは土+敦)。
総数で40の土とん墓を発掘し、233の墓葬と14の墓葬建築遺跡を整理したところ、
幾何学模様の陶器、 原始的な青磁器を主とした、 江南地方の特色がある各種の
文物3800件余りが出土した。発掘後の整理によって、 船形棺の葬具、 石の寝台、
墓の上に建てられた木造の山形をした掘っ立て小屋の存在が明らかになった。
(人民中国「江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土とん墓」) ●墳丘墓の源流
日本では、弥生時代の墳丘墓も、前方後円墳などの古墳も、遺体を地面より高いところに
埋葬する。 一方、中国の華北では遺体を地面の下の深いところに埋め、その上に土を盛る。
ところが、呉や越の国があった長江河口域の土とん墓は、地面よりも高いところに
遺体を埋葬する。 土とん墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉越の地域)
で行なわれた埋葬形態であった。 越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは
土とん墓は消滅し、楚の木槨墓が行なわれるようになった。
吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に
行なわれた土とん墓の影響を受けた可能性を示しており、 この時代の人々が、
日本列島に渡来したことと整合する。 (邪馬台国の会「中国古伝承のなかの倭」) ●舟型木棺の源流
江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土しているが、実は、四川省の成都市で
約2500年前(春秋晩期〜戦国早期) のものと思われる舟型木棺群が発見されている。
舟型木棺とは丸木を船形に彫って作った棺のことで、舟棺で埋蔵することには
「舟に乗って他界に行く」意味がある。 大きいものは長さ18mを超えるものもあり、
直径1・6〜2mの楠の木をくり貫いたもので蓋もついていたという。
ほかには、大小併せて17の丸太彫りの舟型木棺が確認されたが、
当初はこの他にも多数あったものと推察されている。
規模の大きさから、王の家族もしくは一族の墓であると考えられている。(「考古用語辞典」)
舟型木棺は四川省の巴蜀文化の特色とされるが、
わが国の古墳にも舟型木棺が多数使われている。 構造はくりぬきの舟型木棺が多く、
鏡、鉄剣、鉄刀、良質の勾玉などの副葬品を伴う。舟型木棺の思想もかなり早くから、
長江流域の四川省から江蘇省まで展開していたようである。 ●銅鐸祭祀の源流
先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、 湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、 日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。 肌色で表面に蛇のような
小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、
宙に吊られているのが鐸である。 それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って
鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>950-959
で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である
三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と
石刃の中国系耕作用農具と
中粒種の中国系イネと
土壁の中国系住居と
漢服と
龍信仰と
亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! うわまたフルボッキ論破されてる
意地になってコピペしてるだけ 女真族じゃない
女真族は本来C2
沃沮、扶余系をとりこんでO1b2が多くなってるだけ O1b2は大陸沿岸を北上、満州で東へ曲がり
沿海州へ出た
半島東部や日本に多いのはそのためである 中国大陸を北上した痕跡がない
内モンゴル以北から南下した痕跡はあるが
しかも中国にはO1b2がない
O1b2があるのは日本、朝鮮、満州、ブリヤート
ブリヤートあたりから満州に南下して日本と朝鮮に拡散したと見るべき ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 「家屋文鏡」(上記画像・奈良県佐味田古墳から出土)
http://img-cdn.jg.jugem.jp/72e/1453281/20100316_1751046.jpg
伝讃岐国出土銅鐸の表面に描かれた高床建築
http://img-cdn.jg.jugem.jp/c91/2722688/20161009_1070666.jpg
中国前漢時代に雲南省にあったテン王国の高床式住居
http://livedoor.4.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/1/3/13f71938.gif
■倭人の家
「干欄式建物(かんらんしきけんちく)」とよばれる高床式建物(たかゆかしきたてもの)の
形式がある。 屋根の一番上の、棟(むね)の長さが長く、下の、軒(のき)の長さが短い。
そのため、屋根を真横から見るとき、逆さの台形に見える。359-10このような「干欄式建築」は、
日本から遠くはなれた中国の雲南省の石寨山(せきさいざん)古墳出土の青銅製の容器の
蓋(ふた)の上の飾りなどに造形されている。 また、中国の江西省清江県営盤里出土の
家形土製品に見られる。 いずれも、長江流域およびそれ以南の地である。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif
いっぽう、わが国でも、「干欄式建物」は、弥生時代の銅鐸に描かれた絵画、
古墳時代の鏡の上に描かれた絵画に見られる。
また、「干欄式建物」の家形埴輪が出土している。
なぜ、遠くはなれた中国雲南省と日本の地で、同じ形式の建物が見られるのか。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif
日本では香川県出土銅鐸の絵画や奈良県左味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に
描かれている絵画、池上曽根遺跡の大形建物の復元、登呂遺跡復元高倉など
日本の弥生時代の家は「干欄式建物」である。
第359回 邪馬台国の会 稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm ■倭人の鵜飼(うかい)
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-13.gif
地図をみると、「倭人の家」でのべた「干欄式建物」の青銅器の出土した雲南省昆明
の近くの滇池(てんち)の付近も、鵜飼の分布域のなかにはいっていることがわかる。
かりに、「鵜飼」と「干欄式建物」「稲作」とが、可児弘明氏のいう「ある稲作民族の文化複合」
につながるものである。すると、石寨山古墓は、前漢の初期から後漢の初期、
つまり、紀元前202年ごろから紀元後100年ごろには、その文化複合が、
蜀の地の石寨山ふきんまで、およんでいたことを示していることになる。
『古事記』の「神武天皇記」には、
神武天皇軍が「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」という歌もみえる。
さらに、『隋書』の「倭国伝」に、わが国の七世紀ごろの鵜飼のことを記した記事がみえる。
八世紀成立の『万葉集』では、鵜飼のことが、かなり多く歌われている。
『万葉集』の4011番の歌で、越中の国(現在の富山県)の鵜飼たちのことが歌われている。
4156番にも、富山県の辟田(さきた)の川で、「鵜飼をする歌」がのっている。 4187番の歌にも、福井県の叔羅川(しくらがわ)の「早瀬で、鵜をもぐらせて」とある。
なお、可児弘明氏は、さきの『鵜飼』のなかで、
「朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はみつからない」と記している。
照葉樹林文化は、共通の文化的要素によって特徴づけられる。
イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。
モチやナットウ、スシを食べ、絹や、漆(うるし)を利用する。麹(こうじ)で酒をつくり、
高床の家にすむ。歌垣(うたがき)や鵜飼の習俗がある。
照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、
日本西部にかけての東アジアの温暖帯に分布する。 >西日本から多く出土する。舟型木棺は朝鮮北部や沿海州地域から出土するのかな?
●舟型木棺の源流
江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土しているが、実は、四川省の成都市で
約2500年前(春秋晩期〜戦国早期) のものと思われる舟型木棺群が発見されている。
舟型木棺とは丸木を船形に彫って作った棺のことで、舟棺で埋蔵することには
「舟に乗って他界に行く」意味がある。 大きいものは長さ18mを超えるものもあり、
直径1・6〜2mの楠の木をくり貫いたもので蓋もついていたという。
ほかには、大小併せて17の丸太彫りの舟型木棺が確認されたが、
当初はこの他にも多数あったものと推察されている。
規模の大きさから、王の家族もしくは一族の墓であると考えられている。(「考古用語辞典」)
舟型木棺は四川省の巴蜀文化の特色とされるが、
わが国の古墳にも舟型木棺が多数使われている。 構造はくりぬきの舟型木棺が多く、
鏡、鉄剣、鉄刀、良質の勾玉などの副葬品を伴う。舟型木棺の思想もかなり早くから、
長江流域の四川省から江蘇省まで展開していたようである。 >>974
そこらは年代の違いだろう
遼河文明初期に北方に移住し、遼河文明人より遅れた文化を持ってたのがO1b2
そして言語を変えてその地域に飲み込まれた
>最も近縁のハプログループO-M95に至る系統との分岐は約28,500(95% CI 26,200〜30,900)年前[1]とされている。
>O-M176のサブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の男性に多いO-K27のY-DNAの最も
>近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)年前に誕生したと考えられる。[1] 1万年前はまだ氷河期で北方の居住では北極圏で生肉を食っていた民族に分があった
当然そっち側の文化に合わせて生きることを余儀なくされた >>976
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは高床式倉庫(掘立柱建物)を伝えませんでした!
高床式倉庫が初登場するのは弥生人が渡来してから150年以上経った弥生早期中頃の
江辻遺跡で、松菊里型住居とセットで登場したため、朝鮮南部から取り入れたもの
だとしか考えられない。
ただし搬入した朝鮮土器はあるものの、在地産の朝鮮系土器がほとんどないため、
稲作と同様、文化だけパクってきたものと考えられる。
>>977-978
中国よりも日本の方が鵜飼いの記録がはるかに古い。
中国の鵜飼いは日本から伝わったものだろう。
遣隋使、遣唐使あたりが伝えたものだろう。
>>979
江蘇省の土とん墓群や四川省の舟型木棺からは鼎がワンサカワンサカ、
ワンサカワンサカ出土!
先生、なぜ墓から大量の鼎が??
ハイ、それは古代中国では人が亡くなると王から奴隷まで、あの世でも食べていける
ようにと炊飯器 兼 調理器の鼎を副葬したからなんです!
日本の舟型木棺からは鼎が一切見られません。
ゆえに日本の舟型木棺は中国とは全く関係なく成立していると考えられます。
>>980
O自体がシベリアのNから分岐したのに何で中国大陸からわざわざ北上すんだよパッパラパー!
O1b2はシベリア南部から沿海州経由で西日本に入っただけ。
O1b2はシベリア南部から沿海州経由で西日本に入っただけ。
今日も中国から来た来た詐欺、ご苦労さん!ウンコなめ人肉シシビシオ食いブタチックホッテントットのおまえ(爆 >>982 アンタのはまず否定の為の【詭弁】きべんじゃね。
詭弁とは、道理に合わない、言いくるめの議論。ごまかしの議論。
「詭弁を弄(ろう)する」。論理学で、相手の思考の混乱や感情につけ入って
相手をだます、見掛け上は正しそうな、虚偽の推論。 >>975
韓国サイドの研究者が炭化米DNAの「RM1-b 遺伝子」を探して証明すれば済む話。
それが出来なければRM1-bは西日本中心に多いDNAであることから、
日本の水稲は「RM1-b」が存在しない朝鮮半島を経由せずに中国から直接にとなる。
>>982
干欄式高床式建物と云った台形の逆さまの様な特徴ある屋根の線刻画か
文献、家屋土器などが朝鮮半島か沿海州に存在した証明をお願いします。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif
> 中国の鵜飼いは日本から伝わったものだろう。
この憶測を証明する文献なり遺物の提示をお願いします。
> 儀式用、鼎、土器陶器類、などは一部の技能集団が製造し、
外部には漏れない様にしてたのでは、後の官窯のように
ロケット、バンバン打ち上げてるアメリカや日本には韓国人が何万人も居るのに
韓国では未だに自力でロケットを上げれないのと同じ
庶民では図面写真見ただけでは作れない。まして戦乱動乱の兵士や難民では。
>>982にも九谷焼や有田焼は作れないはず。
O1b2は日本人の先祖系だけどY-DNAのO1b2a1a1はおもに日本人特有に変化したDNA。
韓国朝鮮・満州地域・沿海州のは O1b2a1a2a (L682=xO-47z) で
日本にも8%有るから来てるのは間違いないけど90%は関係ないよ。 農学者の佐藤洋一郎先生も気付いてないが、稲は人間が運んだんじゃなく
カモなど渡り鳥、特にワシ、タカなどの猛禽類が運んだと思う
長江河口から長崎五島列島間は何十万羽と云った鳥類渡りルートで有名な場所
http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/030/450/05/N000/000/002/150042933570931044177.jpg
長江河口近辺で、羽を休めてた猛禽類が穀物を食べる小鳥、ねずみなどをエサにし、
種や毛、小骨など未消化の餌をペリットと云う固まりで吐き出す。
その中に稲、麦などの穀物類が混ざってる可能性がある
そして、日本のエサなどが多い湿地帯に吐出し芽吹き定着した。
日本列島には何万年か前から既に稲は沼地などでヒッソリ繁茂してて
それを誰かが気付き、畑で栽培した、陸稲おかぼの始まりかもな。 台湾、沖縄ルートも猛禽類のサシバ,ノスリなど少し小形の鷹類が渡るルートです。
宮古の野鳥 サシバ飛来数調査 2007年10月9日(寒露)から同22日までの2週間、
県自然保護課が宮古島市の協力を得て伊良部総合庁舎屋上で、
宮古野鳥の会が宮古本島の夕陽が丘(松原墓地団地上)でそれぞれサシバの
飛来数調査を行います、 今年は伊良部島で13473羽、宮古本島で2045羽の合計15518羽 ...
(海上を移動中の鷹柱たかばしら,上下も)
http://www10.plala.or.jp/ayac/taka/f0002.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/22/42/b0093742_18512550.jpg 稲は自生してたと考えるほうが自然だな
O1b2はウラジオストクから日本へ来たのは
ほぼ間違いないから >>984
イネが中国から直接伝来なら最古水田菜畑に中粒種のイネがあるはずだろがパッパラパー
当時の中国のイネは中粒種が半分混ざったものだぞカス
しかも同時に伝わった日本最古の耕作用農具が当時の中国のものとは全く違う。
当時の中国のメイン耕作用農具であるはずのスキがなく、中国にはないはずのクワが
伝わっている。
しかも中国ように石刃の耕作用農具ではなく、オール木製。
中国なんか出る幕なし!
それに高床式倉庫は松菊里型住居とセットで登場したため、朝鮮南部から取り入れた
ものとしか考えられないね。
それに鼎は炊飯器なんだから作らない訳がねえだろがパッパラパー
壺、甕、高坏は作れても鼎は作れねえとかバカすぎだろおまえ。
>>985
だったら、その何万年前のイネ粒が出土するはずだろがパッパラパー
日本には最古水田菜畑より前にさかのぼるイネ粒はない! >>988 まだ、そんな寝言言ってるのか?????
>十数年前までは稲作が始まったのは弥生時代からというのが通説だったが、
>今や縄文時代に畑稲作(おかぼ)がすでにあっとことは通説になっている。
>そして今や農耕が日常的に行われていたというのが通説になりつつある。
日本では陸稲栽培の可能性を示すものとして岡山の朝寝鼻貝塚、彦崎貝塚の
縄文時代前期(約6000年前)の地層からプラント・オパールが大量に見つかり、
また南溝手遺跡からは約3500年前の籾の痕がついた土器がみつかっている。
水田稲作に関しては約2600年前の菜畑遺跡の水田跡がある。
稲のプラント・オパールは20〜60ミクロンと小さいため、即座に発見地層の年代を
栽培の時期とすることはできないが、鹿児島県の遺跡では12,000年前の薩摩火山灰
の下層からイネのプラント・オパールが検出されており、
これは稲作起源地と想定されている中国長江流域よりも古い年代となっている。
なお熊本大学の研究者、甲元は、最古の稲作の痕跡とされる前七世紀の
韓国欣岩里遺跡のイネは陸稲の可能性が高いと指摘している。 縄文稲作、陸稲は焼畑農法で、雑草を焼いた後に直播でモミを撒くだけ
実れば穂先を引きちぎるだけで、農具などは殆んど必要ない
長野辺りで良く出土する石器農具で充分。
http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/sekki2.gif
http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/isiguwa3.gif
高度な農耕具が必要に成ったのは水田稲作時代で
それらは弥生時代に成ってからだろな。 >>990 約2600年前の菜畑遺跡の水田跡」訂正
菜畑遺跡
弥生時代早期初頭(従来の縄文時代晩期末)の水田跡、
紀元前930年頃(放射性炭素14の較正年代)らしい
約2930年前の菜畑遺跡の水田跡。だって。 >>988
青銅の鼎なんて庶民が炊飯器として使う訳ないだろ
青銅器の鼎は国家の君主や大臣などの権力の象徴として儀式に用いられた物。
で当時の一般庶民は見た事もないだろ、今は考古学文化財として見られるだけ。 >>990
まだそんな子どもダマシに引っかかってるとかw
中卒?w
で、イネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)はどこ?どこ?どこ?どこ?
>>993
陶鼎に決まってるだろ中卒。
7000年前から長江下流域ある陶鼎な。
奴隷も必需品の炊飯器であり、奴隷の墓にも副葬された陶鼎な。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. なお奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統で
日本では、もっとも多く子孫を残した系統にあたります。
藤原氏は、弥生系(O1b2a1a O-CTS10145)藤原氏と
皇別摂家、藤原氏といるらしいです。
藤原氏については後世の摂関政治の影響で複雑混乱中です。 >皇室は.縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 このスレッドは1000を超えました。
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